どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

読書メモ 『フロイトとベルクソン』(渡辺哲夫著、岩波書店)

 まず、ベルクソンによる知性の位置づけを振り返っておきたい。知性のスタンスは同一律、空間的配置(分割)であり、こうした知性がそのスタンスそのままに形而上学の領域にズカズカと侵入するとどうなるか。AでもなければBでもない、もしくは、AでもありBでもあるといった解答に必ず至りつく。これがヘーゲルの弁証法であり、カントのals obである。一見、ベルクソンは曖昧な発言に終始しているように見られがちだが、それはベルクソンの認識論(知性の厳格な位置づけ)を軽視もしくは、そもそも読み飛ばしているからに他ならない。ベルクソンの正しい読み方を心得さえすれば、それが如何に曖昧さを排除する論理であるかが分かる。例えば、物質と精神とは厳しく峻別されるが、それはもちろん、デカルト的、幾何学的分割ではない。経験から読みとられるその意味方向、傾向性が厳しく交差するのだ。方向は完全に異なる。AでもBでもない、などという曖昧さは許されない。しかし、方向性の違いであるがゆえに、y=1/xのグラフのようにy軸方向を「逆に」たどればx軸方向へと行きつける(図形は方向性を語るための隠喩にすぎないが、ベルクソンの説明を無視して悪意をもって見れば、A・Bを図形そのものの自己同一性のなかに曖昧に解消する見解ととられかねない)。形而上学的方向性を探求する途上で、際限なく立ちはだかるのが、我々のうちなる知性の物質的論理学に基づく、あれやこれやの見解、教条である。ベルクソンはそのたびに経験と科学的成果とを対話させ、事実に語らせることで、知性の予断を打破していく。形而上学的な傾向としての意味はこういうやり方で経験のただなかに浮き上る。
 渡辺氏はベルクソン理解において最もやってはいけないことをしている。『物質と記憶』の有名な円錐体を文脈から切り離して取り出し、まさしく、AでもありBでもあるという解釈を施すのだ(ここで、氏のいうAもBもベルクソンの主張とは無関係)。そして、この著書は始めから終わりまで金太郎飴のようにこの自己流解釈を手を変え品を変えて示すだけなのだ。氏は、まるで新発見でもしたかのように、生命の流動を示すはずのこの図形が物質性へと至りつくことが避けられないかのようだ、という趣旨のことを語る。しかし、ベルクソン自身が自らの認識論的立場から、自身が言葉を語らざるを得ないこと、言語は自ずと運動を不動性に置き換える知性の道具であること、そのことをくどいほど述べ、注意を促している。いわんや図形をやである。ベルクソンの言葉や図形は(彼の認識論によって厳密に定義づけられる特別な意味での、つまり、量的・固定的・同質的ではない質的・流動的・相互浸透的なある事実を指し示す)「隠喩」として見なければならない。そして、この図形の隠喩的意味合いは、ベルクソンが注意深く語る限定的な意味(方向)でのみ有効だ。勝手な解釈が可能だから許されるというものではない。脈絡を離れては意味を失う。また、一般に、ベルクソンを読むときに注意しなければならないのは、言葉の罠に陥らぬように細心の注意を払うことだ。ベルクソン自身、不可避的に「言葉の綾」を語らねばならない以上、よくよく本質的なことと「言葉の綾」とを区別しなければならない。例えば、収縮と弛緩である。本質的には、収縮は生命と意識の方向を意味し、弛緩は物質的方向(極限は瞬間にまで近づく)である。人間が眠りの際や、死に瀕するとき、記憶を制御する現在の関心が失われ、記憶の自動的亢進が生じる。しかし、生命の中でも高度な進化を遂げた人間の脳に関わる反応である。いくら、注意の弛緩といっても、そもそも物質的(逆)方向ではない。生命というだけで、すでに収縮の方向なのだ。(強力な収縮を可能にする)高度な脳をもつ人間の存在を前提にした話であり、そこで起こる特別な状態を事例に、ベルクソンは純粋記憶の存在を(身体化された習慣的記憶と対比して)示したいのだ。夢や記憶の亢進が物質性を意味するなどありえない。動物が人間のような夢を見るとは考えにくい。覚醒時にすら表象的なものをほぼ欠くと思われるのだから、おそらく、蘇る様々な感覚に襲われることに近いだろう。植物は……。夢や記憶の亢進は高度に精神的な生命にしか起こらない。そして当然、人が覚醒時に出会う物質的方向性とは問題が異なる。そもそも、円錐体の議論は、身体を介して物質と関わる次元から、記憶(精神)の次元へと話が移行している。人間から単細胞生物にまで当てはまる、物質や死について話をしているのではない。目がさめている人が、動物のように何も考えずに生きていたり、過去を夢想ばかりするという思考実験で、記憶が収縮したり(se resserre)、膨張したり(se dilate)するというのは、「精神的な身構え」(『物質と記憶』第3章)としてである。何より重要なことは、人間が現在(生活の関心)から身を引いて(純粋記憶を自由に)夢想できる能力を備えていることであり、この能力が一般観念の形成とその創造的更新や自由そのものを可能にしているということである生命は発達した中枢を形成することでこの能力を得た。渡辺氏は、良識の人とは、夢想とは反対に、円錐体の先端に向かって収縮・緊張する(あるいは、それによって夢想とバランスをとる)人と捉えているが、そうではない。良識人とは、両極を自由に行き来して創造的に人生を切り開く人であり、この能力こそが両極の行動をも可能にしているのだ(両極は抽象であって、実際にはどちらかに重心を移すにすぎない)。これが、物質と関わりその「弛緩」した(カッコつきの)瞬間を「濃縮」するということ。引き絞られた弓(過去)が遠い未来を射程に入れ、物質的瞬間を創造性のなかに溶融する。物質との対比なしには濃縮も弛緩もない(感覚がすでに濃縮であるし、事物の具体的運動ですら一種の意識である)。「精神が、記憶力、すなわち、未来のための、過去と現在の総合だということ、精神は……行動によって自己を現す」(『物質と記憶』第4章)。
 渡辺氏がベルクソンをまともに理解しているとは思えない。基本的用語の意味すら理解していないことが見てとれる。例えば、円錐体の底辺を(小林秀雄を引用して)「夢」と同一視する。しかし、純粋記憶がそのまま夢なのではない。また、円錐体の先端、つまり、知覚活動や行動そのものを純粋知覚と呼ぶなど、無茶苦茶な読み方をしている。円錐体の先端には全過去の体重がかかっている。他方、純粋知覚については(「イマージュを分離すること」の項で)「持続の厚みを帯びている知覚ではなく、純粋知覚、実際にあるというよりも、理論上存在する知覚」とし、「イマージュは、知覚されなくても存在しうる」とされるとき、純粋知覚は「客観的実在」、物質の一部である。メルロ=ポンティがこうした知覚概念を受け継いでいることは間違いない(彼独自の脚色はともかくとして)。概して、渡辺氏には形而上学的視野(ベルクソン哲学)が欠落しているし、ベルクソンでは(それぞれが、それなしには得られない意味をもつ)多様な諸経験に寄り添いながら、それぞれのベクトルが大きな流れを描き出すが、渡辺氏の場合、金太郎飴式の新理論?を一方的に語るばかりである。その新理論たるや、円錐体をまさしく空間的に空疎化し、先端=緊張=覚醒=生、底辺=弛緩=無意識=死という等式をつくり、さらに、無意識、弛緩という言葉を単純に(曲芸?)物質のそれに結びつけるというもの。ベルクソンの思考の流れのすべてがバラバラに解体され、原型をとどめていないものを勝手にベルクソン哲学と呼び、ほとんど詩か何かの暗号のようなものを書き連ねている。私にはそう見える。その独自の論理の組み立て方を理解できる方がいるのが不思議でならない。いや、渡辺氏は先端・底辺を「方向性」として読んでいると反論するかもしれない。しかし、事物の持続から自由までを包括的に理解する形而上学的視野つまりは持続(具体的進行)を根底において、人間精神の一体的活動(生活への関心と過去に探りを入れることの、どちらかが薄れても一体的な活動、および、その可能性のもとで生じる夢や記憶の亢進といった現象)として見るのでなければ、言われる「方向性」はほとんど空間的図式のあれやこれを指さすにすぎない。ベルクソンの魂の不死に関する発言も、円錐体の底辺が冥界につながるというようなオカルト的教説にもっていかれてしまう。ちなみに、ベルクソンの不死に関する発言とは、生命現象が物質をはみ出し、そもそも物質が存在からの抽象にすぎない以上、死の解釈も物質的次元に解消されないというもっともな主張にとどまるもの(彼はオカルト的な意見をもつ人々に一定の理解を示すが、彼の主張内容そのものが経験をはみ出すことはない)。また、本能の中には他の生物を内的に知っていることが前提されており、巨大な生命の流れを考えるとき、個体の死はまた別の意味をもつだろう。

