どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

さぬき市の風物

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 乙井の六地蔵石幢(せきどう)です。石幢というのは、日本では六角や八角の石柱に仏像などを彫ったもの。中央左側がそうです。六角形のすべての面にお地蔵さんが彫られています。

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 六地蔵とは、人間が輪廻する六つの世界で助けてくれるお地蔵さんです。よく、墓地の入口に横一列で六体並んでいます。この六地蔵は、説明にあるように、室町時代の初期と推定されているようです。

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 長尾西にある高地蔵(右)です。遍路道沿いにあり、昔の旅人が手を合わせていったことでしょう。それにしても、石仏の寄り合い所帯みたいになりました。

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 「いやしの空間」は困難かも…かなり重い空気です。良し悪しはともかく、こぎれいなデザインの公園にする手もあります。

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 馬の墓です。

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 1950年代まで「主力」というのは言いすぎかも。でも、1960年代には馬を引いて歩く姿がよく見られました。もちろん、ウンチもします。歩きながら突然、何事もなかったかのようにドドッと落とし、馬も人も素知らぬ顔で通り過ぎて行きました。犬のウンチも放置できない現在では考えられません。幼稚園の頃、父親に張り倒され、さらにまだ一撃ありそうな勢いだったので、近所の馬小屋に逃げ込み、泣きながらお菓子を食べた思い出があります。もちろん、周囲は○○○だらけです。

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 長尾東の柳の清水です。

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 字が小さくてすいません(私は読めません)。要するに、全部ではありませんが昔の部材を使って、別な位置に復元したものです。保存したいという地域の方々の心意気が素晴らしいです。古くは1677年の書物に記載があり、その後、いろいろな書物に記されているようです。よほど、いい井戸だったのでしょう。

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 1884年に再興した際の石碑です。
 井戸といえば、平木健作の『生活の探求』に、井戸を掘る話がありました。戦前の話で、地域の人にも役立っている井戸が、少し埋まってきて、掘り返す時期が来ていました。で、東京の大学から田舎に(舞台は香川県)帰っていた主人公が、父と井戸を掘り下げます。本来、壁になっている石は崩れないように全部取り除かねばなりませんが、父は長年の経験で、下のある程度で済ますやり方を選びます。ところが、勉強ばかりしていた主人公は、石を下から滑車で引き上げ、庭の隅に置く作業にもう倒れそうになります。ついに、ものすごい大きな石が上がってきて、途中でそれ以上持ち上げられず、ロープを固定する力も残ってなければ、声も出ません。手を離せば、大きな石が下にいる父親を直撃します。ようやく、声を絞り出して、家の者を呼んで、死に物狂いで石をあげ、上がった途端に力が尽き、転がった石で自分の足を大けがします。ハラハラするシーンで、一生のうちに一回ぐらいは、日常の中でこれに似た体験をする人は結構いるかもしれません。しかし、昔の人は、こんな危険なことを本当に日常にやっていたんですねえ。

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 さぬき市の市花、コスモスです。宇宙とか調和を意味するコスモスですが、なぜ、その名がついたのでしょうか? 整った花びらからでしょうか?

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 風に揺れる花びら。
 個人的に、花というものについては、変な思い出があります。大学生の時、レヴィ=ストロースの『野生の思考』を原書で読む購読(演習?)があったのですが、どのページにも結構な数の花が学名で出てきます。で、あるとき、教授が学生の一人に一つの花の学名について、「これの日本名は何で、どんな花かね?」と尋ねました。その学生が「そんなことまで調べなければいけないんですか?」と尋ねたところ、この教授が「君はもう来なくていい」などと大激怒したのです。インターネットのない時代です。次回から、図書館の植物学コーナーに入り浸ることになりました。時間の使い方のバランスということを考えると、やり過ぎの感がありますが、この先生からは書物を厳密に読むということを教わりました。
 それにしても、昔の大学の先生にはユニークな方がたくさんいらっしゃいました。『存在と時間』の翻訳で有名な細谷貞雄先生は、病気がちでめったに講義がなく、普通は休講の張り紙の出る掲示板に「講義あります」のお知らせが出ていた。今ならクビになりかねません・・・。


  1. 2012/10/31(水) 00:33:42|
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高松市埋蔵文化財センター体験学習

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 高松市埋蔵文化財センターで和同開珎(枝銭)と銅鏡を作りました。本当は石や粘土でしょうが、耐熱シリコンの鋳型で作ります。タルクという白い粉をつけて、くっつかないようにします。

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 金属を溶かします。銅やスズではないのですが、それっぽいものを使います。あっという間に溶けます。

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 溶けた金属を注ぐ瞬間が一番、緊張します。鏡の方に入れ過ぎて、和同開珎の方が少なくなってしまいました・・・。このまま5分待ちます。

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 その間、隣の展示室で、今回作る実物大鏡の本物などを見学。左端のが5.4㎝という小さいもので、祭祀用と考えられています。居石(おりいし)遺跡は、市内の道路建設で発掘されたもので、鏡は古墳時代前期のものと考えられています。仿製鏡(ぼうせいきょう)、つまり、中国の鏡を手本にした国産です(輸入されたものは舶載鏡「はくさいきょう」といいます)。

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 完成したものです。和同開珎の枝銭(えだぜに)は、大阪の難波宮跡から発掘されています。1個、ポロッと取れてしまいましたが、1つは取ってみようと思っていたので、ハンドパワーですっという感じでした。
 和同開珎は、「開珍」か、「開寶(宝=ほう)」かという「珍寶論争」というのがありますが、いまは「開珍(かいちん)」説が有力です。中国・唐の「開元通宝」がモデルといわれていますが、「開元通宝」は上下右左に読みますが、「和同開珎」もそうなら、「和開同珎」と読むことになります。逆に、中国の「開元通宝」は「開通元宝」と右回りに読む説があります。ワケが分からなくなりそうです。
 日本では女帝・元明天皇の708年、武蔵の国から和銅(質のよい銅)が産出されたことから作られ、年号も和銅元年となりました。なのに「和銅開珎」ではない!!

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 鏡の裏側です。けっこう磨きました。本当の青銅(銅とスズの合金)であっても、こんな感じです。博物館で見るやつは錆びて緑色になっています。
 仿製鏡といえば、卑弥呼が使いを送った239年の魏の年号「景初三年」が記されたものを含む、三角縁神獣鏡が、中国では見られないため仿製鏡ではないか、という論争が有名です(「景初四年」鏡の存在も、魏の年号・景初が三年までなので、物議を醸しています)。

 それにしても、高松市埋蔵文化財センターはお勧めです。他の市町村の文化財の展示や、文化的行事もけっこう充実しており、文化の香り高い香川県をぜひ訪ねてください。




 
  1. 2012/10/29(月) 21:41:29|
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吉備真備(矢掛町・倉敷市真備町)

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 和気清麻呂・史跡を先に紹介したので、同じく奈良時代の有名人・吉備真備の史跡を紹介します。館跡といわれるものが矢掛町と倉敷市真備町と2か所あります。まずは、倉敷市真備町の史跡を紹介します。
 写真は真備公「産湯の井戸」といわれるものです。

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 その向かいに立つのが、真備町の吉備公館跡の碑です。

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 吉備真備の一族・下道(しもつみち)氏の菩提寺といわれる吉備寺。

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 この寺は飛鳥時代の箭田(やた)廃寺の跡に建てられたもので、境内に礎石がゴロゴロしている。また、瓦なども発掘されています。この周りは「まきび公園」として盛大に整備されています。ちょっとややこしいのですが、1986年に中国・西安に吉備真備の記念碑が作られたことを記念して作られた公園です。

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 この「まきび公園」の一角に丘があり、登ると神社の裏に「吉備大臣の墓所」と称されるものがあります。

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 矢掛町側には、これまた立派な吉備真備公園があります。こちらも吉備公館跡といわれています。吉備真備が唐から囲碁を初めて伝えたともいわれ、公園内には「囲碁発祥の地記念碑」もあります。養老律令の僧尼令(そうにりょう)第九・作音楽条に、僧尼が音楽や博打をしてはいけないが、囲碁・琴はよい、とあります。

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 まるでランプの魔神です。

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 矢掛町の下道(しもつみち)氏の墓域。下道は吉備氏のもとの名で、おそらく、5世紀の昔にあの造山古墳(全国第4位の大きさ)・作山古墳(同第9位)を作ったであろう一族です。

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 石段をドンドン登ると、だだっ広い何にもない斜面があり、その奥にやはり真備の墓があります。しかし、この領域からはとんでもないものが発掘されています。

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 吉備真備の祖母の骨壷です。「銅壷(銅製骨蔵器)」といいます。708(和銅元)年に、下道朝臣圀勝(くにかつ=吉備真備の父)が母を火葬して納骨したと書いてあります。写真は、「やかげ美術館」のレプリカです。

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 本物はこちら、矢掛町の圀勝寺(こくしょうじ)にあります。銅壺は江戸時代(1699年)に発掘され、領主によってこの寺に納められました。

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 これがそのために作った社殿です(実は、寺の名はこのときに圀勝寺に改まりました)。

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 ここのお寺は樹齢300年を越える椿の巨木で有名です。4月になると見に来る人が増えます。

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 けっこう吠える、ちょっと丸い犬が飼われています。

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 晩年、吉備真備は故郷に戻りここで琴を奏でたという伝説があります。「琴弾岩」といいます。下道氏墓域の近くで、小田川を渡って南側です。中秋の名月には、ここで琴を弾く風流な行事が行われています。



オマケ 吉備真備 年表

 父は下道圀勝。「圀」は「国」の則天文字で、当時、日本に伝わったばかりの文字。都で右衛士少尉という官職の下級官人(正七位上)でした(注:五位までが貴族)。

710年 平城京遷都(元明天皇-藤原不比等政権)
717年 遣唐学生として23歳で渡唐(玄昉・阿倍仲麻呂とともに)。
     真備と阿倍仲麻呂は唐で有名になるほど優秀であった。
723年 三世一身法(元正天皇-長屋王政権)
729年 長屋王の変(聖武天皇724~749-藤原四家の進出)
735(天平7)年 帰国。聖武天皇に重用される。
737年 天然痘の流行。藤原四子が死去。
738年 橘諸兄が右大臣として政権を握り、玄昉・吉備真備を重用。
740年 太宰府で藤原広嗣が反乱。
741年 東宮学士として皇太子阿倍内親王(→孝謙天皇)の教育係になり、『漢書』や『礼記』を教授した。
743年 従四位下、東宮大夫兼皇太子学士。
746年 吉備の名を賜る。747年に右京大夫に。
749年 孝謙天皇が即位。従四位上に。
750年 このころ藤原仲麻呂が、おば光明子(聖武天皇の皇后)を後ろ盾に権力をにぎる。
     吉備真備はうとまれて、筑前の守として九州に左遷された。
    (玄昉はすでに745年、仲麻呂から筑前・観世音寺をつくるよう命じられ、翌年その地で亡くなった。)
752年 遣唐副使として入唐。
753年 帰国。帰りの船は4隻で出発し、真備は第三船に乗っていた。
     第一船には大使・藤原清川と阿倍仲麻呂が乗っていたが、難破して長安に戻った。
     2人ともついに日本に帰らなかった。
     他方、第二船には6度めの渡航を試みた鑑真が乗っていた。
756年 唐の安禄山の乱や、新羅との緊張関係に対抗して、筑前・怡土(いと)城を造る。
     真備は兵法の知識を生かして、中国式の築城を指導した。
     →759年に大宰大弐(大宰府の次官)に昇任。
758年 淳仁天皇即位。藤原仲麻呂、恵美押勝を名乗る。
761年 道鏡が孝謙上皇の病をいやして信任を得る。
762年 孝謙上皇と、恵美押勝+淳仁天皇とが対立。
764年 造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京。恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱。
     真備は従三位に昇叙され、追討軍を指揮して反乱を鎮圧。
     仲麻呂は敗死、淳仁天皇は淡路に配流。上皇が重祚して称徳天皇となる。
765年 道鏡が太政大臣禅師になる。→766年には法王という称号。
     吉備真備は正三位にのぼり、中納言→大納言→右大臣に。
     左大臣の藤原永手とともに政治を執った。
     備中国下道郡大領(郡の長官)を兼ねる。
770年 称徳天皇、死去。道鏡は下野・薬師寺に流された(772年、没)。
771年 光仁天皇に辞職を願い出る。
775年 81歳で死去。








