どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

小村田之助(おもれたのすけ)(高松市)

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 高松市小村(おもれ)町にある、小村田之助のお墓です。毎年、4月24日の命日には法要が行われています。

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 石碑の裏側です。寛永19(1642)年、松平頼重が高松藩初代藩主になった年は歴史的大干ばつで、餓死者さえ出ていました。田之助は庄屋をしていましたが、農民の窮状をほおっておけず、藩に訴え出ました。

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 年貢を2回に分けて分納させてほしい、もし、足りなければ自分が代わりに収めるというものでした。藩は分納を認めましたが、田之助は死刑と決まりました。

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 説明にあるように、田之助の死を悲しむ歌が伝えられています。

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 こちらは白旗神社といいます。言い伝えによると、殿さまが打ち首中止の命令を出し、処刑場に近づいた伝令が間に合わぬとみて白旗を上げて合図したが、刑は執行されてしまった。そのとき白旗を振った場所にこの神社がつくられたといいます。殿さまが中止しようとしたというのは、どうも怪しい話ですが、田之助の命を惜しむ農民の気持ちは真実です。

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 処刑場跡の碑です。寛永21(1644)年4月24日、享年21歳でした。はじめに紹介したお墓が住居跡につくられたのは、その222年後の慶応2(1866)年です。それまで許されなかったのです。
 このような代表越訴(だいひょうおっそ)型一揆は17世紀後半に多く、自分の身を犠牲にした人を義民といい、農民たちは物語にして後世に伝え、神として祭りました。17世紀末には、惣百姓(そうびゃくしょう)一揆(普通に連想される一揆)が多くなります。また、だんだん格差社会に拍車がかかって階層分化が進み、18世紀後半には、村方騒動といって小百姓が豪農(村役人)を追及するようになります。そして、幕末には政治的色彩の世直し一揆となります。

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 この付近にある、琴電・元山駅です。高松電鉄開業時(1912年!)から残る唯一の駅舎です。

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 シンプルなつくりです。

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 こんな小さな駅にも、かつては駅員さんがいらっしゃったんですね。合理的って、なんか寂しいと思うのは私だけだろうか。世の中、ゴリゴリでいいのだろうか?


  1. 2012/09/30(日) 21:18:35|
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中の池遺跡(丸亀市)・紫雲出山(しうでやま)遺跡(詫間町)

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 朝鮮半島を経て、農耕が九州北部から日本に伝わったのは紀元前5世紀ごろといわれています。弥生時代の幕開けです。県立丸亀競技場の北に、紀元前3世紀~1世紀ごろの環濠集落(かんごうしゅうらく)・中の池遺跡があります。

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 だだっぴろい駐車場などになっていて、今も何か工事が続いています。図のように、環濠(=ほり)が何重にも取り巻いた集落跡です。環濠は戦争に備えたものです。縄文時代は1万3000年前というとんでもなく昔に始まったのですが、この長い期間に戦争の痕跡はありません。こじんまりとした(20~30人)集落でじっとしてたわけではありません。有名な黒曜石(こくようせき)やサヌカイトなど、特定地域でしか取れない石器の原料が驚くほど遠方にまで伝わっていて、交易が盛んだったことが知られています。とにかく、人間は遺伝子的に戦争をする動物ではないことが実証されています。

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 世界のどこでも、余剰生産物があらわれるとともに戦争が起きています。人間の至らなさから戦争は繰り返されましたが、同時に、人類は早くから平和を求め続けました。儒教の「仁」、仏教の「慈悲」、キリスト教の「愛」、イスラム教の「喜捨」(弱者救済)など、すべてやさしさの中に最高の価値を見出しています。また、戦争はたびたび嘘でも「平和のため」という理由付けがされました。近代以降、国家と個人との関係は複雑化し、戦争が金儲けの道具になったり、情報操作が(戦争や価値観などについて)人々を仮象の中に陥れたりしました。しかし、それでも現代では、戦争はこの世の中で何よりも避けなければならないものという認識があると思います。
 ここからも飯野山がよく見えます。狭い香川県では、たぶん、10万年ぐらい前の旧石器時代人も同じ景色を眺めたことでしょう。

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 こちらは三豊市詫間町の紫雲出山(352m)遺跡です。弥生人親子?が迎えてくれます。復元した竪穴住居・高床倉庫は多少、発掘位置からずれているそうです。ここは、弥生時代中期から後期にかけて出現する高地性集落の一つとして教科書にも紹介されています。西日本に多く、やはり戦争に備えて、見張りや逃げ城の役割を果たしたと考えられています。この弥生人のお父さんの視線の先に、紫雲出山遺跡館があり、中には喫茶コーナーもあります。夏や冬などは、目が「中に入れてー!」と訴えています。

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 紫雲出山遺跡館の展示です。

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 弥生土器です。縄文土器より質がよく、弥生土器・お米・金属器が昭和の「三種の神器」みたいなものでしょうか。古墳時代には土師器(はじき)と言われ、最新の須恵器(すえき)に負けてしまいます。

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 残念ながら、ここには実物が少なく、写真などが中心です。

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 窓からの景色がすばらしい。

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 普通なら、これを眺めながらコーヒーを飲むところですが、タダのものばかり堪能しました。

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 展望台からの風景です。少し下の駐車場にも展望台があって、そこからの景色も格別です。

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 荘内半島全体がとても風光明媚で、夕日も美しく、ドライブに訪れる人が多いようです。

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 道端には彼岸花が咲いています。ちなみに、梅雨時にはアジサイが咲き誇っています。

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 出土品は詫間町考古館でたくさん見ることができます。

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 土器以外にも、樹木を伐採した石斧などもあります。

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 弥生時代らしい品々。左は、稲穂を摘み取る石包丁、右は、ご飯を盛った高杯(たかつき)です。

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 発掘の様子です。

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 武器として、殺傷能力を増した石鏃(せきぞく=矢じり)です。中国の史書『後漢書』東夷伝や、『魏志』倭人伝には、2世紀後半に、日本で大きな戦争があったと書かれています。

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 こちらは短剣です。そのほか、鉄の板も展示していました。6世紀までは、国内では鉄を生産できず、朝鮮半島からもたらされていました。

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 以下、詫間町の風景を紹介します。弘化四年(1847年)の「諸大龍王」の碑。竜神や乙姫を祭り、海上安全などを願ったものといわれています。

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 その後ろにあるのが、浦島太郎と両親の墓です。

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 恐竜が出現しそうな気がします。詫間町には、浦島伝説が残っています。荘内半島と島々のことを「浦島」と呼び、付近の地名には、「箱」「生里(浦島太郎の生まれた里)」「仁老浜(浦島太郎が余生を過ごした)」などがあり、そもそも、「紫雲出」は箱から出たけむりのことです。

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 ここ「鴨の越」は浦島太郎がカメを助け、酒を飲ませた場所といわれています。左の島は引き潮の時にだけ渡れます。干潟と美しい夕日で有名です。




  1. 2012/09/29(土) 20:06:51|
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日中の領土問題に関する9.28付け『ル・モンド』紙

Pékin accuse à l'ONU le Japon d'avoir volé les îles disputées

Le Monde.fr avec AFP | 28.09.2012 à 07h21 • Mis à jour le 28.09.2012 à 08h10

Le ministre des affaires étrangères chinois, Yang Jiechi, a accusé jeudi le Japon d'avoir volé à la Chine les îles en mer de Chine orientale que les deux pays se disputent.
"Le Japon a volé ces îles en 1895, vers la fin de la guerre sino-japonaise et a forcé le gouvernement chinois à signer un traité inégal pour lui céder ces territoires", a affirmé le ministre à la tribune de l'ONU, ajoutant que ces îles font "partie intégrante du territoire chinois depuis l'antiquité".
"Le soi-disant achat [des îles] ainsi que les autres actes unilatéraux entrepris par le gouvernement japonais constituent une grave violation de la souveraineté chinoise", a-t-il poursuivi, évoquant des actes "illégaux, nuls et non avenus". "Nous exhortons vivement la partie japonaise à arrêter immédiatement tout acte portant atteinte à la souveraineté territoriale de la Chine, à corriger ses erreurs par des actions concrètes et à revenir sur la voie d'un règlement négocié", a-t-il déclaré.

"PAS DE COMPROMIS"
La Chine est irritée par le refus de Tokyo de revenir sur sa récente décision de nationaliser des îlots dans cette région maritime revendiquée par les deux géants asiatiques. Le petit archipel est appelé par la Chine Diaoyu, tandis que le Japon le nomme Senkaku.
Le premier ministre japonais Yoshihiko Noda a affirmé mercredi à l'ONU qu'il n'y avait "pas de compromis" possible avec la Chine sur la souveraineté des îles Senkaku. M. Noda a estimé que la Chine avait mal compris les problèmes en jeu et il a demandé l'arrêt des attaques contre les intérêts japonais en Chine.

