どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

いじめについて

 このカテゴリ(ひょっこり思ったこと)は、唐突に行きたいと思います。
 私は、小学2年生から中学2年生にかけて、いじめられました。まず、それを言っておきます。
 毎日のようにテレビでいじめについて報道されていて、この前、テレビで“いじめ研究家”なる方が登場していて、笑ってしまいました。ついには、飯のタネになったか、と。教育学者の発言というだけでも、まあ、「学者」の発言として受け取っておきましょうって感じで、すべての方がこのテーマについて優れて有益な視点を提供してくれるわけではないと感じています。ジャーナリストとしての取材と社会・経済への広い視野から、すばらしい展望を示す方もいます。一父母の立場からの発言が、すごく深いこともあります。そんななか、“いじめ研究家”ですよ・・・。
 まあ、よしとしましょう。その方が何を発言したかです。「無視するとか、みんなで相手にしないということもあるんですよ」と、いまさら?というようなことに、この方独自のネーミングをしていて、何でもネーミングするなあと可笑しくなりました。一つ、言いたいことがあります。分かったような顔をして、十把一絡げに出来合いの理論をあてはめて、得意顔をするのはやめて欲しい。いじめられる子どもも、みな一様に「いじめられる子」じゃないのです。それぞれ、感じ方や生き方が違います。私は、いじめられている期間、ただ、辛いだけでした。少し、精神的成長が人より遅かったと思います。いわゆる自我に目覚めてなく、自分はこれでいいのかなどと、客観的に自分を見る(自分を気遣う)もう一人の自分はまだいなかったのです。他方、見たテレビや映画、読んだ本などをいつまでも事細かに覚えていて、時々、聞かせてくれと寄ってくる子がいました(特に、見逃した映画など・・・ウルトラマンの怪獣のストーリーなどはすべて登場人物名まで覚えていましたから)。いまなら何か病名がついているような子どもでした(残念ながら、この記憶力は有効に使われることなく、年を経て衰えていきました)。本題に戻りますが、私は、正直、ほっといてくれたら、幸せでした。今のような極端なファシズム的ないじめの時代ではないので、話し相手がいないということはなかったのですが、えらい目に会うのと一人でいるのと、天秤にかけたら、あきらかに一人を選んだということに確信が持てます。小学5年生のとき、何度か、「○○君、僕と一緒に逃げよう」と、昼休みにどこかへ連れて行ってくれた子がいました。名前も覚えています。その子がとても好きでした。その有難さは分かったのです。しかし、他方、こんな思い出もあります。リーダー格の子どもたちが、私を囲んで、「おまえはそれでいいのか」と詰め寄ってこられたことが何度かあって、当時の私にとっては、ただ、脅されただけでひどく恐ろしく、泣かされただけでした。これも込みで、えらい目にあうことでした。もし、当時の私に、「無視」というのもありで、どっちを選ぶ?と言われたら、迷わず、それを選んだはずです。物事には、順序があります。それなら、まだいいや、というのは人によって違うのではありませんか。
 今のように、誰がいじめにあうか分からない時代と、特定の人間だけがいじめられるのと、どっちが悲惨かは、一概には言えないでしょう。ただ、違う時代にいじめにあった者として、今の時代に感じることがあります。それは、今の子どもはすごく所属集団というものを意識していて、団結力がとてもあるということです。何でも団結します。いじめであっても。たとえば、私たちの世代は、結果として「わがクラスは・・・」と言うことはあっても、「クラスとしてどうあるべきか」なんて、考えたことも無かったのではないでしょうか。しかし、今以上に、誰もが自然に、クラスにいた人間に対して、ストレートに物を言ったと思います。授業中うるさいのがいたら、必ず、「静かにしてください!」とでかい声でキッパリ言う人が何人かいました。何度でも言ってました。理由なんてありません。みんな、ただ素朴だったんです。思ったことを言ったのです。どちらに対しても、「アイツどうする?」などと、根回しをするなんて無かったのです。よくも悪くも、集団を形成しようなんてことじゃなかったのです。今は何か間違ってます。
 ちなみに、みんなどれぐらい素朴だったかというと、中2までいじめられていたような私ですが、こんな私に、3年生のとき、恋愛の仲介を頼んできた他クラスの生徒がいたぐらいです。しかも、中2のとき、私にちょっかいを出していたやつでした。もう、忘れてるんですね・・・。


<追記>
 「愛の反対は、憎しみではなく、無関心です」などという、言葉遊びもやめてほしい。かつて、いじめられた子が、ナイフか何かで反撃した事件があったが、あのときの憎しみを「無関心でなくてよかった」と言えますか? 憎しみの連鎖で殺戮が続く国々に、「無関心より結構」と言えますか? 無関心に愛がないのは当然ですが、憎しみと比較して何の意味があるのか、私にはさっぱり分かりません。

  1. 2012/08/31(金) 19:40:42|
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倉敷市・藤戸

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 昨日のテレビで、映画『三丁目の夕日』のロケが行われた玉島の水門が壊されると伝えていました。で、ちょっと思い出したのが、この藤戸饅頭のお店。映画で、淳之介くんと一平くんが電車に乗って行ったのが、このお店。そのままの名前を使ってました。

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 ただし、中のシーンはセットだし、家の周りはCGでした。このお店の外観がよかったのでしょう。

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 お店の中にちゃんとポスターが貼られてます。あの時代は、今との比較ですが何もなかったころです。しかし、素朴さという財産がありました。人の心に、土臭い自然があったように思います。今は、正直言って、うかれすぎでしょう。『ALWAYS』もいいけど、『つづり方兄妹』や、『かあちゃん(豊田正子の『粘土のお面』を映画化したもの)』などをリメイクしてくれないかなあ。

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 藤戸饅頭の向かいにある藤戸寺です。このあたりは源平合戦の戦場跡です。特に、源頼朝の側近の一人、佐々木盛綱が海の浅瀬を馬で駆け抜け、油断していた平家を破ったのが有名です。盛綱は佐々木家の三男ですが、長男の子孫が京極氏です。この藤戸寺は、盛綱が両軍の死者を弔うために再興したものです。

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 毎年、6月、寺では”沙羅の花を見る会”が催されます。沙羅双樹の花がとてもきれいです。

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 こんな風に、花が散ります。この会では、歴史研究者などから源平合戦に関する話が聞けます。

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 当時はまだ児島をはじめ、現在、「~島」と名のつく所すべてが本当に島でした。岡山の広大な平野の多くは戦国時代~江戸初期にかけて干拓されたものです。盛綱が海を馬で駆けた姿はかっこよかったでしょう。その、渡り始め地点と上陸地点が記念されていて、途中で、盛綱が鞭を海中に突き刺し、そのまま忘れていったという場所まで、「鞭木」といわれて残されてきました。鞭がそのまま木に育ったというのです。江戸時代まで信じられていて、その木が枯れた時、天城藩士がその部材から彫刻したのが、写真の盛綱像です。

  1. 2012/08/30(木) 21:45:58|
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多度津町立資料館・戦争資料展

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 多度津町立資料館です。藩士・浅見氏の邸宅を購入したものです。常設展示も結構見ごたえがあります。陣屋の模型などもあります。

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 日露戦争の頃の軍事郵便です。中に入れる便せんでしょうか、「征露はがき」と印刷しています。人類史上最初の総力戦となった日露戦争では、日本に帰った兵士が悲惨な状況を話さないようかん口令が敷かれたと聞きます。手紙の点検も厳しかったと思います。

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 教科書に載った「一太郎やあい」の岡田かめさんが織った紋付羽織です。裏地は昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の衣の袖を中宮寺門跡から賜ったもので、右は東郷平八郎、左は杉浦重剛の筆によるもの。

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 岡田かめさんの書です。

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 「一太郎やあい 岡田かめ女の遺影」という冊子のコピーが閲覧できました。親子の貴重な写真を数多く見ることができました。この写真は、桃陵公園に建つ銅像の台座の裏側で、戦後すぐ撤去された部分に、「一太郎やあい」が載った教科書が描かれていたことが分かります(貴重)。

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 多度津出身の村井傳造中尉が所持していた品々。右下に見えるのは旅順付近から持ち帰った、何かの破片のようなものなど。資料館の方にお伺いしたところ、村井家は多度津のお金持ちに多いパターンで、廻船問屋から、明治になって土地を購入して地主になり、また、資本家にもなったそそうです。家を取り壊す際、危うく廃棄されかけていたものを資料館がいただいたということです。村井家について、初代は博打で、船と積み荷を手に入れたという、庶民の作り話があるそうです。