補足:ベルクソンの経験に寄り添う姿勢は、彼の敬愛するファーブルの姿勢と共通している。ベルクソンは1910年のファーブルの功績をたたえる動きに参加(「ファーブル昆虫記」奥本大三郎、NHK出版、100分de名著)したが、それ以前の第3の主著『創造的進化』でファーブルの行った昆虫の本能に関する研究(『昆虫記』)を引用している。ファーブルもまた実証的観点から、(進化論の先覚者に失礼だが)あえてダーウィン流のと言わせていただくが、理論ばかりが先行するその進化論に異を唱えていた。

P.S.邦訳『創造的進化』の昆虫の和名は、奥本大三郎氏の新訳『昆虫記』を参考に、訂正されるべきではないでしょうか。


  1. 2014/08/25(月) 07:55:13|
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読書メモ…『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』

読書メモ…『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』桧垣立哉(NHK出版)

 先に誤解のないように言っておきたいことは、ドゥルーズの立場がベルクソンのそれであるかぎり、全面的に賛同する。また、著者のデリダ批判もそのとおりだと思うし、この本に書かれてあることには、基本的に同意できる。しかし、第一に、ドゥルーズ本人の著書に対しても感じることだが、ベルクソン哲学などが理解できる人でなければ、著者の言いたいことが本当に理解できるとは思えない。第二に、「哲学として」肝心なことはベルクソンやニーチェ(著者はそのように考えないだろうが、さらに、ハイデッガー)などがすでに述べていること以外にないように思われる。

 以下、気になった点をメモしておく。

 著者は結論部で、他者や死を倫理の原理とすることに反対する。基本的に、私も賛成である。ここで、おそらく著者はレヴィナスやデリダ、また、ハイデッガーを念頭に置いているのではないかと推測される。間違っていたら申し訳ないが、もしそうなら、前2者に関してはいざ知らず、ハイデッガーの「死」をこのように受け取るのは、甚だしい勘違いだと言わざるを得ない。死を何らかの「対象」(p.99)として描き出すことは、この著者の言うとおり、「<私>の中心性を向こう側に反転させたものでしかない」(p.98)。しかし、ハイデッガーにとって、そのような行為は「ひとの死」を描くことにすぎないとして、退けられることなのだ。彼が「実存の」死を持ち出すのは、実存の「描けなさ」、(言葉のもつ)一般性に収まらないその特異性を示すためにすぎない。むしろ、桧垣氏(ドゥルーズ)のいう「開かれた(未決定の)システムと個体」という発想は、ハイデッガー(または、サルトル)における、世界=内=存在(状況と自由)にすっかり重なるようにみえる。

 私はずいぶん昔、ドゥルーズの『ニーチェと哲学』『スピノザと表現の問題』『カントの批判哲学』『差異と反復』などを読んだ。いや、正確には、読もうとした。あまりに自己流の表現で、閉口しつつも、ハイデッガーの『ニーチェ講義』にも通じる創造的な実在の肯定に共鳴した。非常に分かり易いピエール・マシュレの『ヘーゲルかスピノザか』もこれに近いと感じた。『ニーチェと哲学』からは、桧垣氏の言葉を借りるなら、「<私>の中心性を向こう側に反転させたものでしかない」神が、様々の名前で蘇える系譜を学び、『カントの批判哲学』からは、すべての能力を物自体と関わる実践理性へと有機的に統合する読み方を学んだ。等々、その唯我独尊な表現方法にはうんざりするものの、哲学史家としてのドゥルーズは尊敬する。しかし、そこから先の評価は保留するしかない。読んでいない。というか、全く読めないし、私には理解できないから。
 それにしても、少なくとも、この著者(桧垣氏)の立場には賛同しかねる。著者は結末近くで、哲学が世界を救うと語る(p.107)が、この勇ましさに恐れ入ってしまうのだ。私は、哲学が哲学の立場から描く倫理は、かけがえのない価値をもつと思う。しかし、哲学的立場からは、社会や人間のあれやこれやの具体的諸問題に関して、「正しい問いの解き方はない」(p.106)と言うにとどめたい。フーコーの権力論にしても、理論的価値は認めるが、それを何時いかなる状況にも当てはめようとするなら、それ自体が神学になってしまう。桧垣氏に聞きたいが、権力による死の強制はいまでも多く見られることではないのか。逆に、マルクスの描く経済も、いまでも有効な「側面」を有しているのではないか。それがドゥルーズであれ、フーコーであれ、哲学を祭壇に掲げようとする氏の立場こそ、私には最も危うく見える。現実社会で起こる問題に対し何が「有効」かについては、哲学的視点も大いに参考にすべき理論だとは思う。しかし、少なくとも、各自の置かれた社会状況の、あれこれの問題領域で、何が「問題」なのか、どう見ることが解決への道筋なのかは、大学の先生方や、ましてや、哲学者の頭の中にあるとは全く思われない。たくさんの尊敬すべき心ある人々が、鋭い思索を巡らせ、勇気ある行動で立ち向かう姿を、私の身の回りにも見ています。大事なことは、民衆の言葉で十分語られ得るというのが、私の実感です。良識はすべての人に平等に配分されている(『方法序説』)というデカルトの言葉は、その意味で正しいと思っています。


  1. 2014/03/07(金) 23:35:06|
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デリダ氏の不毛な議論

『デリダ なぜ「脱-構築」は正義なのか』(斎藤慶典著・NHK出版・2006)

