どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

心理学者さん

 夜中になんとなくテレビをつけたら、ちょうど心理学者と称する人が「興味のない話を聞かされると、なぜ眠くなるのか」っていう某芸能人の質問に答えるところでした。飲み会などで先輩から興味のない話を聞かされ、眠くなって困っているそうだ。かの心理学者氏によれば、人間の脳は刺激がなくなると眠くなるようにできている。興味のない話は、単なる音でしかなく、脳はこれを刺激と見なさなくなるので眠くなるのです。電車に乗っているとき、ガタゴトいう繰り返し音を聞いていると眠くなるのも、脳がこの音を刺激と見なさなくなるからだ…という。
 まず思うのですが、なぜ彼らはすぐ「脳は…」と言うのか。「人は」と言えばよいではないか。人格と関係のないところで、不随意運動として起こることなら、人格からの半独立性を示すために、あるからだの部位を主語にしてもよいだろう。だが、彼らが「脳の」活動と呼ぶものは、我々の人格的で意識的な活動である。まして「眠くなる」という現象の場合、意識そのものが鈍っていくという出来事。ふつう「私は眠くなる」とは言っても、「私の脳は眠くなる」なんていう言う人はいない。日常会話では、変な目で見られる発言だ。会議中に、「私は寝たくないのですが、脳が寝るのです」などといえば、もう頭がおかしい人あつかいされること間違いなしです。心理学者たちは常識の欠落した発言によって、常識以上のことを言っていると思わせる心理学的テクニックを使っているのかも…冗談ですが…。「私の足はしびれやすい」というのは普通だが、「私の足はすぐ眠くなる」ってことはありえない。眠くなるのは、手や足、おなかではありえず、「私」以外にないのだとすれば、彼らは「私」とは「脳」のことだと前提している。検証以前に前提ありきという態度は、科学的とはいえない。しかも、ここでは脳の解剖学的、生理学的所見はつゆほども登場しない。ただ、心理学的事実関係だけが語られている。なぜ、わざわざ解剖学的、生物学的な対象としての脳に言及するのか。心理学者は物質的なものへのコンプレックスをもっていて、精神に曖昧で極端な物質的限定を与えたがっているのだろうか。ある心の法則を発見したことを証明したければ、事実関係だけを語ればよい。「脳は…」という枕詞はいらない。
 さて、話を戻そう。刺激がなくなると眠くなるというが、深夜に夢中で本を読むことがある。外的刺激はほぼ皆無に近い。なぜ、眠くならないのか。たぶん、その本がとても刺激的なのだろう。当たり前だが、刺激というのは単に外部環境のことをいうのではない。ここで心理学者氏はちょっとしたインチキをしている。彼は「興味のない話は単なる音になる」「単なる音の繰り返しは刺激とはみなされなくなる」「ゆえに、刺激がなくなって眠くなる」と、一見、三段論法もどきのような言い方をしている。しかし、よく考えてみれば、最初の「興味のない話は単なる音になる」のはなぜか。それは「話」としての刺激がないということに尽きる。そんなことは、常識的にわかっている。要するに、ここでいう「刺激がない」は「興味がない」と同じなのだ。興味がない(刺激がない)話は眠くなる、これ当たり前。最初からそう言っているにすぎない。私が「インチキ」といっているのはむしろ次の点だ。「単なる音」と「脳」との関係という言い方で、なんだか人格的・精神的なものとは別次元のステージに移行したかのような錯覚をもたらすことだ。しかし、実際はここで「単なる音」一般については一言も語られてはいない。「単なる音」と言いかえているが、それが意味しているのはあくまでも「興味のない話」でしかない。言語的意味のない音一般が刺激として扱われない、眠気を誘うというのは決して一般的な事態ではない。良い音楽は精神的感動をもたらすし、ひどい騒音は生理的不快感をもたらす。精神的なものにせよ、生物学的なものにせよ、それらは関心の対象、大いなる刺激である。結局、どうしたって、ここで問題となっている事例、先輩の発する音声については、関心を引かないものは関心を引かないという同義語反復しか語られていない。