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 こちらは、大阪からの疎開児童がつけた日記です。中身についても、詳しい資料が閲覧できました。

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 民間用防毒マスクだそうです。こういうものを見ると、じわっと戦争の恐さを感じます。

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 この四文字は加藤清正が刀の鞘に彫っていたといわれ、運に恵まれるということから、千人針や千人力(千人の人に力という字を書いてもらう)の布に書いたという。また、「人形帖」というのは、「少女の友」という雑誌の付録で、人形を作って兵隊さんに送りましょうと呼びかけたもの。

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 左上は、多度津町出身のオリンピック・水泳・金メダリストの遊佐正憲(ゆさ・まさのり)氏の武運長久を願う寄せ書き。遊佐さんは旧制多度津中学出身で、のちの多度津工業高校、いまの多度津高校も水泳部は強い。ちなみに、奥さんは女優の逢初夢子(あいぞめ・ゆめこ)さん(「安城家の舞踏会」など)。

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 貴重な資料が閲覧できます。

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 これは、浅見邸の庭にあった巨大な手水。資料館の方によると、藩主の館にあったものを浅見氏が購入したらしい。建物や庭は明治のころのものという。ともかく、お金持ちで、骨董の収集家でもあったらしい。この屋敷に住んでいた最後の方は、金塊を削って生活していて、3日間しか働いたことがないと聞いているそうだ。

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 この屋敷に伝わる八朔馬を展示していました。昭和36年ごろのものが中心だといいます。

  1. 2012/08/29(水) 00:01:45|
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ニュー・ウェーヴの思い出(つづき)

 ニュー・ウェーヴの思い出ということで、1977~78年の間にレコード・デビューしたバンドのアルバムを紹介しています。

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 アイルランドのブームタウン・ラッツは、バンド名そのままのデビュー・アルバムがいきなり名盤。NHK・FMのヤング・ジョッキーで聴いてすぐファンになりました。次の『A TONIC FOR THE TROOPS』は最高傑作と言われている。ここに挙げた3枚目『哀愁のマンデイ』も傑作です。日本盤のタイトルは、シングルになった曲I don't like mondaysの邦訳から。アメリカで起きた16歳の少女の銃乱射事件をとりあげた有名な曲。曲名は事件の動機として少女が語った言葉です。

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 ニューヨーク・パンクの伝説的存在、テレヴィジョン。一聴してパンクという感じじゃないので、そのテの方々が期待すると「猫騙しか!肩透かしか!」と騒ぎ立てることになるでしょう。しかし、「伝説の」と冠される事に共振現象みたいに頷く人も多いでしょう。私も、ただ水飲み鳥のように頷くでしょう。

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 同じくアメリカのディーヴォはこのデヴュー・アルバムが強烈過ぎました。笑撃的といってよかった。やはり、ヤング・ジョッキーでEPヴァージョン「モンゴロイド」を聴いて、明日から洋楽好きの間では持切りだろうと確信した。ストーンズの「サティスファクション」もアレンジの域を超え、別物に、最高の出来損ない(規格外)になってました。

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 イギリスのストラングラーズは名前はおどろおどろしいが、この『レイヴン』などはとても楽しい。初期のパンクっぽい曲はライヴ・アルバムでイイトコドリに一気に聴けて、スタジオのよりいいのでオススメです。実はトーキング・ヘッズ同様、インテリ・バンドです。

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 ウルトラヴォックスもイギリス。テクノとかエレクトリックとかいわれる音楽の元祖です。1980年の『ヴィエナ』で一躍有名になりました。こんな思い出があります。気に入ったので友人に聴かせると、「変なの」の一言で、「あー、せがな」(讃岐弁で「甲斐がない」)と思いました。しかし、その後、コマーシャルで使われ始めるや、「いつぞやのレコード貸してくれ」と言われ、日本人の典型やなーと思いつつも、大好きな友人なのでした。(いろいろベスト盤がでているが、CHRYSALIS『THE VERY BEST OF ULTRAVOX(CD&DVD)がいい)。

 きりがないので、1977~78年にレコードを初めて出したバンド(個人)を簡単に紹介しておきます。マガジン(3枚目ぐらいまで名盤、クール)、ジャパン(女子に人気が高く、D.シルビアンは今も活躍)、ザ・ポリス(解説不要?問答無用?)、エルビス・コステロ(今も有名)、ニック・ロウ(傑作『THE ROSE OF ENGLAND』・『NICK THE NIFE』が廃盤中)、ポップ・グループ(全然ポップじゃない伝説のバンド、野性的?芸術的?『HOW MUCH LONGER』がいい)、チューブウェイ・アーミー(一応)、ワイヤー(芸術的かも?『CHAIRS MISSING』など)、スージー・アンド・ザ・バンシーズ(「香港ガーデン」がコッポラ監督の『マリー・アントワネット』で効果的に使われていた)、日本ではムーンライダーズ(『NOUVELLES VAGUES』・『DOON'T TRUST OVER THIRTY』が傑作)やYMOなど。ちなみに、ピストルズやトム・ロビンソン・バンドなどパンク勢も同時期です。
 1979年になると、プリテンダーズ(最初の『PRETENDERS』がいい)、バグルズ(メンバーがいきなりブルース・ウーリー&カメラ・クラブと2つに分裂、『THE AGE OF PLASTIC』が傑作)、ジョイ・ディヴィジョン、ギャング・オブ・フォー(最初の『Entertainment!』が傑作で、これも『マリー・アントワネット』で使われていたが、『RETURN THE GIFT』として再録音されている)、スペシャルズなどが登場し、それぞれに名盤を発表しました。日本では、遠藤賢司さんが『東京ワッショイ』を出すなど、いろいろと影響が及んでました。
 もっと前から活動していて、ニュー・ウェーヴの波に乗った方々としては、ブロンディの「ハート・オブ・グラス」が1979年、グラハム・パーカーの『Stick to me』が1977年、パティ・スミスの『イースター』(ブルース・スプリングスティーンとの共作「ビコーズ・ザ・ナイト」がヒット)が1978年。
 ついでに、1980年には、U2、エコー・アンド・ザ・バニーメンなどが登場し、THE SKIDSの『THE ABSOLUTE GAME』、THE MONOCHROME SETの『LOVE ZOMBIES』なども話題になった。
 本当にきりがないので、以上。






  1. 2012/08/26(日) 16:04:50|
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ニュー・ウェーヴの思い出

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 1977~78年にかけて、ニュー・ウェーヴと呼ばれるグループが数多く登場し、ロック史に残るようなレコードがたくさん発表されました。音楽好きには楽しくて仕方のない日々でした。まだ、ビートルズのメンバーもみなさん健在で、本当に幸福感がありました。単に、若かったから、あるいは、まだ日本経済が世界的にも優位だったから、ではないと思います。
 トーキング・ヘッズは、すべてのレコードが独自のカラーを持っていて、今聞いても実に刺激的で、曲もいい。一般には、ワールド・ミュージックを取り入れた『リメイン・イン・ライト』が最高傑作とされ、私自身、レコードのほこりを取る苦労をものともせず、何度聞いたか知れません。しかし、今聞くと、ぜい肉をそぎ落としたような2枚目の『モア・ソングス』が、最高の鮮度を保っているように思えます。とはいえ、トーキング・ヘッズとメンバーのソロ作品は全部好きです(バーンの『The catherine wheel』も含めて)。

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 XTCも2枚目の『GO2』が好きです。当時は、どんどん進化していくXTCが面白く感じて、デュークス・オブ・ストラトスフィアという名でつくったレコードも聞きました。しかし、改めて聞きなおして、この『GO2』以外、なんだかつまらく感じるのはなぜだろう。発売当初ついていたオマケのEPをもう一度聞いてみたい。

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 カーズは、1984年の『ハービート・シティ』が洋楽ファンを越えてはやりました。しかし、トーキング・ヘッズと同じく、このアルバムまではどれも個性的で今聞いても面白い(また、リック・オケイセックの『THIS SIDE OF PARADISE』は名盤だと思います)。中でも、『パノラマ』が刺激的だと思います。

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 イギリスのバズコックスは、パンクに分類されるようですが、レコードを聞いた限りでは、『LOVE BITES』や、この『A DIFFERENT KIND OF TENSION』はニュー・ウェーヴとしか言いようがないと思います。

