どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

映画『ヒューゴの不思議な発明』…本音

 私は人からよく、「言葉が足りない」と言われる。しかし、自分では足りないぐらいでよいと思っている。職人気質だった亡き父への負い目かもしれない。「男はしゃべるな」が口癖だった。しかし、ブログを書いておいて、今更だなーと考え直し、もう少し本音を書くことにした(10.19のブログの件)。

 実際のところ、この映画はクライマックスで鉄道公安官に捕まったヒューゴ君にもう一度、「人にはその役割がある」という趣旨の事を言わせている。線路に落ちた機械人形を拾おうとして死にかけて、公安官から「何を考えてるんだ!?」と叱られたことへの返事だ。しかも、公安官の戦争で亡くした足を見て、「あなたには分かるでしょう?」とまで言っている。そこへ、メリエスが現れて「分かるとも!」と言う。メリエスの言う意味は、おそらく、自分も役割を果たす義務があるという意味で、ここにヒューゴ君から教えられ、メリエスがやっと気づくという、いわゆる成長譚としてのドラマもちゃんと成り立っている。私がこれに触れなかったのは、わざとである。作者の意図ははっきりしている。私が先に、ぼかして表現した「誤った解釈もありえる」といったそれだ。実は、「ありえる」のではなく、それこそ作者の言いたかったことで、私の本音はこの映画の真っ向からの否定だ。ケンカ腰が嫌いで、前回は、あえて肯定できる部分をむりやり取り出したのだが、真意が伝わらないと考え直した。
 メリエスの「分かるとも!」には、ただ、人はその役割を務めねばならないという一般論しかないが、この映画ではそこに潜んでいる危険な意味、問題点が主人公の行動によって丸々肯定されていることは明らかだ。鉄道公安官には「分かるはず」というのは、戦争に参加した彼には分かるはずということであり、彼は足を失うだけで済んだが場合によっては命も捧げねばならないが、それがその人の役目であれば仕方ない、というより、一歩進んで立派な行為であると言いたいのだ(もちろん、フランスのナチスへの抵抗運動など戦いが避けられない場合もあったが、この映画は戦争の内容に全く触れるものではなく、国家の戦争への忠誠を人たるものの役割とする道徳観になりかねない。ドンドン話が脱線するが、それでは有名なアイヒマンの発言を肯定することになるし、他方、どんな明確な防衛戦争であっても、まず、本来なされるべきは、そこに至らぬための政治的努力だったことを忘れてはならない―話を戻そう)。要するに、ヒューゴ君をして、そのために死んでも本望だと言わせているのだ。まるで神のように個人の存在意義を具体的に決められると思い込んでいる誤った思想だ。ヒューゴ君は、機械人形を修理してメリエスに届けることを、そのために死んでもよい自分の存在理由だとまで思いつめている。ここに、この映画の存立そのものに関わるとんでもない違和感をもつのは、間違いだろうか。つまり、この映画は主人公の行為を、「いま」彼に「できる」こと、彼が「やりたい」こと、私が「愛」と呼んだもの、であるにとどまらず、彼が生まれてきた理由(生涯を規定する「存在理由」)にまで祭り上げる。実際、先の場面でほぼそういう趣旨の事をヒューゴ君自身に語らせている。私の主張はすでに明確にしたが、大人は往々にして、自分勝手な存在理由、偶像、「神」を作り上げ、自らの命を生贄にする(犠牲という言葉は本来の意味のために取っておきたい)。しかし、そもそも、子どもにはそのような要求すらない。神は子どものうちにそのような<誤り>が入り込む余地を残していない。命が溢れているのが子どもだ。人はそこに神を映す鏡を見て、子どもを神々しく感じる(最近のニュースに見る異常者でもない限り)。この映画の作者には、人間観・世界観の大きな過ちだけでなく、そういう事実誤認を指摘したい。そもそももっともらしい偶像に命を懸けることをさも美しいことのように大仰に語る道徳教師という一般論に加え、さらに、私の「違和感」を大きくしているのは、この映画の場合、ヒューゴ君に命まで懸けさせることが余りにそれにふさわしくなく、必然性のあるなしどころではないという点である。「アクションものでもない」と言ったのは、例えば、愛する者の命が危うくなる場面で、無我夢中で飛び出していくといった逼迫した状況の不在のことだ。それどころか、いまは不遇にあるといっても、人もうらやむような意義ある半生を過ごした者の立ち直りのために、なぜ、子どもが命まで懸ける必要があるのか。その再評価にしても、本来「研究者の使命」であり、しかも、命を懸ける性質のものではない(大真面目に言うのもバカげている)。ここには、一孤児の人生なら、それに釣り合うという差別観しか見えない。この映画では、ヒューゴ君自身がそれを受け入れていて、実に痛々しい(本来、子どもの発想ではない)。この痛々しさについて、私は訴えたくなったのだ。そして、私なりにこうあって欲しかったというストーリーを、ヒューゴ君の(悲壮なではなく)積極的な愛と、それによって目覚める老人、そして、登場人物を巻き込んだハッピー・エンドという流れを(無理を承知で)取り出したのだ。メリエス再評価と映画への賛美というもう一つのテーマがあれば、それで十分だろう。少なくとも、誤ったテーマを展開するよりはましだ。孤児として人生を終えることは無意味で、「大きな意味に関わる」ことで初めて存在理由を得るという発想は、そのまま、大部分の観客に返ってくると知るべきだ。20世紀を前にニーチェが殺した神とはそのような偶像だったが、理性が猛威をふるった20世紀を知った後でも、血に飢えた神を崇拝する者は後を絶たない。悲壮な裏返しの人生観を壊し、神に感謝してただただ子どものように、与えられた力を発揮する喜びのうちに生きたいものだ。また、それを応援する社会であって欲しいものだ。





