どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

南部伊平さん(高松市紙町)

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 紙町の墓地の端っこに「南部伊平君記念碑」が立っている。
 南部伊平さんは高松藩士です。松平頼真(よりざね)さんが1771(明和8)年に六代藩主になりましたが、翌1772年~天明(1781~89年)にかけて、自然災害や火災などが相次いで、庶民はもとより藩財政も窮乏したそうです。

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 「字(じー)がちょんもーて、読めへんがな!」とお怒りの声が聞こえてきそうですが、実は、あとで拡大して読もうと思っていたら、焦点が合っておらず、私も読めないという事態に…悲しすぎる。そこで、『わが町の文化財探訪』を参照に書いております。
 南部伊平さんは、この地方の水がきれいなことを知って、これを活かして産業を興せないかと考えました。伊予三島へ紙すきを学びに行き、そこから亀造さんという人を雇ってきました。

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 南部伊平さんは武士の身分を捨てて事業に精を出し、近畿の方まで売り込みに出かけるなどし、高松の製紙業の基礎を築いたそうです。

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 記念碑は赤丸の所です。伊平さんが製紙業に精を出すために住居を構えたのは、地図で少し右にある春日神社付近だそうです。
 地図がかなりピンボケですが、左に見えるのは高松市立鶴尾小学校です。

 「南部伊平君記念碑」の少し北にある観賢山久米寺については→観賢僧正など



  1. 2015/11/05(木) 17:39:34|
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権兵衛神社(三豊市)

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 三豊市の権兵衛神社は、寛延の大一揆(西讃農民一揆)を指導し、処刑された大西権兵衛ら七義士が祭られています。
 寛延3(1750)年1月に起こった一揆は、飢饉でも厳しく取り立てられた年貢によって追いつめられた、丸亀・多度津藩領の農民が6万5千人集結した大一揆でした。那珂郡・多度郡・三野郡・豊田郡、つまり、丸亀・多度津藩の全体に広がる全藩一揆でした。このころは農村の格差が拡大してきた時期ですが、このとき年貢未進(負債)を抱えていたのは零細農民だけではなく、中小農民のなかにまで広がっていました。

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 彼らが要求したのは、年貢未進の返済を30年で無利子にするなど経済的要求、年貢の銀納分を恣意的に決めず、大坂の相場に従う、役人の不正・乱費をなくす、などでした。1月23日、藩側は善通寺客殿で農民代表と会見し、13か条の要求のうち10か条を認め、残り3か条は保留としました。
 しかし、この一揆の最中、幕府は全国化した一揆に驚き、一揆弾圧令を出していました。2月10日、この知らせが丸亀藩に届き、丸亀・多度津両藩は態度を一変させました。指導者の捕縛、処刑、領外追放を行い、約束の破棄を通達しました。ただし、役人の不正・乱費などに関する要求は認めました。

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 権兵衛さんの辞世の句「此の世をば 泡と見て来し 我が心 民に代わりて 今日ぞ嬉しき」。元首相(当時大蔵大臣)大平正芳氏が揮毫しました。

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 右に見えるのは芝居小屋です。

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 8月の第1日曜日にイベントや権兵衛芝居が行われています。

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 宇賀神社(三豊市)の随身門です。七義士がこの天井裏で評定を行ったと伝わります。
 彼らが村々に呼びかけた回文には「御出の節は、かま・くわ・みのがさ御持参ならるべく候」とあり、脇差・鉄砲など武器を持たないことを指示しています。江戸初期を除いて、一揆はデモ行進に近いのが実態でした。大庄屋・庄屋の中には打ちこわしにあった者もいますが、役人の不正を糺すという一揆のスタンスにギリ納まっていると考えられます。

 (『讃岐の一豪農の三百年』刀水書房など参照)

 
 小村田之助さん
 新本義民
 山中一揆
 義民、徳武某と久森某 
 渋染一揆
 浜崎周吉さん
 西讃血税一揆
 伏石事件
 金倉寺事件


  1. 2014/12/28(日) 12:46:11|
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詫間海軍航空隊跡(三豊市)

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 232号線が香川高専詫間キャンパスを迂回する辺りです。この眼下に、詫間海軍航空隊がありました。

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 道の反対側には防空壕跡と慰霊碑があります。

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 海沿いには、詫間海軍航空隊滑走台がいくつか残っています。

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 土木遺産に選ばれています。

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 302人の特攻隊員がここを飛び立っていったそうです。

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 美しい瀬戸内海の島々をどんな気持ちで眺めたのでしょうか。