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 ニナ・ハーゲンは、いまの日本では忘却の彼方って感じですが、当時の存在感はちょっと度外れてました。『unbehagenウンベハーゲン』という2枚目のレコードは、「居心地悪さ」とか「不愉快」とかいう意味ですが、曲や音作りはとてもよくできていて、ドイツ語の与える印象と彼女のはじけっぷりが、あり得ない次元に達してます。オペラも普通に歌える二ナ・ハーゲンは、芸術一家に生まれたお嬢さんでしたが、なぜか、(文字通り)パンクしてしまいました。ドイツではいまでも存在感があるようです。
 1989年の『NINA HAGEN』では、ゴルバチョフを支持するラップを歌っている。ゴルバチョフはそれまでソ連が圧政を敷いていた東欧の民主化を支持し、1990年にはドイツ統一を実現した。そんな時代でした。

  1. 2012/08/25(土) 12:33:09|
  2. 音楽
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庚申さん

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 大窪寺へ行く377号線は、そのまま道なりに進めば徳島へ入ろうかという一歩手前で、急に香川県側へ折れ曲がる。ちょうどその当たりに、四国で一番りっぱな槇川の庚申塔がある。道路左脇、と言っても、道より低いのでちょっと分かりづらい。青面金剛(しょうめんこんごう)が邪鬼を踏みつけ、その下に、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿が彫られています。

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 江戸時代に広がった庚申信仰は、60日に1回の庚申(こうしん、かのえさる)の日に徹夜で飲食をともにして過ごす行事。人間のからだには三尸(さんし)の虫というのが住んでいるらしい。庚申の夜、このムイムイ(讃岐弁で虫)が寝ているあいだにからだから抜け出て、閻魔さまに会いに行く。そして、その人の行状を報告するのだという。そのせいで、寿命が縮まったり、地獄に落ちたりするので、このムイムイが出て行けないように、起きていようということになった。この庚申講を3年続けた記念に庚申塚(庚申塔)を建てたといいます。

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 お遍路さんたちがお参りしています。大窪寺です。旅の終着点、第88番目のお寺です。

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 大窪寺から少し北に行った所にも庚申さんがあります。

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 こちらは、三木町の庚申さんです。

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 これも三木町ですが、町中に近いです。専修寺の南、たんぼを隔てた狭い道路脇に祭られています。

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 庚申信仰の実態を調べてみたいと思っています。まだ、庚申講が一部残っているとも聞きます。

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 こちらは、丸亀市土器町の庚申さんです。瓦の屋根が立派で、大事にしたんだなあと思います。ここはかつて堤防だったと聞きます。

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 これだけ立体的なのは珍しいそうです。

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 最後は、まんのう町勝浦の庚申さんです。かわいらしい感じですが、猿田彦の命(さるたひこのみこと)という偉い神様が祭神です。そもそも三猿もそうですが、申(さる)からの連想です。もっとも、三猿のほうは単なるお遣いですが。

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 少し高い位置の小さなお堂の中に祭られています。ここに来る前、カフェピッコロという知る人ぞ知るおいしい料理の店で休憩し、コーヒーを一杯いただきました。そのお店で、「勘を頼りにここまで漂着したのですが、勝浦の庚申さんを御存知ありませんか?」と尋ねたところ、マスターがお知り合の方にいろいろ電話をかけて尋ねてくださいました。当然、感謝感激で「そこまでしていただなくても・・・」と遠慮したのですが、ちゃんと調べてくださったのです。いい方と出会えると、それだけで、ずっと先まで気持ちが支えられる気がします。 

 下に見えるバス停が、ちょっと味があっていい感じではありませんか?



  1. 2012/08/24(金) 22:23:57|
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うどん県

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 高松駅の入場券です。限定販売。自動改札機には通りません。

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 ふりかけにまでなりました。食べた感想は「うどん!」です。真に迫ってます。しかし、毎日ご飯にかけてると、10日目をすぎるあたりから確実に飽きます。本物ソックリ芸人だと思えば、温かい目で見ることができます。

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 宇多津では神社の神主さんがうどん作りにはまって、境内の一角に開店してしまいました。

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 こなんことになってます。店名は神社の名前そのままの「うぶしな」です。正直言って、相当うまいです。神がかりです。(注:「こなんこと」は讃岐弁で、「こんなこと」。)

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 実は、すべての建物が文化財に指定されるほど、由緒ある神社です。木々に隠されるように建つ本殿は、ちょっと新しそうですが、実はすごいんです。

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 昭和28年につくられた伊勢神宮外宮が昭和49年に移築されたものです。

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 坂出の有名店「蒲生うどん」です。県外の知人が来た際、「どっか、おいしいとこ知らんのかな?」と聞かれ、たまたま、近くをさまよっていたときだったので、初めて寄りました。香川県人としては半人前の、うどん店知らずなのです。しかし、「安っ!」「うまっ!」と、同じ感動を共有。

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 綾川町の「味覚苑」です。”小さいけどおいしいよ”感を醸すこともなく、ずいぶん投げやりな外観です。弟に教えられて知ったセルフのお店です。(注:写真の高級車は私のものではありません。)

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 セルフでも、すごくうまい店がけっこうあります。香川県のうどん屋さんのいいところは、うまくて安いところ。300円で十分満足できるし、400~500円でトッピングも十分になります。

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 2006年の映画『udon』のロケ地です。今は片付いてます。管理人になる人がいなかったのかな???残念。香川県人がうどん好きであることは、間違いありません。亡き父も若いころから、うどん屋情報に敏感で、「うまい」と聞くと飛んで行ってました。私自身の経験ですが、小学生の時、友人の一人が「高松の何やらゆう店がおいしいらしいで」と言い出し、これに、同調者が出てしまったせいで、ただ「うどんを食う」ために自転車で30kmを走破する羽目になりました。

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 映画の「松井製麺所」の玄関にこんな張り紙がしてました。基本的に、香川県人はユーモアがあります。高松駅構内に、瀬戸大橋ができる前の「連絡船うどん」を再現した店がありますが、うまい・まずいを超越して、「あの味」を再現することを使命にしています。6月のイベントでは、「連絡船うどん」そのままに、多少のびたうどんが出されたらしい。



  1. 2012/08/22(水) 23:39:21|
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高梁川近辺の眺め(倉敷市~総社市)

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 この近辺には史跡や重要文化財、近代化遺産などがけっこうあるのだが、まあ、それは置いといて、なんとなく行ってみたくなる「眺め」を集めてみた。最初は、イオン倉敷付近の高梁川を行き来する渡し船の船頭さんがいる所。

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 「水江の渡し」と呼ばれています。大正末期から運航しています。いまは、倉敷市が無料で運営していて、人が来たら随時、向こう岸へ渡してくれます。反対側から渡りたいときは、叫びます。大都市にこういうものが残っているのは珍しい。近々、橋がかかるそうですが、残したいという声があります。

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 ここから少し北へ川べりの道を行くと、行きどまりになる前に140mほどの八幡山の登山口があり、馬と目が合います。

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 頂上は、巨大な岩の塊で「千畳岩(洗浄岩)」といいます。山に穴をあけて高速道路が抜けています。

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 さらに、川を総社市までさかのぼると、50mほどの岩がそびえています。反対側はなだらかな山で、麓に石畳神社があります。神社の奥から、岩の上まで道があります。

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 ご神体です。小さな鳥居までほんの2mほどですが、無理です、特に草履では。両側が切り立った崖になってます・・・。

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 少し、戻って、真備町に入ると、横溝正史が戦争末期に疎開して、その後3年間暮らした家がある。「本陣殺人事件」「獄門島」などをこの家で書いたそうです。

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 中は自由に入れます。

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 すぐ近くの、この池(大池)のほとりをよく散歩していたといいます。

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 タイトルに偽りありで、さらに高梁川から外れて、約130mの石田山。戦国時代の山城がこの向こうにあり、ここに見張り台があったらしい。頂上に大きな岩が見えるでしょうか。

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 1.8mの毘沙門天が彫られています。戦国時代に彫られたといわれています。毘沙門天は庚申信仰で祭られることもあるので(本来は、青面金剛や帝釈天など)、なにかそういうこと?かも知れません。

 真備町は、教科書にのる吉備真備(きびのまきび)の出身地として、また、三善清行の『意見封事十二箇条』の邇磨郷(にまごう)、いまの地名で二万(にま)で有名です。史跡の宝庫ですが、ゆるゆると眺めるのもいいでしょう。



  1. 2012/08/21(火) 22:18:56|
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別子八郎の大蛇退治

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 高松空港のすぐ近く、塩江町の安原下鮎滝を流れる香東川。ガソリンスタンドのうら辺りに、童洞(どうどう)の渕(ふち)はある。伝説では、川底のどこかで鳴門に通じるという。その昔、大蛇が住み、人々を恐れさせていた。これを退治すべく、弓の名手・別子八郎(べっしはちろう)が立ち上がった。