 単に眠くならないということだけなら、その話を聞くことが強制されていなければ何の問題もない。ビールを飲んだり、おいしいものを食べることに集中したり、可能なら、友達と好きな話をすればいい。そうできない強制力が働いており、眠気を催すことのなかに閉じ込められる状況が問題になっている。テレビでの心理学者氏の眠気防止策、冷たいものを握ったり、氷水に足をつけるなどに対し、番組出演者が「変な目で見られるでしょ」とかなんとか言ってツッコんでいたが、その通りである。自分の太ももをつねるとか、誰もが常識的に知っている。どや顔をする前に、そもそも、ではなぜ単調な音は刺激にならず、冷たいものに触れるのは刺激になるのかを説明しなければならない。後者の場合は生体反応であり、あまり冷たいものや、痛みをもたらすものは、生体へ悪影響をもたらすものとして、生体が排除しようとしているか、少なくとも警戒している。その意味で、「関心を示している」のだ。面白い本や話という「刺激」は、高度で人格的な「興味・関心」だが、単に眠らないだけなら、生体レベルの「関心」で十分である。質問をした芸能人の先輩がもし、とてつもなく怖い人だったら、恐怖によって眠気は吹き飛ぶでしょう。やさしい先輩なのだから、眠い話ぐらい我慢したっていいのではないか、とかいう話はどうでもよい。
 心理学者氏は一般に、音とか刺激とか脳とかいった言葉を連発して、物理学寄りの惰性的法則をイメージさせることで自らを権威づけしたがる傾向にある。しかし、この例からも分かるように、逆に人間の意志を前提にし、さらに、生物の意志や関心といった擬人化を用いる方がより整合的な説明が得られる。つまり、少なくともテレビでよく見る心理学者氏の与太話については、むしろ常識の側にまともな説明を期待できる。
 最後に、電車の中のガタゴトについて。繰り返し音が眠気を誘うのは、この心理学者氏の言うように、脳が単なる音の繰り返しを刺激と見なさなくなるからだろうか。一般に仮説というものは、それに反するように思われる例と突き合わせて検証する必要がある。<比較①>ラヴェルのボレロのように美しい音楽なら、繰り返しは高揚感さえもたらす。<比較②>工事現場の騒音は眠りたくともこれを妨害する、生体にとって危険な「刺激」だ。以上で、「音の繰り返し云々」が根底にあるのではなく、そこに主体の関心があるかどうか(生物として、強制的に関心を持たされる場合も含めて)こそが根底にあることが分かる。次に、電車の中のガタンゴトンが眠りを誘うのは、それに関心がなくなるから、刺激ではなくなるからだろうか。刺激の無が、新聞や本、風景、考え事、向かいの席の美人など、ほかの刺激に打ち勝つのはなぜか。もちろん、いつもかならず、そうだとは言わない。私がそう言っているのではない。みなさんが「電車にガタゴト揺られてると眠くなる」とおっしゃる場合、「比較的そうなる傾向がある」ということを言っているわけです。ボレロのように芸術的対象として人を引き付けるわけでもなく、工事音のように生理的不快感を与えるわけでもない電車のガタゴトは、果たして無刺激になるのだろうか。そもそも、無刺激が眠りを誘うのだろうか。なら、<比較③>全く無音の列車があれば最適だろう。常識的に誰もが気づいていると思うが、リズムを刻むことが重要だろう。つまり、「繰り返し音→無刺激」ではなく、むしろ、繰り返しそのものが心地よい「刺激」になっているのではないか。マッサージだってそうだが、同じことの繰り返しだから途中から刺激と見なさなくなるというよりも、人をリラックスさせる心地よい刺激だから、リラックスした結果として眠くなるのだろう。