  1. 2012/10/24(水) 00:08:28|
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映画『ヒューゴの不思議な発明』

『ヒューゴの不思議な発明』2011年  アメリカ  マーティン・スコセッシ監督

 まず、映像や俳優が素晴らしかったし、映画を誕生させた実在の人物(メリエス)へのマニアックなこだわりをいろいろな方のHPなどで知って、認識を改めました。それに、主役の男の子なんぞは、よく見つけてきたなあと思うぐらい、いままでにない個性的ビジュアルの美男子だ。
 とはいえ、ネット上で多くの方が好意的に受け取っているこの作品に対し、もっと冒険活劇があるのかと思った、主人公がすごい発明をするのかと期待していたがガッカリした、という意味の簡単な感想が少数派ながら見られた。私としては、それも一理あると考える。ストーリーの中核を担う機械人形がそもそもメリエスの手によるものだし、終盤近くでひょいっと出てくるメリエス研究者が実質的に果たす役割が大きすぎる(史実が研究者によってメリエスが再評価され、そのおかげでメリエスは立ち直るどころか絶頂期を経験したというのだから仕方ない)。2人の大人の力が大きすぎて、ヒューゴ君は、なんだかその手のひらで踊っている感もなきにしもあらず…。孤児が成功者に養われることになる話がハッピーエンドなのか?と言われると、まあねー…。史実部分が大きすぎて、架空の部分・登場人物(ヒューゴ君)はファンタジックな色どりを与えるだけで、役割を終えると実在の人物の懐に抱かれて(養子になって)終わるのだ、と言えなくもない。もっと主役らしい大きな役割を担わせてよ、もっと大きな冒険をさせてよ、という声にも一理ある。
 ストーリー上の瑕疵もたくさんある。単にストーリー上の要請にとどまり、必然性の感じられない設定が結構ある。まず、父の手帳。メリエスにとって機械人形が何か大きな意味を持っていると予感させ、同時に、それにからんでメリエスが荒んだ感情を持っていることが暗示される。また、この手帳には家に忍び込むきっかけという役割もある。父親の手帳が少年をメリエスに導き、そこに描かれた機械人形がクライマックスでメリエスの前に登場する、脚本家の意図がアリアリとしている。しかし、手帳をめぐる両者の頑ななやりとりが、ヒューゴ君(と我々観客)にとってはメリエスと機械人形との関係がまだ隠され、また、メリエスにとっては機械人形の存在が最後まで隠されていなければならない、というストーリー上の要請にすぎなくなっている。そして、ヒューゴ君は「あるものを直すのに必要なんです」と言っていたはずなのに、手帳なしで機械人形はあっさり完成されるし、家に忍び込んで手帳が出てこなくても全く気にしないし…ヒューゴ君、何か忘れてませんかー?
 おじさん。何カ月もセーヌ川に沈んでいたって?…ヒューゴ君を含め、みんな無視かよ?って、おじさんの霊が怒ってますよ。とっくに捜査が入ってないとおかしいでしょう。
 孤児院イコール監獄みたいな描き方もいかがなものでしょうか。そんなに嫌なら、彼ほどの行動力なら、逃走できるでしょうし…。
 ストーリー上の都合あるのみという点では、研究者の、メリエスは死んだという思い込み(全く根拠が弱い)。この設定がないと、ヒューゴ君らの出る幕がなかったかも(史実がそうですから)。