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 しかし、敵も抜かりはない。八郎の弓から身を守るべく、大蛇は頭から鐘をかぶっての登場だ。八郎は知ったことかと、千本もの矢を放つが、ことごとくはじかれてしまう。「ややっ、矢がっ!」と絶句する八郎、大蛇はここぞと鐘を脱いで八郎を食べに出た。が、すかさず八郎は必殺の騙し討ちで、次の矢を放った。傷を負った大蛇は、人間のように「覚えてろよ!」などと余計なことは言わず逃げ去った。

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 さて、塩江に別子八郎の墓があると聞き、「別子」という地名だけを頼りに山奥へ分け入る。

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 その地名へは一本の山道しか通じていない。しかし、茶畑はあれど、何の案内も標識も見当たらない。そうとうマイナーらしい。地元の方に声をかけてみたら、説明しても絶対にわからないからと、案内してくださった。

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 これが、伝説の別子八郎さんのお墓だ。道から外れた山の斜面に、ポツリとたたずむ。

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 ここまで人知れず山奥にあれば、民話でも何でも許容しそうではないか。

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 道端にはアヤメの仲間のシャガがきれいに咲いていた。

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 塩江の国道193号線に近い、「不動の滝」。説明板によれば「阿讃山地の時差的隆起を示す遷急点にあたり、学習的価値がある」。美的価値には満足できたが、学習的価値の方は未だ理解できずにいる。

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 さて、大蛇がかぶっていた鐘がこれです。別子八郎が国分寺に寄進し、一時、讃岐藩主・生駒一正が高松城にお持ち帰りした。が、鐘が「こくぶへいのう(帰ろう)」としゃべり、祟りが起きたので、もとに戻させたといわれる。私なら、しゃべった段階で返します。

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 国分寺には奈良時代の礎石があちこちにきれいに残っています。

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 僧坊跡は建物で覆われ、簡略な実物大模型があります。

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 10分の1・石造復元模型や、版築(はんちく)の壁なども見ることができます。

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 敷地の北西角、木々に隠れている庚申(こうしん)さんです。


  1. 2012/08/19(日) 22:55:59|
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崇徳上皇ゆかりの地

 崇徳上皇は1156(イチコロ)年、保元(ほうげん)の乱で敗れ、讃岐に流されました。日本史上、上皇が日本を一元的に支配する院政を行ったのは<白河上皇→鳥羽上皇→後白河上皇>で、1086年~1185年(鎌倉幕府成立)まで。2番目の鳥羽上皇は、崇徳さんをちょっとだけ天皇にし、すぐにお気に入りの奥さんが生んだ近衛天皇に譲らせます。近衛天皇が夭折すると、後白河天皇に番が回りました。一説によると、崇徳さんは鳥羽上皇の祖父・白河上皇の子ではないかといわれる。それで、鳥羽上皇は彼を「叔父子」、つまり、おじさんと呼んだという。真偽はともかく、鳥羽上皇の死後、院政をやろうとした崇徳上皇と後白河天皇が戦争になった(つまり、院政期、院政は不安定だった)。これが保元の乱。ちなみに、朝廷内での院政は鎌倉時代に安定し、途切れつつ江戸末期まで続いた。

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 讃岐に流された上皇が最初に上陸したのは「松山の津」(坂出市・松山)。近くに館のあった在庁官人・綾高遠(あやのたかとう)の邸宅に3年間住まわれた。「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」と歌う。雲井は雲のいる天上、御所を意味し、思いがけぬ所が御所になった。月の光も雲次第。天保6(1865)年、高松藩主松平頼恕(よりひろ)が雲井御所(くもいごしょ)之碑を建てました。

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 保元3(1158)年ごろ、雲井御所から府中、鼓岡(つづみがおか)の木丸殿(このまるでん)に移りました(のち鼓岡神社)。お亡くなりになるまで6年間ここで過ごされたようです。

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 内裏泉(だいりせん)は、木丸殿のすぐ近く。上皇の飲み水とされた井戸で、一度も枯れたことがない。長寛2(1164)年8月、崇徳上皇はここ府中鼓岡で崩御。都からの指示を待つ間、御遺体を八十場(やそば)の霊水に浸したことは以前述べました。

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 上皇の亡骸は白峯山の稚児ヶ嶽(ちごがだけ)で荼毘にふされた。写真はめったに出現しない幻の滝、稚児ヶ滝。

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 上皇の眠る白峯御陵。高松藩主が代々修復・整備してきた。この付近、スギが生い茂っており、花粉症に苦しむ方にはつらい。

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 これも以前書いたが、かつて白峯寺がこの御陵を管理していた。写真は白峯寺内の頓証寺殿(とんしょうじでん)。崇徳上皇の霊廟で、建久2(1191)年、上皇に仕えていた遠江の阿闍利章実さんという方が鼓岡の行在所(あんざいしょ)を移して、上皇の自画像などを奉納して頓証菩提(とんしょうぼだい=極楽往生)を祈った。現在の建物は延宝8(1680)年、高松藩主松平頼重・頼常が再建したもの。手前の天狗は、白峰山の守護神・相模坊(さがんぼう)天狗。崇徳上皇の霊に仕え、霊域を守護している。

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 白峯寺の十三重石塔。源頼朝が上皇の供養に建てたという言い伝えがあるものの、それぞれ元亨4(1324)年、弘安元(1278)年の銘あり(頼朝さんの死後だいぶ経ってます)。

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 白峯寺からの景色。飯野山が見える。条里制の跡も見える。

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 こちらは雌山(めんやま、手前)と雄山(おんやま)。

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 『保元物語』によれば、仁安3(1168)年、西行さんが白峯御陵でお経を唱え、「よしや君むかしの玉の床とても、かからんのちは何にかはせん」と詠んで、安らかな成仏を願いました。この西行像は江戸時代の人が「西行腰掛石」と伝えられる石上に安置したもの。

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 坂出市王越山の上り口に西行が庵を結んだ跡がある。石碑。

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 こんな感じ(右に石碑がある)。

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 王越山。江戸時代の『雨月物語』(上田秋成)では、平治の乱は上皇の呪いから起こり、西行の前に現れた上皇の亡霊は「平氏一族はことごとくこの前の海に滅びされ」と言った。このとき西行が詠んだのが先の歌とされる。たとい、かつての玉座につかれても、そのようなお姿では意味がありません。どうか安らかにご成仏してください。上皇の霊はこの歌を聞いて安らかな表情で消えていった。

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 王越山から南、この山を越えて西行は白峯寺へ向かったといわれる。現在は、この道はすぐそこで途切れる。

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 五色台、香川県自然科学館付近から見た王越山。中央にせり出した岩の上に立つ勇気はない。すぐ下は塩田跡地。

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 彫刻家・流政之氏の作品がシュールに出現。水平線ぎわに瀬戸大橋も見える。

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 北を見れば、小槌島(手前)・大槌島が、こちらもめっざし(「珍しい」の讃岐弁)光景。

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 1868(慶応4=明治元)年、朝廷は上皇の怨念を鎮めるために神霊を京都に祭った。これは、坂出に勅使がやって来たことを記念して地元の人々が坂出港に作った灯篭。港の工事に際して、昭和43年、「勅使灯篭」は五色台の見える高台の鹽竃(しおがま)神社に移された。

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 神社から東、五色台方向を見る。

 →つづき







  1. 2012/08/17(金) 23:10:45|
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学者のみなさんに、初心者をバカにするなと言いたい

 
 