 オマケ。テレビでよく心理学者氏が「○○する人(○○という行動)は、△△という心の現れです」などと発言します。でも、それってテレビで言っちゃったら意味ないのでは? それを知った以上、それを意識して行動しますよね。少なくとも、その番組を見なかった人にしか当てはまらなくなります。そのうち、それが広まると、もう賞味期限切れになります。一般に真理といわれるものは、検証を経たものであるからには、必ず普及・応用されていって、どんどん盤石なものになっていきます。普及することで、どんどん真実でなくなることって、少なくとも学問的真実ではないと思います。


  1. 2016/07/03(日) 13:18:51|
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ちかごろ気になる変な言葉

◎「関係性」という言葉

 昔から、ときどき使う人がいたが、最近のテレビでは「関係」と言うべきところを全て「関係性」と言っている。いつからコイツ(「関係性」)が天下をとったのか。
「~性」は言うまでもなく、何らかの「性質」を表現する。まず、大辞泉で「性質」と「関係」とを調べてみよう。

 性質「その事物に本来備わっている特徴」「持って生まれた気質」。
 関係「二つ以上の事物が互いにかかわり合うこと。また、そのかかわり合い」。
   「あるものが他に対して影響力をもっていること。また、その影響」。
   「人と人との間柄。また、縁故」。

 「関係性」という言葉は、「関係」と「性質」とを合体させている。しかし、両者は人間が物事を把握する仕方の、かなり根底に横たわる区別を示している。ある物事それ自身に備わった状態を示すのが性質で、2つ以上の物事の間に見てとれる何らかの事態が関係。身近な例を挙げれば、A君がやさしいとか、頭がいいとかいうのは、A君に備わる<性質>。A君とBさんとは親子だ、友人だ、などが<関係>。ただ、後者の場合、「どんな親子」「どんな友人同士」という、関係の質に言及しうる。「関係性」という言葉を使いたいのは、そうした場合だろう。ただ、そうした場合でも、それはA君やBさん自身にそなわる性質ではなく、あくまでも問われているのは両者の「関係」だ。したがって、昔からよく行われた「二人はどんな関係ですか」という質問は、<含み>をもっていて、期待される答えは「友人」や「恋人」といった抽象的な言葉ではなく、具体的な「どんな」に及んでいたのだ。どこまで詳細な答えを求めているか、また、答えたいかは場合による。親しい友人間なら、質問を繰り返して追求することや、じらしながら答えることが楽しいこともある。ともかく、一昔前まで「お二人はどんな関係ですか」としか言っていなかったのだ。「二人の関係はどんな性質のものですか」などという必要はないのだ。
 そもそも、「関係性」は言葉としておかしい。例えば、「水溶性」は水に溶ける性質のことをいい、「~性」というとき、「~」には性質の内容が入る。「関係性」では「関係という性質」というわけのわからぬことを指すことになる。繰り返しになるが「関係」は性質の内容にはならない。性質と関係とは物事を把握する根源的2大ジャンルであり、それぞれについて具体的「内容」が語られる。一方のジャンルそのものを、他方の内容に据えるという意味不明なことをしてはいけない。何にでも「~性」をつければ気の利いた言い方になると思うのは大間違いだ。この言葉の奇妙さは、「性質関係」という言葉の奇妙さと同等だ。
 哲学的には、本質(性質)という理解から関係という理解への流れは決定的だ。アリストテレスは「落下」は(例えば)石に備わる性質と考えたが、近代物理学では物質間の関数関係として理解されるようになった。性質と関係には、物事を把握する思考方法の根底に関わる区別がある。ちなみに、論理学では、性質を関係の一特例と見るようだが、抽象が過ぎて、2つの言葉の日常的意味合い(区別)が消し飛んでいる。それはともかく、この場合、「関係」と「性質」とを合わせた「関係性」という言葉は、「性質」の上位概念を「~性」と呼ぶ、もっとひどい過ちを犯していることになる。いずれにせよ、両者をドッキングさせるなどありえない。

 補足
 似た表現として、「関連性」という言葉がある。しかし、こちらはニュアンスが異なる。複数の事物間に何らかの関係が「成立していること」に力点がある。何らかの関係が「働いていること」を指しているといってもよい。「関連性」が「あるか、ないか」などという使われ方をすることが多い。「関連性が見られる」という場合も、一定の関係が「ある」ことを言いたいのだ。また、「関連性を調べる」など、そこに一定の関係が「ある」か否か未確認の場合によく使われる。