 デリダ氏とその支持者たちによる、ペダンティックで思わせぶりな、それでいて、演繹的論理を例示的に拡大するだけの“えせ哲学”に辟易する者としては、このNHK出版の小冊子は、ただそうした敷衍を避けるという意味でのみ大いに有難い。それが、この冊子をとり上げた理由である。しかも、ここでその1,2ページに触れるだけで、「デリダ氏」を語るという、限られた短文にすぎないことを断わっておく。しかし、読み進めるごとに帰納的に意味が再編成されるのではなく、演繹的に論理展開をする氏の理論であってみれば、土台を崩すことに十分な意味があるだろう。ここに書かれていない点を持ち出して、この点はどうか、あの点に触れてない、などという批判ではなく、願わくは、ここに書かれたことに対する、内的批判を試みていただきたい。
 デリダ氏はフッサール現象学の研究から出発したそうだが、現象学には、次の一面があるように思うのは、私だけだろうか。つまり、我々は現象学のうちに、これまで自らが獲得した地点に対し、あえて不利な経験を選んでこれに語らせることで、帰納によって新たな地平を創出するという、これまでの哲学にはない新鮮さを感じたのではなかったのか。文字の世界を渉猟するデリダ氏とその支持者たちによって書かれたものは、哲学というものになんとなく知的で高貴なステイタスを求めるディマンドには合致するが、哲学的精神としては現象学よりも後退したのではないか。ましてや、現象学にも残る認識論的枠組みを批判できるだけの能力を欠いているように見える。
 現象学運動が活況を呈していたころ、豊富な科学的所見を駆使したメルロ=ポンティが経験に依拠する現象学を象徴し、その中心人物の一人として見られる傾向があったのは偶然ではない。また、ハイデッガーの存在論という方向性にも、経験に語らせることで哲学的枠組みを絶えず組み替える手法が見られる。『存在と時間』は、「現存在」という、コギトにまつわる先入見を排除した言葉から始まり、これを諸経験によって徐々に肉付けしていく。しかも、単線的な展開ではなく、そのつど新たなテーマに沿った経験的事実を通して、幾度となく全面的な意味の組み換えを読者に要求する手法で。しかし、両者ともに、フッサール以来という意味で、「現象学の」と言ってよい限界をもつ。知性(言語)のプラグマティックな本性への徹底した批判を欠き、ということは、経験の持続としての本質を逸しがちであり、経験を現象野として静的に描く傾向があり、自らを「見る」者と位置付ける、背後にある認識論的枠組みに気づいていない。とはいえ、ハイデッガーの「本来性」や「実存」、「死」は、「見る者」を定義する「一般性」を、「ひと」として相対化する力をもち、被投的投企という実践的意味を意味の根源とし、これとは逆に、「ひと」を現象の「根源」に据えてしまうメルロ=ポンティとは好対照をなす。したがって、ハイデッガーの位置づけには慎重にならざるを得ない。ただ、もし、晩年のハイデッガーが言語に特別な鍵を渡したとすれば、それは大きな誤りだと言わざるを得ない。ベルクソンが『思考と動くもの』の「序論」の最後で述べる立場こそ、現象学者以上に現象学的であるが、そのベルクソンは、言語の本質をプラグマティックなものと喝破した。
 デリダ氏は、斎藤氏のことばを借りるなら、「何かが何かとして現象すること」(p.15)だけを、現象するもののすべてであるという前提に立っている。これはしかし、ベルクソンが実在そのものとして、最も明白な経験的事実として描きだしたことの一切(持続)を全く無視するものであるが、それはしかし、無視というより無知であり、ベルクソンが暴きだした知性のプラグマティックな働き、その「自然さ」にすっかり騙され、逆に、これを自らの理論の基礎に据えるという、ベルクソンが生きていたら目を丸くするような、究極の過ちに陥っている。カントは知性の詭計に全く気づかなかった。現象学者は、知性の実践的働きを十二分に明白にしなかったために、認識論的枠組みに囚われ、持続の本質を逸した。しかし、デリダ氏は、知性の働きにすぎないものを意図的に経験の条件に祭り上げた。しかし、それは経験的事実ではなく、知性の詭計にすぎないのだから、あるのは無内容で演繹的な主張だけであり、あとは氏の理論に諸経験を当てはめることをその「証明」だと勘違いして、ペダンティックな饒舌さに終始するだけである。


★p.24-25「遅れて」やってくるもの(『デリダ なぜ「脱-構築」は正義なのか』)
   注:この本は、著者がデリダ氏(「あなた」)に話しかけるという体裁をとっている。
【引用①】それだけではない。私たちが世界への差異の到来を捉えようとしても、「何」かとして世界が現象するのは当の「何」かが差異によって他の「何」かから分け隔てられることをもってはじめてなのだから、世界への差異の到来それ自体は何らの事態ですらありえない。事態もまた、それが「何」かとして現象してはじめて、一個の事態たりうるからだ。つまり思考は、私たちのあらゆる経験は、それらが「何」かについての思考や経験であるかぎりで、それらをそのようなものとして成り立たせている差異の到来それ自体にはいつも遅れているのである。差異が到来してしまった後で、すなわちその完了をもってはじめて、思考も経験も起動する。そうだとすれば現象するものとしてのこの世界は(世界はそのようなもの以外ではありえなかった)、世界がそのようなものとして成り立つその始源にいつもつねに遅れていることになる。

【①の批判】さしあたってたいていの場合、「思考」が動的なものとしての(ベルクソンにおける意味での)差異そのものを捉え損なうという意味でなら、同意する。しかし、「経験」と「世界」とが、できあがった静的な差異の体系に尽きるというのは暴論である。「状態」としての差異体系、つまり、空間的、概念的、抽象的、一般的なものは、本能から、キネステーゼ、言語、あるいは、社会的な諸コードにいたるまで、生命や社会生活を維持するプラグマティックな構成物である。しかし、我々はその根底に絶えず流れつつある生成としての時間を明らかに直観しており、前者をもってこの宇宙や自らを「説明」しようとすることは有用ではあるが、「説明」と実在とを取り違えてはならない。いうまでもなく、我々は一般化しえない自己の存在としての自由と、止めることのできない時の流れとを実感している。

【引用②】この「遅れ」こそ世界がいつもつねにその内で現象することになる「時間」の母胎なのだが、それは時間の内部での遅れと違って、いかなる時間的な「幅」ももたない「瞬間」という在り方をしている。というのも、それは世界が「何」かとして現象したそのときにはもはやそこになく、しかもそうした世界の現象に先だって何かがあるわけではないからである。すでに「ない」という仕方でのみ「ある」もの、時間の中のどこにも現前していないにもかかわらずそこからのみ時間か始まるところ、それが「瞬間」なのだ。瞬間は自己自身に遅れている、と言ってもよい。つまり瞬間の内にこそ、世界を現象へともたらす差異のあの分割線が走っているのである。

【②の批判】幅のない瞬間tこそ、実用的意味形成の究極形としての人間的知性の産物に他ならない。その本質は、空間的点である。点も線も、知的空間の構成要件であり、自然を征服する実践的道具である。プラグマティックな記号を用いてしか時間を語れないデリダ氏は、ベルクソンの洗礼を免れた希少な哲学者、哲学史を知らぬ素人学者である。
 さらに、差異が「到来する」という自らの表現から、「遅れ」を引き出す循環論法はひどい。そもそも、私には「差異が到来する」という表現が一体何を意味するものかが分からない。もし、ベルクソンのように、知性による記号を経験そのものではない実践的構築物と見なし、実在を記号の根底に直接とらえるのでなければ、差異(記号)がそこから「到来」する「思考と経験(現象)以前」は論理的要請(空想)でしかない(「差異」という術語の意味がベルクソンとは全く異なるので要注意)。意味のわからぬカルト的文言を「瞬間」という言葉の中に閉じ込めても、ナンセンスであることに変わりはない。神が瞬間ごとに宇宙を創造しているという、ほとんど意味不明のカルト的発想があるが、そのようなイメージで語っているのだろうか。論理的な先・後(仮に、それを認めるとして)を、時間的前後へと何の説明もなく、転換させている。いずれにせよ、勝手に前提した起源を、あとで打ち消すという独り言から、理論の全体を演繹するという、全く意味不明の粗雑な「理論」(戯言)である。

【引用③】瞬間がすでにして分割であるという矛盾にも見えるこの事態にはあらためて立ち戻ることになるが(ここでの分割がそもそも何と何との分割なのかに立ち戻って考え直さなければならない)、あなたはこうした事情をもあのdifféranceという意味不明の名によって示唆したのだった。というのもフランス語の「異なる」という動詞には、日本語や英語と違って「遅らせる、延期する」というもう一つの意味があるからだ。世界への差異の到来が「瞬間」的なものだとすれば、すなわち〈世界はおのれの起源につねに「遅れる」という仕方で世界である、すなわち現象する〉のだとすれば、世界が世界であることの根本には何かこの「遅らせる」はたらきのようなものが潜んでいることになる。もちろん、繰り返せば、この「遅らせる」はたらきをそのものとして指し示すことはできないのだった。あらゆる指し示し、すなわち名付けは、このはたらきに「遅れて」やってくるからだ。