 研究者が映画を見せたとき、明らかにメリエスは心を動かされました。そりゃ、人形も残っていた方が(しかも美しく修理されて)、ますます、メリエスを早く回復させるでしょう。でも、<どうしたって無くてはならない>という必然性が薄い。簡単に言うと、「このフィルムしか残っていない」と落ち込むメリエスに、「いや、もう一つ残ってますよ」ってことでしょ。しかし、実際にもっと大きなことは、メリエスの実績が再評価されること自体であって、その意味で「あなたは多くのものを残した」と世間が認めることでしょう。もっとも盛りあげるべきクライマックスに向けて、なんともスッキリしない脚本…。
 でも、私はいい作品だと考えます。ヒューゴ君が父の仕事を受け継ぐことのなかから見出した、独自の表現をする人生観・世界観がある。すべてのものには意味がある。その本来の働きを失った状態が悲しむべきことであって、それを「直してあげよう」という優しさ。機械人形も必死で直す。メリエスもその価値を発揮できるように直してあげたい。その言葉は奇妙だが、ヒューゴ君は存在するものすべてへの、行動をともなった優しさ、愛に生きている。映画への賛歌、あるいは、メリエス頌というテーマが美しい映像とともに描かれるが、そこに、架空の物語が絡まる。少年少女が老人に自信を回復させるというありふれた心温まるストーリーだが、いいではないか。見かけより地味な話だが、いいではないか。先に指摘したように、ありふれてない部分がうまく噛み合っていないが、よいではないか。リアルに考えると、ヒューゴ君が実質的に果たした役割は少ないかもしれないが、メリエスへの純粋な愛情は、彼をしてヒューゴ君の気持ちに答えたい、さらに、そんなヒューゴ君を幸せにしたいと思わせたという一点で、十分な必然性を持っている。
 贅沢を言えば、人が作ったものを大事にしよう、この世にあるものをすべて大切にしよう、自分もこの世にあるものとして、その能力を精一杯発揮しよう、できることをしたいという、ヒューゴ君の発するメッセージをもっとクッキリ描いていたらと思う。
 神様は子どもには子どもらしい存在意義を与えている。子どもは朝日を見て喜び、おいしいものを食べて満足し、某かの文化に目を輝かせ、世界に明るい笑いを響かせてくれるのが、その存在意義だ。この世に生きる喜びを溢れ出させている、神を映す鏡だ。どんなに貧しくても、辛くても、まず足を一歩進める。自分にできることをするのが喜びなのだ。しかし、このことは実は、大人が忘れているだけで、人間であることの原点だ。
 話がドンドン脱線するが、人間の原点を見つめた人がいる。『夜と霧』の作者・フランクル(1905~97年)は、ユダヤ人としてアウシュビッツ収容所に送られ、家族はみな殺されている。奴隷労働の果ての死、さらに、死体まで凌辱される(髪の毛や金歯などすべて利用される)極限状況の中、人生の意味とは何か。フランクルは一つの答えを見出す。「人生に何が期待できるか?」という問い、そこに最初から人生の意味はない。人生が私に対して「何ができるのか?」と問うているのだ。人間に、「できる」事がある限り、それが人生の意味だ。ただし、誤解してはいけない。それは、何かのために簡単に命を懸けるという話ではない。フランクルは、収容所で「強く生き抜いたのは」、そのような生き方をした人々だと述べている。人生に期待しかしない人々は、すぐ絶望して死んでいった。戦争が終わった後でさえ、絶望して自殺する者があった。フランクル自身は、生き残った自分に何ができるかを自分に問いかけた。再婚し、国の再建に尽くし、人類のために自らの体験を本に書き、精神科医として社会に貢献し続けた。