  1. 2012/10/28(日) 21:52:18|
  2. 史跡・文化財など
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三木町の獅子舞(香川県)

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 祭りは1日中あるのですが、18:00からの獅子舞だけ見に行きました。祭りの名称「まんでがん」とは香川県の方言で「全部」のことです。

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 いろんな神社の獅子舞を見せてくれます。ここの神社は、キツネのゆるい腰を使ったリズム感のある踊りが、鉦・太鼓のリズムと相まって、独特の昂揚感をつくっていきます。

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 どのチームにも鉦・太鼓の叩き方に特徴があり、見せ方も工夫しています。ステージから始まり、そのうち観客の近くまで展開し、動きも激しくなっていきます。

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 これはなんだと思いますか?

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 獅子です! 天野神社・氷上八幡神社・鰐河(わにかわ)神社に大獅子があります。

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 さすがに、踊るというより、練り歩くって感じです。

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 小さい子どもも頑張ってます。

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 ステージ上では、左の方で鉦・太鼓を叩いています。

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 獅子の衣装(?)が鮮やかです。

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 天狗が獅子をてなずけているような踊りでした。

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 写真だと、なんか殺風景に見えますが、あっちこちで大小さまざまな獅子が、たくさんの鉦・太鼓の鳴る中で踊っています。

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 中には、鉦・太鼓の音が、ちょっとガムランぽい神社もありました。

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 若い人は、腰をかがめたまま走り回るなど、元気いっぱいです。

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 宇宙生物っぽい獅子です。衣装が鮮やか。

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 踊りが結構長く、中に入る人が交代しながら頑張ってます。

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 でたっ。大獅子。カメラのフラッシュも増えます。

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 大迫力。照明のポールなどもあるのですが、動きをよくコントロールしてます。

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 獅子舞をこれほど満喫できる、大満足な祭りは他にありません。


  1. 2012/10/27(土) 23:01:00|
  2. 信仰・民俗・伝統など
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ウィキペディアの信頼性について

 きっかけは、テレビで繰り返されているノーベル賞の話題でした。私がいま関心を持っているベルクソンもノーベル賞受賞者なので、授賞理由はどう表現されているのだろうと思ったのです。それで、手っ取り早くウィキペディアで「ベルクソン」を調べたところ、なんか変なことを書いていたのでした。<  >内がウィキペディアからの引用。

<ベルクソンは自身の著作において言葉をとても大切にしながら書いていて、その文章は明快かつ美しい文章で書かれ散文としても素晴らしいものとなっており、1927年にはノーベル文学賞を受賞した。>

 まるで小説家のような言われ方だったので、ノーベル賞のHPに当たってみたところ、簡単なものではあるが授賞理由が書かれていました。

★ノーベル賞HPでは、下記の通り。
The Nobel Prize in Literature 1927 was awarded to Henri Bergson "in recognition of his rich and vitalizing ideas and the brillant skill with which they have been presented".
 1927年のノーベル文学賞はアンリ・ベルクソンに授与された。評価されたのは、彼の豊かで生気に満ちた思想と、それを表現する優れた技術である。

 ウィキペディアの筆者がベルクソンを読んだとは全く信じられない。「散文として素晴らしいものとなっており、……文学賞を受賞」とは、あまりにひどい。むしろ、文学者としてノーベル賞を授与された方々に対して失礼です。いくらベルクソンの表現力が優れているといっても、哲学的思索を表現する技術が卓越しているという意味以外ではない。ベルクソンの公にしたもので、哲学以外の著書はない。生粋の哲学者です。文学賞を受賞したというのは、「思想」という分野が6部門のうちでは文学賞に該当し、物理学や医学生理学、経済学等ではないというだけのことです。授賞理由はノーベル賞HPにある通り。


★ それで、「本文」の方も気になりました。結論から言うと、やはり、それなり?かなあと思いました。もっとも、書いている人が専門家ではない可能性がかなりあります。金や業績に繋がらない余計なことだし、不注意で間違ったことを書くリスクもあるし。いま私に自信があるのは『時間と自由』(本当の題は『意識に直接与えられたものについての試論』で、以下私は『試論』とする)と『物質と記憶』だけなので、それについて簡単に問題点を指摘したいと思います。


1.『時間と自由』(<  >内はウィキペディア)
<「持続」は、時間/意識の考え方として人称的なものであり、哲学における「時間」の問題に一石を投じたものといえる。>

 「人称的」と言い切る不用意さ。『試論』のベルクソンが関心を寄せるのは心理学の分野であるが、そこでは「深さ」(人称的なもの)と「表層」(非人称的次元)という言葉の使い分けが大変重要なものとなっている。後者が数学的空間と相性がよく、利益をもたらすところから、誤った哲学が発生するという、両者のダイナミックスが『試論』のテーマとさえいえる。ベルクソンのすごいところは、『物質と記憶』以下の著書で明らかにされるテーマに関わる現象に出会ったとき、それまでに得た見解で早急に割り切ろうとせず、新たに解明すべき問題を予感させる仕方で事実をあるがままに記述していることだ。『試論』の「持続」に関する記述は物質の問題に開かれており、『試論』の心理学的<テーマ>には明確に答えつつも、持続という実在そのものには、そこに尽くされない事実があることにはっきりと目を向けている。その切り口はまさに天才的だ。ベルクソンはいきなり言葉の中に実在を取り込んだりしない。逆に、知性が実在における何らかの現象にすぎないことをわきまえているからだ。


2.『物質と記憶』(<  >内はウィキペディア)
<ベルクソンは、実在を持続の流動とする立場から、心(記憶)と身体(物質)を持続の緊張と弛緩の両極に位置するものとして捉えた。そして、その双方が持続の律動を通じて相互にかかわりあうことを立証した。>

 ベルクソンを実際に読んだものの発言とは到底思えない。この筆者が言うように、ベルクソンは『物質と記憶』を「イマージュ」の概念から始める。しかし、これとほぼ並行して、「身体」をイマージュ(物質)の中でも「特異な地位」を示すものとし、これの解明から説き起こしている(つまり、ウィキペディアの筆者は最初の数ページすら読んでいないと思われる)。「心(記憶)と身体(物質)」というデカルト的表現もいただけないし、その両者が持続の緊張と弛緩の両極に位置するなど、一体どういう解釈なのか意味が分からない。ベルクソンにおいては、弛緩した持続(記憶)たる物質に緊張をもたらすのが、正常な身体機能に支えられた健全な精神だとさえ言える。つまり、ウィキペディアの筆者の文中の(  )内だけを取り出せば間違いではないが(『物質と記憶』というタイトルから、解説書の類を読めば、大雑把になら文意から外れずに語れるだろう)、「身体」の位置づけが全く分かっていない。ベルクソンを読むとき大事なのは、言葉の上で区切りをつけて、右か左かと位置付けることではない。ニュアンスの中に様々な次元を区別することだ。簡潔に言えば、過去の蓄積の上に立って物質的現在の中から未来を創造する精神の現れとしての身体ということになろう。そこに、一つの(一つという区切りを持ちこむ)特異なイマージュとして物質的法則の中に非決定性を持ちこむ(周囲の物質への働きかけを可能にする)知覚的身体(質とは何かと言う重要な議論があるが割愛)、物質的反復を得意とする生命の習慣的身体という次元、つまり、現在という次元を理論上区別することができるだろう。中枢という身体の発展・複雑化は、より広範な過去から必要な事例を綜合して、より遠い未来を見通すことを可能にしている(つまり、現在に閉じこもる物質的身体が精神を説明するのではなく、時間的広がりを持つ精神活動こそが身体の意味を理解させる)。同時に、それだけの時間を要する行動の空間的広がりを可能にしている。過去を収縮させる身体機能の高度化が、創造的自由の大きさに比例する。持続は純粋記憶という無意識の広大な次元をその背後にもっていて、現在としての身体をはみ出しており、その意味で、記憶が精神の実在を証明する。ベルクソン的時間はしばしば過去の膨張として描かれ、また、精神を記憶として定義することがピックアップされる。しかし、これを視覚的にイメージするのは間違っている。知覚も記憶も行動の観点からのみ理解される。生命(身体)は、持続の創造的未来に向けて突進していく姿として描かれ、物質はその弛緩した流れとして描かれる。時間を語る際、あまり未来を強調しないのは、未来は描くものではなく、主体的に切り開くものだからだ。ベルクソンが語るのは哲学的問題であって、彼は社会的・具体的問題を教唆する怪しげな、いわゆる思想家ではない。
 ベルクソン哲学からは、そこに含まれるテーマ群から、身体、自由、死など、様々な問題を中心テーマとして展開していく可能性が開かれている。しかし、メルロ=ポンティやサルトルなどは、ベルクソンの描くニュアンス豊かな実在を特定の次元へと還元していく傾向があるように思える。
 話を戻すが、ベルクソンは最初から行動の観点から、精神と物質をつなぐものとして身体を問題にしており、ウィキペディアには、実際に『物質と記憶』を読んだ者ならありえない勘違いが見られる。




  1. 2012/10/26(金) 23:32:59|
  2. 哲学する
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和気清麻呂(岡山県和気町)

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 皇紀2600(1940)年祭で作られた「和気清麻呂公碑」。郡衙跡と推定される所に建てられました。

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 和気神社です。神社のHPによると、和気氏一族の氏神・鐸石別命(ぬでしわけのみこと)が祭られており、天正19(1591)年に現在地に遷座した。のち、和気清麻呂・和気広虫などを祭神に加え、建物は明治18(1885)年以降、順次建て替えられたものだそうです。

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 有名な朝倉文夫作です。もともとは皇紀2600年祭にあわせて、和気清麻呂さんを顕彰する団体が皇居の堀端に建てようとしました。ところが、よいものを選ぶつもりだったのでしょうか、朝倉さんに知らせず3人の彫刻家に依頼していたことがあとで分かり、怒った朝倉さんが仕事を降りてしまいました。石膏の段階で中止されていたものを1984年に遺族が和気町に寄贈し、町がこれを保存、銅像を作成したものです。

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 狛犬ならぬ狛猪です。

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 宇佐八幡宮へと向かう清麻呂を猪軍団が守ったといいます。

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 姉・広虫の小さい像もあります。最初、宇佐へ神託の確認に行く命令は広虫に下りましたが、体調不良のため弟・清麻呂に変更されました。高校の教科書にも大真面目に載っているが、背景に政治的駆け引きがあったにせよ、神のお告げじゃ、いや、ウソ八幡でしたなんて本気でやり取りしたんでしょうか?ワケが分かりません。

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 以下、この近所を紹介します。旧和気町郵便局(昭和初期)です。

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 旧大國家住宅という国の重要文化財もあります。

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 永井家住宅。木造の歯科診療所兼住宅です。大正5(1916)年に建てられたもので登録文化財。

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 大阪の商人・田中佐平次さんが大正3年に造った、大題目石です(高さ17m以上あります)。でかっ!