【③の批判】「名付け」られたものが現象(意味)の一切という仮説に、さらに、そうした差異体系(できあがった状態)としての世界(現象)が「思考と経験」(現象)以前から「到来」するという仮説を加え、だから、この「到来」(つまり、「遅れ」)はそれとして現象しない(意味を欠く)のだという。ここにカントの亡霊を見ない者があろうか。カントの物自体と現象界という枠組みがそっくり維持され、しかも、両者の形而上学的で理論的な関係を、時間的前後関係に見たてるという、全く理解できない言葉遊びをやってのける。当人にしか意味のない仮説の中を回るだけの、ほとんど病的な独り言であり、デリダ氏とその支持者(哲学オタク)たちは、この単純極まりない発想を隠すために、言葉の上での演繹作業を滔々と繰り広げたり、経験をその枠に当てはめるだけのペダンティックな敷衍を延々と続けたりすることになる。

 総じてデリダ氏は、プラグマティズムやベルクソンが言語に与えた実用的地位に気づかず、カントと同様の構成力を与えた上で、脱構築という倫理的方位を付け加えたにすぎない。そこには、始めから哲学独自の領域はなく、歴史学や、政治経済学などの人間科学の体系(言語による文化世界)に出入りして、ただ、脱構築を行うだけである。彼は、「声の形而上学」として、いわゆる哲学的領域を認めないが、それは言語による構成(状態)以上に遡れないという、彼の「発想」(勝手な前提)から来るにすぎない。こうして、哲学の領域を「起源」と呼んで、その不在を「宣言する」。これほどまでに、プラグマティズムとベルクソン哲学という大きな潮流を一顧だにしない「哲学」がまかり通る、それが、残念ながら、哲学の受容(需要)のされ方である。未だに、言語に形而上学的地位を与える古典的哲学に、新たなページを加える者が哲学者と呼ばれる、それが「知識階級」の実情だ。デリダ氏は、形而上学は言語(エクリチュール)の軛を脱し(外部に捨て)、真理と内的に合一できると思い込んでいるという(デリダ氏は、形而上学者のこうした特別な言葉をパロールと呼ぶ)。しかし、パロールだろうが、エクリチュールだろうが、言語である以上はプラグマティックな道具であり、一般性を帯びているのは始めから明らかだ。むしろ、この世界を最初から知的(言語的)なものと見なすという、古典哲学的偏見に囚われているのは彼の方である。外部/内部という2項対立、現象/本体などといった道具立てを、彼の奇妙な論理的構築物のために必要としているのは、デリダ氏の方である。経験そのものが、厳密にはそもそも知性の求める2項対立や同一律などの空間的図式を拒絶しており、ただ、事象によってこれとの親和性に程度の差があるにすぎないことを、経験的に立証したベルクソン哲学を全く無視している。

 ハイデッガーは、一般性をプラグマティックに操るだけの「ひと」を、死によって覚醒させる。死を如何に思考しようと、それはすべて「ひとの死」であることが明白になる。実存としての死が突きつける(浮き上らせる)のは、一般性(「ひと」)に回収されない実存だ。国家が戦争遂行のために人の死を意義づけるのは、実存を根こそぎにして一般性(他の誰でもよい)の中に回収する作業である。死を他ならぬ自分の死として引き受けざるを得ない実存は、その存在自体において、一般的な「ひと」ではありえない、自由の主体、己れの行動が世界の在り様を創造することの自覚(責任)を有する存在だ。単に「何か」で有ったことは一度もなく、常に、何かをしようとしている。それは、言いかえれば、(ハイデッガーの影響を受けたフランクルが『夜と霧』の中で述べるように)何をなすべきかといつも問いかけられていることである。しかし、この問いは、死だけではなく、様々な苦悩をもたらす。「ひと」は死も、苦悩も回避し、自由を、本来の実存を、逃れようとする。こうして、世間話・好奇心・曖昧さを生きる。しかし、こうした空気がまん延する社会は危険である。かけがえのない命を「ひと」の死として回収する社会になっていくだろう。
 デリダ氏は、ハイデッガー哲学の主張を理解できないだろう(デリダ氏が、ハイデッガーのナチス入党問題をもって単純にハイデッガー思想を排除する動きに反対し、彼自身がナチスに加担する者として批判された…云々の表面的なもの知り知識に基づく批判は無用に願いたい)。デリダ氏によれば、意味や現象は「何か」であり、つまり、人間は「ひと」でしかない。ハイデッガーは、人間はいかなる意味でも「ひと」一般ではないと言っているのではない。「ひと」が実存の本来性を損ねかねない、実存の一側面だと言っているのだ。自由という形而上学的軸をはっきりと打ちたてたのだ。それに比べ、デリダ氏はなんと世間的、世俗的な視点しか持ち合わせないことか。それは、哲学でも何でもない。全く、哲学的次元を欠落させている。プラグマティックな、世俗的な「何か」しか見ないでおいて、ただ、これを脱構築し続けるのだという。確かに、ハイデッガーはナチスに入党した。大切なことは実存論(哲学的一般論)よりも、実存することだという観点からするなら、生身のハイデッガー本人はファシズムという名の「世間」に「頽落」したのだ。少なくとも、科学者になるには科学的素養が必要なように、正しい社会認識には、社会経済体制の歴史や思想を、事実や証言(とりわけ弱者の)に基づいてよくよく吟味することが不可欠だ。ハイデッガーは一知識人・一社会人としては、特にその地位に見合った罪に問われるべきだ。その意味で、彼は人生で失敗を犯した。しかし、そもそも哲学は、あれやこれやの具体的状況に応じた行動を導くための理論ではない。そのようなものなら、他に学ぶべきことがたくさんあろう。哲学は何の役にも立たない。むしろ、ある国家が、国民に過大な負担を強いるとき、通常の政治・社会上の理由づけを逸脱している場合にこそ、(カッコつきの)「思想(哲学)」が持ち出されるのだ。これに対し、本物の哲学は、社会体制や具体的行動を根拠づけるものではないと、思い定めるべきである。哲学は哲学でしかできない側面からのみ、人間や社会を見つめ直す力をもつ。喩えて言えば、物理学が物理学でしかできない領域をもつがゆえに力を発揮できるのと同様である。ひるがえって、デリダ氏の主張を見れば、脱構築などという、哲学でも、社会科学でも、ジャーナリズムでもない、知識人の言葉遊びが、何の意味を有しているのであろうか。