<補足>
 私の考えでは、この映画の大きな欠点は2つ(特に2つめ)あります。

1.ヒューゴ君がメリエスのおもちゃ屋さんに雇ってもらえてからの、登場人物どうしの心の交流を細やかに描くべきだった。児童文学の古典的名作なら、最も力を入れるところ。そこが、すぱっと飛んでいるので、残念ながら、映画草創期(メリエス)の史実を背景とした「ヒューゴ君の」物語にはなっていない。仮にこれが「ヒューゴ君の」物語だというなら、失敗作としか言いようがない。先に、ネット上の批判的コメントに一理あると言ったのも、その意味からだ。あくまでも、ヒューゴ君の目を通した映画草創期というテーマと、ヒューゴ君という子どもの輝きを描くというテーマとが、対等に絡み合っている。そこには、児童文学に必須の、子どもの心の「成長」や、登場人物たちの葛藤からそれぞれが成長していく過程が、ほとんど描かれていない(もちろん、冒険譚などもその例外ではない)。総合的に良作と見る方が、そこにある長所に光を当てることができると思う。あまり文学的に持ち上げ過ぎると墓穴を掘ることになりそうだ。

2.私がもっとも違和感を感じたのが、クライマックスでヒューゴ君が時計の針にぶら下がるシーンだ。シリアスなシーンであり、アクションものではないこの映画にふさわしくないと感じた。メリエスに機械人形を見せるためにあんな危険を冒したとするなら、子どもの命と引き換えにする価値はないと言わざるを得ない。そのために、ヒューゴ君に命を懸けさせるなんて、痛々しすぎる。ありえない。喩えが極端だが、ヒューゴ君を監獄(もし孤児院がそうなら)に入れないために、必要なら、メリエスが時計の針にぶらさがるというシーンなら、ありだと思う。
 なぜ、娯楽映画の、しかも、ワン・シーンに向きになるのかというと、ヒューゴ君に「人にはそれぞれ役割が与えられている」と言わせているからで、先ほど私はそれを好意的に解釈したが、気をつけないと命を粗末にする誤った思想を肯定する解釈もあり得るからだ。すべてのものに存在意義があるとすれば、それはその能力を発揮するためにであり、神でもない我々がそれが「最終的に何であるか」を軽々に決めつけることはできない。最終的な答えがないというより、むしろ、絶えず何かができることにこそ存在意義がある。したがって、自らの存在そのものを懸けるのは、神によって与えられた存在意義を放棄するという自己矛盾であって、結果としてそうなる行為が自分の願いを実現する唯一で避けられないギリギリの選択になる場合だけありえる。そうでなければ、愚かな行為、無謀な行為、あるいは、自暴自棄だ。ヒューゴ君のあの行為は、どう考えても思慮のない無謀な行ないだ。すべての存在の取り返しのつかない(とは言っていないが、落ちたらもう「直せ」ない…)価値をシリアスに語る主人公には、特にふさわしくない。




  1. 2012/10/19(金) 21:20:39|
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映画『二階の他人』(1961年)