 北京は国連で、日本が係争中の島々を盗んだと非難した。

 『ル・モンド』・フランス通信社 2012.9.28、7時21分・同日8時10分更新

 中国の外務大臣、Yang Jiechi氏は木曜日、日本が両国で係争中の東シナ海の島々を中国から盗んだと非難した。
 「日本はこれらの島々を日清戦争末期の1895年に盗み、中国政府に強いてこれらの領土を譲るという不平等条約に調印させた」と、大臣は国連演壇で主張した。そして、これらの島々が古代から中国の領土の一部であることを付け加えた。
 「これらの島々に対するいわゆる購入や、その他の日本政府による一方的な行動は、中国主権の重大な侵害である」と続け、「非合法で、無効」な行動に言及した。そして、「我々は日本側に対し、中国の領土主権を侵害する一切の行動を直ちに止め、また、具体的行動によって過ちを改め、交渉による解決の道に戻るよう強く勧告する」と表明した。

 「妥協はない」
 中国は、東京がこの二大国が領有を主張する海域の島々を国有化した最近の決定を撤回しないことに苛立っている。この小さな群島を中国はDiaoyuと呼び、日本はSenkakuと名付けている。
 日本の野田佳彦総理大臣は水曜日、Senkaku諸島の主権をめぐって中国とのいかなる「妥協も存在しない」と国連で主張した。野田氏は、中国は係争中の諸問題を誤解してきたとの見解を示し、中国での日本の利権に対する襲撃を止めるよう求めた。


  1. 2012/09/29(土) 11:43:27|
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勝福寺・満州開拓団慰霊塔(丸亀市)

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 かつてこのあたりは栗熊(くりくま)村と言った。琴電の駅名はいまも栗熊駅だ。四国新聞の「ことでん100年・駅ヒトめぐり」で、この慰霊塔のことを知りました。
 それによると、1940年に栗熊村から170戸、570人が牡丹江省樺林に入植しました。また、綾歌町誌によれば、ソ連軍参戦のとき697名いて、逃亡中に亡くなった者334名、栗熊村に帰った者238名、とあります。あとの125名はどうなったのでしょう。
 また、『讃岐の民衆史』によれば、1945年4月15日!に香川県から、大川郡からの開拓民に加え、栗熊村からの国民学校・青年学校の子女34名を含む勤労奉仕隊が渡満している。ところが、大本営はその前年、ソ連と戦う時は満州の三分の二は放棄すると決定していたらしい。綾歌町誌によれば、栗熊村からの勤労奉仕隊の半数は「両親の名を呼びながら、異国の地で、医師の手当てもなく、悲惨な死を遂げたのである」。
 「ことでん100年…」に戻るが、村に生還した者も居場所がなく、鳥取県大山山麓に入植し、香川と鳥取から香取村と名付けた。栗熊村からも応援が駆けつけたそうだ。そして、最近まで、香取村からこの慰霊塔に毎年、参拝に訪れる人がいた。また、互いの住民や小学校間などでも行き来があったという。しかし、高齢化と少子化、そこへ持って来て町村合併のために自治体間の関わりも薄くなり、いまでは交流が全く途絶えたらしい。戦争の記憶はどんどん遠くなっていく。


 
  1. 2012/09/27(木) 21:29:50|
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平賀源内(さぬき市志度町)

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 「平賀源内先生旧邸」との看板が出ています。私たちの世代では、NHKの『天下御免』でおなじみです。ものすごい視聴率で、学校でも大変話題になりました。残念ながら、ほとんどすべて記録されておらず、幻の作品となっています。

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 建物の横には源内の像が立っています。少し離れたところには、平賀家が代々その管理を努めていた高松藩米蔵の石燈籠が残っています。家の前にはホルトノキが植えられています。江戸時代にオリーブ油のことを「ホルト油」と言っており、形も似ていることから源内が間違えて藩の薬草園(栗林公園内)に植えたといわれる。おっちょこちょいで、超器用貧乏の源内さんらしい逸話です。

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 説明にありますように、この家は1979年に修復されています。源内さんは1728~80年を生きた人なので、没後200年にあわせての修復だったのでしょう。

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 内部です。ちょっと散らかってますが、汚くしているのではなく、文化的行事を頻繁に行っている関係です。

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 有名なエレキテルがいくつか作られています。説明書もなくこれを復元したところが、器用なところです。しかし、原理を探求する気が全くなくもないのですが、多くのことに手を出しすぎて、これもまた中途半端になったようです。

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 裏庭は薬草園になっています。子どものころから儒学などのほかに本草学を学んでいました。

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 瓦がちょっと今風過ぎてリアルさを欠いてます。源内さんは1752年に先生の久保桑閑(1710~82、藩医)に連れられて長崎に遊学し、そこで見た外国の文化に何かがはじけ飛びました。その後、すぐ隠居して藩を飛び出してしまうのです。先生もビックリですね。もっとも、桑閑は柴野栗山なんかも庇護していましたので、源内くん、君は君流にがんばれって感じだったかも。

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 怪しい物体は、復元?された源内焼の窯です。

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 坂出・鎌田共済会博物館の源内焼です(源内生家近くの平賀源内記念館にも貴重なものがたくさんありますが、撮影禁止です)。なんでも鑑定団で源内焼に300万円の値がついていたので、源内先生はそう何もかも半端だったわけではないようです。そういえば、源内さんによる日本初の油絵『西洋婦人図』(神戸市立博物館)は学校の資料集などにも載っています。

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 こんなものまで作ったんですね。お菓子の「とらや」さんのHPには、讃岐が特に有名な和三盆糖に源内さんが貢献していたことが書かれています。砂糖国産化は重要なことだったにもかかわらず、製法を書いた本が普及していなかったらしい。そこで、源内さんが平易に製法を説いた本を大量印刷したそうです。

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 志度寺の源内さんの墓。源内さんが残念な亡くなり方をし、杉田玄白が嘆いたことはよく知られています。NHKの『天下御免』の最終回は、別なものになっていました。田沼意次が工藤平助の意見で、最上徳内を蝦夷地に派遣しますが、このとき源内さんもいっしょに気球で飛んでいくというラスト・シーンでした。

 余談ですが、ずいぶん前から、田沼意次は経済活性化に努めたことで評価されています。問屋制家内工業が発展しつつあるころです。また、南鐐二朱銀をつくり、関西で重さで流通した銀貨を徐々に計数貨幣に置き換えていきました。つまり、16朱(4分)で金貨(小判)1両としました。その後、1分銀貨もつくられ、どんどん質を落とし、幕末では金銀の交換比率が1:5になっていました。元禄のころの荻原重秀のように、金貨の質を落とすと貨幣価値が下がりインフレになります。しかし、金貨はそのままに、これとの交換を保証すれば、銀貨の質を落としても問題は起きません。こうして、幕府ももうかり(出目)、商業の発達にみあった貨幣の供給もできるという妙案でした。幕末の、金銀比価問題(海外での金銀交換比率が1:15だった)では、日本国内の銀貨が通常の3倍の価値で流通していたので、本来、外国奉行・水野忠徳の主張通り、外国仕様の銀貨(いままでの3倍の重さの1分銀貨)をつくり、これを1ドル銀貨と交換させ、開港場だけで使用させるのが正解でした(せめて、小判持ち出し禁止令などの措置ができればよかった?)が、理解されることなく、小判の方を3分の1にし、案の定インフレになってしまい、討幕運動に拍車をかけることになりました(『大君の通貨』佐藤雅美、参照)。


  1. 2012/09/26(水) 10:19:48|
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香川県の重森三玲(志度寺・屋島寺)

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 さぬき市の第86番札所・志度寺です。平賀源内の墓や藤原不比等にまつわる伝説、また、生駒親正の墓など、歴史と伝説に彩られたお寺です。

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 室町時代につくられた曲水式庭園ということなんですが、草がぼうぼうで水がよく分かりません。残念。1946年の南海地震で壊れたのを、重森三玲(しげもりみれい・1896~1975年)さんの指導で10年!かけて復旧したそうです。かつて「曲水の宴」が実際に行われていた庭園は全国に3つしか残っていないらしい(志度寺資料)。

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 螺旋状の石組は本尊・十一面観音の頭上の十尊を表すそうです。

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 重森氏による無染庭(むせんてい)。「海女の玉取り伝説」を表しているそうです。伝説は、藤原不比等が竜神に奪われた宝を、海女が命がけで取り返すという話です。

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 中央の横長い岩は、海女が亡くなった真珠島を表すそうです。伝説では、海女は藤原房前の母です。

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 次は、第84番札所・屋島寺の庭園です。屋島といえば源平合戦ですが、いまは置いときましょう。宝物館(料金500円)の裏から行きます。入館のときに尋ねれば、行き方を教えてくれます。ここに出るまでがクモの巣やら、蚊やらで大ごとです。めったに訪ねる人はいないそうです。

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 ややっ、重森さんぽい茶室が見えてきましたよ。

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 曲線がモダンです。

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 楽しそうな庭です。

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 出たっ。重森さん独特の世界です。

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 縁側でお茶が飲みたかったですね。

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 こちらは、もともと寺にある「雪の庭」。凝灰岩が雪に見えるはずなんですが、あいにく雨が溜まってました。

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 オマケ。しぶいのばかり見た後に、これはないでしょう、というぐらい豪華な重森さんの庭園。重森さんの生まれ故郷、吉備中央町の庁舎です。

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 アートな庁舎がうらやましい。

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 重森三玲さんの名前は、画家のミレーからとったそうです。最初は画家を目指していました。

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 影響を強く受けたのはカンディンスキーだといいます。茶道を中心に花道・庭園などを総合的にとらえ、庭園史をまとめることにも功績を残しました。

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 モダンと古風なものが融合していて、なんともかっこいいです。

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 庁舎に入って上から写したもの。以前、岡山にいたころ日曜日に行ったのですが、役場の方が休日出勤にもかかわらずにこやかに案内してくださり、感謝しています。
 実は、ブログの最初に近所を紹介しましたが、何気に写した家は「増井家」といい、重森さんによる庭と茶室をもつ指定文化財です。個人宅で公開されていません。といっても、後で知ったことです。長いこと史跡や古いものを追いかけていると、なんとなく鼻が利くといいますか、引き寄せられることがあります。


  1. 2012/09/24(月) 21:08:59|
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哲学書の誤訳について(続き)

 以前(8.7)、哲学の翻訳上の誤りについて(かなり遠慮がちに)述べました。ベルクソンの論文集『思考と運動』・「序論」を読む必要に迫られてのことでした(「序論」といっても、収められた8篇の論文中の独立した1つで、しかも、これが全体の3分の1以上を占め、この論文集の中核です)。本当は、以前ブログに書いた段階で相当誤訳がありました。が、その後も、結局、ほとんど原書にあたる破目になりました。これはひどすぎる。読み終えたのはずいぶん前ですが、迷った末、真実を伝えようと決心しました。原書は無理でもなんとか哲学の世界に触れてみようと、これを真に受けて一生懸命に理解しようと努力している方々に失礼です。
 もちろん、別の訳も参考にしました。岩波文庫『思想と動くもの』(河野与一訳)ですが、これも結構ひどかったです。宇波彰訳より幾分誤訳が少ないけれど、全般的に読みにくい。また、両者とも(翻訳者が意味を理解できない場合にありがちの)直訳で通り抜けようとした形跡も散見されます(そうすれば「誤訳」という指摘に対し、何とでも言い訳ができるので)。はっきり言います。この2冊はやめた方がいいです。
 ちなみにベルクソンの主著4冊は、さすがにそう悪くない訳が出ています。特に、『物質と記憶』は岡部聰夫先生が完璧な訳をされていますが、なぜか絶版です。他のあまりよろしくない訳は流通しているのに。正直に言います。私自身は、これらを参考に、2つの主著までは原書で理解しましたが、あと2つの主著は、解説本を何冊か読んだだけです。今後、原書でトライする予定です。
 