◎「経験値」というゲーム由来の言葉

 大辞泉で「経験」という言葉を引いて欲しい。「実際に見たり、聞いたり、行ったりすること。また、それによって得られた知識や技能など」とある。つまり、「それによって得られた知識や技能」は始めから「経験」という言葉に含まれている。さらに、「経験が浅い」という用例から、その「程度」「度合い」も意味することが分かる。「経験値」という言葉は、ニュースのスポーツ解説などで使われるのをよく聞くが、「経験値を高めた」や「経験値がものを言う」など、「経験を積んだ」「経験がものを言う」などと何ら変わらないことしか言っていない。「経験」では、あやふやだと言われるかもしれない。しかし、その「あやふや」がいいのだ。
 もちろん、ゲームで「経験値」という言葉を使ったのには理由がある。文字通り、それを「数値化」するからだ。ゲームは数値化しないと成立しない、苦労もなければ、それに伴う真の喜びもない、遊びにすぎない。しかし、スポーツにおける技量は、どちらかというと芸術的なもの。確かに、より芸術に近いスポーツでも、順位を競う際には、一定の観点・基準から表現結果を数値化するだろう。しかし、どんなに単純に見えるスポーツでも、選手のもつ技量・能力そのものはそれぞれに個性的で、数字化して比較できるような味気ないものではなかろう。人にはそれぞれに贔屓の選手がいる。結果としての数字は大切だし、一般的な訓練方法もあるだろう。しかし、それらに応じるのは個性をもった心身だ。各選手が積み上げる技量の個性は数値化できない。数字が透けて見える「値」という言葉が似合わないように思う。「経験値」という言葉はこの場合、物事に沿った理解を歪める(皮相化する)点で、「あやふや」な言葉だと言える。そして、数字化するニュアンスをあえて持ち込まない「経験」という言葉を使う方が実は適切で、その意味で正確なのだ。ゲーム由来の数値化するような言葉が広がることの背景に、何にでも数字を求める価値観の皮相化・画一化傾向がなければよいが。


◎「ただそれだけです」という表現

 大変な状況にある方が、「今は何も考えられない」という意味で使うのは理解できる。しかし、第三者がインタヴューに答える際にもよく使われる。「犯人が早く捕まって欲しいという、それだけです」「政治家として、常識がない、それに尽きます」等々。「それ以上、何も考えていません」を、なぜか、いいことを言った雰囲気にするアイテムとして多用されている。


◎「そういった形になっています(という形です)」などの表現

 「雪で動きがとれない形です」など。もってまわった言い方で、表現不足を補いたいという心理。うまいこと言いたいという自意識過剰の、まさにその(中味のない)過剰分。


◎「素直にそう思う」(と自分で言うこと)

 おそらく、「率直に」の間違い?


◎表現を雑にする「部分」という言葉の多用

 「納得できないという部分もあります」「(事故などで)運転手の慣れという部分もあるようです」等々。「…もあります」と言いたいとき、すべて「部分」で済ませる傾向がある。「納得できない思いがあります」「運転手の慣れも一因かと思われます」等、場合に応じて的確に表現して欲しい。ましてや、「危険回避という部分もあります」や「リスク管理という部分が抜けています」などは、「側面もあります」「という点が抜けています」など、ニュアンスに応じて自然と入るべき言葉があるのに、「ワザとか!」って言いたくなるほどだ。

  1. 2015/03/22(日) 20:17:40|
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魔術的思考