 『二階の他人』(1961年)松竹  監督:山田洋次(初監督作品)  脚本:野村芳太郎・山田洋次
  出演:小坂一也・葵京子・瞳麗子・平尾昌章・関千恵子・穂積隆信

 2階を他人に貸して一緒に住むというのが時代を感じさせる。『須崎パラダイス・赤信号』もそうだった。そういえば、豊田正子の小説『おゆき』(母を主人公にした実話)にも、戦後、生き残った(というのは、戦争中2人の息子を亡くしているからだが)息子夫婦のために、どこかの二階でも借りようかという話が出てきた。
 主人公の若い夫婦、葉室正己(小坂一也)・明子(葵京子)が月賦で家を持ったものの収入が足りず、2階を他人に貸すことに決める。しかし、2階の住人はなぜか奇妙な人たちばかり・・・。入れ替わり登場する2階の住人は二組で、テレビドラマを2週連続で見た感じだ。最初の住人は、主人公同様の若い夫婦だが、一向に家賃を納める気配がない。しかも、転がり込んだ正己の母(高橋とよ…困った母さんぶりがいい味を出している)が2階の住人を気に入り、何かと肩を持つ。正己と明子はなかなか家賃のことを言い出せなかったり、うまいこと騙されて相談に乗ってやったりするが、実は、単なる怠け者で家賃踏み倒しの常習犯だった。ついに、出て行ってもらおうとするが、なんだかんだと言い訳をされる。近所に住む警察官に相談するが、法的には難しいから、ぽかっと殴ってやんなさいと言う。ついに、棍棒を持って二階へあがる正己だったが、相手は「やれるもんならやってみろ、足が震えてるじゃないか」とひるむ様子がない。しかし、正己が思い切ってぽかっとやると、とたんに腰砕けになってしまい、翌日には荷物をまとめて出て行ってしまう。今のドラマなら、ここまでお人よし夫婦はいないだろうし、悪者にしたって相手が手出しなどしたものなら、それこそ思うつぼで、逆に、ゆすってくるだろう。“ぽかっ”とやられて、「ちぇっ!」と出て行くところがかわいい。仕事を世話してくれたり、やさしく接してくれたりした夫婦にぽかっとやられたら、出て行くしかない。
 二番目の住人は、さらに不思議だった。初老の紳士と若い女性だ。ステレオや立派な家具を持ち込み、高級酒を飲む。風呂が欲しいから建てて欲しいとお金を出す。しかも、正己がお金を貸してほしいと頼むと、あっさり貸してくれる。実は兄から、母を引き取る代わりに、家を建てるとき貸したお金を返せと迫られていたのだった。こんなお金持ちがなぜ2階に間借りなのか…。どうも犯罪の匂いがする。そのうち、新聞で会社の金を盗んで逃走中の犯人のようだと分かるが、借りたばかりのお金も返せないし、しばらく様子を見ることにする。そして、クリスマスの夜、正己と明子は2階の住人に呼ばれ飲んで踊っての一夜を過ごす。が、正己が仕事でいない昼間に、明子は2階の夫婦が鳥かごの鳥を逃がしているのを見て、胸騒ぎがする。そのあと、正己の会社の部長に借金をしに行くが、男女の関係を迫られて怒って帰る。と、家の前にパトカーが止まっている…。映画を見ている側は、すわ自殺かと考えてしまうが、自首だった。明子があとで鳥かごを見ると手紙があって、貸したお金の事は秘密にしておくと書かれており、親切にしてくれたことへのお礼が述べられていた。正己たちは、借りた金はいつか彼らが再出発をするときの資金として返そうと決め、そのためにも、また2階を貸すことにする。
 よく考えてみると、最初の住人といい、今回といい、長短はあれ監獄に入らなければならないような人たちだが、それがごく平均的な夫婦が多少お金に困ったり、母親や兄弟との確執があったりしつつも、そんな日常とは別物の異世界を持ちこんでくる。ところが、生活のためもあるが、われらが「日常」の懐の深いこと。招かれざる客からスルリと身をかわすこともなく、奇妙な交流が始まる。それも、ヒトという動物が本来もっている土臭い素朴さのなす関わりであり、ぽかっと殴ることもあるし、犯罪行為に同調するわけでもない。しかし、何が肥料になってか育っていくものがある。いつの間にか生まれているプラスαがある。こういう基本的なコンセプトは、山田洋二監督に最初からあったのだと知り、感慨深かった。『男はつらいよ』では「フーテンの寅さん」の人間味や自由気ままな生き方、そして、もちろんその失恋物語に焦点があたりがちだが、これは同時に、ストーリーに新たな命を与える「マドンナ」と、彼らを取り巻く人々の物語でもある。寅さんは長くは同居できない2階の住人だ。もちろん、「二階の他人」と違い犯罪者ではないし、比較にならない魅力を放っている。そもそも主役はこちらで、台風の目でこそあれ、「二階の他人」のように物語に対して受け身ではない。それにしても、この映画の登場人物はみな、「フーテン」(はみだし者)の寅さんに心を開く。観客は、寅さんが生き生きしている、そんな人間関係が織り成す世界に心が洗われる。やはり、異質なものの交流からプラスαが生まれるというコンセプトを見ることができないでしょうか。