 以下、証拠として(以前のに加えて)2か所だけ、おかしな訳を示しておきます。時間さえあれば、びっくりな分量を指摘可能です。しかし、また、名も無い私の文章などいくらでもコピペ(って言うんですか?)されかねないので、とりあえず2か所で我慢してください。いつか余裕ができたら(また、寿命が残ってたら)、『思考と運動』全文を日本語に置きかえてみたいと考えています。以下、ŒUVRESというのはベルクソン著作集の原書。

<例1> ŒUVRES,p.1318 宇波彰訳p.103 河野与一訳p.115~116
(宇波訳)科学と、私が科学と戦っているという非難とに関しての私の見解は以上の通りである。知性については、それほど騒ぎたてる必要はなかった。ひとはなぜ最初に知性に相談しなかったのか。知性は知性であり、したがってすべてを包含するものであるから、私が知性の美点だけを望んでいたということを知性は理解し、語っていたであろう。

(河野訳)科学、および私が科学を破壊しているという非難については以上の通りである。悟性については、そのためにこれほど騒ぐ必要はなかった。どうして人はまず悟性に諮らなかったのか。悟性である以上すべてを理解するものであるから、悟性は私がそのためを思っていたということは理解して認めたに違いない。

(私の訳)科学と、私が科学と戦っているという非難とに関しては以上の通りである。知性に関する私の見解については、そのことでそんなに動揺する必要はなかったのだ。ひとはなぜ最初に知性に尋ねなかったconsulter(意訳)のか。知性たるもの、何もかもちゃんと分かっており、われわれが知性に望むのは利益du bienだけだと理解していて、そう答えていたはずだelle eût compris et dit(意訳、条件法過去第2形)。

<解説>最大の誤訳は、両者ともdu bien(利益になるもの)に関わる部分。ここはベルクソンの基本中の基本。知性(言語)の本質は、物質や社会生活から「利益」を引き出すことだという主張。この誤訳は、はっきり言って、ひどすぎる。文意としては、知性自身に尋ねれば、こう答えただろうということ。ベルクソンの基本的主張や、ここでの脈絡は、生きることそのものでさえある知性は、その有効範囲内で重要である。ただ、精神の本質や、「動くもの」、時間、自由、等々を含む実在に迫るには、動くものを静的枠組みにおいて捉まえる知性の詭計を見抜く、繊細の精神たる直観が必要になるということだ。つまり、それさえ分かっておれば、知性の何一つとしてベルクソンは否定しておらず、「動揺する必要はなかった」というのだ。


<例2> ベルクソンは「序論」の終わりで、いくつかの事実から得た結論をもって<一般原則>をつくりあげ、あとは言葉の上の処理だけで、これを他のあらゆる物事にまで及ぼそうとする「哲学」(弁証法)を批判する。そして、ベルクソンとしては一つ本を書いたとしても、新たな問題については、一からそれに即して考えると述べ、「序論」を締めくくる。
ŒUVRES,p.1330 宇波彰訳p.120 河野与一訳p.134

(宇波訳)それらの問題のひとつひとつについて、その問題に即して、またそれに対して解決するための時間と力が与えられない限り、私は答えはしないだろう。答えるとすれば、それは私の方法に対して、ある問題の明確な解決であると私が考えるものを与えてくれたことに感謝し、それ以上はそこから引き出せず、そこに留まっていることを認めてからのことである。一冊の本を書かなくてはならないというわけではない。

(河野訳)それらの問題の一つひとつに対しては、それをそれ自身に対して解決する時間と力が私に与えられないかぎり、答えることはしないであろう。答えるとしても、私の方法がある問題に対して私が明確な解決と信ずるものを与えてくれたことに感謝し、私が私なりにそこから多くの解決を引き出しうることを確証するだけにとどめるであろう。人はけっして本を書かなければならないという義務はないのである。

(私の訳)それらの問題のひとつひとつについて、その問題に即して、またそれに対して解決するための時間と力が与えられない限り、私は答えはしないだろう。さもなくば、私の方法が、ある問題の明確な解決であると思えるものを与えてくれたことに感謝し、私としてはそれ以上はそこから引き出せないことを認めて、そこに留まろう。一冊の本を書かなくてはならないというわけではない。

<解説>解説は要らないでしょう。まず、両者とも、sinon(そうでなければ)を、(訳文で)その前の「答えないだろう」にかけて、「答えるとしたら」としてしまった。原文では、「仮に、時間と力が与えられる(ときだけ)」のほうがsinonの直前にあり、内容的にもこちらにかかると見るのが自然。あとは、それにつられて、意味不明な訳が続いてしまった(後半下線部の私の訳はほぼ直訳です、お二人は誤った書き出しにケリをつけようと、原文にない不思議な訳を勝手に編みだしています)。


 お二人とも、最後の最後に、どうしたことでしょう? というか、意味なんて通らなくて平気なんですね。ほとんどのページ、誤訳だらけですから(たまたま、この2例では河野さんの方が分が悪いですが、全体的にはそうでもないです)。哲学書だから深遠なことを言ってるはずなので「分からないアナタが悪いのです」という上から目線なんですね。先生方、誠に失礼ながら、あなた方こそが理解しきれていないことを私は確信しました。

P.S. <例1>については、訂正→こちら




  1. 2012/09/22(土) 20:07:09|
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由良山(高松市)

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 前回、麓の清水神社を紹介した高松市の由良山です。案内図の現在地から、左に向かい、採石場跡や防空壕跡を見て、西登山口から登ります。

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 奉納相撲が行われた跡でしょうか。

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 採石場跡が見えてきました。

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 不思議なオブジェになってます。

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 由良石は江戸初期から採石が始まり、1966年には皇居東庭の敷石に採用されました。1980年代に採石の歴史に幕が引かれました。

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 ハスの池です。

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 お地蔵さんが置かれていました。

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 「由良石の歴史」が詳しく書かれています。これとは別に、戦争の歴史があります。

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 3つめの池です。

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 戦時中の壕が何箇所かあります。

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 少し小さいものもあります。

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 こういう所に入るのは苦手なので、内部がよく分かりません。なぜ、こんなに壕が掘られているのかというと、1944年にすぐ北に飛行場がつくられ(→戦後の高松空港→現在の県立図書館あたりの直線部分)、由良山の北に飛行機の掩体壕(えんたいごう=飛行機を隠す所)が作られていた関係です。

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 防空壕と書かれています。

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 ここは深いです。

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 すぐ近くに、出口がありました。この山のどこかに高射砲も置かれていたようです。滑走路に埋める石の採掘も行われ、グラマンの攻撃で死傷者が出たそうです。爆撃もあったようです。

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 頂上です。

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 とても見晴らしがいいです。

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 採石で山が削られています。

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 帰り道は神社へ下りることにしましたが、途中、危険な個所があります。

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 神社は前回紹介しましたが、これは「玉取りの竜」といって内伝秀蔵という石工の作です。由良山は竜の住む山ともいわれています。

  1. 2012/09/21(金) 21:22:26|
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清水神社・蔵王神社(高松市)

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 高松市由良町の由良山の麓に清水神社があり、今年、話題になりました。この神社の「甕塚(かめづか)」に、雨乞いに使った甕が2つ埋まっています。さらに、社殿の下にももう1つ埋まっています。このうち、「甕塚」が宮司・専門家の手で発掘されました。祭神・神櫛王(かんぐしおう)ゆかりの甕で、干ばつのときに、神社近くの湧水(3か所あります)から神水を汲んできて、これを洗うと必ず雨が降るといいます。ただし、洗った者は命を落とすかもしれないという、ちょっと怖い話。

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 記録にある限り、儀式は841年に国司の命令で行われたのが最初で、最後は1939年で、14回行われたそうです。2つの甕は仕切りのある石の容器に入れられていましたが、壊れていました。修復すると、高さ108㎝、胴の最大径95㎝のらっきょう型だったそうです。

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 これが「甕塚」です。3月25日に甕洗いの神事が行われました(無事だったようです)。甕は7世紀ごろの須恵器だったといいます。

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 地図が見づらいですが、左下に3か所道が延びてますが、ここに水汲み場がありました。御盥(みたらい)といいます。

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 現在残っているのは「上御盥(かみみたらい)」だけです。

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 さて、こちらの蔵王神社も由良町にあります。

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 石碑にありますように、本殿が戦時中の「奉安殿(ほうあんでん)」です。

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 「奉安殿」とは、「教育ニ関スル勅語」と「御真影(ごしんえい)」を収めたものです。「教育勅語」「御真影」は全国の小中学校に宮内省から貸与され、火事で消失したりすると校長が自殺したりした畏れ多いもので、校庭の隅に頑丈な建物を作って保管するようになりました。

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 登下校の時、校門でこちらに向かって礼をすることになっていました。

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 紀元節・天長節・明治節などの式典のとき、壇上に「御真影」の掲げられた講堂などに児童が集められ、校長が「教育勅語」を奉読しました。儀式の間、全員が何度も最敬礼を繰り返したそうです。亡き父は、小学校6年生で終戦を迎え、学校を最後まで行かずに大工になりました。「教育勅語」は意味も分からず呪文のように覚えていたらしく、ときどき口ずさんで笑っていました。

  1. 2012/09/20(木) 21:34:26|
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羽床(綾川町)