★ついでに、もう少し、本文に沿って批判してみました。

p.30~「反復」:「何ものか」=「最初のもの」は、最初からあったものの反復として現れるが、現れの以前はすでに失われている。現象は、「差延」の働きがもたらした「効果」、「痕跡」だという。反復を創造性のうちに回収するスピノザ、ニーチェ、ベルクソン、ドゥルーズらは、生き生きとした、すぐそこにある経験的事実に気づかせてくれる。これに対して、デリダ氏は真理についての古典的で認識論的な枠内に留まっており、単に、お決まりの「現象界」を、すでに失われた根拠を探すあてどなき旅という物語で解釈したにすぎない。プラトンの洞窟の比喩レベルのお話し、そのヴァリエーションである。
p.34 上記の自説を、「真理」の「既在性」と「想起説」というかたちで説明し、プラトニズムを肯定…。
p.35 ここでは信じがたい哲学素人ぶりが発揮されている。まず、数学の理念や物理法則の普遍性と、過去の事実(歴史的事象)の確定性とを、全く同じものだと定義するという粗雑極まりない理論(実用的真理と形而上学的真理との混同)。次に、「<最初のものがすでにそれの「反復」である>」(<>は著者)ことの意味を、歴史上の事実は、そのようなものとして予知できていたものとしてのみ生起する、と説明する。ベルクソンが『試論』で自由を論じる際、回顧的錯覚として批判した考え方を、歴史上の哲学者たちなら様々な理屈をつけてごまかそうとしたであろう、その誤った考え方を丸裸で堂々と差し出す勇気は、とても正気とは思われない。
p.36 このような構造を「エクリチュール」と呼ぶ。それは、世界が「何か」として読み解かれる「痕跡」で満ちている、という意味だという。ベルクソンなら、生命は生きるために、有用で頑丈なものを芯として、世界を「何か」として切り分けるというだろう。
p.36~「声」という現象について
 「誰か」という本体と「声」という現象との関係を、こともなげに、「言わんとするところのもの」と「声」との関係に言い換えているが、こんなところにも著者(もしくはデリダ氏)の粗雑さ(少なくとも、読者を無視した主観的思い入れの強さ)がうかがえる。「聞きとられうるものは声以外にはない」とは、言葉によって表現されることの中にのみ思考はあるという意味なら、そのとおりだろう。しかし、哲学初心者向けのこの本で、物質的音としての声が表現からの抽象にすぎないことを、読者が理解していることを前提とした書き方は如何なものだろう。それにしても、話者の存在がさしあたっての関心(会話)に尽きるわけでもないのに、「声」に対して「本体」がないというのも乱暴だろう。著者の思考回路はほとんど、何を言っているのか理解不可能なレベルに達している。
p.38 いまのことと関連して、「当人が居合わせること」は、声や「ジェスチャー」という「痕跡」なしには現象しないという。ものも言いようである。それなら、そもそも身体という(あえて彼らの表現を用いるが)「痕跡」やら、ありとあらゆる当人の存在を前提した社会的、物質的諸関係が「痕跡」としてある。全く、常識的な当たり前の話。短いおしゃべりを採り上げて、痕跡以外に本体はない、などと大仰な言い方をするが、会話の相手は、時空的広がりをもつ人格的全存在として現象しており、常識的にはそれをもって、短いおしゃべりの本体と捉えているわけである。氏の論法で言えば、それらを「痕跡」と呼ぶことに何の支障もない。つまり、ここでは、常識的なこと以外に何も語られてはいない。
p.38~39 「書かれたもの」は「書き手がそのつど不在になるという仕方でのみ」、「何か」が読みとられうるものとして現象する。「書き手は書くそのたびごとに、その瞬間瞬間において」、「死ぬ」のだ…。正直、この著者(デリダさん)は大丈夫?なのかと思う。先に、「語られたこと」と「声」との関係で述べたのと同じカラクリが使われている。「言わんとすること」と「書かれたもの」との関係を、「書き手」と「書かれたもの」との関係へと意図的に置き換えている。実際、私は寡聞にして、書く瞬間ごとに死ぬ人を見たことがない。社会生活を前提にして生まれた言語は、同一種の本能的行動にも似た、一般性をもつ。あらゆる表現は、主体のうちなる一般性によって可能であり、表現は主体性のうちなる敵によってのみ表現される。表現は一般性を介することなく、他者によって追体験される可能性をもたない。ただ、それだけのことだ。主体が死ぬことで痕跡になる、などといった大仰なもの言いは、よく言って文学的表現にすぎない。ここまで見て来ても、いまだに「痕跡」という言葉を用いる必然性が全く理解できない。
 著者はアリストテレスの『動物誌』の言葉、「生命の最も原初的な形態は、同じものの反復である」を新たに読み直したことになる…という。会話も、著作も、生命も、同じ言葉で語るという、単純極まりないデリダ氏の演繹的手法をよく物語っている。テーマに即して、新たな科学的研究成果を学び直し、経験的事実に語らせ、自らの理論を新たな次元から組み直す作業を行ったベルクソンの手法とは正反対の姿勢が見られる。
p.39~ 「痕跡は、世界が現象するための必要条件でしかない」。ここで、著者は世界が「何か」の体系でしかないという持論、プラトン主義的、古典哲学的立場をいさぎよく認める。その上で、「何」ものかが現象するとは、それが「何」ものかに対して現象することだとして、さらに「読むこと」を世界の現象の必要条件とする。こうして、認識主体という古典的哲学における登場人物が出そろったわけだ。私にはこれまでのところ、著者(デリダ氏)の言うこと(それを主張とか、ましてや、理論などと言う気にもなれない)に、カントの亡霊しか見えない。
 著者は「読むこと」自体が、新たに「痕跡」の追加となるという。そして、言わなくてもよいことまで述べる。自然の風景を見る際の、視覚中枢の神経興奮パターンも、「見てとられたこと…現象したことの痕跡」だという。しかし、それらが実際には身体行動の下書きだということはベルクソンが精密に立証したとおりである。それにしても、痕跡が見る者にも痕跡を残し、多重化していくこと…という薄っぺらな抽象が、一体、哲学なのか。そもそも、我々は認識論的な「見る者」ではなく、行動する者であり、ゆえに新たな何かを付け加えるのであり、また、そもそも行動が物質的一般性をうちに含んでいるがゆえに、あらゆる次元で新鮮味のないものでもありうるし、真に創造的な行動であっても、反復可能性を含んでいるのではないか。

……………

★読むたびごとに馬鹿げた議論で、徹底して批判したい気持ちと、時間がもったいないという気持ちとの均衡が、ここらで釣り合ったようです。もう、いい…(もちろん、ばかばかしいが、最後まで読みました)。もう2点だけ、述べておきます。

*「誤読の可能性」という奇をてらった言い換えは、知的であることを気取りたがる人種には受け入れられよう。しかし、都合のいい事例だけを採り上げるのでは、床屋談義と変わらない。カントやフッサールなど、まじめな哲学者を悩ませた自然科学の問題はどうなるのか。誤読と真の創造性とを区別することこそ重要なのではないか。両者をひっくるめて「誤読」と名付けるだけでは無意味である。すでに芸術分野や科学の諸分野で現に行われていることを、後付けで「誤読」として勝手な「説明」を加える(「凝視」すれば、「よりふさわしい」何かが「到来する」…!)だけなら、「哲学」など用がない。古典哲学を知り、正しくもそうした哲学の無内容さを実感した人々からすれば、デリダ氏はいっそう「哲学」の無内容さをアピールするのみだろう。

*デリダ氏は、古典哲学の枠組みに依拠している。そのうえで、現象界をどう位置付けるかという、古典哲学的ヴァリエーションにすぎない。不可知論の焼き直し。失われた原型が、「何か」(世界、経験と思考の場)として「現れ」る。前者は「何か」ではないし(「不在のもの」)、「何か」の出現も「何か」ではない(「差延」の働き)。いわば、原型や起源は現れることなく、「何か」(無秩序ではなく)が現れる保証として担保されている。というのも、「何か」の脱構築(再構築)を通して、たえず「不在のもの」への「暴力」(「何か」という枠)を緩めて「より正当」な「別の仕方で」の「何か」を目指すこと、方向としての「正義」が可能だと言いきっているからである(「不可能なものとしてのみ可能」などという、哲学オタクをくすぐる言葉づかいには苛立たされる)。脱構築の倫理が唐突な主張でないとすれば、「不在のもの」が実践的根拠として前提されているからに他ならず、他方、「何か」の「解釈」によりよい方向があるという前提とともに、まさに、カントの実践理性、判断力の焼き直しに過ぎない。さらに言えば、法にただ従うだけという極論に、主体的判断の重要性を説く自らの主張を対峙させて、さも、新しいことを説いているかのように見せるための、哲学オタクな奇妙な言葉で飾り立てられた文章をみていると、空しくなってくる。そのようなことはデリダ氏に言われなくとも、通常の事態にすぎない。裁判所では日々、法を個別事案に即して解釈するための、熱い火花が散らされている。そして、平重盛の「忠ならんと欲すれば…」ではないが、誰もが様々な倫理観の間で苦悩して答えを出している。さらには、アイヒマン(ファシズムのもとでの自由の放棄)の突き付けた問題など、デリダ氏(「あなた」)に言われるまでもなく、既成品としての正義を疑い、主体的に正義を再構築していくことのあり方は、もうすでに、より具体的かつ実証的に、多くの心ある人々によって模索されている。デリダ氏、あなたは不要だ。
 これに対し、生命のプラグマティックな範疇である一般性(類似性)と、例えば運動といった様々な経験そのもののうちに明らかな、持続という経験的実体とを対比させるベルクソンは、実証的研究を通して、見失われがちな主体、生命の価値、あるがままの経験の神秘性を取り返してくれる。ここでは哲学が、哲学独自の輝きを放っている。