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 いまでは瀬戸大橋が目に入ります。

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 詫間民俗資料館で平和を考えるテーマで展示されていた、水上偵察機『紫雲』の先端。

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 日本の平和、もしくは正義の勝利を願って戦死した方々の心情、とりわけ、そのために命をささげることを覚悟された特攻隊の方々の心情を思うとき、身の引き締まる思いとともに、強い悲しみに襲われる。この戦争による死者を悼むのは当然のことである。しかし、この悲しみの意味を少し語りたい。
 日本の行なった戦争、少なくとも、満州事変に始まる十五年戦争が侵略戦争であったことは紛れもない事実だからだ。もっとも、侵略ではなかったという立場の人々が存在することは知っている。しかし、日本が武をもって支配・強要した国々が、逆に日本に攻め込んだ事実はない。今の日本が最大のパートナーとしている米国をはじめとする先進諸国すべての認識は、当時(独伊以外)も今も日本の行為が侵略であったことでは一致している(※)。また、このことは戦後日本が加盟し、その中で重きをなしたいと願っている国際連合の認識でもある(いつか敵国条項に抹消線が引かれても、国連ができた経緯として歴史には残る)。ゆえに、これは日本政府の認識でもあり、したがって外務省のホームページにも明記されている。つい最近、中国を訪問した安倍総理大臣も歴史認識については歴代内閣の立場を堅持すると明言した。
 早く過去のことにしたいと考える人々もいるだろう。しかし、一方では、一般に人々にとっての時間感覚を一方的に決めることはできないということがある。加害側には、罪の意識を背負い続ける人々もいれば、さっさと荷物を下ろしたがる人々もいる。しかし、被害側のダメージは容易に消えるものではない。たとい寛大な人々であっても、加害側の中から「間違っているのはお前たちだ」、「もういいだろ」という声が聞こえてくれば、癒えかかった傷口が広がらない人がいるだろうか。個々人の精神的ダメージには、トラウマという現在形で働き続ける過去さえある。社会的・国際的問題となれば、ことが大きければ大きいほど、過去となるには時間がかかるのは当然である。他方、過去を克服するとは、この場合、事実認識がほとんどの国民の間に根付いていることである。侵略の事実を認めるとは、何が侵略かを判断できるということであり、国際的な共通認識をもっていることである。しばしば、過去の自国の行為を教育などで徹底しているドイツに対し、日本はドイツとは違うという人々がいるが、その主張にあまり意味があるとは思えない。この世に存在する物事で、他との共通点と差異とをもたないものは何もないからだ。それぞれの仕方で行った侵略の事実に対して、真摯に向き合うことが前に向かって進むために必要なのだ。この点に変わりはない。その意味で別な道を歩むとは、過去を引きずり続け、国際的信用を欠く道を歩むことでしかない。
 靖国神社の立場は明確だ。日本は過去に誤った行為をしていない、したがって、戦犯も存在しないというものだ。正義の戦争のための死者の魂を英雄として祭り、神国日本の無謬性を主張している。先に述べたとおり、侵略によってアジア諸国に多大な迷惑をかけたというのは日本国政府の公式見解であり、世界に対して明確に発信している。その一方で、政府の要人が侵略を認めない立場に支持を与えるかのような行為をすることは、二枚舌である。怒りや不信、不快感が世界に広がったのは自然な反応だ。それに、国家の代表者に(本音がどっちであれ)表裏があるようで、子どもの心に正義感が育つだろうか。おまけに、この立場の人々の一部は、世界に明言している国の立場を個々人が口にするだけで恫喝することがあり、反社会的側面さえ見られる。そもそも、政府の主張が位置する世界の常識に逆らって、一体どんな結果を望みうるのか。「国益」を害するばかりである。私個人は(現在認められている専守防衛を認めつつ)非武装中立を目指すのが理想だが、理論上は集団的自衛権をもつという選択もあるだろう。しかし、その立場に立ってみても、何が侵略かを判断できない国というレッテルを貼られたら、どれだけ日本にとって不利益か、考えた事はあるのだろうか。経済的にも、アジア諸国との連携が欠かせない時代だ。無用の争いは避けたい。その他、領土問題等で他国の間違いを正すためにも、核兵器廃絶等で日本の主張を有効にするためにも…いろんな意味で自ら襟を正すことが必要だ。私は謙虚であることが日本人の美徳となり、同時に意見を通しやすくして国益にもつながると思う。
 戦争で亡くなった方々の心情を思うとき、私は悲しくなる。平和や正義を信じて命をささげた、その心情をこそ尊重しなければならない。いま、我々は戦時中の教育や情報操作によって、多くの国民が正しい認識をもつことが困難だったことを知っている。いまを生きる我々が誤った認識を尊重してどうするのか。平和や正義のために命をささげようとした魂に真剣に向き合い、正しい認識のもとその志をこそ受け継ぐべきではないのか。誤った認識をもたされ、国民の尊い志が利用されたのだ。権力者たちは、亡くなった人々にまだ戦争中と同じ嘘を語りかけるのか。それこそは国民の尊い志を穢す行為ではないか。そうして他方で、今を生きる国民を再びただ利用しようとしているのか。若くして戦場に散っていった人々の覚悟や無念さを思うとき、私はこんな欺瞞が存在していることに怒りと悲しみを感じる。
 特攻隊の基地の跡に立って、どうしても抑えられない思いを書いてしまいました。まだ、言い足りないことはありますが、一言触れるに留めます。沖縄戦で亡くなった方々、空襲や原爆などのために亡くなった方々、みんな国のために尽くしていました。そして、戦争に反対して、節を曲げなかったために、まるで足蹴にされるように死んでいった人々がいました。やはり、国を憂う私心のない犠牲的精神です。私にはまねできそうにありません。そんな恐ろしい時代に戻らないことを願うばかりです。江戸時代の義民を思い出させますが、今では義民の顕彰碑には地元出身の総理大臣らの名も見えます。しかし、国賊の汚名を着せられて亡くなった方々の顕彰は地元有志などに留まるのではないでしょうか。