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 琴電・羽床(はゆか)駅からそう遠くない場所に、「日本十大仇討・研辰(とぎたつ)の討たれ遺蹟」なる石碑がある。江戸時代に、羽床辰蔵という刀研ぎ職人がいて、この人がかたきとして殺された事件です。殺された方が有名なんて、珍しいですね。石碑に「墓碑・150m南、実家100m南」とあります。

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 150mほどまっすぐ進むと「辰蔵ゆかりの丘」があった。実家は不明。この辰蔵さんは江戸で仕事をしていて、女房がお侍さんと不倫したので、2人とも殺害しました。殺されたお侍には弟が2人いて、「おのれ、庶民の分際で許さん!」と兄の敵を討つことに決め、故郷に帰っていた辰蔵さんを討ったという実話です。私は全く不案内ですが、脚色された歌舞伎などがとても有名だそうです。

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 写真左が辰蔵さんのお墓。文政10(1827)年のことでした。武士の女房が不倫したら、女房とその相手を殺すのが普通の時代でした(実際は、恥ずかしい事だし、下手すると相手を探して一生終わるので、お金で解決する示談も多かったようです)。しかし、庶民には許されていません。まして、相手は武士です。現代の感覚ではやりすぎ(ていうか、犯罪)ですが、当時としては、研辰さんは”男”だったのかも・・・。地元では愛されているようです。1827年というと、11代将軍・家斉の文化文政時代。この年、幕府天文方・高橋景保がつくった『日本図』が残っています。伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮小版で、翌年のシーボルト事件につながるものです(国立国会図書館HP・江戸時代の日蘭交流、参照)。

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 標高約200mの堤山(つつまやま=羽床富士)が見えます。綾川にかかるこの橋は「宮武橋」といいます。羽床駅にさらに近いここは、宮武外骨(1867~1955)の生家付近です。反骨のジャーナリスト宮武外骨について説明は不要かと思うが、投獄、発禁処分を何度もこうむった豪傑です。

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 羽床で見た戦時標語。

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 こちらは「皇紀2596年・昭和11年」とあります。1936年といえば、二・二六事件ののち、広田弘毅内閣が成立、軍部大臣現役武官制復活、大軍拡推進の決定がなされた年です。

  1. 2012/09/18(火) 16:33:54|
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南北朝正閏問題の補足

 以前(9.11)、南北朝正閏(せいじゅん)問題について述べた際、南朝正統論の論理?の説明に力点を置き、それに対する批判はたった2、3行で済ませました。その理由は、近代日本人の思考パターンが分かりづらいと思ったからで、批判の方はあえてする必要もないと判断したからです。しかし、よくよく考えてみれば、受験の「歴史」しか学んで来なかった人々も多いのではないか、偉そうに言うようですが、歴史を動かす力を読み解くことを学ぶ時間がなかった方もいるのではないか、そういう心配が生じました。
 簡単に前回のおさらいをすると、南北朝はあったにせよ1336~92年に限定されます。ゆえに、それ以前にもそれ以後にも、南朝も北朝も存在しません。従って、南朝正統論に立てば逆に、近代の「北朝の」天皇に対して<不敬>だという論理はナンセンスです。それどころか、肝心の点ですでに相手の土俵に上がってしまっています。最初から負けは目に見えていました。では、現代日本において歴史はどう描かれているのか説明します。
 まずは、補足ですが、南朝を正統とした明治政府は、この時代を「吉野朝時代」と名付けました。この場合南朝は、「本来あるべき」政治をしようとした、後醍醐天皇の“天皇親政”を引き継ぐことを「理想とした」唯一の朝廷、皇統といえるでしょう。最終的に、後小松天皇に皇位を禅譲し、朝廷はいうなれば「残念ながら」武家に政治を預けることにして京都に戻った、という説明になるんでしょうか(?)。それまでに武家が勝手に立てた「北朝の天皇」はもちろん、本当には皇位についていたと見なされません。つまり、「北朝」の存在自体を認めない立場なのです。
 以上の説明を聞いて、もしかして納得する方がいたら困るというのが、私のいらぬ心配なのです。正か閏か(or両者同等か)よりも、「吉野朝時代」という言葉に、すごい違和感があって欲しいのです。というのは、政治的主導権を握っていたのは明らかに武家なのですから。ご存知のように、鎌倉幕府を滅ぼしたのは、北条家による得宗専制政治や、中小武士の生活保障を軽んじた政策などに反発していた武士たちです。また、室町時代に比べれば、鎌倉幕府はまだ、国衙(「こくが」とは朝廷の地方支配機関、簡単に喩えてしまえば今の県庁)も活かしていて、公領や荘園などの朝廷側の収入も多く残していたといえます。後醍醐天皇の建武政権は、こうした鎌倉幕府を倒した原動力を無視したため、武士たちの離反を招いたことは明白です。南北朝の動乱(1336~92年)が長引いたのは、武家政権内部の対立・抗争が原因です。そもそも、武士が主導権を握る時代は、鎌倉時代の人が保元の乱から「ムサ(武者)ノ世」になったと言うように、すでに平氏政権に始まっています。つまり、正か閏かが本質ではなく、南朝正統論がその時代をどう見ているのかに本質があります。ここで大事なのは、歴史の力動性(「武家社会の成長」山川出版の教科書)が見える、実態に即した描き方をするか、「公憤」のうちに幕を閉じる『大日本史』にならって、イデオロギーに沿った描き方をするかという問題です。後者においては、記録に残る北朝側の天皇・公家自身の考えや、「神聖な」三種の神器への細かい批判などに対しては、「こう見るべき」「こうであったに違いない」がそもそも優先するのです。問題は細かい話ではなく、武家政権下における皇室存続の基盤がどこにあったのかです。その上で、南北朝対立の事実があったことは否定しえないでしょう。南朝正統論は、天皇親政が否定されたことを憤慨すべきであり、あるべき姿に戻すべきであるという幕末期のイデオロギーなのです。
 江戸幕府までは当然、大義名分として、天皇を大切にしているのは武家政権側であって、南朝側についた武士こそ逆臣と言っていました。そうでなければ理屈が合いません。そんな中、水戸藩から『大日本史』を献呈された徳川吉宗が朝廷にも意見をうかがったとき、朝廷側からは、今は「北朝の」天皇だから、これを世に出すのは難しいだろうと反発があったようです。しかし、吉宗がよい本だからと許可しています。幕政安定期には、「物語」には武家の立てる天皇か天皇親政かを迫る力がなかったといえます。吉宗にすれば、赤穂浪士同様、敵ながらアッパレぐらいでしょう。おそらく、武士の「忠誠心」を熱く語る道徳が気に入ったのでしょう。こじつければ、徳川氏は南朝方の新田氏の末裔を名乗っているので、足利氏とは違って天皇を大事にしていると主張できなくもない(新井白石は皇室を重視した)。仮に南朝を正統と認めた場合にも、もちろん、天皇親政を是とする物語として読むこと(政治問題化)はありえないだろう。むしろ、ここで注目したいのは、そこには吉宗を引き付ける武士道精神があったという点です。もともと大義名分を重視する朱子学は江戸幕府の根本思想であり、のち官学となるものです。幕府政治と対立しない側面は、意識されることなく討幕においてもその後においてもスルーしていく。これは重要な点です。孝明天皇自身が南朝正統論をどう思っていたか知りませんが、彼は公武合体派で外国嫌いという、幕府支持と不支持とに分裂した存在です。「公武合体」では済まず、天皇親政か武家による天皇保護(カッコつき「尊王」)かへと「物語」が先鋭化するのは、「尊王攘夷」、つまり、<攘夷>が「真の」尊王だという幕府との対立軸が示されることによります。こうして、最後は「尊王討幕」、つまり、<旧体制打破>が「真の」尊王となります。一見、「攘夷」は対立軸を鮮明にするための手段のようですが、自然発生的側面も大きいと思います。列強に対峙するため単純な攘夷から旧体制打破による近代化へ、自然に歩んだという面もあります。何にせよ、政治的脈絡(討幕→近代化)の中で、天皇親政的「尊王」を拒むものへの「公憤」としての意義が『大日本史』に与えられました。討幕という目的を果たしても、この物語には将軍吉宗も認めた忠誠心としての武士道があり、この面では江戸時代から変わらず近代日本(約80年間)を生き続けたといえます。つまり、国家(社会)形成の原理として権威への忠誠心を置くという封建的、武家的イデオロギーが、民衆を取り込む形で拡大・再構成されたという側面があります(実際、明治以降に武士道精神・大和魂は盛んに称揚されました)。むしろ、近代精神と矛盾する立場だからこそ、古めかしい物語を求め、また、それへの違和感がなかったと言えます。もしかすると、「開国和親」も方便で、「攘夷」思想の方も生き続けたという見方さえ可能かも知れません。
 現代の歴史学は、歴史を動かす原動力を資料(史料)、諸学説から読み解き、今に続く時の流れをなるべく冷静に見ることを目的とします。直接、現代社会を読み解くことに繋がらなくても、社会を歴史的(動的)に見る力はこうした態度からしか養えないのです。近代化は儒教道徳の時代を乗り越えるチャンスだったのですが、政府は、頭でつくった「物語(正義と悪の戦い)」を歴史と置き換えることを選び、歴史の名のもとに特定の道徳観を注入することを安易に選んだのです。一気に体制を変革するために、儒教的道徳観の中で分かり易い合言葉のもとに力を結集することが役立ち、大きなエネルギーを生んだことは本当かかも知れません。しかし、その後は困難でも近代的精神を徐々に形成していくべきでした。先ほど「公憤」という言葉を使いましたが、「公」の意味を朱子学的忠誠心(武士道精神)から民主主義のそれへと転換していく必要がありました。社会にそうした傾向が強まった時期もありますが、幕末下級武士的価値観は消えることなく、のち軍の発言力が増すに従って近代的価値観は(本当の歴史のダイナミックスを思考する力とともに)後退しました。その結果、頭の中が熱くなって、人々が両足を着けている大地、現実の歴史の中にあって何をしているのか、客観的な評価(他国から見た自分)が見えなくなりました。この教訓を忘れてはいけないと思います。