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 レトロな看板もありました。

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 ちなみに、大分県の宇佐八幡神宮です。以前の本島紹介のとき気づいた方もいらっしゃるでしょうが、写真が右に傾いています。ほっとくと必ずこうなります。気づいてからは、意識してまっすぐに撮ってます。

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 ちょっと離れた場所にある、船つなぎ石。この辺りに清麻呂さんの船が着いて、この石に繋いだといわれています。もとの写真には左に大分県在住の親友が写っているのですが、やくざと間違えられそうなのでトリミングしました(もちろん、元は保存しています)。
 大分では、温泉巡りをしたのですが、湯布院に行ったとき、山下清展をしていて、小学生の貼り絵と区別ができず、申し訳ない気持ちになりました。ところが、帰ってネットで調べると、山下清の遺族のHPがあって、「現在、展覧会はやっておりません、偽物に気を付けてください」と書いてあり、ビックリ! のち、岡山の美術館で本物に接する機会があり、とても貼り絵とは思えない表現力に圧倒され、感激しまくりました。やはり本物はすごい。とはいえ、偽物見物も、旅のおもしろいアクセントである以上に、白く降り積もった大雪、ふぐ料理、明け方の海、友人宅の温かい布団など、かけがえのない思い出の貴重な一部として、本物にない価値があったかなあ。



オマケ  和気清麻呂 年表

764年 藤原仲麻呂の乱。吉備真備(71歳)の指揮する追討軍で、清麻呂(32歳)も活躍。
765年 従六位上・勲六等を授けられる。姉・広虫も従五位下に叙せられる。
766年 従五位下に叙せられ、近衛将監に任じられた。
769年 宇佐八幡宮信託事件
     法王道鏡が宇佐八幡の信託を利用して、皇位をねらった事件。
     信託の真偽を確認する役目が清麻呂に命じられた。
     宇佐から戻った清麻呂は、信託が誤りであったことを告げ、道鏡の野望を阻止した。
     大隅に流された。姉・広虫も還俗させられ、備後に送られた。
770年 称徳天皇が没すると、道鏡も失脚。光仁天皇は、清麻呂を復帰させた。
781年 従四位下。
783(延暦2)年 摂津大夫。
784(延暦3)年 従四位上。
786(延暦5)年 民部大輔。
788(延暦7)年 中宮大夫。
793(延暦12)年 造宮大夫として、平安京建設をすすめた。
799(延暦18)年 67歳で没する。







  1. 2012/10/25(木) 21:26:23|
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児島聖約教会(倉敷市)

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 戦後、古民家をそのまま教会として使ってきたが、1995年に信者の献金で新しく生まれ変わりました。古い部分をそのまま修復して残し、和洋折衷のすばらしい建築物となり、その年の倉敷市建築文化賞最優秀賞を受賞しました。

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 もとは古民家だと言いましたが、江戸時代に庄屋をしていた荻野家から、1953年にスェーデンの宣教師が購入したものです。すぐに庭が見えますが、ここを入ると…

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 キリシタン燈籠です。裾の広がりによってマリア像を表現しているそうです。荻野家が隠れキリシタンだったことは全く知られていませんでした。教会になってから、いろいろなものが発見されました。不思議な縁です。

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 欄間の模様も、さりげなく十字を使った模様になっています。

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 新しい礼拝堂です。

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 建物の内部から、以前は外に建っていた蔵へと続きます。

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 中には貴重なものがたくさん納められています。

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 こちらの灯篭には、2つの丘の上にそれぞれ十字架が描かれています。

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 こちらのキリシタン燈籠は、ろうそくを入れると窓から十字の光が見えるそうです。また、下の四角い切れ込みには連絡文書を入れたそうです。

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 賀川豊彦からの寄贈物だそうです。徳島の賀川豊彦記念館で見たのとよく似た絵です。

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 スウェーデンから来た宣教師さんが荷物を入れてきた箱だそうです。

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 同じく、持ってきた椅子です。シンプルだけど見たことがない形です。

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 古い手作りの聖書が保管されています。

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 この下は、蔵から近くの山の頂上に通じる抜け穴があったそうです。

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 蔵からいったん出て、茶室です。

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 壁のあちこちに、うっすらと十字が見えますが、これも意図的につくられたものだといいます。
 ここは、結構高台にあり、児島の町が見渡せます。

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 丘から下ってすぐ近く、「風の道」と名付けられた自転車道がありますが、下津井電鉄の線路跡です。懐かしいものを残して有効に使うというナイス・アイデアです。


  1. 2012/10/24(水) 21:48:50|
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映画『ヒューゴの不思議な発明』…本音

 私は人からよく、「言葉が足りない」と言われる。しかし、自分では足りないぐらいでよいと思っている。職人気質だった亡き父への負い目かもしれない。「男はしゃべるな」が口癖だった。しかし、ブログを書いておいて、今更だなーと考え直し、もう少し本音を書くことにした(10.19のブログの件)。

 実際のところ、この映画はクライマックスで鉄道公安官に捕まったヒューゴ君にもう一度、「人にはその役割がある」という趣旨の事を言わせている。線路に落ちた機械人形を拾おうとして死にかけて、公安官から「何を考えてるんだ!?」と叱られたことへの返事だ。しかも、公安官の戦争で亡くした足を見て、「あなたには分かるでしょう?」とまで言っている。そこへ、メリエスが現れて「分かるとも!」と言う。メリエスの言う意味は、おそらく、自分も役割を果たす義務があるという意味で、ここにヒューゴ君から教えられ、メリエスがやっと気づくという、いわゆる成長譚としてのドラマもちゃんと成り立っている。私がこれに触れなかったのは、わざとである。作者の意図ははっきりしている。私が先に、ぼかして表現した「誤った解釈もありえる」といったそれだ。実は、「ありえる」のではなく、それこそ作者の言いたかったことで、私の本音はこの映画の真っ向からの否定だ。ケンカ腰が嫌いで、前回は、あえて肯定できる部分をむりやり取り出したのだが、真意が伝わらないと考え直した。
 メリエスの「分かるとも!」には、ただ、人はその役割を務めねばならないという一般論しかないが、この映画ではそこに潜んでいる危険な意味、問題点が主人公の行動によって丸々肯定されていることは明らかだ。鉄道公安官には「分かるはず」というのは、戦争に参加した彼には分かるはずということであり、彼は足を失うだけで済んだが場合によっては命も捧げねばならないが、それがその人の役目であれば仕方ない、というより、一歩進んで立派な行為であると言いたいのだ(もちろん、フランスのナチスへの抵抗運動など戦いが避けられない場合もあったが、この映画は戦争の内容に全く触れるものではなく、国家の戦争への忠誠を人たるものの役割とする道徳観になりかねない。ドンドン話が脱線するが、それでは有名なアイヒマンの発言を肯定することになるし、他方、どんな明確な防衛戦争であっても、まず、本来なされるべきは、そこに至らぬための政治的努力だったことを忘れてはならない―話を戻そう)。要するに、ヒューゴ君をして、そのために死んでも本望だと言わせているのだ。まるで神のように個人の存在意義を具体的に決められると思い込んでいる誤った思想だ。ヒューゴ君は、機械人形を修理してメリエスに届けることを、そのために死んでもよい自分の存在理由だとまで思いつめている。ここに、この映画の存立そのものに関わるとんでもない違和感をもつのは、間違いだろうか。つまり、この映画は主人公の行為を、「いま」彼に「できる」こと、彼が「やりたい」こと、私が「愛」と呼んだもの、であるにとどまらず、彼が生まれてきた理由(生涯を規定する「存在理由」)にまで祭り上げる。実際、先の場面でほぼそういう趣旨の事をヒューゴ君自身に語らせている。私の主張はすでに明確にしたが、大人は往々にして、自分勝手な存在理由、偶像、「神」を作り上げ、自らの命を生贄にする(犠牲という言葉は本来の意味のために取っておきたい)。しかし、そもそも、子どもにはそのような要求すらない。神は子どものうちにそのような<誤り>が入り込む余地を残していない。命が溢れているのが子どもだ。人はそこに神を映す鏡を見て、子どもを神々しく感じる(最近のニュースに見る異常者でもない限り)。この映画の作者には、人間観・世界観の大きな過ちだけでなく、そういう事実誤認を指摘したい。そもそももっともらしい偶像に命を懸けることをさも美しいことのように大仰に語る道徳教師という一般論に加え、さらに、私の「違和感」を大きくしているのは、この映画の場合、ヒューゴ君に命まで懸けさせることが余りにそれにふさわしくなく、必然性のあるなしどころではないという点である。「アクションものでもない」と言ったのは、例えば、愛する者の命が危うくなる場面で、無我夢中で飛び出していくといった逼迫した状況の不在のことだ。それどころか、いまは不遇にあるといっても、人もうらやむような意義ある半生を過ごした者の立ち直りのために、なぜ、子どもが命まで懸ける必要があるのか。その再評価にしても、本来「研究者の使命」であり、しかも、命を懸ける性質のものではない(大真面目に言うのもバカげている)。ここには、一孤児の人生なら、それに釣り合うという差別観しか見えない。この映画では、ヒューゴ君自身がそれを受け入れていて、実に痛々しい(本来、子どもの発想ではない)。この痛々しさについて、私は訴えたくなったのだ。そして、私なりにこうあって欲しかったというストーリーを、ヒューゴ君の(悲壮なではなく)積極的な愛と、それによって目覚める老人、そして、登場人物を巻き込んだハッピー・エンドという流れを(無理を承知で)取り出したのだ。メリエス再評価と映画への賛美というもう一つのテーマがあれば、それで十分だろう。少なくとも、誤ったテーマを展開するよりはましだ。孤児として人生を終えることは無意味で、「大きな意味に関わる」ことで初めて存在理由を得るという発想は、そのまま、大部分の観客に返ってくると知るべきだ。20世紀を前にニーチェが殺した神とはそのような偶像だったが、理性が猛威をふるった20世紀を知った後でも、血に飢えた神を崇拝する者は後を絶たない。悲壮な裏返しの人生観を壊し、神に感謝してただただ子どものように、与えられた力を発揮する喜びのうちに生きたいものだ。また、それを応援する社会であって欲しいものだ。





  1. 2012/10/24(水) 00:08:28|
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11月の岡山県・矢掛町大名行列(宿場祭り)

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 毎年11月第2日曜日、岡山県矢掛町で行われている大名行列を紹介します。

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 ここは、かつての山陽道・宿場町です。

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 重要文化財以外にも、昭和っぽい建物もありますので、レトロ趣味の方にもお勧めです。

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 脇本陣高草家です。この日は内部を公開していますが、通常は前もってHPで確認してください。すごく広いです。本陣で納まりきらない場合や、大名家が2家という気まずい場合に使用します。

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 こちらが本陣の石井家(庄屋・酒造業)です。篤姫も宿泊しました。

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 中は、もうビックリするほど広いです。感激ものです。

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 まず、岡山城鉄砲隊の演武から始まります。写真がうまく撮れません。なんせ、観光客が3万人も押し寄せるので大変。

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 中央の方が、合成のように見えますが、偶然です。本陣当主です。

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 先払い?