2014年賀はがき



 元旦にテレビを見ていて…

 元日の夜、なにげにテレビをつけてみると明石家さんまさんの楽しそうな声が聞こえてきた。「ホンマでっか!?TV」という番組。「先生」といわれる人たちがウンチクを語り、さんまさんが面白おかしく進行している。ときには、「先生」も芸人扱いで、突っ込みを入れられる。基本的に、お笑い番組なので、あんまり真剣に見るものではない。ただ、勝手にある思いが浮かんだので、言葉にしてみました。こんな話。
 ある「先生」が、ゲストのタレントさんたちに「ブタの絵を描いてください」と言う。どんな絵を描いたかで、「器が大きい人かどうか」が分かるらしい。結果、多くのタレントさんが「左向きのブタ」の絵を描き、お一人だけが「正面を向いたブタ」を描いた。「先生」曰く、「左向きのブタを描いた人は器が大きい」。その理由は、「時間は、左から右に向かうようにイメージするのが普通で、左は過去を示す。それで、左向きの絵を描いた人は過去の方に目が行っていて、過去に出会った人を大切にする」のだという。私は、その言葉を聞いた瞬間、これはもう、お笑いタレントさんからも突っ込みの嵐だろうなと思ったのですが、ナルホドみたいな空気で次の話に移ってしまったので、私の顔の方が「目が点のブタの絵」になったような気がしました。
 なぜ、目がテンのブタになったかというと、
①「過去の方に目が行く」という非常に抽象的な言葉から、「過去に出会った人を大切に思う人」と結論することに何の論理的筋道もなく、これはもう「飛躍」なんてもんじゃなく、飛躍できるだけの脈絡すらない(「過去に目が行く」という言葉は、「クヨクヨする人」とか、「ストーカー気質の人」とか…何とでも解せます)。
②そもそも、「左向きの絵」と「時間の、左から右へ流れるイメージ」の理由ですが、以下のように思うのは私だけではないはずです。世間には右利きの人が多いわけです。すると、左から右へと書く(描く)のが自然で、書き(描き)やすいわけです。それで、生き物を描く場合、その生物の前側から描くことが多いので、自ずと左が前になる場合が多いのでしょう。また、時間を「線を引く」イメージで表すのも「自然」なことなので、その際、やはり、右利きならば、左から右へと線を引くのが普通です。「左向きの絵」と「過去」とを直接結びつけてはならず、単に、両者を「右利き」が結び付けているにすぎないのではないでしょうか。
③そもそも、「過去に出会った人を大切に思う人」が「器の大きい人」だという定義からしておかしいではありませんか。
 人間っていうものは、何かが説明された気になると、すぐに受け入れます。これは、大昔に、風神・雷神が風や雷を起こすとか、大ウナギが地震を起こすとか、「説明」されることを何だって受け入れてきた心性、魔術的思考と何ら変わっていないということです。説明の仕方がおもしろければ、おもしろいほど説得力があるようです。現代人の多くは、恐らく、自然科学の有難さをいやがうえにも自覚した科学揺籃期の人々よりも、むしろ、退化しているのではないでしょうか。スマホや自動車の操作などは、10万年前のホモ=サピエンス(今の我々と全く同じ人間)でも、教えてあげればすぐにもできます。歴史的に形成された文明を内面化しているか否かが、後に生まれたものの本当の優位です。それがなければ、個人の能力としては原始人と同じでしょう。魔術的思考を受け入れる人々が多い間は、あらゆる種類のサギはなくならないし、私としては「犯罪」ではない詐欺のほうが恐ろしい。一人殺せば犯罪者、大勢殺せば英雄なんて言葉もあります。「ホンマでっか!?TV」だけなら害はないでしょうけれど。

  1. 2014/01/04(土) 15:18:42|
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とんでもない映画