(※)戦争の結果として、千島列島に米軍・ソ連軍が、沖縄に米軍が攻め込んだが、千島列島はソ連→ロシアが不法占拠。

(蛇足)
 もし仮に、神がいて、信じるべき宗教があるとすれば、それは決して、政治を語ったり、戦争を導いたりなどしない。祭政一致は神を人の手垢にまみれたものにする、神の名を騙るアナクロニズムでグロテスクな政治である。神の名をみだりに唱えるなかれ。神を政治の具にするなど、神を穢すにこれほど甚だしいものはない。私は決して、戦死した人々の魂の美しさを否定しない。さらに、神を否定しない。だが、生身の人間は過つのだ。無謬ということはない。死んだ人の魂に戦時中と同じ嘘を語りかけ、戦時中と同じように神意を代弁する。神をも恐れぬのは誰か。
 別の追悼施設をつくったらどうか、という意見もあるようだが、むしろ、当時の限られた認識のもとで尊い命をささげた人々の魂にただ手を合わせ、平和を誓う場所になって欲しいと思います。政治的主張をやめてほしい。また、政治がそこに関わることをやめてほしい。亡くなった方々の魂を、いつまで苦しいあの時代に閉じ込めるのか。人間界の思惑から解放してあげてほしい。極端なことを言えば、本当に政治(人間)を超越した神であれば、他方でA級戦犯も穏やかに眠れるでしょう。

(蛇足2)
 互いに矛盾し、両立しない論理を平然と並べて持ち出すことを、「ああ言えばこう言う」といいます。日本が過去に行った行為は間違っていないという立場から、悪いのは日本だけではないという理屈が平然と飛び出してくる。日本は侵略をしていないし、侵略をした(!)のは日本だけではない…という。
 あえて、後者について述べておきたい。近代資本主義的な帝国主義が世界を席巻したことを言いたいのだと思います(※)。しかし、そもそも帝国主義自体が否定されるべき、責められるべきことだとすれば、それを極端に推し進める行為が正当化されるはずがありません。また、帝国主義の歩みを、歴史に沿って最低限、教科書程度には具体的に見るべきだ。少なくとも、第一次世界大戦後、国際連盟の方針として民族自決が打ち出され、あらゆる国や階層の本音ではなかったかもしれませんが、帝国主義に対する一定の負の評価が共有されたのです。国際連盟常任理事国だった日本が、これに真っ向から逆らったのが満州事変でした。まだまだ矛盾を抱える帝国主義諸国の譲歩にもかかわらず、日本は合意を探る努力をせず、連盟を脱退したのです。他方、このころの日本が国家としての体をなしていなかったことは、歴史学者はいうまでもなく、松本清張さんや半藤一利さんなどの多くの著書から学ぶことができます。軍の出先機関が独走する、政府や軍中央の命令も聞かない、で、独走を追認する。マスコミが国民を煽る。そんなことの繰り返し。しかも、軍中枢を担う人の中には、出先機関にあるときには自ら暴走し、軍中央にいるときには止めに入る者もいる。立場によって一貫性がない。その最初の動きは軍人による外国の要人暗殺だったが、これに対する天皇の怒りで総理大臣が辞任するほどのことだった。しかし、軍は関係者を軽い処分にしただけで受け流した。国内でも、統帥権干犯問題から浜口首相狙撃事件が起き、その後、クーデター未遂事件と要人暗殺が続く。言論圧殺は社会的抹殺・生命抹殺にまで強化される…。満州事変前後から、日本が先進諸国のなかでどんどん浮いた存在になっていったのは明らかです。世界中どこも同じだったという議論が大雑把すぎるのは明白。だれもが知っていること。「ああ言えばこう言う」の心境が、そんなことすら見えなくしている。