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 一番目立ってました。

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 やっこさんが続きます。

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 2人ひと組で槍を投げてキャッチする見せ場があったのですが、うまく撮れてませんでした。

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 近習侍。

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 殿です。

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 お小姓さんでしょうか。

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 籠がやってきました。

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 姫と腰元のみなさんがやってきました。

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 こちらも姫っぽいのですが…?どちらの姫も自信たっぷりのカメラ目線でした。

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 茶坊主でしょうか。

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 ご家老っぽい人の後から、また、近習侍のみなさん。

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 荷物です。この祭りでは行列の総勢が80人ほどいます。実際の参勤交代では、華美を競った大名たちは、荷物一つの多い少ないにもこだわったといいます。

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 いい表情です。

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 赤い包みの中は鉄砲です。

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 最後尾です。参勤交代は出費がすごかったといわれていますが、実際は、江戸藩邸の出費が比べ物にならない額でした。江戸暮らしは気にいってたようです。妻子もいるし、都会だし。水戸藩など、ずっと江戸暮らしの藩主もいたし、逆に、対馬藩(3年に1回)・松前藩(6年に1回)のように少ない場合もありました。

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 これは、宿場のすぐ南の小田川に架かる観月橋。川が激流になったとき壊れてしまわないように、鉄のロープで結んだ木の橋が流されるように作っています。後で元に戻して使います。残念ながら、諸事情により撤去されるという話だったので、もうないと思います。少し寂しい気もしますが、矢掛町の方々の歴史ある町への並々ならぬ愛着が大名行列からは感じられます。

 話が全く脱線しますが、昔の記憶が失われるのは早いなあと実感することがよくあります。この前テレビで柴田理恵さんが「母が妊娠中に壁を食べていた」と話したことに、結構年配のゲストの方も驚いていて、私はむしろ、そのことに驚きました。ごく普通の話だと思っていたので。栄養不良のころは壁土でカルシウムを補ったというのは、子どもの頃よく聞いた話だったからです。
 さらにムダな話ですが、私が大学生のとき、日本語のテキストを読まされた際、「固執」を「こしつ」と読み、教授から「こしゅう」とちゃんと読むよう注意され、すごく恥ずかしく思いました。当時、辞書には「こしつと読むのは誤り」!とはっきり書かれていました。ところが、それから十年近く(?)のち、「こしゅう」と言っていたら、人から間違いを指摘され、えーっ!?と思って辞書を調べたら、「こしゅうは老人語」と書かれていて、さらに、その数年後には、「こしゅう」で引くと「正しくは、こしつ」と書かれていて、ショックを受けました。これって、辞書を作っている人たちも真実が分からなくなっているってことです!! で、「固執」の旅はその後も続き、今では、幾分先祖返りして、大辞泉には「こしつは、こしゅうの慣用読み」とあります。こんなことって、あるんですよ。何を信じていいか、分からなくなったでしょう。受験勉強がバカらしくなったでしょう? (閑な方は、100年分ぐらいの辞書を集めて、辞書の定義の変遷を追ってみてはいかがでしょうか。辞書なんて国会図書館でないときちんと保管してないと思いますが…。)


















  1. 2012/10/22(月) 21:57:21|
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仏生山大名行列(高松市)

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 初めて見てきました。子どもの飛脚の競争から始まりました。今回は、あまり文章で書くことがありません。

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 時間があったので、電車見学。駅の案内地図に城跡が見えたので、地元の方に「といんですか(遠いんですか)?」と尋ねると、「といとい、15分はかかる」というので諦めました。

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 琉球国祭り太鼓の方が出発。当初の目的にとらわれていたので、あっさり見送ってしまい、あとで後悔。ついて歩いて、もっとよく見ておけばよかった。

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 またまた、電車見学…。

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 いきなり、演技が始まりました。ちょっと顔が分かりますが、イベントだからいいでしょう。

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 悪者登場。

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 気合が入ってます。

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 鉄砲です。何度か発射しましたが、そのたびにビックリしまくるご老人がいて、心配になりました。予告なく、唐突にぶっぱなしてました。ワイルドだ。しかも、兜に京極家の家紋が…。

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 もう少し、先頭がいたのですが、なぜか、横を一緒に歩く方がいらっしゃって、いい写真が撮れてません。知人や身内とつきそって歩く方も見られ、アット・ホームな感じでした。本来、祭りってそんなもんでしょう。不特定多数にアピールする行事と割り切って、観光客をもっと集めるか、内輪の楽しみを大事にするか、バランスが難しいことかもしれません。

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 なぜか、若者の男性が少ない。小学生は男子がけっこう参加しているようですが。

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 時代劇だと、すぐ悪代官に結びつく姿。

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 殿は大西秀人高松市長です。藩主が菩提寺の法然寺をお参りした行列を再現しています。

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 お姫様が続きます。

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 服の色が鮮やか。衣装などはどうしているんでしょう?

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 最後は、長刀と小学生。刀だと鞘があるわけですが、長刀を光らせた人が行列にいたんですかねー。ちょっと調べたくなりました。

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 レトロな看板。

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 大名行列のポスター。「そば始めました」と言ってるのかと思ったら、「うどん県」のPRポスターでした。

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 帰りのホームの近くに、レトロな電車が停まってました。








  1. 2012/10/21(日) 23:59:04|
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祝・善通寺金堂・五重塔、重要文化財指定

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 空海の生誕地、善通寺の金堂・五重塔が国の重要文化財になりました。写真は金堂です。元禄年間の再建で、本尊は薬師如来です。

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 土台の石組の中に、創建当時の礎石が埋め込まれています。

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 東西南北にあるので、探してみてください。奈良時代には遡るといわれています。

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 これもそうです。ただ、創建時の寺の性格は不明です。

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 この額は有栖川宮熾仁親王が書かれたそうです。

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 煙を頭に当てる人々。効き目はあるのでしょうか。最近、物忘れがひどいので、気になります。この前、人と話していて、ど忘れで「えーと、えーと…」と言葉が出ず、『アルツハイマーかなー』と言おうとして、「最近、あれかなー、あれ、あれ、えーと、なんだっけ?」と「アルツハイマー」も出てこず、ますます、何言ってるんだか意味不明になりました。

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 五重塔です。塔というのは、釈迦の骨を納めた場所を飾り立てたもので、建築物としてはざっくり言って、鉛筆のキャップみたいなものです。人が登るものではなく、中に床や階段の類はありません。

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 2月の大会陽の時の写真です。昔は、フンドシ男たちの裸祭りが行われていました。

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 稲穂や餅が投げられています。豊作・家内安全が願われました。

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 御影堂では「戒壇めぐり」という体験ができます。建物の下に回廊が廻っていて、真っ暗やみの中を壁を手さぐりで進みます。壁には仏様が描かれているそうですが、見たことがありません。最後の方で、唯一明るい場所があり、空海のコンピュータ・ボイスが「交通事故には気をつけましょう」みたいなお話をしてくれます。

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 由緒あるお寺なので、境内にはいろいろなものがありますが、これは三帝御廟といい、後嵯峨天皇・亀山天皇・後宇多天皇の遺言で、爪・髪を納めています。そのほか、境内には足利尊氏による利生塔の形見の石塔や、法然上人による「逆修塔」(生きているうちに死後の冥福を祈ったもの)などもあります。






  1. 2012/10/21(日) 00:39:52|
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映画『ヒューゴの不思議な発明』