<蛇足1>
 一般的に言って、現実に立脚した思考は往々にして大変複雑で困難です。簡単で「分かりやすい」思考ほど、現実離れした抽象(正義と悪の戦いなど)になりがちです。しかし、世間では、難しい話は「抽象的」として嫌われる傾向があります。「どうせ無内容」で「現実離れ」した話だろうというわけです。しかし、抽象とは、「ざっくりした把握の仕方」のことで、多くの人は非常に抽象的な思考をしています。牛が抽象すると言ったら、驚くでしょうか。彼らにすれば、植物は食えるやつ・食えないやつにざっくり分かれます。「分かりやすさ」とはこうしたものです。現実に即応して動けるという利点がある半面、環境の変化や、まして、歴史的変動には対応できません。確かに、「無内容で現実離れした難しい話」という、俗悪なものがかなり見られます。それは否定しません。だからと言って、正しいことは分かり易いはずと決め込み、難しい話を煙たがり(「人を煙に巻くな!」)、分かり易さのみに正当さの基準を置くと、とんでもないことになります。底の浅い見方に凝り固まることになります。
 また、思考と感情とを分けるのも、単なる理屈です。複雑な思考にはそれなりの感情があります。無内容であれば狂気の、深いものであればそれ相応に豊かな。
<蛇足2>
 現代の歴史教科書が歴史に内在する力動性を重視していることは、間違いありません。ここが重要な点です。その上で、現在の学者諸氏の微妙な立場を示すものとして、以下を指摘しておきます。教科書の南北朝期の皇室系図では、即位順を示す通し番号を3種類使っています。それぞれの系統に番号をふった上で〔(1)(2)…、①②…〕、分裂の前後を含む通し番号〔1・2…〕は南朝側をのみ数えています(北朝の天皇は数に含まれていません)。また、宮内庁HPの天皇陵墓を示すための歴代天皇の一覧にも、北朝の天皇は含まれていません。
<蛇足3>
 夏目漱石が『吾輩は猫である』のなかで「大和魂」や日露戦争を揶揄しているのは有名ですが、よく無事だったなあと思います。言論統制の時期的変遷と、その基準に興味があります。



  1. 2012/09/17(月) 15:51:39|
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まんのう町・土器川沿いの自然

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 地図中に赤い四角をつけた場所を北(上)から見ていきます。

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 最初は、木戸の馬蹄石(ばていせき)です。8000万年前~7000万年前の白亜紀の地層です。白亜紀のお終い6500万年前ぐらいに恐竜が滅ぶので、まだ彼らも地響きで水たまりに波紋をつくりながらのし歩いてたころです。私としては、水中からゾウが睨んでるような岩が恐いのですが、馬蹄石はその左、カキの群れの化石です。カキは海に川が流れ込むあたりに生息するので、大陸と陸続きの日本の海岸線がこのあたりで、ここから南は海の中だったのです。讃岐山脈は、あとから隆起したようです。

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 この付近は水流が激しいです。

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 奇岩が並んでいます。

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 ちょっと不思議な光景です。この前後で岩がゴツゴツしてるのはこの辺りだけです。

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 2つ目は落合橋です。牛のレリ-フがかわいらしい。讃岐(香川)は牧草地が少なく、農耕や砂糖きび絞りのための牛が足りない。他方、三頭峠を越えた阿波(徳島)の美馬(みま)には牛が多い割には農地が少なく、牛を讃岐側に貸出していた。これを借耕牛(かりこうし)と言って、昭和30年代まで見られました。

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 3つ目は、国道438号線から山中の県道108号線へ少し入ります。少し県道から外れた所に「四つ足茶堂」があります。かつては囲炉裏でお茶を沸かすこともでき、借耕牛や峠を越えて往来する人々でにぎわったそうです。明治の初めに火事で焼けて再建したものの、古い形式を残す貴重な文化財です。2004年に地元の方々がワラを葺き直すなど傷みを修復しました。

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 伝説では、この辺りにスモウトリ坊主という妖怪が現れて、むりやり相撲をとらされて住民は困っていた。ある日、大川山からお地蔵さんが転がってきたので、ここに祭ると妖怪は現れなくなったという。

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 すぐ下を流れる小川。旅人や牛の喉を潤したのでしょう。

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 最後は、美霞洞(みかど)渓谷です。地図の下の端、美霞洞温泉の付近です。キクの仲間でしょうか?

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 渓谷に沿って歩くと、雨乞いの神を祭る龍王社に至ります。ここから下に降りてみましょう。

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 この雄淵・雌淵には大蛇が住んでいたという伝説があります。また、深さ不明と言われていますが、浅そうだし、ちょっと入ってみれば分かりそうです。私は、遠慮します。

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 この重い空気が、人を寄せつけません・・・。空海がここで雨乞い祈願をしたとも言われています。

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 車までの帰路、ずっとこのイヌに付きまとわれました。どうも、犬に付きまとわれる傾向があります。無害ならよいのですが、かつて猪鼻峠を探索中、突然、人の腰ぐらい背丈のある犬が現れ無表情で寄ってこられ、じゃれたいのか食べたいのか分かりませんでした。危険を感じて、平静を装いながら歩く車まで数mの距離が長く感じました。途中、犬にかかとを踏まれて靴が脱げそうになるという、緊急事態にも陥りました。

  1. 2012/09/16(日) 12:59:47|
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坊太郎餅はあった

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 丸亀市通町の「松繁みきち堂」です。8月6日のブログで「田宮坊太郎の墓」を紹介し、昭和13年の『丸亀商工案内』にある名物「坊太郎餅」について、「私自身はそんなお菓子の幻にも出会ったことがない」などと書きましたが、デカイ看板が堂々と掲げられているではありませんか。おもいきり「坊太郎餅」です。丸亀市で育ち、この看板の下を無知な子どもの私は何度通過したことか。死ぬまでに気づいてよかったー。

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 やはり、看板の名物だったようです。お店の方によると、かつては坊太郎の煎餅でも何でも売られていたという。

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 この絵は先代から受け継いだもので、由来は分からないそうです。左の坊太郎に2本の光が降りてきてますが、この光は金毘羅さんから飛んできたんだそうです。

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 残念ながら、坊太郎餅は現在はなく、”坊太郎まんじゅう”を買って帰りました。包装紙をよく見ると、「坊太郎餅」「太助とおろう」と書いています。

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 商品名は正確には「田宮坊太郎」でした。

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 箱の裏に物語が簡単に書かれています。

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 京極家の「四つ目結(よつめゆい)」の家紋と「坊太郎」の字があります(目結とは、染物の目結をデザインしたもの)。上品な味でした。

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 ついでに、JR丸亀駅の「八朔だんご馬」の展示です。香川県西部(西讃「せいさん」といいます)の風習で、旧暦8月1日に子どもの成長を願って飾ります。丸亀市観光協会の説明文によれば、崇徳上皇をお慰めするために始まったという説、生駒家の家臣・曲垣平九郎が徳川家光の前で愛宕山の石段を馬で駆けのぼった話からという説などがあるが、もともとは豊作に感謝する農村風習だったらしい。

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 ついでのついで。7月15日のブログ「明治5年の天皇行幸」で、7月4日、御召艦をはじめ11隻の艦船が下真島沖に停泊したことを書いたが、これがその下真島です。私が子どものころは、ずっと海の向こうでした。子どもはなぜか無人島に興味があって、上陸したくてたまりませんでした。

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 埋め立てで目の前に来ました。潮が引くと歩いて渡れます。なんで、あのころは渡りたかったんでしょう。気が知れません。大きな猛禽類が2、3羽私の上を舞っており、「腹減った。あれ、うまいかな?」と見ている気がして、あまり見ないようにして帰りました。

  1. 2012/09/14(金) 21:48:50|
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西長尾城跡(丸亀市・まんのう町)

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 なぜこんなところに石碑があるのか不明。城跡は正面の山です。縦に逆モヒカン風のそりこみが入ってますが、土砂崩れです。

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 丸亀市のHPによると、「白峰合戦での軍功を認められた三野郡詫間郷筥御崎領主海崎伊豆守が長尾大隈守元高と名乗り、応安元年(1368)に城主となり、中讃の拠点として活躍した城である。以来、代々の長尾一族によってこの地で勢力を拡充しており、炭所、岡田、栗隈などに支城を構え、阿野、鵜足、那珂郡の南部で勢力を誇った。天正六年(1578)からの土佐の長宗我部元親による讃岐侵攻によって、長宗我部氏の重臣である国吉甚左衛門が城主となる。この際に城域の拡大・整備を図っており、国吉城とも呼ばれている。天正十三年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐によって廃城となる」・・・らしい。要するに、長尾さんが長宗我部さんにやられて、国吉さんの城になり、秀吉に負けて廃城・・・らしい。

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 入口は丸亀市で、レオマワールドに行く手前。最初はゆるーい舗装された道が続きますが、自動車の侵入は禁止です。ちょうど、犬に引きずられて散歩中の方が、向こうからやってきました。山中ですれ違う時、人はなぜか挨拶します。道幅が狭くいやでも接近するし、他に人がいないことも多いので、互いに無害で陽気な性格だとアピールするのでしょうか?