(※)資本主義という用語はマルクスから発し、その発展段階としての帝国主義という概念はレーニンによる。

(本当の蛇足)
 歴史を流れとしてつかむ必要があります。大きな流れはどこに向かおうとしていたのか。その中で、ある国や、社会、階層、集団、個人がどこに向かおうとしていたのか。大きな流れの中で、可能性のあるバリエーションを描こうとしていたのか、もっと先を目指していたのか、とりあえず流れに棹さしていたのか、それとも、流れに逆行しようとしていたのか、流れを大きく変えようとしていたのか…等々。例えば、アメリカで黒人差別が問題になったからといって、どこかの独裁国家が「所詮アメリカだって人権無視じゃないか、五十歩百歩だよ」という理屈で自分を正当化したらどうか。問題は、その独裁国家が世界の流れに逆行して進んでいることであって、他方で、アメリカが奴隷制の時代から真に民主主義的な国家へと前進していること、人々がさらにそれを推し進めようと意志していることは明白だ。

(本当の蛇足2)
 戦時中、哲学者が侵略戦争に加担したことを理由に、あるいは哲学がそれに対して無力だったことから、現代哲学はこの問題を核心に据えたものでなければならないかの傾向が見られる。私は、それに断固反対する。
 似たものとして、宗教者が戦争に関わった反省から、「宗教者」の立場から平和を語る責任ということが言われます。もちろん、宗教者は世間のことに無関心でよいということにはなりません。その意味で、宗教者も一人の人間の立場から平和を考える必要があります。しかし、それは「宗教」の立場から平和を考えるということではありません。問われているのは、社会に生きる人間としての責任であって、宗教という超越的な立場からの見解を打ち立てることではありません。理性的な批判の余地のない見解は、個人の内面の問題にとどまるべきであって、政治的主張へと拡張すべきではありません。戦争への関与が批判されたのは、まさしく、御仏の道に適うものとして戦争賛美を行ったからに他なりません。実際には、賛成にせよ反対にせよ個別具体的な戦争についてできるのは、個人の見解を述べることですし、それ以上の内容はもちえません。そこに「御仏の道」を冠したのが間違いです。それは「私の考え」を「御仏の道」と呼んで権威づけるとともに、「私の責任」を回避することにすぎません。これからも「御仏の道」に適うような、超越的、絶対的な政治的主張などあろうはずがありません。宗教は政治に介入せず、それこそ、時代を超越した教えとして、不殺生を力強く唱えて欲しいと思います。そして他方、人間である以上、過つこともあることを前提に、一市民としての責任から真剣に平和を考え、(仏の教えとしてではなく)人として地に足の着いた発言をしていく…求められているのはそういうことだと思います。
 哲学もこれに同じです。宗教者の「御仏の道」が哲学者の超越的な議論に置き換わるだけです。一般の人々がどこからどう切り込んでよいやら分からぬ、独自の論理で高みから社会を云々するなら、それは批判を許さぬ独断論にしかなりません。大学の偉い先生だから、庶民より高度な絶対的な視点をもっているに違いないという幻想のほうが危険です。現実社会で起きることについて絶対的見解を語れるのは、真の宗教でも真の哲学でもなく、神の代弁者だけでしょう。そして、神は実際には人々に、知恵と勇気と行動力とを(つまり、自由を)与えただけで、答えを用意してはいないでしょう。神から与えられたものをフル稼働させる責任の自覚以外に、神を信じるということはないのかもしれません。宗教や哲学は、魂の問題について、一方は信仰の面から、他方は理論的に関わるものだと私は思っています。それぞれ重要な意味を持ちますが、人としての責任はそれだけでは果たせないという、当然のことを認識すればよいだけのこと。人としての責任を宗教や哲学が見渡せるという思い上がりが、神の代弁者というへたな役回りを演じさせるのだ。