『ヒューゴの不思議な発明』2011年  アメリカ  マーティン・スコセッシ監督

 まず、映像や俳優が素晴らしかったし、映画を誕生させた実在の人物(メリエス)へのマニアックなこだわりをいろいろな方のHPなどで知って、認識を改めました。それに、主役の男の子なんぞは、よく見つけてきたなあと思うぐらい、いままでにない個性的ビジュアルの美男子だ。
 とはいえ、ネット上で多くの方が好意的に受け取っているこの作品に対し、もっと冒険活劇があるのかと思った、主人公がすごい発明をするのかと期待していたがガッカリした、という意味の簡単な感想が少数派ながら見られた。私としては、それも一理あると考える。ストーリーの中核を担う機械人形がそもそもメリエスの手によるものだし、終盤近くでひょいっと出てくるメリエス研究者が実質的に果たす役割が大きすぎる(史実が研究者によってメリエスが再評価され、そのおかげでメリエスは立ち直るどころか絶頂期を経験したというのだから仕方ない)。2人の大人の力が大きすぎて、ヒューゴ君は、なんだかその手のひらで踊っている感もなきにしもあらず…。孤児が成功者に養われることになる話がハッピーエンドなのか?と言われると、まあねー…。史実部分が大きすぎて、架空の部分・登場人物(ヒューゴ君)はファンタジックな色どりを与えるだけで、役割を終えると実在の人物の懐に抱かれて(養子になって)終わるのだ、と言えなくもない。もっと主役らしい大きな役割を担わせてよ、もっと大きな冒険をさせてよ、という声にも一理ある。
 ストーリー上の瑕疵もたくさんある。単にストーリー上の要請にとどまり、必然性の感じられない設定が結構ある。まず、父の手帳。メリエスにとって機械人形が何か大きな意味を持っていると予感させ、同時に、それにからんでメリエスが荒んだ感情を持っていることが暗示される。また、この手帳には家に忍び込むきっかけという役割もある。父親の手帳が少年をメリエスに導き、そこに描かれた機械人形がクライマックスでメリエスの前に登場する、脚本家の意図がアリアリとしている。しかし、手帳をめぐる両者の頑ななやりとりが、ヒューゴ君(と我々観客)にとってはメリエスと機械人形との関係がまだ隠され、また、メリエスにとっては機械人形の存在が最後まで隠されていなければならない、というストーリー上の要請にすぎなくなっている。そして、ヒューゴ君は「あるものを直すのに必要なんです」と言っていたはずなのに、手帳なしで機械人形はあっさり完成されるし、家に忍び込んで手帳が出てこなくても全く気にしないし…ヒューゴ君、何か忘れてませんかー?
 おじさん。何カ月もセーヌ川に沈んでいたって?…ヒューゴ君を含め、みんな無視かよ?って、おじさんの霊が怒ってますよ。とっくに捜査が入ってないとおかしいでしょう。
 孤児院イコール監獄みたいな描き方もいかがなものでしょうか。そんなに嫌なら、彼ほどの行動力なら、逃走できるでしょうし…。
 ストーリー上の都合あるのみという点では、研究者の、メリエスは死んだという思い込み(全く根拠が弱い)。この設定がないと、ヒューゴ君らの出る幕がなかったかも(史実がそうですから)。
 研究者が映画を見せたとき、明らかにメリエスは心を動かされました。そりゃ、人形も残っていた方が(しかも美しく修理されて)、ますます、メリエスを早く回復させるでしょう。でも、<どうしたって無くてはならない>という必然性が薄い。簡単に言うと、「このフィルムしか残っていない」と落ち込むメリエスに、「いや、もう一つ残ってますよ」ってことでしょ。しかし、実際にもっと大きなことは、メリエスの実績が再評価されること自体であって、その意味で「あなたは多くのものを残した」と世間が認めることでしょう。もっとも盛りあげるべきクライマックスに向けて、なんともスッキリしない脚本…。
 でも、私はいい作品だと考えます。ヒューゴ君が父の仕事を受け継ぐことのなかから見出した、独自の表現をする人生観・世界観がある。すべてのものには意味がある。その本来の働きを失った状態が悲しむべきことであって、それを「直してあげよう」という優しさ。機械人形も必死で直す。メリエスもその価値を発揮できるように直してあげたい。その言葉は奇妙だが、ヒューゴ君は存在するものすべてへの、行動をともなった優しさ、愛に生きている。映画への賛歌、あるいは、メリエス頌というテーマが美しい映像とともに描かれるが、そこに、架空の物語が絡まる。少年少女が老人に自信を回復させるというありふれた心温まるストーリーだが、いいではないか。見かけより地味な話だが、いいではないか。先に指摘したように、ありふれてない部分がうまく噛み合っていないが、よいではないか。リアルに考えると、ヒューゴ君が実質的に果たした役割は少ないかもしれないが、メリエスへの純粋な愛情は、彼をしてヒューゴ君の気持ちに答えたい、さらに、そんなヒューゴ君を幸せにしたいと思わせたという一点で、十分な必然性を持っている。
 贅沢を言えば、人が作ったものを大事にしよう、この世にあるものをすべて大切にしよう、自分もこの世にあるものとして、その能力を精一杯発揮しよう、できることをしたいという、ヒューゴ君の発するメッセージをもっとクッキリ描いていたらと思う。
 神様は子どもには子どもらしい存在意義を与えている。子どもは朝日を見て喜び、おいしいものを食べて満足し、某かの文化に目を輝かせ、世界に明るい笑いを響かせてくれるのが、その存在意義だ。この世に生きる喜びを溢れ出させている、神を映す鏡だ。どんなに貧しくても、辛くても、まず足を一歩進める。自分にできることをするのが喜びなのだ。しかし、このことは実は、大人が忘れているだけで、人間であることの原点だ。
 話がドンドン脱線するが、人間の原点を見つめた人がいる。『夜と霧』の作者・フランクル(1905~97年)は、ユダヤ人としてアウシュビッツ収容所に送られ、家族はみな殺されている。奴隷労働の果ての死、さらに、死体まで凌辱される(髪の毛や金歯などすべて利用される)極限状況の中、人生の意味とは何か。フランクルは一つの答えを見出す。「人生に何が期待できるか?」という問い、そこに最初から人生の意味はない。人生が私に対して「何ができるのか?」と問うているのだ。人間に、「できる」事がある限り、それが人生の意味だ。ただし、誤解してはいけない。それは、何かのために簡単に命を懸けるという話ではない。フランクルは、収容所で「強く生き抜いたのは」、そのような生き方をした人々だと述べている。人生に期待しかしない人々は、すぐ絶望して死んでいった。戦争が終わった後でさえ、絶望して自殺する者があった。フランクル自身は、生き残った自分に何ができるかを自分に問いかけた。再婚し、国の再建に尽くし、人類のために自らの体験を本に書き、精神科医として社会に貢献し続けた。

<補足>
 私の考えでは、この映画の大きな欠点は2つ(特に2つめ)あります。

1.ヒューゴ君がメリエスのおもちゃ屋さんに雇ってもらえてからの、登場人物どうしの心の交流を細やかに描くべきだった。児童文学の古典的名作なら、最も力を入れるところ。そこが、すぱっと飛んでいるので、残念ながら、映画草創期(メリエス)の史実を背景とした「ヒューゴ君の」物語にはなっていない。仮にこれが「ヒューゴ君の」物語だというなら、失敗作としか言いようがない。先に、ネット上の批判的コメントに一理あると言ったのも、その意味からだ。あくまでも、ヒューゴ君の目を通した映画草創期というテーマと、ヒューゴ君という子どもの輝きを描くというテーマとが、対等に絡み合っている。そこには、児童文学に必須の、子どもの心の「成長」や、登場人物たちの葛藤からそれぞれが成長していく過程が、ほとんど描かれていない(もちろん、冒険譚などもその例外ではない)。総合的に良作と見る方が、そこにある長所に光を当てることができると思う。あまり文学的に持ち上げ過ぎると墓穴を掘ることになりそうだ。

2.私がもっとも違和感を感じたのが、クライマックスでヒューゴ君が時計の針にぶら下がるシーンだ。シリアスなシーンであり、アクションものではないこの映画にふさわしくないと感じた。メリエスに機械人形を見せるためにあんな危険を冒したとするなら、子どもの命と引き換えにする価値はないと言わざるを得ない。そのために、ヒューゴ君に命を懸けさせるなんて、痛々しすぎる。ありえない。喩えが極端だが、ヒューゴ君を監獄(もし孤児院がそうなら)に入れないために、必要なら、メリエスが時計の針にぶらさがるというシーンなら、ありだと思う。
 なぜ、娯楽映画の、しかも、ワン・シーンに向きになるのかというと、ヒューゴ君に「人にはそれぞれ役割が与えられている」と言わせているからで、先ほど私はそれを好意的に解釈したが、気をつけないと命を粗末にする誤った思想を肯定する解釈もあり得るからだ。すべてのものに存在意義があるとすれば、それはその能力を発揮するためにであり、神でもない我々がそれが「最終的に何であるか」を軽々に決めつけることはできない。最終的な答えがないというより、むしろ、絶えず何かができることにこそ存在意義がある。したがって、自らの存在そのものを懸けるのは、神によって与えられた存在意義を放棄するという自己矛盾であって、結果としてそうなる行為が自分の願いを実現する唯一で避けられないギリギリの選択になる場合だけありえる。そうでなければ、愚かな行為、無謀な行為、あるいは、自暴自棄だ。ヒューゴ君のあの行為は、どう考えても思慮のない無謀な行ないだ。すべての存在の取り返しのつかない(とは言っていないが、落ちたらもう「直せ」ない…)価値をシリアスに語る主人公には、特にふさわしくない。




  1. 2012/10/19(金) 21:20:39|
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こんぴらさんの秘密

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 意外に早く、紅葉写真のネタ切れです。もっとあると思ってましたが、写真を撮らなかったようです。また、出てきたら載せます。
 上の写真は、琴平町の日柳燕石(くさなぎえんせき)さんの家です。豪農の生まれで、学問・芸術に秀で、何故かやくざの親分になりました。しかも、勤皇家です。高杉晋作を匿った罪で4年間も投獄され、その後は木戸孝允とも行動をともにし、最後は、会津征討に向かう途中で病没しました(52歳)。建物の「呑象楼(どんぞうろう)」は、金毘羅さんのある象頭山を飲む勢いという意味です。

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 凱陣という有名な酒屋さんです。ここの長谷川佐太郎さんも勤皇家です。日柳燕石が高杉晋作を匿いきれなくなったとき、長谷川佐太郎宅へ逃がし、晋作は酒樽の中に隠れたそうです。この屋敷にはいまでも、隠し部屋などが残っているそうです。

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 佐太郎さんの写真です。明治になって、満濃池の修築のために全財産を投入しました。昔はこんなに立派な人がいたんですねえ。跡継ぎがいなかったので、番頭さんが跡を継ぎ、今日に至っています。私はお酒が飲めないのですが、今度、小さいのを買って味わってみようかと思います。

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 高松街道終点付近です。商店街には結構古い店がたくさんあります。

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 こちらは阿波街道。どの街道も江戸時代から大正末期までは灯籠に火が入り、店が立ち並んで活気あふれていました。

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 琴平町歴史民俗資料館のジオラマ。右手前が阿波街道。右へ向かうのが高松街道。ちょっと見づらいですが、奥の右へ向かうのが丸亀街道です。資料館はもと金丸座があった場所です。

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 こちらは少し登った所へ続く伊予・土佐街道。

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 坂本竜馬像です。竜馬もこの道を通ったと言われています。

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 牛屋口ともいわれます。

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 こんぴらさんを登って、多くの方がまず参拝・休憩するのが、旭社。土佐から寄付された灯篭です。

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 才谷屋助十郎とあります。才谷屋は坂本竜馬の本家筋にあたる商家です。

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 ここにも名前が。結構もうかっていたんですね。

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 江戸時代の金毘羅参拝ブームについては以前のブログ(7.21)に書きました。忙しい人が、誰かにお金を預けて代わりに参拝してもらうことを「代参」といいましたが、犬に代参させることもありました。自分の名前を書いた木の札と、お金の入った袋をぶら下げていました。道中、旅人が交代で犬の面倒を見ました。袋から餌代をとってちゃんと食べさせながら、最後はお賽銭を納めてあげたようです。


  1. 2012/10/18(木) 22:42:26|
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御調(みつき)八幡宮(広島県三原市)

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 769年の宇佐八幡神宮神託事件は有名です。女帝・称徳天皇(718年生まれ)の支持を受けて権力の絶頂にあった法王・道鏡が宇佐八幡の信託を利用して、皇位をねらった事件です。神託の真偽を確認する役目が和気清麻呂に命じられた。宇佐から戻った清麻呂は、神託が誤りであったことを告げ、道鏡の野望を阻止した。しかし、その結果、清麻呂は大隅国(鹿児島県)に流され、姉・広虫は備後に流されました。広虫はこの地に八幡神を祭って、弟・清麻呂の復権を願いました。
 その後、770年に称徳天皇が没すると、道鏡も失脚し、藤原百川(ももかわ)に擁立された光仁天皇によって清麻呂と姉・広虫は復帰させられた。777年に、広虫が八幡神を祭ったところを藤原百川が整備したのが御調八幡宮です。

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 そもそも、聖武天皇の娘・孝謙天皇が母・光明皇太后のおい・藤原仲麻呂によって引退させられ、のち道鏡と結んで藤原仲麻呂を打ち破り(764年)、天皇に返り咲いたのが称徳天皇です。この戦争で、和気清麻呂(32歳)は吉備真備(71歳)の指揮する藤原仲麻呂追討軍で活躍し、一方、姉の広虫はもっと前から孝謙上皇の側近(尼として法均と名乗った)でした。そして、道鏡政権のもとで出世していったのです。
 ところが、道鏡の企てを阻止したお蔭で、今度は藤原政権下で大出世することになりました。和気清麻呂の建議で平安京遷都が行われたのは有名です。