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 レオマワールドが見えます。「レジャーは大西にまかせなさい」を略してレオマです。オレオではありません。

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 看板がまだ新しい。ここから、いよいよ山道に入ります。

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 日当たりもよく、気持ちよく歩けそうです。

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 すぐ人が近づけるのに、よく遺構が残っています。

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 猫山に向かうルートが見えます。

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 いよいよ頂上です。期待が高まります。

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 やりました! 360度、見渡せます。北正面に讃岐富士(飯野山)。左に土器川が見えます。

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 その右方向です。

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 やっぱりレオマも見えました。レオマの向こうに見える三角形の小さな山(上の写真にも写ってます)は堤山(つつまやま)で、讃岐七富士の一つとして地名から羽床(はゆか)富士とも呼ばれます。

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 東に猫山が見えます。

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 東南方向です。

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 南側の下を覗いてます。

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 これだけ見晴らしがいいと、敵がどこから来てもOKです。難点は、楽々登れるところ。

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 頂上から少し降りて、猫山方面に向かいます。

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 近いように見えるのですが・・・。

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 土砂崩れです。下で見たときは、歩く所とは関係なさそうに見えてたので、びっくり。通行止めです。実際は写真より、ずっと危険な感じで、こわごわと残った道の端を向こうへ渡りました。が、思いのほか遠そうなので、へこたれました。

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 香川県人なのに今までレオマワールドを無視していたので、風景の中に怪しいものを見つけてビックリしました。どうやら、レオマワールドの中にカンボジア寺院?があるようです(写真はズームしてます)。いい具合に脱力したところで引き返しました。猫山にはまたいつか行きたいものです。

  1. 2012/09/13(木) 20:18:20|
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後醍醐天皇の皇子・宗良親王ゆかりの地(三豊市)

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 三豊市詫間町の田園風景。画面中央に黒っぽく見える場所が宗良神社です。1331年の元弘の変で讃岐に流された宗良親王がここに住まわれたというので、王屋敷と呼ばれています。神社が建てられたのは昭和10年です。

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 親王は後醍醐天皇の第五皇子で天台座主でした。下津井から詫間まで讃岐守護・長井高広に伴われて、荘司の詫間三郎に迎えられました。鎌倉幕府が亡んだあと復帰するも、ほどなく南北朝の動乱となり、各地を転戦。終焉の地は、長野県か吉野かと言われています。

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 後醍醐天皇、南北朝から連想されるのは、戦前の教科書です。そこでは楠木正成をはじめ後醍醐天皇に仕えた忠臣が重視されました。そうした考え方は、明治政府をつくった志士たちが影響を受けた幕末の尊王攘夷運動にさかのぼります。その尊王攘夷運動の理論的支柱が、水戸光圀による『大日本史』でした。光圀が重用した明からの亡命者・朱舜水は、自らの仕えた王朝への思いを後醍醐天皇に重ね合わせたのです。そして、幕末の志士たちは、ときの天皇家を、武家から政権を取り戻した後醍醐天皇と重ね合わせました。そんな彼らにとって、後醍醐天皇に敵対した足利尊氏は極悪人であって、逆に、天皇に命をささげた楠木正成らは英雄でした。また、いわゆる北朝は武家がでっちあげたニセの朝廷であり、天皇家同士が敵対するなどありえないと考えられました。もちろん、北朝とされた「天皇」も皇室である限り、尊重されねばならず、ただ、本当には天皇ではなかったとされるのです。
 1902年の教科書疑獄事件をきっかけに、翌1903年から国定教科書となったが、文部省による教科書は南北朝並立とされました。ところが、時あたかも大逆事件で揺れる1910年、文部省の立場への攻撃が沸き起こり、これに文部省直結の東京帝国大学への私学の反発なども絡み、マスコミも騒いで国民的問題と化していきました。ときの権力者・山県有朋も大逆事件という「不敬」が生じる一因は、文部省の態度にあると考えました(南北朝正閏問題、「閏」は「じゅん」と読み、閏年の「うるう」で、追記される程度で正統ではないという意味)。とはいえ、責任を問われる政府が山県の子分・桂太郎内閣なので、政府攻撃を巧みにかわしつつ、教科書は南朝を正統と改めることが決められました。こうして、双方ともに代表的人物を犠牲にして決着をつけるという政治世界の愚かでひどい結末は、松本清張が『小説東京帝国大学』で詳しく述べるとおりです。
 今に続く天皇家が北朝なのに、南朝を正統として問題はないのかと思うかもしれません(実は、当時の文部省もそう考えました)。しかし、これは現在の皇室典範の立場が我々に染みついていることからくる錯覚です。後醍醐天皇以前の、いわゆる両統迭立では天皇家の分裂は起きていない。親から子へと皇統が受け継がれるという原則はなく、皇室のうちから天皇が正当に立てられ、これを三種の神器の受け渡しという儀式で確認していました。ところが、後醍醐天皇が即位したのち、天皇の認めない、また、三種の神器も持たない(とされる)、武家による天皇が立てられたというのです。そして、南朝最後の後亀山天皇から正当に、後小松天皇へと三種の神器とともに天皇の位が引き継がれたというわけです。つまり、南朝の天皇方を経て今日まで、正統に皇統が続いているという論法に「矛盾」はないのです。
 もちろん、これは歴史上の発展を客観的に意味づける学問としての歴史とは言えません。天皇への「忠誠心」によって社会が形成されるべきだという近代日本の価値観という土俵の上でなら、理屈の上での一貫性はある(そうした価値観が求めた論理)というだけです。現在の教科書が、現代日本の価値観に沿っていることは言うまでもありません。


  1. 2012/09/11(火) 23:59:19|
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西光寺・船屋形茶室(宇多津町)

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 大束川(だいそくがわ)の西に見えるのが西光寺(さいこうじ)です。法然の弟子・然慶(ねんけい)が道場を開き、室町時代の守護・細川頼之が守護所近くに本堂を立てました。しかし、戦国時代にいっとき荒廃しました。

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 写真は壁に空いた鉄砲狭間です。本願寺・証如に帰依して浄土真宗として再興され、あの顕如が織田信長と戦争をしたときには物資などを送り、感謝状をもらいました(現存)。

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 8月22日の「お虫干し会」で公開された「船屋形茶室」です。もと多度津藩主の御座船「日吉丸」ですが、明治の初めに財政難から寺に売られました。

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 裏側です。船屋形は他に熊本城と兵庫県相楽園に残るのみで、大変貴重なものです。左の階段は船だったころのままでしょうか。2階で酔っ払うと、海に転落しそうです。

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 後部です。

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 内部です。調度品などはそのままらしいです。

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 付近には伝統的な家屋が多く見られます。

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 こちらは「蔵の館三角邸」といいます。いまは町が管理し、一般の文化研修に解放しています。もとは、肥料販売で財を成した堺氏のお座敷でした。このあたりは蔵の前と呼ばれますが、高松藩の米蔵(役場付近)や讃岐三白(綿・塩・砂糖)の集積地があったからです。

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 こちらは町役場向かいにある1936年に建てられた旧宇多津町農業協同組合倉庫で、やはり登録有形文化財です。

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 金毘羅への宇多津街道を示す道標です。もとは、町役場あたりにあったそうです。

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 向かいに駄菓子屋さんがあります。

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 昔から営業している正統・駄菓子屋さんです。

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 飾り付けがある所などは、”いまの”駄菓子屋さん風でしょうか。また、隆盛期には、もう少し整理されていたかもしれません(写真撮らせて戴いたのに、すいません)。

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 右下のシールが気になりました。リンリン・ランランでしょうか。


 
  1. 2012/09/10(月) 16:04:16|
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とんでもない映画

 古い日本映画が好きな私ですが、子どものころから映画が大好きです。好きな映画の事も書いてみたいけれど、今回は、とんでもなく下らなかった映画について述べてみたいと思います。
 『シックス・センス』。これはある意味ものすごいドンデンガエシでした。物語が始まってすぐ、主人公は死んでるんじゃないかと思いました。その程度のビックリなら、早々に明かされて、さらに二転三転あるんだろうな、と見続けていると、どうもそんな気配がしない。「いやいや、見くびってました。そんな、しょうもない設定はないよな、失礼しました」と、心を入れ替えて観賞し続けた挙句が、「実は主人公は死んでました!」、ジャジャーン!はい、一巻の終わり。このときの虚無感ってなかったですね。同傾向のものとして、『ユージュアル・サスペクツ』がある。「一番怪しくない人が犯人」という、鉄則通り。あまりに意表を突かないラストに、意表を突かれました。
 小学生のころ、児童名作文学集を親が買ってくれ、『怪傑ゾロ』だの『若草物語』だの『小公女』だの『嵐が丘』だの、どっぷり作品世界に浸りました。そんな中にポーの短編『盗まれた手紙』がありました。小学生の私は探偵の推理に感心しましたが、それ以上に驚かされたのが解説文でした。著者はどなただったのでしょうか、こんな内容でした。実際に警察が捜査したら、手紙はすぐに見つかってしまいます。本当にすごいのは、探偵の推理に感心させるポーの筆の力なのです。と書かれてありました。私は「言われればそりゃそうだわ、なるほどなー」と小説以上のインパクトを受けたのです。それ以来、推理小説も大好きになりました。『黒猫』のような、犯人の心理を描くものにもドキドキしました。『宇宙からのロボット大使』などのSFにもはまっていきました。しかし、書く方は大変だけど、読む方はだんだん慣れてきます・・・。それで、ドイルの『バスカヴィル家の犬』などは、のっけから犯人が分かって、推理小説から離れて行くきっかけになってしまいました。それでも坂口安吾の『不連続殺人事件』や乱歩の『陰獣』などにはうならされました。両方とも映画化されていますが、筆の力はうまく映像化できないものだと思います。サスペンス物は、もとがしっかりしていても難しい。いわんや、へなちょこな脚本をやです。
 また、サスペンスとしては成功しても、いや、それだからこそ余計にひどい映画として、『容疑者Xの献身』を挙げざるをえません。単なる道具として人を殺す残虐さを一顧だにせず、これを「献身」とする扱いに、見終わったあと胸がむかむかしました。こんな作品が社会的に許されてよいのかとさえ思いました。殺人事件をゲーム感覚で見せる『名探偵コナン』でさえ、理由のいかんを問わず「殺人は卑劣」という立場を堅持しています。私はかつて、ホームレス援助をされているNGOの方から詳しい話を伺ったことがあります。本当に、ごく普通に仕事ができて、ごく普通に家庭を営んでいた人々が、まるでイス取りゲームのように、「なんで私が」という“心”の介在する間もなく、社会からドロップアウト“させられる”事実を知りました。中には、有望なスポーツ選手として企業に迎えられ、怪我をしたら、それまでの貢献など無かったかのようにリストラされた方もいます。
 ちょっと脱線しますが、私が子どものころの“ヒーロー”は、人を殺しませんでした。物語の中で、「どんな悪人でも殺してはいけない」と毎回のように繰り返していました。水戸黄門も最初は峰打ちでしたが、いつの間にか、運の悪い家来が切られるようになりました。ハリー・キャラハン刑事が衝撃的だったのは、そういう時代背景もあります。
 ついでに、『キサラギ』という映画もひどかったです。解決に結びつくための材料を小出しにしていくタイプのミステリーですが、すぐに気付くような事なのに、主人公らがなかなか気付かないし、あとの推理も遅い(イライラ)。さらには、ムリヤリな間違った推論を立てて回り道する始末(またイライラ)。見てる側が感心する作りにしなきゃダメでしょ? また、江戸川乱歩が言ってたと思うが、ミステリーはなるべく早い段階で正解に導ける材料を提示するのが本格的で、最後まで正解に必要な材料を見せないなら推理ものとは言えない。横溝正史などは、最後の最後に核心的事実を示すことが多く、冒険ものに近い。