  1. 2014/12/10(水) 06:35:09|
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2014ドイツ兵俘虜収容所in丸亀(塩屋別院、11月16日)

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 丸亀ドイツ兵俘虜楽団の足跡を辿る会・丸亀市福祉事業団文化事業部主催の行事でした。1914~17年にかけてドイツ兵俘虜324名がここ塩屋別院に収容所されました。その後、松山・徳島の収容所のドイツ兵とともに、徳島県板東収容所に送られました。その様子は、映画『バルトの楽園』に描かれています。

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 最初、本堂で1時間の講演会がありました。ハーグ条約(1907年)に基づいて、俘虜の人間らしい生活への配慮がなされました。特に、所長さんは人徳のある方だったようです。とはいえ、住環境に関しては一人一畳という劣悪さでした…。講義では、生活の様子や、楽団のことなど詳しく学べました。俘虜が暴行に対する訴えを起こしたこともありますが、おおむね人道的な収容所であったことがアメリカ人の報告に見られます。
 私としては、1907年のハーグ密使事件と第三次日韓協約(外交権に続き、韓国の内政権を奪い、軍隊を解散させた)のことや、1915年の中国への二十一カ条の要求など、白人への敬意とは裏腹のアジアへの強圧的・侮蔑的姿勢が思い出され、それはそれ…と単純には割り切れません…。

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 ドイツ兵の愉しんだ演芸、滑稽芝居の再現。といっても、詳しい資料はなく、ほぼ余興。丸亀市専属住みます芸人、まるがめ→ゼさん(吉本)。ちょっとキワドイ発言は、お客が引いてましたが、若さあふれる楽しい漫才でした。

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 手前は進行役の方。

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 組み立て体操をしている様子。

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 藤井高校体操部のみなさんによる再現。地面が固いので落ちたら大変。すばらしい演技でした。

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 ドイツ人らしき方もいました。
 本当は、午後に楽団の演奏を再現するというメイン?行事があったのですが、疲れてここで帰ってしまいました。実は最近、腰を痛めたばかりで、午前中の講義を本堂の床に座って聴いたので、講義中モジモジし続け、ちょっとヤバイ感じになっていました。加えて空腹もピーク。予定表では11:00~15:00バザー(ビール・ソーセージ)開店とあったのに、昼にはほぼ片付いていて…そーなのぉーな感じでした。
 行事の方は、新発見の写真などの展示もあり、かなり充実していました。

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 丸亀駅にクルマを停め、塩屋まで歩いたのですが、香川県団扇商工業協同組合というナイスな建物を発見。


 映画「バルトの楽園」ロケ地




  1. 2014/11/20(木) 17:35:57|
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向良(こうら)神社と向山周慶(さきやましゅうけい)さん(高松市松島町・東かがわ市白鳥町)

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 高松市松島町にある向良神社です。江戸時代の人、向山周慶さんと関良助さんから一字ずつとって、神社の名前がつけられました。向山周慶さんは白砂糖の国産化に日本で初めて成功した人です。和三盆といわれて、独特の風味が今でも重宝がられています。

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 高松5代藩主・松平頼恭(よりたか)さんが藩医・池田玄丈さんに砂糖の研究を命じましたが、志半ばで亡くなり、弟子の向山周慶さんが引き継いだのです。初めは、黒砂糖さえ製法が分からず、友達の薩摩出身の医学生から教えてもらいました。製法はマル秘だったのですが、向山周慶さんが火事の被害にあったこの友人をいろいろと助けたことから、こっそり教えてもらえたのでした。また、同じく薩摩出身の関良助さんが生き倒れになっていたのを偶然、周慶さんの弟が助け、周慶さんは医者だったので手当てをしました。このお礼に、良助さんは薩摩の良質なサトウキビの苗を国禁を破って持ち出したのでした。白砂糖が完成したのは頼恭さんが命じてから30年後の、1790年のことでした。

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 こんな掲示物もありました。神社がつくられたのは、江戸時代から大変栄えていた町だったようです。

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 こちらは向山周慶さんが生まれた白鳥町の向良神社です。

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 法整備や生産方法の改良でさらに発展させたのは、讃岐の塩業を確立した久米通賢(栄左衛門)さんだったそうです。

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 讃岐三白という言葉があり、綿・塩・砂糖のことです。
 こちらは、坂出市の塩竃神社です。

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 塩竃神社からの風景。
 参照→久米通賢一文字石垣塩竃神社

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 観音寺市のわた神社です。
 参照→豊浜郷土資料館


 
  1. 2014/06/26(木) 18:41:28|
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犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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