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 政治はややこしい。ただ、広虫は孤児を養育するなどいい人みたいです。ともかく、由緒ある神社です。

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 結構、整備されています。

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 ここに豊臣秀吉が植えた桜があったそうですが、大二次大戦中に枯れ、株だけが残っています。秀吉が朝鮮侵略の際、三原城に滞在中に参拝したといわれています。三原城は現在の三原駅(駅が石垣にめり込んでいます…よかったのかなあ?国の史跡なんですけど)なので、真北に直線距離で約8kmです。

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 ついでに、さらに御調八幡宮から真北に約8kmの「久井の岩海(くいのがんかい)」を紹介しておきます。ここが入口です。

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 ゴロゴロ……ゴロゴロ……。

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 4か所あります。結構すごいでしょう。国の天然記念物です。

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 川ですね、これは。

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 振り返ると、来た位置が霞んでいます。

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 ここで耳を澄ますと、ずーっと下の方でザーザー流れています。不思議です。

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 以前も書きましたが、時期によってはハチに注意が必要です(退治されたかも…)。







  1. 2012/10/17(水) 20:25:33|
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柏原渓谷(綾川町)

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 柏原渓谷のキャンプ場です。今回は看板を偽りました。渓谷そのものはいい写真がなく、紅葉の終わりかけのやつだったのでパスしました。

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 ペンション(マウンテンドーム)の向かいにある粉所小学校柏原分校跡です。

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 いい味出してます。ここ、渓谷のど真ん中まで、うねうねと狭い道が西と東の遠い民家から通じ、四半世紀前まではバスが小学生を乗せて来たのです。

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 中をのぞくと、廊下の張り紙や、壁に掛る巻物の地図数本などが残っていました。私がすぐ思い出す張り紙といえば、「右側通行」ぐらいです。

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 向かいのペンションに置いてある、気になる像。夜、忍び込む者がこれを見たら、まず、尻もちをつくでしょう。タイトルは「あれ何やったかのーと考える人」?


  1. 2012/10/16(火) 22:09:27|
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井山宝福寺(総社市)

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 紅葉スポットの紹介(過去の写真で、最新情報ではありません)。今回は、総社市の井山宝福寺です。山号があるので禅宗です(厳密な話ではありませんが)。

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 鎌倉時代の鈍庵和尚が、四条天皇の病気を祈祷して治したそうです。「客星」は現在では超新星爆発などと考えられていますが、昔は、彗星や突然現れた星などは凶兆と考えられました(天文現象の記録は『明月記』などにも記載があり、注意深く観測されていたようです)。それにしても、お祈りで星がここに落っこちたという伝承はすごい。ともかく、天皇の病気が治ったので、お寺は「勅願寺」の指定を受けて荘園3000石を賜ったという。また、この和尚さんは京都五山の一つ東福寺の弁円に帰依して禅宗(臨済宗)に改宗し、星の落ちた場所に井戸が掘られたことから「井山」という山号がつけられたという。

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 室町中期の三重塔(国指定重要文化財)です。これ以外の建物は戦国時代に焼失して、江戸時代以降に再建されたものです。

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 ここが有名な、雪舟が小僧さんのとき柱に縛られ、涙でネズミを描いた方丈です。残念ながら、やはり再建されたものです。これがもし残っていたら、すごい観光名所になったはず。

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 こちらは仏殿。

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 絵画に望月派という流派があるそうで、その流派だった約250年前の号山和尚さんが天井に描いた龍の絵。夜、池の水を飲みに出たといわれています。

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 紅葉まっさかり。

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 見物人がかなりいて、人の流れが途切れたすきに撮りました。

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 ついでに、雪舟生誕地です。総社インターを降りると東西に国道180号線が走っていますが、それを越えてまっすぐ南に行くと、すぐ右手にあります。

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 こちらは井原市の旧・重玄寺跡です。雪舟終焉の地についてはいくつか説があって、候補地の一つです。

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 すごい山奥にあって、先ほどの碑までは車で登れますが、そこから少し歩いて降りたところに伽藍跡が見られます。
 注:車で行けますが、ちょっと恐い道です。運転の不安な方にはお勧めしません。

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 碑文のある駐車場からの眺め。2月だったので、梅が咲いています。


  1. 2012/10/15(月) 09:08:41|
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帝釈峡(広島県庄原市)

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 紅葉シーズンを前に、過去の写真を紹介しています。
 広島県といっても東北部なので、岡山県からは近いです。写真は下帝釈峡側の神龍湖といわれる帝釈川ダム湖。帝釈峡は全長18kmもある渓谷で、もともと駐車場・売店などが南北に2か所ありました。ちょうど真ん中付近で崖崩れかなんかで道が遮断され、今日に至るも残念ながら、実際上も上帝釈峡・下帝釈峡に分断されたままです。

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 最近のいいカメラなら、空の青さと紅葉との両方が撮れると思います。

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 ボートを漕いでいますが、なんせ広いので、人目に付かない場所で転覆したら大変です。

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 ここが北へ向かって行けるギリギリでしたが、おそらく今は、ここへも来れないと思います。ちょっと怖いぐらい雄大な景色でした。

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 今度は北側から。こちらは長い遊歩道を散歩できます。

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 原始的な光景が広がっています。

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 これがハイライト、雄橋(おんばし)です。

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 天然橋としては日本屈指(一説では、世界屈指)の大きさを誇ります。高さ40mあります。

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 この場所で注意すべきは、『誰か写真を撮ってくれないかなー』とキョロキョロしている人たち。私はこういう人たちの餌食になりやすいので、目を合わせないように気をつけています。

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 岩に顔がついているように見えるところが、ちょっと不気味。

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 なぜか、若いカップルがたむろすのでした。

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 道はどんどん続きます。

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 風情のある橋がいいです。

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 狭く流れの速いところ。他にも、見どころがあるのですが、写真が悪くて「何が写っているのか当てるクイズ」みたいになっているので割愛。小さいながら、鍾乳洞もあります。また、売店では「ヒバゴンのたまご」というお菓子を売ってたり、サンショウウオを飼ってたりします。
 さらに元気と時間が余っていて、自然の不思議三昧をするなら、三原市まで戻って、「久井(くい)の岩海(がんかい)」に立ち寄ってください。なぜか、無数の岩がゴロゴロと川みたいに行列を作っています。ただし、私が行った時には、スズメバチが岩の隙間に巣をつくっていました。




  1. 2012/10/14(日) 08:53:35|
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映画『二階の他人』(1961年)

 『二階の他人』(1961年)松竹  監督:山田洋次(初監督作品)  脚本:野村芳太郎・山田洋次
  出演:小坂一也・葵京子・瞳麗子・平尾昌章・関千恵子・穂積隆信

 2階を他人に貸して一緒に住むというのが時代を感じさせる。『須崎パラダイス・赤信号』もそうだった。そういえば、豊田正子の小説『おゆき』(母を主人公にした実話)にも、戦後、生き残った(というのは、戦争中2人の息子を亡くしているからだが)息子夫婦のために、どこかの二階でも借りようかという話が出てきた。
 主人公の若い夫婦、葉室正己(小坂一也)・明子(葵京子)が月賦で家を持ったものの収入が足りず、2階を他人に貸すことに決める。しかし、2階の住人はなぜか奇妙な人たちばかり・・・。入れ替わり登場する2階の住人は二組で、テレビドラマを2週連続で見た感じだ。最初の住人は、主人公同様の若い夫婦だが、一向に家賃を納める気配がない。しかも、転がり込んだ正己の母(高橋とよ…困った母さんぶりがいい味を出している)が2階の住人を気に入り、何かと肩を持つ。正己と明子はなかなか家賃のことを言い出せなかったり、うまいこと騙されて相談に乗ってやったりするが、実は、単なる怠け者で家賃踏み倒しの常習犯だった。ついに、出て行ってもらおうとするが、なんだかんだと言い訳をされる。近所に住む警察官に相談するが、法的には難しいから、ぽかっと殴ってやんなさいと言う。ついに、棍棒を持って二階へあがる正己だったが、相手は「やれるもんならやってみろ、足が震えてるじゃないか」とひるむ様子がない。しかし、正己が思い切ってぽかっとやると、とたんに腰砕けになってしまい、翌日には荷物をまとめて出て行ってしまう。今のドラマなら、ここまでお人よし夫婦はいないだろうし、悪者にしたって相手が手出しなどしたものなら、それこそ思うつぼで、逆に、ゆすってくるだろう。“ぽかっ”とやられて、「ちぇっ!」と出て行くところがかわいい。仕事を世話してくれたり、やさしく接してくれたりした夫婦にぽかっとやられたら、出て行くしかない。
 二番目の住人は、さらに不思議だった。初老の紳士と若い女性だ。ステレオや立派な家具を持ち込み、高級酒を飲む。風呂が欲しいから建てて欲しいとお金を出す。しかも、正己がお金を貸してほしいと頼むと、あっさり貸してくれる。実は兄から、母を引き取る代わりに、家を建てるとき貸したお金を返せと迫られていたのだった。こんなお金持ちがなぜ2階に間借りなのか…。どうも犯罪の匂いがする。そのうち、新聞で会社の金を盗んで逃走中の犯人のようだと分かるが、借りたばかりのお金も返せないし、しばらく様子を見ることにする。そして、クリスマスの夜、正己と明子は2階の住人に呼ばれ飲んで踊っての一夜を過ごす。が、正己が仕事でいない昼間に、明子は2階の夫婦が鳥かごの鳥を逃がしているのを見て、胸騒ぎがする。そのあと、正己の会社の部長に借金をしに行くが、男女の関係を迫られて怒って帰る。と、家の前にパトカーが止まっている…。映画を見ている側は、すわ自殺かと考えてしまうが、自首だった。明子があとで鳥かごを見ると手紙があって、貸したお金の事は秘密にしておくと書かれており、親切にしてくれたことへのお礼が述べられていた。正己たちは、借りた金はいつか彼らが再出発をするときの資金として返そうと決め、そのためにも、また2階を貸すことにする。
 よく考えてみると、最初の住人といい、今回といい、長短はあれ監獄に入らなければならないような人たちだが、それがごく平均的な夫婦が多少お金に困ったり、母親や兄弟との確執があったりしつつも、そんな日常とは別物の異世界を持ちこんでくる。ところが、生活のためもあるが、われらが「日常」の懐の深いこと。招かれざる客からスルリと身をかわすこともなく、奇妙な交流が始まる。それも、ヒトという動物が本来もっている土臭い素朴さのなす関わりであり、ぽかっと殴ることもあるし、犯罪行為に同調するわけでもない。しかし、何が肥料になってか育っていくものがある。いつの間にか生まれているプラスαがある。こういう基本的なコンセプトは、山田洋二監督に最初からあったのだと知り、感慨深かった。『男はつらいよ』では「フーテンの寅さん」の人間味や自由気ままな生き方、そして、もちろんその失恋物語に焦点があたりがちだが、これは同時に、ストーリーに新たな命を与える「マドンナ」と、彼らを取り巻く人々の物語でもある。寅さんは長くは同居できない2階の住人だ。もちろん、「二階の他人」と違い犯罪者ではないし、比較にならない魅力を放っている。そもそも主役はこちらで、台風の目でこそあれ、「二階の他人」のように物語に対して受け身ではない。それにしても、この映画の登場人物はみな、「フーテン」(はみだし者)の寅さんに心を開く。観客は、寅さんが生き生きしている、そんな人間関係が織り成す世界に心が洗われる。やはり、異質なものの交流からプラスαが生まれるというコンセプトを見ることができないでしょうか。