 蛇足ですが、本当の日本刀は峰で打つと弱いので、刃の方で叩いてました。鎧を着けての戦いでは、首をとるとき以外は、切るよりは叩くのが主たる使い道といわれています。そもそも、鉄砲登場以前、武士の技とは、即ち、馬上で弓を引く技術でした。飛び道具が圧倒的に有利です。刀を構える武士しかいなかったら、石を手にした方が勝ちです。今、道路で石畳が少なくなったのも、かつてこれを投げる民衆がいたからです。
 蛇足の蛇足ですが、石碑、石造物、それに、石器や岩に描かれた絵、さらには、化石まで含めると、石は過去を残し伝える最強の物質かもしれませんね。人が「化石」に譬えられるのはいい意味ではありませんが、時には、「化石」の声に耳を傾けてはいかがでしょうか?



  1. 2012/09/09(日) 15:37:39|
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大麻山の工兵道

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 先に紹介した大麻(おおさ)山です。野田院古墳から少し登ると、頂上に行く手前で「工兵道(こうへいどう)入口」の標識があります。車はこの辺りに停めてもまがりません(讃岐弁で「まがる」とは、邪魔になること)。

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 道とは名ばかりで、ただの山の斜面です。だいじょうぶかなー?

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 カメラを傾けているわけではありません。木が背筋をそらせてます。

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 このあたりで風景が見えました。やはり、主役は飯野山でしょうか。

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 道です、待望の。

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 と思ったら、これです。藤岡弘さんが喜びそうな、微妙な探検です。

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 石碑発見。「昭和15年」「紀元2600年記念 檜造林地」とあります。

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 酸素に晒されすぎた看板が立ってます。工兵道とは、旧陸軍第11師団の工兵隊などが訓練に使った道です。11師団司令部の建物は今もきれいなまま自衛隊の敷地にあり、乃木師団長の机なども残っています(いずれ紹介)。ちょっと、上に行く道を見てきましょう。

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 龍王社という、金毘羅さんよりも歴史のある神社で、雨乞いのために青龍権現を祭っています。

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 さて、再びもとの工兵道に戻って、さらに進みましょう。最後は、象頭山(ぞうずざん)の金毘羅さん奥の院に出ます。

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 その前に、葵(あおい)の瀧があります。屏風岩(幅15m、高さ15m)から水が流れているのですが、少ないので写真でよく分かりません。

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 接近。

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 ここからも、やはり讃岐富士が見えます。

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 振り返って一枚。ベンチから、全体の大きさが感じられると思います。

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 道沿いにずっと、アオキが見られます。

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 しばらく行くと、見晴らしのいい場所に出ます。飯野山が少し離れました。

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 また、うっそうとした道かと思いきや、「奥の院へ」の標識。すぐ、そこです。

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 着きました。私は、右下に続く道から来ました。観光客の人々が知らないところから現れた私は、ちょっと宇宙人になれた気分。奥の社(おくのやしろ)の正式名称は「巌魂(いづたま)神社」といいます。戦乱で荒廃していた金毘羅宮を江戸初期に復興させた、金毘羅本教の教祖を祭っています。

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 この崖は「威徳巌(いとくのいわ)」といいます。先の教祖が参籠し、言い伝えでは、崇徳上皇も参籠した場所なので、このように名づけられました。金毘羅宮はそもそも大物主命を祭る神社でしたが、その後、崇徳天皇も祭神となりました。

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 先の写真の中央上部に、この天狗とカラス天狗の彫り物があります。

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 ちょっと懐かしい双眼鏡があり、お金を入れなくても見えます。

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 先ほどと同じ光景(この左に続く)では面白くないので、別な方向を載せました。西長尾城跡の城山(しろやま)・猫山・鷹丸山(別名「たかんぼさん」)が連なっています。
 香川県西部の人間は金毘羅参りによく行くので、危うく金毘羅宮の階段を下りて帰りそうになりました。下まで行って、「車、どこ?」ってなったらパニックになるところでした。そこから車を取りに歩いたら行き倒れです。「ワイルド」すぎるので、おとなしく引き返しました。



  1. 2012/09/08(土) 18:52:50|
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出釈迦寺、奥の院、禅定寺捨身ヶ岳(善通寺市)

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 出釈迦寺(しゅっしゃかじ)の奥の院へと向かいます。禅定寺捨身ヶ岳(ぜんじょうじしゃしんがたけ)ともいいます。駐車場に車を停めて、ちょっとそこまでとばかり、人々が登っている。楽しそうに降りてくるお年寄りもいます。空海の像も頼もしく、行って来いと言っている。

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 ところどころ、お地蔵さんがいます。

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 天霧山が間近に見えます。しかし、結構きついかもと思い始める。

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 ここに至るまでに、何台かの車が私を尻目に登って行った。今さら「山やん!」と気付きました。普通に、登山してしまいました。車で行ってよかったのか! 目的地は、もう目の前。

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 着きました。中国のカンフー映画の世界です。

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 いい景色です。ただし、どこからも「ハイッ!」「ハイッ!」という声は聞こえません。

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 右に見える崖が、空海が7歳のとき(真魚=まおという名前のとき)飛び降りたという伝説の断崖です。釈迦如来が現れ、天女が受け止めたといいます。

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 いよいよ、崖の下に出ます。

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 先ずはここで安全祈願をしましょう。

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 いきなり岩です。「注意して登ってください」と書いてます。

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 右の岩の上にお地蔵さんがいます。

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 天霧山も、先ほどより上から見てます。

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 もうなんか、ヤバイです。お尻がきゅーっとします。

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 景色がますます違ってきました。

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 う、美しい。

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 このお地蔵さんを置いた方、すごすぎます。というか、前掛けがまっさらで、付け替えに行っているってことですよね。

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 上を見れば、えらいことになってます。稚児大師像が、行く手をふさいでます。間近に行っても、この垂直の壁がお臍のあたりまであり、よじ登るのです。足を置いているのは斜面で、ちょっと足首がグキッとかなったら、アウトです。

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 さらに、お地蔵さんが。

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 振り返ると、目がくらみそう。

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 ともかく、身を置くところが狭い。油断がならない。しかも、風もきついのです。フラッとしたら、カメラなんか投げ出さなきゃ、こっちが転げます。

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 「なんて良い眺めじゃ」とお地蔵さんが立っているのもシュール。

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 真魚さんはこの辺りから飛ばれた(?)らしい。私はまだ天女を見たくありません(違う意味で)。

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 お迎えが来そうな景色ではありますが。

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 別なところに近づいている錯覚がします。

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 しかし、上まで登ると、あとは普通の山なのでした。別ルートで普通に降りる道がありましたが、全然よそへ(讃岐弁?丸亀弁?で、「ぼっちの方に」)行ってしまいます。

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 ここまでのスリルと美しい光景に比べ、頂上はなんともつまらなく、恐いけどまた降りることにしました。

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 帰りの風景も目に焼き付けながら。

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 帰りは帰りで恐い。つんのめったら、大ごとです。その気がなくても、飛んでしまいます。

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 もう一度、お地蔵さんと同じ風景を見ます。

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 護摩壇(ごまだん)まで来ました。うわーっ、こ、恐いっ! どうやって下りようかな?

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 この後も、無事でありますようにお願いして、下まで降りました。写真を見て、恐いと思った方はやめた方がいいです。そうでない方も、やめてください。事故がないのが不思議です。私は二度と登りません。高所恐怖症なんですが、「今日の私は別人!」と自己暗示をかけて行ってきました。途中で催眠が解けたら(?)、降りれなくなるところでした。善通寺市のHPによると、旧暦15日にはここを登る信者でにぎわいますって書いてて、えっ!?「にぎわう」ほどスペースがないのにと思ったけど、お寺まで登る人でにぎわうという意味でした。





  1. 2012/09/06(木) 23:39:06|
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天霧城跡(善通寺市・多度津町・三豊市)

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 三豊市・弥谷(いやだに)寺には神秘的な磨崖仏が多く、密教らしい空気が流れています。そもそも弥谷山は死者の行く山と信じられていました。ここに、天城城主・香川氏歴代の墓があります。そして、ここからすぐ天霧山へと向かう道が通じています。

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 こんな道が続きます。ちょっと怖い。

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 ところどころに石仏があって、雰囲気を盛り上げます。

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 「ええーっ!? やめようかなー・・・」と迷いが生じない人がいるでしょうか。香川県の山にはクマがいないのだけは助かります。近年、場所によってはイノシシに遭遇しますが。

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 そうこうしているうちに、最初に見るのが「隠し砦跡」。外の光が懐かしい。

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 その後、やっと普通の登山道に。目指すはあの天霧山の上。1時間半で行けるらしいが、もう早くも疲れ気味。香川氏の祖先は相模の鎌倉権五郎景政。後三年合戦で右目に矢が刺さり、抜いてあげようとした武士に足で顔を踏まれ、怒って切り殺そうとしたことで有名。

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 喜んだのもつかの間、前よりひどい道に・・・。ジャングルです。滑り落ちそうです。いくら、いくさ用の城とはいえ、鎧を着けてたらヤバイでしょう(普段の館は多度津町の桃稜公園にありました)。

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 井戸です。岩をくりぬいてます。ご苦労様です。

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 忍者の道ですね。実は、この後、道が消え、まったくのジャングルになり、諦めかけました。が、ええい、ここまで来たんだ、と滑る急斜面を適当によじ登りました。

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 で、出ました。三の丸跡。まずは振り返って、登って来た方向を確認。ひどい方向音痴なので深刻な話。

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 これは・・・何かですね・・・。ところで、香川氏は南北朝期に北朝側として活躍、守護・細川頼之に仕えて西讃に勢力をもちました(戦前なら、不忠者です)。その後、守護代として戦国時代を迎えますが、長宗我部元親軍に敗れて配下となり、さらに、今度は豊臣秀吉に敗れて城から撤退しました。厳しい。

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 二の丸です。ジャングルからは解放されましたが、相変わらずクモの巣が多い。クモは苦手ですが、もう、やけくそになるぐらいクモだらけです。

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 ついに本丸です。この立て札の向こうは、前回、大麻山から見た大絶壁で、ちょっと覗く気がしません。

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 狭いです。何か設備はあったのでしょうか。

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 向こうに、物見台があるらしい。

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 秘境っぽいです。

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 どこまで行くのか不安になってきます。

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 まだ行くかー!?