  1. 2012/10/13(土) 11:50:16|
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映画『上を向いて歩こう』(1962年)・『愛の賛歌』(1967年)

1.上を向いて歩こう 1962年 日活
  監督:舛田利雄  企画:水の江滝子  脚本:山田信夫  撮影:山崎善弘
  出演:坂本九・浜田光夫・高橋英樹・吉永小百合・渡辺トモコ・芦田伸介

 吉永小百合が心を寄せることになる高橋英樹演じるチンピラはお金持ちの肉親とは和解できなかったけれど、また、九ちゃんとその親友は物質的な宝物を互いに壊してしまうが、愛と友情があればそこに希望があるというテーマはよく描かれていたと思う。しかし、物語の結末を役者・吉永小百合の清純パワーでねじ伏せる劇画調にしてしまった。正直、もう少し自然なドラマ展開にして欲しかった。終盤近くまでは(高橋英樹演じるオニイさんの設定に無理があるものの)まだ許容限度内だったのに、最後を盛り上げようとして途中から作りすぎた展開になってしまった。その勢いで?ラストで出演者全員が行進しながら「上を向いて歩こう」を歌うシーンは、今の感覚ではちょっと辛い。が、ストーリーと全く無関係に、俳優さんの若い姿や昭和な空気に泣けてしまった。


2.愛の賛歌  1967年  松竹
  製作:脇田茂  監督:山田洋次  脚本:山田洋次・森崎東  撮影:高羽哲夫
  出演:中山仁・倍賞千恵子・伴淳三郎・有島一郎・千秋実・太宰久雄

 ストーリーがしっかりしていると思ったら、有名な元ネタがあるようです。父親(千造)の反対を押し切り、島を出て外国へ行こうとする竜太(中山仁)と、竜太の夢を認めてやって送り出す恋人・春子(倍賞千恵子)。竜太は一度は島に残ろうと考え直すが、これを春子の方が反対する。後悔を抱えた人生をともに歩みたくなかったのだ。いつか戻ってくれるかもしれないという淡い希望もありつつ。ところが、春子にはすでに子どもが宿っていて、これを知った島唯一の医者・伊作が彼女を引き取って面倒をみることになる。そして、年月が過ぎ、夢破れた竜太が戻って来る。しかし、伊作は春子に密かな思いを寄せていた。それに、たといそれは隠せても、我が子のように面倒を見た子どもへの愛情を隠せなかった。竜太の方は、一旦は春子と伊作が子どもまで作ったと誤解して落胆するが、事実を知るや、一転して単純に喜ぶ。しかし、伊作の一言が事態を一変させる。伊作は、子どもはやれないと言う。驚く竜太に、父親・千造が追い打ちをかける。これまでの息子の身勝手な行動に腹を立て、怒り心頭で出て行けと言う。実は、春子の面倒を見てくれた伊作への友情を裏切れなかったのだ。春子とて伊作を裏切れない。こうして、男は再び一人さみしく島を出て行く。だがその後、千造が亡くなると、伊作は突然、春子に子どもと一緒に竜太のもとへ行けと言いだす。実は、千造や春子の本心を思うと、ずっと良心の呵責に責めさいなまれていたのだった。ラストは、島の人々に見送られながら、子どもを連れた春子が泣きながら、竜太の待つ大阪へと船出する。
 多少の欠点はありつつもみんないい人ばかりだが、自分の気持ちに正直に生きることから、思いもよらぬ軋轢と不幸が連鎖反応的に膨らんでゆく。しかし、最初から、気持ちを押し殺して生きていたら、後悔ばかりの人生だっただろう。人が本気で生きれば、必ず、自分の人生や他者との軋轢が生じるが、素直な気持ちを失わなければ、時間はかかるがきっと納得できる地点に行き着く。その回り道は決して無駄ではない。人生は短い。心のままに真剣に生きなければ、無である。