  1. 2014/02/20(木) 12:42:44|
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「哲学する」のカテゴリの2012.9.22「哲学書の誤訳について(続き)」の<例1>の見直し

 まず、宇波彰さん(『思考と運動』レグルス文庫)・河野与一さんの(『思考と動くもの』岩波文庫)両者の訳本全般に対する評価は、全く変わっていないことを述べておきます。その後、図書館で(2012.9.22で取り上げた2か所のみ)立ち読みした平凡社のもの(『思考と動き』原章二さん2013.4.10発行)について、<例2>が正しくなっていた(私の指摘と同じ見解だった)こと、<例1>は変わっていなかったことを紹介しました(2013.10.20)。―本論と関係ありませんが、宇波さん・河野さんがあまりにひどい誤訳の嵐だったので、私はその反動で、自分の訳に自信を持ちすぎました。最近、原さんの平凡社版を図書館で借りて来て、ざっと見た限り、あの誤訳の嵐が直されていて、むしろ、私の「宇波版・河野版は誤訳だらけ」発言を裏付けてくれていて、嬉しく思いました。暇な方は、見比べてください。そうでない方には、原さん訳をお勧めします(といっても、ざっと見ただけですが、すでに2か所、誤訳ではないが不適切と思われるものを発見→機会があれば、また、書きます)。このたび、<例1>を見直さざるを得なくなり、宇波・河野訳しかまだきちんと読んでなかったとはいえ、2013.10.20に「どちらが日本語として本当に意味が通じているか、考えていただけるとありがたいです」と自信たっぷりに書いたことを後悔しています。お恥ずかしい。とはいえ、単純に、他の方が正しいという意味でもありません。以下の解説で、その経緯も分かると思います。
 また、ずっと見てくださっている方はご存知のように、見直すきっかけとなったのは、X氏(仮)からの当ブログに対する批判です。そのとき、主たる問題となったのは、こうしたことをブログに書くこと自体と、原さんの『精神のエネルギー』「夢」のなかの一文でした。これについては、2013.11.20「ちょっとがっかりした話」で決着がついた(を着けた)と思っています。私の見解で終わるのも気持ちが悪いので、X氏の主張で終わらせようとしたのですが、未だにコメントがないままです(もちろん、氏の自由です)。私は、こちらからわざわざ出向いて人を批判することはしませんが、降りかかる火の粉は払います(もちろん、公的立場、その道のプロの方の、その道での言動に対する批判精神はもっていますが、それと一私人への批判とは区別しています。……前者の場合でも出向くまではしませんが)。X氏はご自身は他人のフンドシで相撲を取りつつ、相手を見下す姿勢でしたので、彼からの最後のコメントをもってシャットアウトすることにしました。ただ、私が原さんについて悪く書きすぎたこと自体について(ブログを読んでくださっている方々に対しても)申し訳なかったとの思いは撤回していません(ただの一か所でも誤訳は誤訳、少なくとも意味不明の訳ですが)。このたび、『思考と動き』を見て、その思いは強くなりました。―
 話を戻します。

★2012.9.22「哲学書の誤訳について(続き)」の<例1>の再検討(赤の部分)

 Voilà pour la Science, et pour le reproche qu'on nous fit de la combattre. Quant à l'Intelligence, point n'était besoin de tant s'agiter pour elle. Que ne la consultait-on d'abord ? Étant intelligence et par conséquent comprenant tout, elle eût compris et dit que nous ne lui voulions que du bien.
 En réalité, ce qu'on défendait contre nous, c'était d'abord un rationalisme sec, fait surtout de négations, et dont nous éliminions la partie négative par le seul fait de proposer certaines solutions ; c'était ensuite, et peut-être principalement, un verbalisme qui vicie encore une bonne partie de la connaissance et que nous voulions définitivement écarter.

 便宜的に、原章二さんの訳(平凡社)をお借りします(なお、原文に段落分けはありません)。

 科学について、および私が科学を否定しているという非難については以上の通りである。知性については、それほど騒ぎたてる必要はなかったであろう。どうしてまず知性そのものにお伺いを立てなかったのか。お伺いを立てさえすれば、知性である以上はすべてを理解してくれるのだから、私が知性に良かれとだけ念じていたことも同じように理解してくれただろう。(→原訳では、ditを省略している)
 実際のところ、私に反対して擁護されていたのは第一に、主としてかずかずの否定から成る干からびた合理主義であるが、私はそれに対してはいくつかの解決を提出してその否定的な部分を除去している。第二には、おそらくこれが主たるものだが、そこでは言語偏重主義ともいうべきものが擁護されていたのであり、これは今日でもなお多くの認識を痛めつけているものであって、私はこれを最後に除去しようと思ったのだった。

★2012.9.22の時点で示した訳(恥ずかしながら)
(宇波)私が知性の美点du bienだけを望んでいたということを知性は理解し、語っていた
であろう。
(河野)悟性は私がそのためを思っていたということは理解して認めたに違いない。
(私) われわれが知性に望むのは利益du bienだけだと理解していて、そう答えていたは
ずだ。

 結果から言えば、今では河野訳・原訳のvouloir du bien à qn「…に好意的」「…によかれと思う」という成句による解釈を正解だと考えますただし、両者の訳がそのままでいいとは思っていません。以前、私が成句を取らなかった理由をこのあと説明します。まず、前置きですが、宇野・河野訳しか知らない(原訳は未刊)時点では、お二人の訳全般が余りにひどく、心の中のハードルが下がってしまったようで、これは反省点です。で、成句による解釈には以下に挙げる問題があったので、宇野流の解釈もあるのならdu bienは「美点」じゃなく、「利益」だろうと考えたわけです(ただし、辞書に部分冠詞duで載っていたのは「財産」だったので、直訳的には「財産」で、ひろく我々に役立つもの、有用なものという観点から「利益」としました)。