  1. 2012/10/13(土) 11:50:16|
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近水園(おみずえん)・岡山市

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 足守藩(2万5千石)の陣屋跡です。足守藩は秀吉の妻・ねねの兄の家系で、もとは杉原姓でしたが、秀吉の一族として木下家を名乗りました。江戸時代になって一時、領地を没収されましたが、大坂夏の陣の活躍で返り咲いてからは明治維新まで存続しました。

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 陣屋の隣にあった庭園が近水園(おみずえん)で、紅葉がきれいなので知られています。

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 数寄屋造りの吟風閣です。幕府に命じられた普請の余った材料を有効活用したそうです。

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 足守川から水を引いています。

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 なぜか、キリシタン灯篭があります。由来は不明です。

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 ここの歴史資料館・足守文庫には北政所(=ねね)の道中風呂といわれるものがあります。

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 大坂夏の陣で使った鉄砲の弾よけです。

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 木下利玄(りげん)の生家跡。木下利玄は最後の足守藩主の跡継ぎで子爵、白樺派の作家です。

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 近くの足守小学校に立つ備前焼の二宮金次郎。岡山では早くから備前焼製のものがありましたが、金属供出後はますます作られたようです。二宮金次郎像は報徳運動のなかから現れましたが、近代日本社会においてどういう役割を担ったのかは未だ位置づけがあいまいです。

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 武家屋敷が残っています。

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 中も見学できます。

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 古い街並みに商家が多く残っています。こちらは醤油製造業・藤田千年治店です。

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 こちらも中を見学できます。

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 近水園や街並みからちょっとだけ離れた場所に、緒方洪庵生家跡があります。言うまでもなく、医師・蘭学者であり、大坂に適塾を開いて福沢諭吉や大村益次郎などの人材を育てたので有名です。


  1. 2012/10/12(金) 23:25:51|
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小豆島の寒霞渓(かんかけい)・映画村など



 前回から、紅葉の美しい所を紹介しています。したがって、写真は今年のものではありません。四方指(しほうざし)展望台からの景色。

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 奇岩で有名な寒霞渓も一望できます。

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 右中央付近にロープウェイの鉄塔が見えます。

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 港も見えます。この雄大な景色はうまく写真に入りきりません。

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 不思議な岩。

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 麗しの原高原あたりから。

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 写真に撮りたい光景のメジロ押し。

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 実際はもっときれいです。どうも遠くが霞んで写ります。テクニックのある方ならもっとすごい光景が撮れます。

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 寒霞渓をロープウェイで上がると、下まで歩くコースもあります。下から見上げる奇岩と紅葉に出会えます。

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 紅葉シーズンのロープウェイは満員です。乗る時はよい場所を確保しましょう。

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 ロープウェイ下の乗り場付近は人に馴れた野生のサルたちがたくさんいます。ちょっとニール・ヤングに似ています(ちなみに大ファンです)。

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 「見んな!」とでも言いたげ。

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 幸せそうな柴犬(?)。その目の先には・・・

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 車をなめきった困ったサルたち。「銚子渓お猿の国」のサル人口(?)はこの比ではありません。冬には押し競まんじゅうというか、団子というか、胚のようになってます。幼稚園のころサルに手を握られ、驚いた拍子になぜか握りかえしてしまい、サルが叫びまくり、大集団に取り囲まれて大騒ぎになりました。死ぬかと思いました。気がついて手を離したら、騒ぎが収まりました。サルもびっくり。

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 緑もきれいです。

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 映画村では、岬の分教場行きのボンネットバスに乗れます。

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 映画村の一部です。

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 どこか懐かしい光景が広がっています。

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 縁側でネコと昼寝したい。

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 真っ青な海の見える家。現実的に考えると、潮風対策が必要。

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 ゴジラの看板。小さいころ親に連れられてゴジラ映画を見に行き、昔は映画の途中でも入場するのが普通で、戸を開けたそのとき、画面が振り向くゴジラの顔だらけで、縮み上がりました。その日はずっと親から「おとっちゃま!」(讃岐弁で恐がりのこと)と言われ続けました。

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 浸っていたい世界。

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 岬の分教場。

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 昔の机は、このタイプとフタ付きタイプがありました。

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 小学生のとき罰掃除をやらされ、クラス前の廊下を隣の教室前と色が変わるほど磨きあげて、どんなに褒められるだろうとワクワクしてたら、「やりすぎだ!」と先生に叱られました。

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 逆の経験もあります。居残りで、漢字の膨大な量をノートに書かされたときのこと。仕上げるまで一歩も教室から出るな!と先生はカンカンでした。ノートを教卓に提出して、一人ずつ帰っていき、ついに最後の一人になりましたが、全く終わる気配もない。そのうち、トイレに行きたくなり、もう我慢が限界で、漢字の長さがどんどん伸びていき、「もう駄目だー」とノートを出して、トイレにすっ飛んで行きました。翌日、先生の第一声は「○○君(私の名前)!」で、叱られるっと思ったら、「最後までやって帰ったのは君だけだ」とほめちぎられました。タイムマシンがあったら一番見たいものの一つが、最後の何行かがやけに長細い漢字のノートです。大人の目にどう映るのか・・・。

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 この教室は紙芝居をしています。

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 個人の思い出に浸ってしまったので、口直しに寒霞渓の景色をご覧ください。そして、ぜひ、紅葉のころ訪れてください。


  1. 2012/10/11(木) 22:21:22|
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祖谷(いや)渓~祖谷のかずら橋(徳島県三好市)

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 もうすぐ紅葉の季節です。写真は昨年、祖谷(いや)を訪れたとき。紅葉的には出遅れて残念な写真ですが、いいところなので紹介します。

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 とりあえず、残っていた紅葉。

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 祖谷渓で何がすごいかというと、この人です。

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 祖谷川に向かって放ってます。小便小僧のなかでも際立った根性の持ち主です。

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 無心というか、悟りの境地というか、こっちが夢に見そうです。

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 雄大な景色です。

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 何か見えてきました。川がエメラルド色です。

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 アメゴがおいしそうです。

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 かずら橋です。この風景だからこそ、かずら橋が似合う。普通の橋なんか架けてたら、責任者は県外追放でしょう。

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 背景もいいです。

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 いよいよ来ました。恐いといっても観光地ですから、落ちることはあるまい。

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 体が通る隙間ではないと思うのですが、ストンと勢いつけて落ちたらスルッといくかも・・・。

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 全員しがみついています。真ん中はお急ぎの方用。

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 映画だと、パシッ・ピシッと一本ずつ切れたりするんだろうなあ、とくだらぬ想像をしてしまう。

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 逆側。あの橋を渡って、かずら橋まで来ました。

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 無事、渡り終え、「琵琶の滝」を見に行きました。頼まれて撮った写真みたいになってしまいました。まあ、顔がぼやけてるから使用OKでしょう。「琵琶」の滝とは、平家の落人伝説からつけられた名前です。

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 河原に下ります。

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 独特のきれいな石ですが、阿波の青石といって、庭石なんかによく用いられます。お土産屋さんで売っていたので思い出に買いましたが、石だけに・・・。

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 ちょっとSFっぽい景色です。

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 帰りにもう一度、橋を見おさめ。やはり、高い。

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 平家屋敷を目指します。

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 おとなしい番犬がいました。

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 幕末から明治初期の建物で、庄屋だった西岡家の住宅です。平家滅亡の折に一族とともに入山した、安徳帝の御典医・堀川内記という人の子孫といわれています。






  1. 2012/10/10(水) 21:14:28|
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本島(丸亀市)

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 本島(ほんじま)の南側です。東に瀬戸大橋が見えます。人口約800人の美しい島です。

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 近くに見えるのが牛島です。今では人口十数名ですが、江戸時代には丸尾五左衛門が内海の海上王といわれ、大名貸しまでやっていました。塩飽全体が江戸時代には廻船業で大繁栄していたようです。

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 本島の笠島(かさじま)地区は、国の重要伝統的建造物群保存地区です。江戸時代のものから、明治・大正・昭和初期まで、建築物マニア大興奮間違いなしの数を誇っています。

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 なまこ壁の土蔵もあります。

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 内部を見学できる家もありますが、写真が多くなりすぎるので割愛(すいません)。岡山・香川にお立ち寄りの際は、ぜひ、計画に入れて尋ねてください。

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 生活感のあるところも風情があります。

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 宮本家の供養墓。「年寄りの墓」といわれるものが島にいくつかあり、その一つ。

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 江戸幕府から御用船方とされた人々を人名(にんみょう)といい、その代表4人を年寄りといいます。塩飽勤番所で自治的に政務を行い、絶大な力を持っていました。

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 こちらは吉田家。
 塩飽の島々は戦国時代から信長・秀吉に水軍として仕えてきました。

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 「塩飽勤番所」です。信長、秀吉、家康からの朱印状や、大岡忠相らが署名した漁場の裁許書など貴重なものが保管されています。

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 咸臨丸の水夫が持ち帰ったものです。

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 1860(安政7・万延元)年の日米修好通商条約批准のため、ポーハタン号に乗った正使・新見正興らとは別に、これまで洋式艦船の訓練を行ってきた幕府が威信をかけて派遣したのが「咸臨丸」でした。塩飽の人々はこれまでに長崎海軍伝習所などに1000人近くが呼び出されていましたが、咸臨丸の水夫50人中、塩飽から35人(本島12名など)が選ばれました。

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 いろんなものを持ち帰っています。

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 幕府はその後も1862(文久2)年に榎本武揚・西周など15名のオランダ留学生を派遣していますが、この中に塩飽出身の古川庄八と山下岩吉がいます。古川はオランダ語習得も早く、1857年に江戸に幕府・軍艦操練所がつくられたとき教授に任命されていた。オランダから帰国後は、榎本とともに開陽丸に乗り函館戦争に敗れたが、明治政府にも海軍技師として出仕しました。

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 港の手前に、木烏(こがらす)神社があります。

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 制札場や、全国で最重要な舞台30件に含まれる千歳座と呼ばれる芝居小屋があります。

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 実はここを訪れたのは2、3年前のちょうど今頃で、お祭りの最中でした。

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 本島の海水浴場は、私たちが小学生のころ丸亀からたくさんの人が訪れていました。一度、父に連れられて寺で一泊しました。頼んで泊らせてもらったようなことを言ってました。今では、寺側がそういうことを営んでいる場合でなければ、「ちょっとお寺で一泊」なんて考えられません・・・。

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 貸し自転車で島を回っていると、ポツンとこれだけ建っている「夫婦倉」です。嘉永5(1852)年に建てられた廻船業「新屋」の土蔵です。
 ところで、自転車で島を回ろうというのは甘い考えでした。思っていたより広いし、坂道がきついです。高くてもフェリーで車を渡さなければ、見たいところを回りきれません。