 お金もないのに、放送大学の講義を1つぐらい受けてみようかなと思い、自転車で10分の施設が見学できるというので出かけてみた。テキストやCDなどを試しに見聞きしてよいと言われ、現象学入門みたいなタイトルのテキストを手に取り、テキストの中ごろより少し前あたりのCDを適当につかんだ。初心者向けのようなので、最初から読むのはだるい。このあたりなら、だいたい話の流れも見えるだろうとの思いだった(専門家ではないが、「初心者ではない」)。何かに触れる手に、もう一方の手で触れるという話が出てくる。というか、延々と続く。“現象学”の創始者、ドイツのE.フッサール、その弟子ハイデッガー、後期フッサールの研究から入ったフランスのM.メルロ=ポンティ(有名なJ.P.サルトルとともに社会的活動も行った)、このあたりがおそらく、現象学番付の横綱だろう。そして、メルロ=ポンティの主著『知覚の現象学』に、上記のような手の話が出てくる(晩年の遺稿集にも微妙に異なった脈絡で出てくる)。ただし、ここで彼が言いたいのは、身体は物体でも意識でもないということだ。
 放送大学のテキストに驚いたのは、選んだCDの部分が、次のような記述から始まっていたからだ。何らかの事物を「それ」として捉える、知的判断の加わった“知覚”と、それ以前の“感覚”・・・云々・・・。だが、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』は、このような感覚概念の否定からまず始まる。著者は、メルロ=ポンティのことなんか語っていないと言うかもしれないが、現象学が最も勢いがあった時期、その中心人物(少なくとも最重要人物の1人)の基本的立場を無視して、初心者に、これが現象学ですというのはいかがなものでしょうか。
 イギリス経験論、とりわけ有名なD.ヒュームは、人間は受け取った感覚以外を知らないので、外界を直接知らない。感覚の習慣的結合によって、知識や「外界」までもが生まれるとした。哲学門外漢の人々から(常識的に)見れば、これが「観念論」ですよ。そして、哲学史上の観念論といえば、これに異を唱えたカントから始まる。カントは、物自体は実在するが、人間は感覚(直観)でこれを捉える。直観は空間と時間という2つの形式のもと、経験世界を形成する(超越論的感性論)。しかし、経験に由来しない、例えば、数学的真理のようなものがある。つまり、経験に由来しない、基本的な認識の枠組み(原因・結果、多数と一、否定、相互関係、存在と非存在、偶然・必然など)がカテゴリーとして存在するという(超越論的分析論)。こうしたカテゴリーを感覚に当てはめる、あるいは、むしろ、感覚をカテゴリーにより取りまとめる力が悟性(ごせい)といわれる。こうして、自然界(感覚世界)に論理的脈絡が与えられる。どのように両者がうまくかみ合うのかを検証する作業を、超越論的演繹という。その際、カントは感性的時間をそもそも数学的に描いて見せたが、ベルクソンはこれこそカントがこけてしまった最大の原因と見た。
 対するに、メルロ=ポンティは全く別のアプローチをした。心理学の世界でも、感覚を事物になぞらえることは普通に行われていて、精神物理学などというものさえ構想されていた。ヒュームも心的要素がばらばらに存在し、これが化学反応すると見た。しかし、メルロ=ポンティの時代、心理学はゲシュタルト心理学とともに新たな段階に至った。テレビなどでおなじみの錯視図が、視覚が最初から全体的な意味を有して存在し、「それ以前」の感覚(生物学的な意味ではなく、心理学的意味での)などは無用の論理的想定にすぎないことを教える。動物がそれぞれの環境世界を生きていると構想したユクスキュルも同時代だ。経験に勝手な枠組みを嵌めるのをやめて経験そのものから出発しようという現象学は、人間的意味に満ちたこの世界を、知性が勝手に覆い尽くして、煤けてしまった絵画のようになったものを、生まれつつある姿に修復しようとした。
 放送大学のテキストの、何らかの事物を「それ」として捉える、知的判断の加わった“知覚”と、それ以前の“感覚”-というカント的記述に驚いた理由、伝わりましたでしょうか?

(補足)
1.もっとも、ベルクソン的に言えば、「意味に満ちた世界」ということは、哲学的にはそれほど有難がることではなく、生命の最下層の段階から存在する知性的なもの(図式化)による抽象に満ちているということであって、そこからさらに、動的な実在へと辿っていく必要がある。現象学の、ありのままを見ようという発想自体が、生まれつつあるものを観想するという幻想だ。現象学のいわゆる「現象野」には生命・精神の足跡が刻まれているが、それを静的に見るなら、むしろ物質の一側面である。大切なのは、持続(創造的な時の流れ)から目を離さないことだ。
2.ゲシュタルト心理学自身は自らのもつ意味を深く理解していなかったことは、メルロ=ポンティが指摘している通りだ。最近では、大脳生理学による、「脳にだまされている」などといった通俗的説明がテレビ視聴者を喜ばせている。われわれは、脳の生み出す世界を見ているのではない。そんなことを言い出せば、錯視図を超えて、世界そのものが脳の中に存在することになる。現実は、われわれの脳が世界の中に存在する。
 われわれは世界を見るというより、そこに関わっている。働きかけられ、働きかけている。われわれのほとんど遺伝的な働きかけの力が強く働くのを、現に感じていることが、錯視といわれる。直線が「実際に」歪んでいるのか否か、本当は誰もよく分かっていない。まっすぐと言われればそんな気もするし、訓練すれば、まっすぐに見える。上下反対に見えるメガネでも、何日もかけ続ければ、普通に見えてくる。身体が世界に対応するのだ。3D映画も、距離を計る目の構造(働き)を利用して成立するが、実際の立体だとは誰も感じていない。それは、そもそも映画が現実でないのに、その世界に入り込むことができることの、延長上にある。どんなにリアルでも、それに向かって実際的働きかけができないのは知っている。私は椅子に座ったままだ。逆に、片目に眼帯をしていても、現実世界は立体だ。平面になんか絶対に見えない(SF映画の2次元人にはならない)。距離が計りにくいだけだ。
 映画『マトリックス』の世界も、ありえない。脳が現に生きているように、指先の神経まで現に生きている。歯も痛けりゃ、蚊に刺されたくるぶしも痒い。脳が痛かったり痒かったりするわけではない。もし、あの映画のような超ハイテクマシンが生み出されたら、半分夢の世界を彷徨うことはできるかもしれない。
3.昔流行った『ソフィーの世界』という童話は、イギリス経験論の観念論的世界観を軸に、現代哲学の視点を完全に欠いた哲学史(骨董品の陳列)を叙述していた。骨董品の陳列場ではあるが分かりやすい哲学史の本は、それまでにもたくさんあった。童話でひきつけた点が画期的だったわけだが、しかし、あんな観念論的世界観で哲学を印象付けたのは、私は害悪だと思う(D.ヒュームなどを現代的視点から読み直すなら有意義だが)。


  1. 2012/08/16(木) 12:38:04|
  2. 哲学する
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苫田ダムと人形峠

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 岡山県津山市から179号線を北上すると鏡野町に至り、苫田ダムの横を通り越して、そのまま鳥取県との県境まで行くと、人形峠だ。訪れたのは2月下旬。

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 苫田ダムによって出来た湖は地名から奥津湖と名付けられた。

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 島になった所へ大きなつり橋がかけられ、歩いて行ける。城峪城(しろざこじょう)と呼ばれる城跡らしい。古代吉備文化財センターによれば、室町時代の初期、山名氏と赤松氏の争いが激しく、久田荘(くたのしょう)の村人が自衛のために築いたと推測される。

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 この島を後にして、しばらく進むといくつか石碑が建っている。そのひとつがこれだ。石碑の最後には「昭和三十三年・・・苫田村々民一同」と刻まれている。左の説明には「団結之碑」と書かれ、苫田ダム建設が公にされた1957(昭和32)年から地元の反対運動が起き、1994(平成6)年まで続いたことが記されている。ことの是非は置いても、こうした問題では、住民側が絶対的に不利だ。生活がかかっているからだ。運動そのものに限界があるし、さまざまな圧力がかけられる。片や、作るのが仕事で、そのための努力で食べている人たちだ。

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 上流に公園が整備されていた。美しい自然に囲まれた地域だが、湖底に沈んだ村に生きた人々の心は複雑だ。直接関係ないが、このまえBSで90歳を超えた戦争経験者の方が、「話し合いましょう」と言ってれば、あんなに人を殺さずに済んだ、戦争は愚かなことだと、横になったまま深い皺の奥からジッと人間の行く末を見るような目で、とぎれとぎれに語っておられた。

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 人形峠の近く。このあたりになると突然、境目がついたように雪で覆われる。

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 人形峠展示館(3月いっぱいで行政改革で閉鎖)・アトムサイエンス館などがある。

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 リンカイウラン石。ちょっと恐い。原発事故のあと、毎日新聞が人形峠のことに触れていた。汚染残土が長い間放置され、裁判の結果、やっと2005年から除去されたという。採掘は1958年から63年まで行われ、働く人には「安全だから」と防塵マスクも配られなかったという。

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 妖精の森ガラス美術館というのが、やはり雪に埋もれて建っていた。そこで買ったウランガラスの小さな置物。こういう作品ジャンルがあるのをはじめて知った。

  1. 2012/08/14(火) 15:24:11|
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男木島(おぎじま)灯台・高松市

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 1957年の映画『喜びも悲しみも幾年月』のロケが行われた、男木島灯台へ行くには、高松港からフェリーで40分。途中、女木島(めぎじま)に寄港する。女木島港から高松方向を振り返る。女木島には鬼の洞窟といわれるものがある。おそらく、海賊の隠れ家跡と思われるが、うらぶれた遊園地のように鬼の人形が飾られている・・・。