  1. 2012/10/07(日) 10:44:49|
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映画『隣の八重ちゃん』(1934年)

 レンタルで借りた映画などについて、感想やコメントを(無理せずメモ程度もありにして)書こうと思う。


隣の八重ちゃん  昭和9(1934)年、松竹蒲田
監督・脚本:島津保次郎
出演:逢初夢子・大日方傳・岩田祐吉・岡田嘉子・飯田蝶子・高杉早苗・磯野秋雄・水島亮太郎・葛城文子
 
 ストーリーはサワヤカさを通り越し、驚くほどあっけらかんとしている。主人公・女学生の八重ちゃんの隣には、かっこいい帝大の学生と、その弟で野球をしている旧制中学生(今の高校生)の兄弟が住んでいる。兄弟は家の前の空き地でよくキャッチボールをして、たびたび八重ちゃんの家の窓ガラスを割る。八重ちゃんと隣のかっこいい大学生のお兄さんとは兄妹のように仲良しだが、互いに初々しい思いを寄せている。
 この映画の興味深いところは、当時の空気をどこまで忠実に描いているのか、あくまでも映画の世界の話かという点。といっても、戦前に大学へ行くような人は数パーセントだろうから、描かれているのは結構お金持ちの人たちだ。小市民、中産階級という言葉の厳密な意味での、ちょっとうらやましい生活ぶりだろう(少なくとも、豊田正子のような生活ぶりとは格段の違いがある)。時代が違うので今から見れば建物や風景は少し貧乏な田舎のようだが、当時とすれば金持ちの都会(郊外?)暮らしだろう。したがって、その若者像にしても一般化はできないが、共通点もあるだろうといったところ。そうした意味でも、いろいろな局面で実証的に位置づけてみたくなる映画だ。
 それは置いといて、若者像として先ず言えることは、現代のませた子どもたちからするとはるかに「子ども」らしいこと。帝大生なのに、お兄さんが隣のおばさん(八重ちゃんの母親)に甘える姿などは本当に子どものようだし、彼らの屈託のない笑い方は、現在のドラマの演出なら小学生のそれに近い。特に、八重ちゃんの笑い方は、現在の演出であの年齢の者に使うなら、全く考えの足りない軽薄な若者といった役所だ(逢初夢子の素の笑い方ではないと思うが?)。
 ストーリーとの関係で見るなら、八重ちゃんの姉が突然、旦那のひどい生活ぶりに嫌気がさして帰ってくるが、親からは一方的に叱られてただ戻るよう強要されるばかり。行き場を失った彼女は、隣の大学生の兄さんに猛烈なアタックをかける。しまいに、お酒の出る高級料亭にみなを連れて行き、帰りのタクシー内で八重ちゃんとの真ん中に挟んだお兄さんに、酔ってまとわりつく。その後、大学生を河原に散歩に連れ出してストレートに告白するが、あっさり、「ぼく帰ります」と振られる。告白されるときの彼の顔には、“せっかく親切で相談にのっていたのに、嫌だなー”という表情が増していく。そして、彼はあっさり気持ちのままに去っていく。
 お姉さんはその後行方不明になる(このとき母と八重ちゃんが置き手紙を見て泣き、お兄さんと探しに出るが、これが姉が同情される唯一のシーンだ)。しかし、八重ちゃんの父親が会社の転勤で朝鮮に行くことになり、母親は心配したまま、姉が帰って来ることを願いつつ旦那と出発する。一方、八重ちゃんは隣に預けられることになり、「もう、隣の八重ちゃんじゃないわ」と喜び、幼馴染3人のハッピー・エンドとなる。お姉さんは周囲からあまり親身になってもらえず、物語の上でほとんど突然の嵐あつかいで、このあっけらかんぶりがすごい。