★いよいよ、本論。成句vouloir du bien à qnによる解釈に伴う問題点。
 ベルクソンの主張は、知性は生活するための能力であり、物質を扱うことや、社会生活の利便性のためにあり、科学もその線上にあり、単位を固定し、これらを一定の規則性のもとに取り集めて、物質を説明し、扱えるようにする。他方、精神に向かうためには、方法論的に全く逆の方向に進まねばならず、固定することがその本質を損なう持続の全体像を見ようとすることが必要で、これを直観と命名するというもの。知性と直観とは実在を理解する上で補い合い、精神と物質の触れあう面では、哲学と科学とが互いに検証しあうことを可能にするというもの。ベルクソンの主眼は、知性の精神の分野への越境を押しとどめ、精神の現れにかかる仮象を一つずつ排除していくことにあります。vouloir du bien à qn(「…に好意的」「…によかれと思う」)、しかも、それにne… queがついて「知性にただただ好意的」という表現には違和感があります。「知性によかれ」でも、知性のためになることをしている(orしたい)という意味合いになり、知性からすれば、大きなお世話であり、ベルクソンの言動としても、押しつけがましい感じがします。「ベルクソンは知性を否定した」という(エセ哲学者からの)批判に対し、「否定していない」を超えて、そこまで言うか、という違和感です。ベルクソンの主張と反しているというより、「好意的」とか「知性のためになることをしている」などと言うことが、脈絡から浮いていて、完全にズレているという違和感です。科学は科学で発展してきたわけであり、その越境、精神分野への干渉が問題なのであって、それは、すでに形而上学の問題、科学者の中にもいる形而上学者の問題なのです。ベルクソンは、知性を冷静に分析し、位置づけ、直観の方法論的拡大を目指し、形而上学の革新を成し遂げたのです。総じて、ベルクソンの活動領野はあくまでも形而上学であって、それは何もベルクソンを小さくすることではなく、彼は真に形而上学の独自性を確立し、精神について真に語ることを可能にしたのです。行動としての知性のために何かしてやることは、哲学の仕事ではないし、実在との関係において正しく知性を位置付けてやることは、やはり、形而上学にとっての問題なのです。ぶっちゃけた言い方をするなら、ベルクソンが知性に「好意的でない」とも言えないし、「知性のためを思ってない」とも言えないけど、そういう話じゃないでしょってことです。ベルクソンのやりたいことは、形而上学が、知性が知性に適した領野で得た概念を、物質にのみ適合する知性の思考方法で、無反省に精神の分野に持ち込むことを禁じること。そして、精神の分野(持続)の直観を言葉に定着するという、逆説的で厳しい道を歩むこと。こうして、真の形而上学を確立して、誤った形而上学を退けることです。知性の否定や、科学者への攻撃とは「関係ない」に尽きます。それ以上でもそれ以下でもありません。排除されるべきは、誤った形而上学を唱える、エセ哲学者、エセ科学者だけです。そして、それだけです。知性に「好意的」かどうか、「知性のため」かどうか、どうでもいいことですし、いろいろな意味で一概には言えないことであり、そうだとも、そうでないとも言えます。読んでいて、「突然、何を言い出すの?」というのが正直な思いでした。科学や数学などの分野で、その業績が高く評価される場合は、哲学が心配するまでもなく、その分野で検証に耐える場合に限られます。知性が知性独自の方向で発展することに、哲学の出る幕はありません。その意味で、余計な発言は誤解のもとを提供するだけです。また、既成の哲学が、知性を正しく位置づけることができずに、勝手な論理で精神を神のような地位に祭り上げ、その内部で科学に勝手な地位を授けるのと比べれば、ベルクソンほど科学の地位を高く見た哲学者はいないと言えますが、しかし、それこそ形而上学のなかの話であり、誤った形而上学が問題になっているのです。知性に好意的であるとか、ないとかいう問題ではありません。さらに、En réalité以下の脈絡も大事です。
 En réalité(「実際には」)以下についても同様のことが言えます。もし、前半の記述が、ベルクソンが知性に好意的であるだの、よかれと思って何かしているというのなら、En réalité以下は、その逆で、on(エセ哲学者たち)は知性に害をなしている、と言わなければなりません。しかし、あくまでも合理主義者が勝手に精神の分野に無批判に(無自覚に、不注意に、その位置づけもなく)知性を持ち込んだだけです。知性の発展に害をなしているというより、精神の問題、形而上学に害をなしているというのが実態です。実際、科学はそんなことを知ったことではない。哲学が勝手に無用の長物となっていっただけです。言語偏重主義にしても、確かにそれは知性の発展一般に害をなしているが、やはり、科学は科学の分野で独自にこれを乗り越えてきたわけだし、その他いかなる分野についてもそういえます。知性が知性に適した分野で発展することについて、哲学が好意的に思ったり、ましてや、よかれと思って何かしていると言われても、大きなお世話であり、知ったことではない。言語偏重主義を全く乗り越えられなかったのはひとり哲学(の分野)だったのですから。
(注1)否定によってつくられた空疎な合理主義:例えば、(単に空間的イメージの)永遠の否定と言っただけで、実在する時間を捉えたと考えたり、「可能性」を単にまだ実現されていないことと見なしたりして、創造的な実在を捉え損ねる。また、「秩序」を前提に据えた上で、秩序を構成する能力を持ち出す。etc.
(注2)言語偏重主義:経験に沿って言葉の意味を豊かにするのではなく、既成の言葉の操作に終始する。経験を既成概念に組み込むことで安心する。

★vouloir du bien à qnをどう訳すか。
 実は、フランス語会話の先生(フランス人)に尋ねました。まず、成句のニュアンスですが、「相手の将来の発展を願う」ということのようです。しかも、ne …queは「だけ」と訳す必要はなく、単なる強調だと教えていただきました。つまり、「知性は、私が知性の発展を本当に願っていることを理解していたはず」という訳が可能なのです。一見、そんなに変わらないように見えますが、「発展を願う」であれば、向こうは向こうの努力でやっていることを、こちらも好ましく思うという、ニュートラルな意味になります。この点が重要です。つまり、これによって、ベルクソンの理論を、知性に「好意的」、あるいは、その「ためになることをしている」と評してもよいのだろうかという、論点を逸脱した、しかも、あまり生産的とも思えない議論を回避できます。そして実は、この場合、論点を逸脱しないだけではなく、知性と直観との対等で正常な関係、以下に述べる意味での脈絡に沿うことになります。
 ベルクソンは、物質との接触面、「表層」で直観による理論の検証に科学を使ったし、物理学の近年の傾向も彼の理論を傍証するように見えるわけだから、「本当に知性の発展を願った」のです。これに対し、ベルクソンが知性を否定したと騒いだエセ哲学者たちは、「実際には」、精神の分野に無批判に知性を持ち込んだために、自らを空疎にし、科学などが自らの分野で何とか切り抜けている言語偏重主義を、ひとり形而上学だけが克服できないでいたにすぎないのです。

★改めて訳
 科学と、私が科学と戦っているという非難とに関しては以上の通りである。知性に関する私の見解については、そのことでそんなに動揺する必要はなかったのだ。ひとはなぜ最初に知性に尋ねなかったconsulter(意訳)のか。知性たるもの、何もかもちゃんと分かっており、私が知性の発展を本当に願っていることを承知していて、(尋ねたなら)そう答えていたはずだelle eût compris et dit(意訳、条件法過去第2形)。
★En réalité以下…くだけた訳を提示
 ところが実際には、人々(「ベルクソンは知性を否定した」と非難するエセ哲学者)が我々(ベルクソン)に抗して擁護したのは(知性を不用意に精神の問題に持ち込んだせいだが)、先ず、無味乾燥な合理主義だった。合理主義はとりわけ否定から作られているが、我々はいくつかの解答を示しただけで、合理主義の(ほとんどを占める)否定的な部分を退けた(つまり、合理主義はほとんど空っぽだ)。次に、おそらくこちらが主たるものだが、言語偏重主義だった。これは今でも認識のかなりの部分をそこなっており、私はこれを決定的に取り除こうとした。
*「否定」「言語偏重主義」は、上記の説明を参照のこと。


<余談>日本語感覚について
 訳語について「違和感」と言う言葉を使いましたが、本当にそのとおりで、決して後からムリヤリに難癖をつけているわけではありません。哲学に限らず、書くことに関心のある方は分かると思うのですが、自分で何か書いているとき、「いや、これ違うなー」と理屈じゃなく、まず、何とも言えない居心地悪さを感じます。適切な言葉を探して、すぐ見つかるといいのですが、微妙な場合には、いつも使っている言葉でも、改めて辞書の意味や用例を調べて、いろいろと比較検討してみたりするものです。「よかれと思う」という言葉にも、同様の収まりの悪さを感じたわけです。普通、「よかれと思って(願って)……する」という脈絡でしか使いません。第三者的に「よい結果を願っています」というふうには使いません。例えば、入院した友人を見舞った帰り際に、「あなたに良かれと願っています」とは言いません。病院側の処方・助言などを嫌がる患者に、医師が「あなたに良かれと思ってしている(勧めている)のですよ」という場合に使います。
 
PS  ごく簡単に論点整理しました→「続きを読む」

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  1. 2013/11/30(土) 16:18:30|
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ちょっとがっかりした話

前回の私の回答に対し、以下の反論が寄せられました。要約するのが面倒なので、そのまま載せさせていただきました。ただ、2つの論点に①②とこちらで番号をつけさせていただきました。再反論するまえに、まず、申し上げておきます。一度は、自分が間違った根拠に基づいて批判をしてしまったという罪悪感から、なんだか、余計に謝りすぎました。でも、お互いに人間という感情の生き物ですから、お相手の方(私が批判した人を尊敬する方)に対しても、いったん、チャラにしていただく上でそれもいいのでは、と考えていました。今度は正しい原文に基づきつつも、「確かに、間違えとは言えません」、「…という疑いがあります」と婉曲な表現をしたのもその流れです。ここらで「謝りすぎた」分をあるべき位置に戻させていただきます。お詫びの気持ちは、すでに十分に伝わったことと思いますので、再反論は気持ちを切り替えていきます。