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 目的の灯台は島の反対側。帰り道は、山に登って、タンク岩・ジイの穴を見学予定。船は2時間に一回しか寄らないので、時間に注意。

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 海がとてもきれいだ。若いころ行った高見島も水がきれいで、水深4・5mのところが真水のように海底が見えていた。 

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 映画は、佐田啓二と高峰秀子の灯台守夫婦が25年に渡って日本各地の灯台をめぐるロードムービーで、確か、こんな道を彼らの子どもたちが自転車で行くシーンがあった。舗装はしてなかった。舗装のない道はそれなりに味わい深い。現在の道路たるや、舗装だけで飽き足らず地面にやたらペンキで字を書き、標識がグサグサと立てられて、数学のノートかというぐらいに景色を味気なくしている。もっとも、昔の道は砂埃がして、外で遊んだ子どもたちの顔は真っ黒けだった。その世代の者は誰しも、母親にハンカチで拭いてもらった記憶がある。

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 見えてきました。ここはこんなに風光明媚だが、映画では、北海道の厳しい自然や、人のいない島での生活も描かれている。

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 この灯台は1895(明治28)年、日清戦争後の海運助成策で造られた。今も現役だが、1987年から無人化されている。

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 職員住宅だった建物は資料館になっている。

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 映画のポスターやなんかも。

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 人物の後ろの壁が、先ほどの灯台の後ろのと同じです。

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 ロード・ムービーといえば、山田洋次監督の『家族』や、清水宏監督の『蜂の巣の子供たち』なんかがすばらしいが、昔の映画は素朴でまっすぐな人々を感性豊かに描いていて、人生は美しいとしみじみ思わせてくれる。

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 先の映画のシーンはだいたいこの位置でしょうか。

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 覚悟を決めて、ゆっくりと山へ上がっていきます。

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 わーっ、これだけでも、ちょっとえらいめしても来た甲斐があった。

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 映画は、息子の死など悲しみを乗り越え、娘の幸せな旅立ちをクライマックスに、(どこの灯台だったか?)老夫婦が力強く丘の上の灯台を目指して歩くラスト・シーンで、有名な主題歌が感動を盛り上げて終わる。

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 島じゅうに咲いているのは、スイセンの花です。

  1. 2012/08/13(月) 01:22:27|
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飯野山(丸亀市・坂出市)

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 丸亀市・宮池から見た飯野山。標高421.9m。崇徳上皇の亡くなった3年後、岡山県から三豊市三野町に上陸し、白峰御陵まで旅した西行さんは、「讃岐には これを富士と いひの山 朝げの煙 たたぬ日もなし」と歌っています。

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 頂上まで小一時間かかります。ルートはきつい直登コースより、ぐるっと回るほうが景色も道もいいです。幼稚園の頃、今は亡き父と犬を連れて直登コースを行き、えらくて(通じない地方もあるようです→「しんどくて」の意)泣きそうになりました。写真は、瀬戸大橋を見たもの。

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 摂政宮の歌碑に刻まれているのは、のちの昭和天皇が大正11(1922)年、陸軍大演習で香川県を訪れた時に詠んだ歌です。「暁に 駒をとどめて 見渡せば 讃岐の富士に 雲ぞかかれる」。平成17年に新日本百名山に選ばれた記念の石碑が右。

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 頂上につくとまず目に入る巨石。先に述べた幼稚園時の登山で、この岩に腰かけた際、父に「それで火山にフタしとんぞ。乗っりょったら、ボカンゆんぞ」と脅かされ、「うわーん!」と、疲れもろともからだが吹っ飛んだのを覚えている。

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 道の途中に、こんな溶岩がながれた跡みたいなところもあるが、丸亀市のHPによると、火山ではないらしい。標高200m以上の部分は、いわゆる「カンカン石」(古銅輝石安山岩、残念ながら、五色台のほどよい音がしない)で、標高200m以下は、花崗岩で、恐竜のいた中生代のころの溶岩が固まったものらしい。

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 頂上付近は巨石が多く、磐座(いわくら)信仰といって、巨石に神様が宿ると信じられた。写真は、「おじょも(という巨人)の足跡」と言われ、有名です。おじょもがオムスビのようなけっこい(きれいな)山を作ろうとして、うまくできたのが飯野山で、失敗作が青野山と象頭山(ぞうずざん)。足跡は、おじょもが飯野山と象頭山に足をかけ、おしっこをしたときにできた。そのおしっこが流れたのが土器川といわれる。

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 飯野山から見た土器川(左右に流れる)。左隅が象頭山。おじょものしょんべんが飛び散って池になったという話もある。香川県のため池の数は14,619。その数は日本第3位だが、面積が日本一狭い香川県のこと、その密集度は日本一です。特に、空海の指導による満濃池は日本最大です。

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 ねこも登山してます。

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 イヌも登ってます。下山するとき現れ、しばらく前を歩いては、日陰で待っているということを繰り返し、ずっと同行してくれました。いまもどこかで、達者で暮らしていますように。

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 宇多津金毘羅街道の垂水茶堂跡(ここらへんで土器川を西へ渡った)からの、讃岐富士(飯野山)。

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 まんのう町の大川山(だいせんざん)・標高1043mから見た風景。左端に象頭山、その手前に満濃池。飯野山は中央よりやや右寄りに薄く見える。

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 これです。

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 青野山から見た飯野山。

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 丸亀城から見た、明け方の飯野山。



  1. 2012/08/11(土) 16:50:04|
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阿伏兎(あぶと)観音(福山市)

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 どうですかこの絵になる存在感。国の重要文化財でなくても、行きたくなったでしょう。福山市の阿伏兎(あぶと)観音は、かの有名な”鞆(とも)の浦”から少し西、岬の突端にあります。と言われても、どの有名な何の浦だって!?と思うかもしれない。鞆の浦は、ポニョの舞台のモデルになった町です。坂本竜馬がいろは丸事件で潜伏した町で(その家もあります)、いろは丸の遺留品の展示館があります。養命酒の元祖みたいな保命酒が有名で、安政の改革を行った老中・阿部正弘は福山藩主で、ペリーに保命酒を飲ませたそうです。信長に追放された足利義昭が鞆幕府を開いた所でもあります。きりないので本題に戻ります。

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 上から見るとこんな感じです。

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 高い。廊下が狭い。お尻がきゅーっとする。

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 廊下が外に向けて傾斜していて、滑りやすい靴下だと、きゅーっが倍増する。

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 ひたすら海。恐くて、爽快だ。

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 ここの説明は掲示板にまかせますが、間に合ってる方は、次へどうぞ。

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 前後しましたが、ここが入口で、拝観料・大人100円です。実は、入ってすぐの、どうでもよさげな光景が、主たる目的でここに来ました。

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 映画『荷車の歌』で、主人公セキが歩くことができない娘オト代を連れて巡礼の旅に出て、オト代が初めて歩いた場所が、ここです。1959年につくられた映画は群像劇に近いジャンルで、戦前の農村女性の、本当にきびしい日常を描いています。貧しすぎて、よその家にもらわれていったオト代のパワーが、この映画に明るさを添えていて、最後はハッピー・エンドなのがいい。


  1. 2012/08/09(木) 22:57:28|
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高鉢山の風穴(ふうけつ)

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 綾川町に高鉢山というオムスビ型の山があります。飯野山が一番有名な讃岐七富士の一つです。ここの頂上付近、キャンプ場近くに風穴があります。

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 夏の山は、できるだけ遠慮したい。ヘビだの蜂だのが多い、特に、クモ・昆虫が激増するからいやだ。いきなり、ハエがブーンとよってきたり(食べ物じゃないぞー)、カがプイーンと攻めてくる(「ウワオッ!」)。そんな状況だったので、ここを入るのは多少勇気がいった。ハチとか来たら、逃げ場がない。
 ところが、一歩入ると冷気が・・・も、もう、この段階で?