 映画の空気をもう少し具体的に伝えると、隣人同士が親密で、親どうしも互いに行き来し、お隣で飲食をしたり、酒を飲んで語り合ったりする。帝大生の兄さんなどはお隣でゴロゴロし、「おばさん、腹減ったー」と言って、出されたお昼ごはんを一人で食べたりする。おばさんが出かけて一人で食べている最中、お茶漬けをぶちまけて慌てているところへ、ちょうど八重ちゃんが友達を連れて帰って来る。現代のドラマならコントだが、お兄さんは汚れた座布団を2つに折って尻に敷いて隠す。しかし、八重ちゃんに手を叩かれた拍子に、また、茶碗をぶちまける。座布団のことも結局ばれてしまい、「まあ、汚い!」と驚かれる。精神年齢がとても幼く描かれている。
 記憶に残るシーンは、大学生のお兄さんの靴下に穴があいていて、八重ちゃんが縫ってあげる話。お金持ちでも、モノは大切にしたのだろうか(余談だが、今では、就職者が多い高校などでは、破れたズボンや汚い靴はエチケット違反だとして、「買い替えろ!」と本気で怒られる。私のような昭和30年代生まれには理解できない)。八重ちゃんは友人のいる場で縫おうとするが、「臭い!」と投げ出し、洗ってから縫うという。その後、縫った靴下を持ってお兄さんの部屋へ行く。二人は、靴下をはかせろ、自分ではけ、とじゃれあう。お兄さんが“夫婦ならこうだ”と言い、「八重子、はかせろ」と足を出す、八重ちゃんがはかせようとすると、彼は「冗談だよ」と笑う。怒った八重ちゃんが靴下を投げつけ、お兄さんが笑っていると、弟が出てくる。二人を“怪しい”と言うと、八重ちゃんが「妬いているの?」と笑い、弟がふてて出て行く。何ということのないコミカルなシーンだが、笑いの中にも微妙に封建的時代の空気が混じっている。
 また、こういう部屋に二人きりのシーンや、お姉さんが出て行ったとき、八重ちゃんが泣いて帝大生に抱きつき、お兄さんもすぐ彼女の両腕を握って慰めるシーンなど、まるで自然に描かれていて、その天然さに今よりかえっておおらかな空気を感じる。しかし、当時の観衆にとって、これが日常の事だったのか、ちょっとうらやましい事だったのか、この演出にとてもドキドキしたのか、また、当時の映画一般と比べてどうだったのか、など考えるときりがない。
 他にも、修理に来たガラス屋さんに仕事と関係のない用事を頼むシーンがあり、ここに何事も「へい」と引き受ける“立場”を見るべきか、立場とは関係なく、互いに何でも頼んだ“よき時代”を見るべきか。朝鮮への転勤がある会社にはどんなものがあったのか。お姉さんが突然帰って来るなんてことは、当時では“迷惑”以外の何でもなかったのか。等々、いろいろなことが気になる。深いテーマがないだけに、1934年という時代の日常の断片が写り込んでいて、大変に興味深い。ちなみに、この古さにしてはフィルム状態がいい。

  1. 2012/10/04(木) 11:45:12|
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プロフィール

犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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