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 そろそろ帰るかな? 物見台って、むちゃ遠いのでは? 

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 結局、そういうことです。「急な下りになってて、つんのめって、そのまま落ちやすいです」、みたいなことを書いてある。で、「道は途切れています」って・・・一番にそれを書くべきでしょう。

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 これが最後に見た部分です。高所恐怖症なので、もう限界です。その先まで行けば、きっと夢に見ます。こんな伝説があります。香川氏が長宗我部氏に攻められたとき、水がなくなったので、米を水に見立ててザザーッとやって、ごまかそうとしたそうです。しかし、旅の尼さんがそれを目撃して、敵に教えたために落城、落ち武者の一人がこの尼さんを殺したそうです。それで、尼斬城ともいわれたそうです。
 ちょっと、恐くなり、さっさと退散することにしましたが、案の定、三の丸からジャングルに下りる際、周囲にまったく見覚えがなく、「やりましたよ! 出ましたよ、方向音痴! まずいよまずいよ!」とリアクション芸人みたいな言葉が頭をめぐりました。偶然、来た道に戻り、もう、天霧城跡にはすっかり満足しました。

  1. 2012/09/04(火) 23:16:41|
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野田院古墳・大麻山

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 このUFOのような石積み古墳が善通寺市の野田院(のだいん)古墳です。大麻(おおさ)山を頂上近く(キャンプ場)まで車で登った、標高400mの所にあります。3世紀後半、つまり出現期の古墳です。全長44.5mの前方後円墳で、後円部は直径21mで高さ約2mの「積石塚」です。堅穴式石室が2つあり、ガラス玉・鉄剣・土師器(はじき)などが出土、周囲からは壷形土器が出土しています(善通寺市HP参照)。

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 こんな感じで作ったんでしょうか。場所がいいですよね、絶景ポイントをよく探しました・・・というか、人工的に平たくしたのかな?

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 崩れていたのをけっこに(讃岐弁で、きれいに)積みなおしました。悪そ(同、悪ガキ)が投げ散らかしてごじゃ(同、めちゃくちゃ)にする前に、よく残してくれました。

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 気持ちいい景色に、古代人なら叫ぶか、踊るかしたでしょう!?

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 三角形のとんがった山は筆ノ山といいます。弘法大師の生誕地・善通寺のすぐ近くで、筆の先のように尖っていることから名づけられたといわれます。奥に見えるえぐれている山が城跡のある天霧山で、城跡見学がちょっと危険なことになっています(改めて紹介予定)。

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 右の山が我拝師山で、出釈迦寺奥の院から山頂へのルートが超危険です(いずれ紹介するので、お楽しみに)。

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 さて、野田院古墳を後にして、もう少し車で登るとここに着きます。道が斜めになってるので、タイヤに石をはさんでおきましょう。ここに来る途中、「工兵道」への案内看板がありますが、ちょっと怪しい探検気分を満喫できる道で、金毘羅山奥の院に通じています(いずれ紹介予定)。いまは、大麻山頂上を目指しましょう。

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 ちょっと歩くと頂上です。標高600m。すぐ開けた絶景で、やっぱり、叫びたくなります。最近、年のせいか独り言が増え、実際「おっとー!」と言ってしまいました。頂上は尾根伝いに3kmも遊歩道(風景を見る私の右へ続く)があり、ここからすぐ登って下ります。そこから、人影が現れ、ギクッとしました。独り言を聞かれてたら、恥ずかしい。どうせなら、「ヤッフーッ!」ぐらい叫んどけばよかったと思います。

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 春は桜並木が続きますが、かなり木が傷んでます。治療が必要です。キツツキがあちこち突いてます。思い切り頭ぶつけてます。脳震とうを起こす勢いです。ちなみに、四国新聞の「21世紀へ残したい香川」によると、山の名前の由来は、「周辺が古代の麻の大産地だった」からです。「だった」と過去形なのに、注意!今はありません。古代の衣類の原料である麻というと、苧麻(ちょま、カラムシ)と大麻でした。戦後はもちろん、大麻の方は禁止されています。

  1. 2012/09/03(月) 20:51:25|
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岡山県に見る、ヤマト政権へのミッシング・リンク

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 いきなりですが、倉敷市の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)のてっぺん(讃岐弁では”てんこつ”)です。ストーン・サークルですが、円い場所いっぱいに広がっていて、上空からでないと様子が分かりにくいです。以下、別角度からのを載せます。

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 神秘的な感じが伝わったでしょうか? 「直径約40mあまりの円形の墳丘の両側に突出部を持つ」と山川出版の教科書にあります。弥生後期に「西日本を中心に」出現した「大規模な墳丘を持つ墓」の一つです。

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 墳丘側から突出部を見た写真です。反対側の突出部は道路につぶされて存在しません。白く見える収蔵庫の中に、おそらくここから出土したと思われる弧帯文石という奇妙な石が収められています。

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 弥生時代後期のお墓としては日本最大であって、ヤマト政権が唐突に出現するまで、どう考えても西日本優位の状況がうかがえます。さらに、初期のヤマト政権の古墳に見られる鏡の副葬は、弥生時代の北九州に典型的な風習です。逆に、弥生時代の大和地方にもっとも典型的な銅鐸の製造は、ヤマト政権に入ってパタリと消えます。

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 総社市の百射山(ももいやま)神社です。この道を進むと、神社の横から三輪山をぐるっと散歩できる道に出ます。ここには、弥生後期の墳墓から6世紀に典型的な横穴式石室をもつ古墳まで、密集しています。このあたりの有力者であることは間違いないのですが、一か所にあることから同じ一族かも知れません。

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 ちょっと見づらいのですが、印が全部お墓です。左上に飛び出した部分の、付け根にちょっとだけ大きめの黒丸があって、「宮山墳丘墓」と書いています。墳丘墓ですから、弥生時代の有力者のお墓です。

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 こんな感じなんですが、これまた全体像がわかりにくいと思います。墳丘部を前にしています。で、ここから出土した、宮山型といわれる「特殊器台」が有名なんです。特殊器台とは、呼んで字のごとく、特殊なカッコウをした器を置く台のことで、ほとんど、この時期の吉備地方でしか見られません。

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 総社市・埋蔵文化財学習の館にあるレプリカです。どう見ても、のちの円筒埴輪の原型です。高校生の使う資料集には紹介されています。ヤマトの出現期の古墳で「最大の規模を持つものは奈良県の箸墓(はしはか)古墳」で「墳丘長280mの前方後円墳」と山川の教科書にあるが、ここで発掘されたのが、宮山型特殊器台なのです。これは、何を意味するのでしょうか。
 邪馬台国東遷説というものがあって、北九州の邪馬台国が、吉備や出雲の勢力と合同で大和地方に移り、ヤマト政権を打ち立てたというものです。それで、吉備の特殊器台、九州の鏡、出雲も含めた西日本で盛んだった巨大な墳丘墓などをセットにした、初期古墳が出現するというのです。この説では、のちの神武東征神話は、こうした事実の曖昧な伝承が形になったものと考えられます。出来すぎな気もしますが、弥生時代の鉄器の出土数は圧倒的に西高東低で、武力の点からも、大和地方から九州方面へ向けての制圧ということは考えにくいのです。

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 これも教科書に載っている、岡山県の浦間茶臼山(うらまちゃうすやま)古墳です。出現期の古墳で、ちょうどヤマトの箸墓古墳の半分(140m)で、相似形をしています。

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 教科書では、同型の墳墓の広がりがヤマト政権という政治連合の成立を示し、ヤマト地方の古墳の巨大さがヤマトの圧倒的な力の大きさを示すことしか触れていません。
 弥生時代のヤマト勢力が、北九州の邪馬台国を支配したと考える場合、先に述べた弥生時代の鉄器出土の圧倒的な九州優位、古墳出現の直前での弥生墳丘墓が西日本中心だったこと、この2点を乗り越えて、出現期において、一気に連合を成立させた不思議が説明されていません。
 また、邪馬台国がもともとヤマトにあって、すでに西日本一帯に連合が成立していたとする説の難点は、先の2点に加えて、弥生時代の青銅祭器の分布に見る地域的まとまり(近畿圏・瀬戸内中部・九州北部、出雲は?)の問題などを放置することにあります。みなさんは、どう考えますか?


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 前方部です。

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 後円部の上です。へこんでます。

 ちなみに、ヤマトの箸墓古墳は卑弥呼の墓という説もあります。宮内庁では一応、記紀に見えるヤマトトトヒモモソヒメの墓としています。




 
 

  1. 2012/09/01(土) 18:33:53|
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犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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