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 角を曲がると、ハイ、行き止まり。洞窟ではありませんでした。しかし、この涼しさは、とりあえず満足。冷蔵庫なみ。温度計がある。

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 5度です。この日、最高気温は34度。冷気はどこから??? この石組の奥は、どうなってたんでしょう?
 ちなみに、キャンプ場は建物も古びて侘びさびて?ます。「風穴」の看板も壊れかけで、最初気づかず、自動車で通り越しました。気づくと、下り坂で急に狭くなり、草木深しの森がアスファルトの上にモリモリ越境し、クルマの両側を枝葉や草が擦り始める。どっかで回さなきゃと思うが、道は狭くなる一方。「うねうねの山道をとてもバックできない」と泣きたい気持ちで、進めば進むほどバックすべき距離は長くなる。どっかで「回せる」ことを信じて前進、開けた所に出たときは、うれしいやら、夢に見そうな気持ちやらで「トホホ」感がどっと湧いた。さらに、風穴見物のあとクルマに乗って、カーナビなんぞをいじっていると、クルマに何かが繰り返し当たる。ポテ、ポテ、ポテと、スズメバチが愛車を攻撃している。外にいるときでなくよかった。これってラッキーなのだろうか?
  1. 2012/08/08(水) 22:09:16|
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哲学書の翻訳について

 突拍子もないように思われたら、申し訳ない。今回、こんな話がしたくなった。哲学書の誤訳について。ただし、以下の例はたまたま挙げただけで、特にこの先生だけがどうこうという話ではないし、もちろん、ご功績の大きさを否定するものでは全くありません。(必死

 このような翻訳文に出会った。

 しかし、直観は知性によってのみ伝えられる。直観は観念以上のものである。しかし、直観が伝えられるためには、観念の上にまたがらなくてはならない。少なくとも直観は、むしろ最も具体的な観念に向かうが、そのような観念のまわりには、まだイメージから成る境界領域が残っている。ここでは、比較とメタファーが、ことばでは表現しきれないものを示唆するだろう。それはまわり道ではない。われわれは目的に向かってまっすぐに行きさえすればいいであろう。もしもわれわれがいわゆる≪科学的な≫抽象的なことばでいつも語っているならば、精神については、物質によるその模倣しか与えられないであろう。というのは、抽象的な観念は外側の世界から得られたものであって、いつも空間的な表象を含んでいるからである。しかしそれにもかかわらずひとびとは精神を分析したのだと考えるだろう。したがって、抽象的な観念だけに頼ると、われわれは物質をモデルにして精神を表象し、移しかえることによって、つまり、ことばの明確な意味でのメタファーによって精神を考えるようになる。外見に欺かれてはならない。イメージを使う言語が意識的に正確に語り、抽象的な言語が無意識的に比喩で語るばあいがある。われわれが精神の世界に立ち入ろうとき(印刷ミス「立ち入ろうとするとき」)、イメージは示唆しか求めないかもしれないが、対象について直接理解するようにさせてくれる。これに対して抽象的な用語は、その起源が空間的であって、表現すると主張してはいるが、ほとんどのばあいメタファーの領域にわれわれを留めるのである。[思考と運動(上)ベルクソン、宇波彰訳、55~56頁]

 あまりに、意味が通じないので、原典にあたってみた[ŒUVRES,BERGSON,P.1285]。訳のおかしいところが分かるように、できるだけもとの文章を残した。また、(  )で多少、説明を加えた。

 しかし、直観は知性によってのみ人に伝えられる(se communiquera意訳)。直観は観念以上のものである。しかし、直観が伝えられるためには、観念を乗りこなさなければならない。少なくとも直観は、まだ様々なイメージとの不分明な境界に囲まれた、最も具体的な観念(それほど抽象的ではない観念)に向かう傾向がある。ここでは、比較とメタファー(隠喩)が、ことばでは表現しきれないものを示唆するだろう。それはまわり道ではない。われわれは目的に向かってまっすぐに行きさえすればいいであろう。もしもわれわれがいわゆる≪科学的な≫抽象的なことばでいつも語っているならば、精神については、物質によるその模倣しか与えられないであろう。というのは、抽象的な観念は外側の世界から得られたものであって、いつも空間的な表象を含んでいるからである。しかしそれにもかかわらずひとびとは精神を分析したのだと考えるだろう。したがって、抽象的な観念は自ずと(toutes seulesを「だけ」とした初歩的な誤訳)、われわれが物質をモデルにして精神を表象するよう仕向け、また、置き換え、つまり、ことばの正確な意味でのメタファー(全く別のもの―この場合、空間的なもの―で「置き換え」る)によって精神を考えるよう仕向ける。外見に欺かれてはならない。比喩に富んだ言葉が本来の意味で意識的に語り、抽象的な言葉が比喩的な意味で無意識に語るばあいがある(ちょっと、言葉遊びしすぎかも・・・意味はのちほど)。われわれが精神の世界に立ち入ろうとするとき、比喩的表現はただ示唆に努めるのみであるにもかかわらず、これを直接見せてくれる。これに対して、空間的起源をもち、何かを明示しようとする抽象的な用語は、大抵のばあいわれわれをメタファーの中に置き去りにする。

 ここで、ベルクソンが言いたいのは以下のことだ。言葉は物質的世界を扱ったり、社会生活に適応するためにあるのであって、外界にはうまく適合する。しかし、精神に向かうようにはできていない。言いかえれば、精神の日常的姿勢は外界に適合しようとすることであり、己れに向き合うことではない。この意味で、ベルクソンの言語観は全くプラグマティックである。しかし、プラグマティズムがいわゆる哲学に批判的なのは、カントが実体への不可知論を唱えたのと同じ病根によるのであり、すでに言葉の術中に入り、外界にのみ適合する仕方-つまり、利益を引き出すために空間的、数学的区切りを入れ、足場を形成することで、運動の代わりに不動性を、真に創造的な持続(ベルクソンの最重要概念だが、ここでは感じるがままの“時の流れ”と考えてください)の代わりに永遠性を、ニュアンス豊かな心の代わりに空虚な概念を、etc.etc.を用いるような仕方-で精神に向かうことによる。人は、ベルクソンがよくわからぬ隠喩を語るとして批判し、精神を物質的・空間的なもので語ることを「分かりやすい」(一つ一つの言葉がストレートに対象を明示する)ものとして受け入れる。しかし、これこそすでに精神をモノと置き換える隠喩なのであり、人はこのことに全く無意識である。実在する精神を明示する言葉がない以上、これを様々な角度から、そうではないもの・それと似たものと「比較」しつつ、これを指し示す他なく、こうして語られる言葉はひとつの焦点に向けられた「隠喩(メタファー)」に留まる。しかし、それらが一つの焦点を結ぶとき、言葉による障壁が崩れただけなのであって、目の前にすべてがありありとしていることに気づくだろう。逆に、外界を捉える用語で代用し続けるなら、いつまでたっても精神は代用品(空間的隠喩)の中に置き去りにされるだろう。

 哲学書には実は誤訳や、なんだか意味が通じていない文章がけっこうある。場合によっては、誤訳だらけだ。有名な著作の訳で、非の打ちどころがない完璧なものは確かにある。そんな方は、哲学者として心から尊敬できる。が、得てして、それだけの評価を得られてはいないように思う。細谷貞雄先生の『存在と時間』などは名実が伴った希少な例だろう。
  1. 2012/08/07(火) 16:08:06|
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田宮坊太郎の墓

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 金毘羅へと向かう丸亀街道が始まってすぐ、南条町に立つ「田宮坊太郎の墓」を案内する道標。これを見た旅人の胸の高鳴りや、「おおっ!これだゼッ!」、「ほんに、ほんに」という声が聞こえてきそう。歴史を今に伝える遺物をアスファルトに沈めてはいけません。

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 そして、これが玄要寺内にある坊太郎の墓(正面奥)。昭和13年の『丸亀商工案内』によると、浄瑠璃や大衆小説、講談、演劇などでおなじみの話で、始まりは寛永2年、生駒氏時代に山北八幡宮の改築があった際のこと。足軽・田宮源八が藩士・堀源太左衛門に惨殺された。源八の妻ツジは妊娠中であったが、翌年、坊太郎が生まれた。大きくなった坊太郎は父のことを聞き、敵討ちを決意。江戸で柳生流を学び、17歳のとき、父の亡くなった八幡宮馬場先で敵を討った。-(以上、要約)と述べ、名物「坊太郎餅」を紹介している。このころまでは、全国区な話であり続けたのでしょう。残念ながら、私自身はそのようなお菓子の幻にも出会ったことがない。

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 実は、玄要寺は京極氏の菩提寺で、地元を愛した名君6代・高朗(たかあきら)さんの墓所があることで有名。歴代藩主で唯一丸亀にお墓がある。以前紹介した、団扇の生産や庶民に開放した敬止堂設立のほか、歴史書『西讃府志』の編纂など、多くの治績を残した。ちなみに、『西讃府志』によると、田宮坊太郎の話は史実かどうか不明。今では、ほぼ講談話といわれている。