★以下、寄せられた反論

 問題の訳について、さっそく記事を書いて頂き恐縮です。申し訳ないですが、今あまり時間がとれないので簡単に二点だけすぐ思い付いたことを書かせて頂きます。

①まず、これは解説されてるのですでに念頭にあってのことかもしれませんが、問題の箇所は、『物質と記憶』のおさらい的な議論です。二章のダルマのような図がでてくる少し前で同じ話が紹介されています。これは憶測ですが、平凡社訳はこの周辺の議論を反映しているために、記憶と知覚を、わざと分けて訳されているのではないでしょうか(もちろん、だからといって文法上同格であること、内容上も説明である点が見逃されているわけではないことは訳文を見ればわかります)。

②それから、「まだ」のニュアンスですが、これは、ここで問題になっている、記憶の「現実化」ないし現働化に関連するものだと思います。たしかに過去の記憶はそれ自体ではかつてあったもので「もはや」ないものですが、ここで主題となっているのはそういった話でしょうか?これから現実的になる、という観点からみて「まだ」現実的でない、と読むのが自然ではありませんか?

 もっとも、私自信この訳を決定訳として全力で推したいわけではありません。訳せと言われればもっとサクっと訳してしまうでしょう。ただ、(構文のとり違いでも、明らかなに無理な解釈でもなく)解釈の余地はあるかもしれないけど間違いとはいえない、そうした水準にはあるということを主張したいだけです。

 異論・反論歓迎します。テクストがより良く読めるようになるならそれが一番です。ただ、いま少し忙しいのでおそらく次のお返事は少し遅くなってしまうと思います。こちらから投稿しておきながら申し訳在りませんが、ご理解頂ければ幸いです。

★私の再反論と最後のアドバイス

②について
 純粋記憶、潜在的な記憶、無意識、なんと呼んでも構いませんが、それらは現実的な身体活動と結びつくことで現実化しますが、もちろん、ここでその一様態が描かれているわけです。しかし、ここで、「まだ現実的ではない」といわれているのは、記憶ですか?もし、研究者を目指されているならば、正確に読むことを心掛けてください。irréellesは記憶を修飾していますか。そもそも、ベルクソンがirréelsな記憶という言い方をしますか。irréelles はperceptionsを修飾しているのですよ。そして、「まだ現実のものではない知覚」という日本語は、記憶の反対、未来しか意味しえません。実際は、souvenirsを言い換えただけですから、<もはや現実ではない(過去になった)知覚>と言っているのです。ただ、それだけのことです。そう読むのが「自然ではありませんか」。「ダルマのような図がでてくる少し前」の話で、記憶の投射が語られていませんでしたか。

①について
 「記憶と知覚を、わざと分けて訳されているのではないでしょうか」、まさに、原さんはそうしているのでしょう。だから、誤訳だと言っているのです。知覚における記憶の侵入について語られていますが、いいですか、c'est une extériorisation de souvenirs, de perceptions simplement remémorées et par conséquent irréelles,この文中には、知覚のことは何一つ語られていません。「それは、記憶(=ただ思い出されただけの、つまり、非現実となった知覚)の投射であり」と言っているだけです。あなたは「二章のダルマのような図がでてくる少し前で同じ話が紹介されています。これは憶測ですが、平凡社訳はこの周辺の議論を反映して」いるのではないかと言います。実は、私も、原さんが<そのような混同をしているのではないか>と「憶測」していました。ここでの主題は夢です。「注意的知覚」(「反省的知覚」)ではありません。記憶の能動的働きと知覚という、ヒトである限り共通の大枠がそこにあるという話です。だが、「夢」では、知覚が豊かになっていく過程の分析は出てきません。

まとめ
 はじめて、原さんの日本語を読む人がどう感じるか、素直に考えてください。「知覚」を形容する2つの言葉、「単に思い出されただけ」と、「まだ現実のものではない」がどう整合性をもつのですか。一方は過去を指し、他方は未来を指しています。意味不明です。さらに、何の意図(勘違い)もないとすれば、「それは記憶を無意識の外に出して現実化すること、単に思い出されただけで、したがってまだ現実のものではない知覚を外在化してやることなのです」と、わざわざ下線部の言葉を付け加えてまで、何やら2つの側面が同時進行しているかのような、間違った読み方を誘導するような書き方ができますか。後半にしても、lesquelles profitent de la réalisation partielle qu'elles trouvent çà et là pour se réaliser intégralement.のlesquellesと ellesが、「ただ思い出されただけの、つまり、非現実となった知覚(=記憶)」であってみれば、私なら、思い切って、「記憶は……」と意訳します(ベルクソン自身がもとの講演ではそう言ったぐらいですから)。くどいようですが、ここでは「注意的知覚」における知覚と記憶の追いかけっこの話は出てきません。むしろ、行動の一種である注意的知覚とは正反対の、三角形の底辺がちらりとその姿を見せる現象が主題となっているからです。ベルクソンを金太郎飴式に読むことほど、非ベルクソン的なことはありません。テーマごとの差異をよく見極めましょう。

★もう一件と最後のアドバイス

この[犬の知人の]投稿はどの訳を購入するか検討中の方を迷わせてしまうのではないか(そして先に書いたように必要以上に訳者の方の印象を悪くしてしまっているのではないか)という思いからコメントに至った次第です。……例えば「この訳の評判はどうなんだろう?」と、ごく一般の方が[犬の知人のブログを]覗いた場合、購入を見送ってしまう可能性はある(あった)と思います。←[ ]内は私・犬の知人による補足

……ということですが、百万歩譲って、そういうことが「ある(あった)」とすれば、それはその人の勝手です。私は公人でも、学者でも、社会的影響力のある人間でもなく、社会の片隅でひっそり生息している名もなき「一般」人です。むしろ、一私人が書いてあるブログを、ただ真に受けるだけで、自分の頭で考えないとすれば、その方が問題でしょう(私は、このブログを読んでくださっている方々を、そのように考えてはおりません)。しかも、見てくださる方は40名ほどですよ。日本中で。その半数は、同じFC2ブログの方で、こちらからも見に行きますが、写真や歴史、地方の行事が趣味の方ばかりです。私も、そちらを主にしています。何を恐れているのですか???日本の人口が何人だとお考えでしょうか。被害妄想もいいところです。
 あなたはもっと冷静で思慮深い方だと思い込んでいました。哲学研究でも、社会常識でも。私の年齢はおよそお分かりだと思います。すでにしっかり、社会に貢献してきました。あなたは学生さんです。私の一歩引いた書き方に対し、あらゆる面で明らかに自分が正しいという立場からものを言う、上から目線の文章に、うんざりしました。今回、しっかり真似をさせていただきました。いいですか、私の諸先生方への批判は、世間一般から見れば、雲の上の人に対してコビトが徒手空拳で向かっている図です。あなたと私のやりとりは、一対一です。その違いも分からない。おそらく、私のブログを見てくださっている大人の目には、あなたが「慇懃無礼」に映っているはずです。あなたとのやり取りは、打ち切りにさせていただきます。おっしゃりたいことがありましたら、最後にコメントしてください。そのまま表示させます。こちらからはノーコメントにします。個人のブログがこういう仕組みになっている意味をよく考えてください。仮に、あなたのコメントを載せなくても、決して、不公平なやりかたではありません。「異論・反論歓迎します」って、まるで、あなたのブログに私がコメントを寄せているかのような書き方ですよね。そうです、あなたは、ご自分のブログを立ち上げ、そこで言いたいことをおっしゃればいいだけです。あとは、読者が判断します。


  1. 2013/11/20(水) 08:16:39|
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プロフィール

犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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