 古い日本映画が好きな私ですが、子どものころから映画が大好きです。好きな映画の事も書いてみたいけれど、今回は、とんでもなく下らなかった映画について述べてみたいと思います。
 『シックス・センス』。これはある意味ものすごいドンデンガエシでした。物語が始まってすぐ、主人公は死んでるんじゃないかと思いました。その程度のビックリなら、早々に明かされて、さらに二転三転あるんだろうな、と見続けていると、どうもそんな気配がしない。「いやいや、見くびってました。そんな、しょうもない設定はないよな、失礼しました」と、心を入れ替えて観賞し続けた挙句が、「実は主人公は死んでました!」、ジャジャーン!はい、一巻の終わり。このときの虚無感ってなかったですね。同傾向のものとして、『ユージュアル・サスペクツ』がある。「一番怪しくない人が犯人」という、鉄則通り。あまりに意表を突かないラストに、意表を突かれました。
 小学生のころ、児童名作文学集を親が買ってくれ、『怪傑ゾロ』だの『若草物語』だの『小公女』だの『嵐が丘』だの、どっぷり作品世界に浸りました。そんな中にポーの短編『盗まれた手紙』がありました。小学生の私は探偵の推理に感心しましたが、それ以上に驚かされたのが解説文でした。著者はどなただったのでしょうか、こんな内容でした。実際に警察が捜査したら、手紙はすぐに見つかってしまいます。本当にすごいのは、探偵の推理に感心させるポーの筆の力なのです。と書かれてありました。私は「言われればそりゃそうだわ、なるほどなー」と小説以上のインパクトを受けたのです。それ以来、推理小説も大好きになりました。『黒猫』のような、犯人の心理を描くものにもドキドキしました。『宇宙からのロボット大使』などのSFにもはまっていきました。しかし、書く方は大変だけど、読む方はだんだん慣れてきます・・・。それで、ドイルの『バスカヴィル家の犬』などは、のっけから犯人が分かって、推理小説から離れて行くきっかけになってしまいました。それでも坂口安吾の『不連続殺人事件』や乱歩の『陰獣』などにはうならされました。両方とも映画化されていますが、筆の力はうまく映像化できないものだと思います。サスペンス物は、もとがしっかりしていても難しい。いわんや、へなちょこな脚本をやです。
 また、サスペンスとしては成功しても、いや、それだからこそ余計にひどい映画として、『容疑者Xの献身』を挙げざるをえません。単なる道具として人を殺す残虐さを一顧だにせず、これを「献身」とする扱いに、見終わったあと胸がむかむかしました。こんな作品が社会的に許されてよいのかとさえ思いました。殺人事件をゲーム感覚で見せる『名探偵コナン』でさえ、理由のいかんを問わず「殺人は卑劣」という立場を堅持しています。私はかつて、ホームレス援助をされているNGOの方から詳しい話を伺ったことがあります。本当に、ごく普通に仕事ができて、ごく普通に家庭を営んでいた人々が、まるでイス取りゲームのように、「なんで私が」という“心”の介在する間もなく、社会からドロップアウト“させられる”事実を知りました。中には、有望なスポーツ選手として企業に迎えられ、怪我をしたら、それまでの貢献など無かったかのようにリストラされた方もいます。
 ちょっと脱線しますが、私が子どものころの“ヒーロー”は、人を殺しませんでした。物語の中で、「どんな悪人でも殺してはいけない」と毎回のように繰り返していました。水戸黄門も最初は峰打ちでしたが、いつの間にか、運の悪い家来が切られるようになりました。ハリー・キャラハン刑事が衝撃的だったのは、そういう時代背景もあります。
 ついでに、『キサラギ』という映画もひどかったです。解決に結びつくための材料を小出しにしていくタイプのミステリーですが、すぐに気付くような事なのに、主人公らがなかなか気付かないし、あとの推理も遅い(イライラ)。さらには、ムリヤリな間違った推論を立てて回り道する始末(またイライラ)。見てる側が感心する作りにしなきゃダメでしょ? また、江戸川乱歩が言ってたと思うが、ミステリーはなるべく早い段階で正解に導ける材料を提示するのが本格的で、最後まで正解に必要な材料を見せないなら推理ものとは言えない。横溝正史などは、最後の最後に核心的事実を示すことが多く、冒険ものに近い。



 蛇足ですが、本当の日本刀は峰で打つと弱いので、刃の方で叩いてました。鎧を着けての戦いでは、首をとるとき以外は、切るよりは叩くのが主たる使い道といわれています。そもそも、鉄砲登場以前、武士の技とは、即ち、馬上で弓を引く技術でした。飛び道具が圧倒的に有利です。刀を構える武士しかいなかったら、石を手にした方が勝ちです。今、道路で石畳が少なくなったのも、かつてこれを投げる民衆がいたからです。
 蛇足の蛇足ですが、石碑、石造物、それに、石器や岩に描かれた絵、さらには、化石まで含めると、石は過去を残し伝える最強の物質かもしれませんね。人が「化石」に譬えられるのはいい意味ではありませんが、時には、「化石」の声に耳を傾けてはいかがでしょうか?



  1. 2012/09/09(日) 15:37:39|
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いじめについて