 ついでに、以前紹介した尼崎里也さんの敵討ちは正真正銘の史実ですが、『西讃府志』から、仇討場面とその後を要約します。里也さんが伝内の脇腹に切りかかると、伝内はこれを払って切りかかる。里也さんは身軽にこれを受け流し、左肩先に切りつけて伝内を負傷させた。これで「タヂタヂ」となった伝内に対し、すかさず、「大袈裟に乳の下まで」切りこんで、「アッ」とうつ伏したところへ乗りかかって、「静かに首をかきおとし」た。そのあと、検使に礼をして、泣きながら帰って行った。のち、召し出して姫君に仕えさせ、名を永井と改め、永井の局と呼んだとある。
  1. 2012/08/06(月) 20:39:57|
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「一太郎ヤーイ」(多度津・桃陵公園)

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 多度津の桃陵公園に建つ「一太郎ヤーイ」の像。私はかつて少林寺拳法をしていたので、桃陵公園にある本部道場にも何度も行き、この像のあたりから多度津港や、丸亀・善通寺あたりの山々をよく見た。雷電為衛門の名が刻まれた金毘羅鳥居の下もよく通った。

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 こんなお店があるぐらい、「一太郎ヤーイ」は有名である。観音寺市史によれば以下のとおりである―大正七年からの尋常小学校国定教科書読方の「巻七」に、「一太郎ヤーイ」という教材がある。これは豊田村出身池之尻の岡田梶太郎が日露戦争に出征の際、多度津港における母子感激の行動が向西第十一師団長・佐々木知事を感動させた。その光景が教材となったものである。―以上。
 年老いた母が港まで歩いて見送りに来て(ちょっと歩いていく距離じゃありません)、「一太郎ヤーイ、天子様にご奉公しろー、聞こえたら鉄砲をあげろー」と叫んだいうような話だ。軍国美談として有名で、のち映画にまでなって高峰秀子も出演している(1931年)。

岡田母子

 しかし、戦争で負傷したこともあり、実際の母子は極貧にあえいでいた。朝日新聞のスクープで大問題となり、全国から寄付が集まったり、母子を讃える動きが起こった。戦争の是非は置いても、(物語と生きた人間に対する姿勢の)順序が逆だったことが悲しい。写真は、大正11年の大演習の時、摂政宮殿下を奉迎しようとする母子の姿。

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 先ほどの柳原菓子店の内部。「一太郎せんべい」は昭和36年から販売。レトロなお店で、個人的には「面せんべい」のほうが好きである。

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 ついでに、多度津町立資料館。武家屋敷に建つ。周辺には武家屋敷の姿が少し残る。多度津藩の建物配置などは、一般に公開される資料があまりないが、興味のある方はここに尋ねてください。

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 林求馬邸。多度津京極藩はぎりぎり大名の1万石(3万石以下は城をもたず、陣屋のみ)。幕末、外国軍の攻撃に備えて、陣屋を内陸部に引っ越す計画が持ち上がり、まずは家老・林求馬さんの家が三方を山に囲まれたこの奥白方に引っ越した。ちょうどここで明治になり、殿の引っ越し話は無くなった。

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 建物の展示物は、求馬さんの養父で第7代家老の林直紀(林良斎)さん関係の資料がほとんど。この方、洗心堂で大塩平八郎さんに学んだ陽明学者!大塩平八郎の書などがいっぱいある。左手に見える建物が多度津の堀江にあった良斎の私塾・弘濱(ひろはま)書院を新築復元したもの(もとは藁葺き)。ともかく、多度津で大塩平八郎さんの直筆に出会えて感激。
  1. 2012/08/05(日) 22:31:33|
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井上通(いのうえ・つう)さん

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 丸亀城の北西角に立つ、井上通(いのうえ・つう)さんの像です。父は井上儀左衛門本固といい、1670~85年にかけて町奉行をした儒者です。母は井上氏配下の足軽・渡辺家の出身。像が建っている(立っている?)のは、母が住んでいた御手廻(おてまわり)長屋のあった場所で、通の生誕地。
 12歳ぐらいで「源氏物語」は当たり前、「古今集」やら、「四書五経」まで読んでいたというから賢い。”少女博士”と噂になり、23歳から養性院の祐筆として江戸で8年間暮らした。養性院とは、(京極氏としては)丸亀初代藩主・京極高和の正室で、ときの藩主(つまり2代目)高豊の養母。通さんは、養性院が亡くなって帰郷、30歳で結婚して3男2女を儲けた。江戸藩邸日記などを残す。
 養性院のダンナ京極高和のおじいさん・高次は、浅井三姉妹の初を正室としたことで有名(2人の間に子はない)。もともと京極氏は、源氏の佐々木氏の子孫で、室町時代には近江などの守護として、浅井氏の主家に当たるが、下剋上で浅井氏に仕えた。養性院のおじいさん藤堂高虎も浅井氏に仕えていた。両氏ともナンダカンダあっても、うまく切り抜けて近世大名として生き残った。
 井上通の日記には、大名家同士の婚姻関係から、エライサンの名がいろいろ登場する。養性院の弟・高通(伊勢久居藩5万石)は、西山宗因に学んだ人で、通の才能のよき理解者。養性院の生んだ阿久里(おくり)のダンナ対馬守・宗義真(10万石格)は木下順庵門下の雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)を登用した名君。その二人の娘のダンナ亀井玆親(これちか)(石見・津和野藩4万3千石)も新井白石に学んだ名君。養性院の妹たちも、大名家の正室などになっているが、ダンナが早世するなど不運な者もいる。彼らが行き来すると、手土産がまたバカな金額になる。のんきなセレブたちの日常が見えてくる。
  1. 2012/08/03(金) 17:55:47|
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女性の敵討ち・尼崎里也

 赤穂浪士の討ち入りから3年後の1705(宝永2)年、江戸で今度は18歳の女子が父の敵を討った。江戸の町民は拍手喝采、大評判になった。

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 その娘さんの名は、尼崎里也(あまがさきりや)といいます。丸亀市の風袋(ふうたい)町に住んでいました。写真は、その自宅跡を示す石碑ですが、今は丸亀市資料館の石造物コーナーの一角にあります。お父さんは尼崎幸右衛門という侍で、奥さんが評判の美人でした。これに、岩淵伝内といういかにも悪そうな名の同僚が付きまといました。これをとがめた尼崎幸右衛門に伝内が逆切れ、殺人事件となりました。

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 写真の通り奥の右あたりが、風袋町の尼崎里也さん宅跡。幸右衛門の娘・里也さんは、敵・伝内を探すべく江戸に向かい、旗本永井源助さん宅に住み、剣術まで教えてもらい、ついに敵・伝内を発見、江戸藩邸に許可をもらいに行きました。殿・京極高或(たかもち)は子どもながら「あっぱれ!」と全面協力。見事敵討ちを果たした里也さんを取り立てました。

 ちなみに、私の立っているすぐ左に「しょうゆまめ」で有名なお店がありますが、ここは6代・京極高朗さんが庶民教育のために1825年につくった敬止堂の跡です。藩校・正明館(1794年~)は今の東中学校グランドにありました。明治3年にこれらが合体して明倫館になり、明治5年に丸亀郷校、同年、学制発布により第一小学校となり、のちの小学校の起源となりました。藩校・正明館に掲げられた「明倫(明なるともがら)」の額は丸亀市立城北小学校に伝えられ、私が小学生のときは校長室にあったが、今は市が保管しています。

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 風袋町をもう少し紹介します。公式には「ふるたいまち」で、地元の人もビックリなどうでもいい事実。譜代町がなまったという説がある。譜代の下級武士の町だったようです。この写真右下に「旧雑賀町」とあります。雑賀衆のうち、京極家に仕えた17家がありました。

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 右下「旧鉄砲町」とあります。雑賀町の隣です。

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 京極鉄砲隊です。

PS 以下は後日のブログに記したものですが、初めて見てくださる方の便宜のため、ここにも載せておきます。

 『西讃府志』から、仇討場面とその後を要約します。里也さんが伝内の脇腹に切りかかると、伝内はこれを払って切りかかる。里也さんは身軽にこれを受け流し、左肩先に切りつけて伝内を負傷させた。これで「タヂタヂ」となった伝内に対し、すかさず、「大袈裟に乳の下まで」切りこんで、「アッ」とうつ伏したところへ乗りかかって、「静かに首をかきおとし」た。そのあと、検使に礼をして、泣きながら帰って行った。のち、召し出して姫君に仕えさせ、名を永井と改め、永井の局と呼んだとある。

  1. 2012/08/01(水) 22:06:53|
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犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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