 このカテゴリ(ひょっこり思ったこと)は、唐突に行きたいと思います。
 私は、小学2年生から中学2年生にかけて、いじめられました。まず、それを言っておきます。
 毎日のようにテレビでいじめについて報道されていて、この前、テレビで“いじめ研究家”なる方が登場していて、笑ってしまいました。ついには、飯のタネになったか、と。教育学者の発言というだけでも、まあ、「学者」の発言として受け取っておきましょうって感じで、すべての方がこのテーマについて優れて有益な視点を提供してくれるわけではないと感じています。ジャーナリストとしての取材と社会・経済への広い視野から、すばらしい展望を示す方もいます。一父母の立場からの発言が、すごく深いこともあります。そんななか、“いじめ研究家”ですよ・・・。
 まあ、よしとしましょう。その方が何を発言したかです。「無視するとか、みんなで相手にしないということもあるんですよ」と、いまさら?というようなことに、この方独自のネーミングをしていて、何でもネーミングするなあと可笑しくなりました。一つ、言いたいことがあります。分かったような顔をして、十把一絡げに出来合いの理論をあてはめて、得意顔をするのはやめて欲しい。いじめられる子どもも、みな一様に「いじめられる子」じゃないのです。それぞれ、感じ方や生き方が違います。私は、いじめられている期間、ただ、辛いだけでした。少し、精神的成長が人より遅かったと思います。いわゆる自我に目覚めてなく、自分はこれでいいのかなどと、客観的に自分を見る(自分を気遣う)もう一人の自分はまだいなかったのです。他方、見たテレビや映画、読んだ本などをいつまでも事細かに覚えていて、時々、聞かせてくれと寄ってくる子がいました(特に、見逃した映画など・・・ウルトラマンの怪獣のストーリーなどはすべて登場人物名まで覚えていましたから)。いまなら何か病名がついているような子どもでした(残念ながら、この記憶力は有効に使われることなく、年を経て衰えていきました)。本題に戻りますが、私は、正直、ほっといてくれたら、幸せでした。今のような極端なファシズム的ないじめの時代ではないので、話し相手がいないということはなかったのですが、えらい目に会うのと一人でいるのと、天秤にかけたら、あきらかに一人を選んだということに確信が持てます。小学5年生のとき、何度か、「○○君、僕と一緒に逃げよう」と、昼休みにどこかへ連れて行ってくれた子がいました。名前も覚えています。その子がとても好きでした。その有難さは分かったのです。しかし、他方、こんな思い出もあります。リーダー格の子どもたちが、私を囲んで、「おまえはそれでいいのか」と詰め寄ってこられたことが何度かあって、当時の私にとっては、ただ、脅されただけでひどく恐ろしく、泣かされただけでした。これも込みで、えらい目にあうことでした。もし、当時の私に、「無視」というのもありで、どっちを選ぶ?と言われたら、迷わず、それを選んだはずです。物事には、順序があります。それなら、まだいいや、というのは人によって違うのではありませんか。
 今のように、誰がいじめにあうか分からない時代と、特定の人間だけがいじめられるのと、どっちが悲惨かは、一概には言えないでしょう。ただ、違う時代にいじめにあった者として、今の時代に感じることがあります。それは、今の子どもはすごく所属集団というものを意識していて、団結力がとてもあるということです。何でも団結します。いじめであっても。たとえば、私たちの世代は、結果として「わがクラスは・・・」と言うことはあっても、「クラスとしてどうあるべきか」なんて、考えたことも無かったのではないでしょうか。しかし、今以上に、誰もが自然に、クラスにいた人間に対して、ストレートに物を言ったと思います。授業中うるさいのがいたら、必ず、「静かにしてください!」とでかい声でキッパリ言う人が何人かいました。何度でも言ってました。理由なんてありません。みんな、ただ素朴だったんです。思ったことを言ったのです。どちらに対しても、「アイツどうする?」などと、根回しをするなんて無かったのです。よくも悪くも、集団を形成しようなんてことじゃなかったのです。今は何か間違ってます。
 ちなみに、みんなどれぐらい素朴だったかというと、中2までいじめられていたような私ですが、こんな私に、3年生のとき、恋愛の仲介を頼んできた他クラスの生徒がいたぐらいです。しかも、中2のとき、私にちょっかいを出していたやつでした。もう、忘れてるんですね・・・。


<追記>
 「愛の反対は、憎しみではなく、無関心です」などという、言葉遊びもやめてほしい。かつて、いじめられた子が、ナイフか何かで反撃した事件があったが、あのときの憎しみを「無関心でなくてよかった」と言えますか? 憎しみの連鎖で殺戮が続く国々に、「無関心より結構」と言えますか? 無関心に愛がないのは当然ですが、憎しみと比較して何の意味があるのか、私にはさっぱり分かりません。

  1. 2012/08/31(金) 19:40:42|
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プロフィール

犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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