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 『機関車先生』のロケ地です。

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 実は、本物の小学校跡です。

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 井戸とポンプが郷愁を誘います。本島小学校の分校(分教場)だった所です。

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 黒板の字は、坂口憲二演じる機関車先生が書いたものです。残念なことに、最近落書きがあったそうです。島の人がボランティアで清掃等しているのに、何を考えているんでしょうか。もちろん、器物破損罪に当たります。

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 木造校舎で学んだことがある人は懐かしい気分に浸れます。

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 昔はこういうオルガンがありました。

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 普通の教室とは少し形態が違います。

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 誰もが、この角度で写真を撮るはずです。

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 帰りの時刻を調節して、船から夕陽を見ました。





  1. 2012/10/09(火) 11:34:46|
  2. 史跡・文化財など
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映画『上を向いて歩こう』(1962年)・『愛の賛歌』(1967年)

1.上を向いて歩こう 1962年 日活
  監督:舛田利雄  企画:水の江滝子  脚本:山田信夫  撮影:山崎善弘
  出演:坂本九・浜田光夫・高橋英樹・吉永小百合・渡辺トモコ・芦田伸介

 吉永小百合が心を寄せることになる高橋英樹演じるチンピラはお金持ちの肉親とは和解できなかったけれど、また、九ちゃんとその親友は物質的な宝物を互いに壊してしまうが、愛と友情があればそこに希望があるというテーマはよく描かれていたと思う。しかし、物語の結末を役者・吉永小百合の清純パワーでねじ伏せる劇画調にしてしまった。正直、もう少し自然なドラマ展開にして欲しかった。終盤近くまでは(高橋英樹演じるオニイさんの設定に無理があるものの)まだ許容限度内だったのに、最後を盛り上げようとして途中から作りすぎた展開になってしまった。その勢いで?ラストで出演者全員が行進しながら「上を向いて歩こう」を歌うシーンは、今の感覚ではちょっと辛い。が、ストーリーと全く無関係に、俳優さんの若い姿や昭和な空気に泣けてしまった。


2.愛の賛歌  1967年  松竹
  製作:脇田茂  監督:山田洋次  脚本:山田洋次・森崎東  撮影:高羽哲夫
  出演:中山仁・倍賞千恵子・伴淳三郎・有島一郎・千秋実・太宰久雄

 ストーリーがしっかりしていると思ったら、有名な元ネタがあるようです。父親(千造)の反対を押し切り、島を出て外国へ行こうとする竜太(中山仁)と、竜太の夢を認めてやって送り出す恋人・春子(倍賞千恵子)。竜太は一度は島に残ろうと考え直すが、これを春子の方が反対する。後悔を抱えた人生をともに歩みたくなかったのだ。いつか戻ってくれるかもしれないという淡い希望もありつつ。ところが、春子にはすでに子どもが宿っていて、これを知った島唯一の医者・伊作が彼女を引き取って面倒をみることになる。そして、年月が過ぎ、夢破れた竜太が戻って来る。しかし、伊作は春子に密かな思いを寄せていた。それに、たといそれは隠せても、我が子のように面倒を見た子どもへの愛情を隠せなかった。竜太の方は、一旦は春子と伊作が子どもまで作ったと誤解して落胆するが、事実を知るや、一転して単純に喜ぶ。しかし、伊作の一言が事態を一変させる。伊作は、子どもはやれないと言う。驚く竜太に、父親・千造が追い打ちをかける。これまでの息子の身勝手な行動に腹を立て、怒り心頭で出て行けと言う。実は、春子の面倒を見てくれた伊作への友情を裏切れなかったのだ。春子とて伊作を裏切れない。こうして、男は再び一人さみしく島を出て行く。だがその後、千造が亡くなると、伊作は突然、春子に子どもと一緒に竜太のもとへ行けと言いだす。実は、千造や春子の本心を思うと、ずっと良心の呵責に責めさいなまれていたのだった。ラストは、島の人々に見送られながら、子どもを連れた春子が泣きながら、竜太の待つ大阪へと船出する。
 多少の欠点はありつつもみんないい人ばかりだが、自分の気持ちに正直に生きることから、思いもよらぬ軋轢と不幸が連鎖反応的に膨らんでゆく。しかし、最初から、気持ちを押し殺して生きていたら、後悔ばかりの人生だっただろう。人が本気で生きれば、必ず、自分の人生や他者との軋轢が生じるが、素直な気持ちを失わなければ、時間はかかるがきっと納得できる地点に行き着く。その回り道は決して無駄ではない。人生は短い。心のままに真剣に生きなければ、無である。


  1. 2012/10/07(日) 10:44:49|
  2. 映画
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高松市のタヌキ

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 屋島の太三郎狸夫婦とその子ども。太三郎狸は四国のタヌキの総大将で、日本三大タヌキに数えられ、「蓑山大明神」として祭られている。縁結び・子宝・家庭円満などにご利益があるそうです。

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 鑑真や空海が屋島に立ち寄った際に、蓑を被った老人に化けて道案内をしたそうです。そして、えらいお坊さんの影響で学問を大切にし、タヌキの大学までつくったそうです。

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 徳島の金長狸(ハレルヤ製菓の「金長まんじゅう」で有名)と六衛門狸が戦争になった阿波狸戦争は、タヌキ界で知らぬ者のない有名な戦争です。両者とも大将が死んでも二代目が争うという大変な大戦争でしたが、太三郎狸が間に入って止めました。他にも、太三郎狸は日清・日露戦争に参加したという武勇伝まであります。

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 昔はどこにでもタヌキがいたものですが、残念ながら屋島ではドライブウエーができて以来、見かけなくなったようです。家来がいなくては、太三郎狸も寂しい限りです。でも、哀れな人間を尻目に、山中に隠れて学問をしているのかもしれません。

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 浄願寺には、ハゲさんというタヌキが祭られています。

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 説明にありますように、やさしいタヌキです。頭が禿げて、たまらず逃げだして泣いていたそうです。お坊さんがお供えの鏡餅を3つあげたら、やっと泣きやんだというのです。

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 「白禿大明神」として祭られているのだから、そこいらの人間より立派です。

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 高松市・中央公園のハゲさん。浄願寺はもとこの辺りにあったそうです。

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 中央公園には菊池寛の像も立っています。

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 公園の南、道を挟んで菊池寛の生家跡があります。

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 わら葺の家に住んでいたというのだから、家はお金持ちではありません。

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 菊池寛通りに「父帰る」のブロンズ像があります。作家の作品世界をブロンズ像にしているのは珍しい。けれど、小説の世界が、サザエさん一家や、ヌリカベなんかに負けているというのも変かなと思う。




  1. 2012/10/06(土) 21:57:11|
  2. 信仰・民俗・伝統など
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丸亀藩の勤皇家

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 二の丸の勤皇碑。土肥大作・村岡宗四郎が大正8年に贈位されたことを記念し、大正12年につくられました。この2名が数少ない丸亀藩の勤皇家を代表します。『郷土の歴史を彩った人々』によれば、土肥大作は1837年、鷹匠町(現・城西町)に生まれ、藩校・正明館、幕府・昌平坂学問所で学び、江戸で勤皇運動にかかわるようになった。1868年の高松藩討伐には土佐藩の参謀として、丸亀・多度津藩兵とともに参加しました。

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 高松藩と丸亀藩の境目、土器川。蓬莱橋の向こうには飯野山。橋の下に見える黒い物体は、廃線になった琴平急行電鉄の橋脚の残骸です。
 1872年に土肥大作は新治(にいはり=茨城の一部)県の参事となるが、5月に謎の割腹自殺を遂げた(36歳)。前年の廃藩置県に不満を抱く不平士族の存在と関係があるのだろうか?

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 丸亀市葭(かや)町の越後屋跡。越後屋、つまり、村岡家は醤油の醸造業を営む勤皇家だった。主人の死後も妻の箏子(ことこ)は活動を続け、地下室で密議をしたり武器製造をおこなったりしたといわれる。箏子の父・小橋道寧(みちやす)は花岡青洲に学んだ医者であり、儒学者でもあったが、箏子の兄弟を含め一族あげての勤皇家だった。村岡宗四郎は箏子の子だが、天誅組に加わろうとするなどの活動のせいで藩につかまり、1867年、風邪がもとで亡くなった(22歳)。箏子は明治3年に56歳で亡くなりました。

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 丸亀藩内には、意外な形で明治の恩恵を受けた人物がいます。丸亀城南西角にかつて「新御殿」と呼ばれる建物があり、ここに23年間幽閉されていた鳥居耀蔵です。蛮社の獄にも深くかかわるなど洋学者を弾圧し、水野忠邦に仕えて風俗取締りを強化し、妖怪(鳥居甲斐守耀蔵から)とあだ名されたことは有名です。また、かれが南町奉行のころ、北町奉行の遠山景元(入れ墨奉行の金さん)と対立した話もよく知られる。憎まれ役の彼だが、1860年ごろから医者として6000人近い患者を診ており、丸亀では感謝されています。明治とともに釈放されました。

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 あとは、全然関係ないのですが、かつて城内にあった「こどもの国」です。

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 文化財にふさわしくないとして、撤去されました。

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 動物園もありました。かつてはツキノワグマもいて、園内一の凶暴を誇っていました。子どもが、サルに髪をつかまれるという事件もありました(近づきすぎ!)。

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 私が小学生のころは、これでも十分怖かったのですが・・・。どうせなら、世界一低い観覧車になるまで保存して、ギネスに載って欲しかった。

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 幼稚園の時この汽車に乗って、はしゃいで身を乗り出しすぎ、木に頭をぶつけて気を失いかけました。

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 忘れるところでした。勤皇碑の前にあり、たまにここでお茶会があるようです。東京麻布にあった京極家江戸屋敷の一部です。

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 ついでに(?)紹介します。丸亀駅から少し東にある、国の有形登録文化財・堀家(ほりけ)時計店です。

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 空き地で見た光景です。3匹そろって、「何か?」って目です。









  1. 2012/10/05(金) 23:04:05|
  2. 史跡・文化財など
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映画『隣の八重ちゃん』(1934年)

 レンタルで借りた映画などについて、感想やコメントを(無理せずメモ程度もありにして)書こうと思う。


隣の八重ちゃん  昭和9(1934)年、松竹蒲田
監督・脚本:島津保次郎
出演:逢初夢子・大日方傳・岩田祐吉・岡田嘉子・飯田蝶子・高杉早苗・磯野秋雄・水島亮太郎・葛城文子
 
 ストーリーはサワヤカさを通り越し、驚くほどあっけらかんとしている。主人公・女学生の八重ちゃんの隣には、かっこいい帝大の学生と、その弟で野球をしている旧制中学生(今の高校生)の兄弟が住んでいる。兄弟は家の前の空き地でよくキャッチボールをして、たびたび八重ちゃんの家の窓ガラスを割る。八重ちゃんと隣のかっこいい大学生のお兄さんとは兄妹のように仲良しだが、互いに初々しい思いを寄せている。
 この映画の興味深いところは、当時の空気をどこまで忠実に描いているのか、あくまでも映画の世界の話かという点。といっても、戦前に大学へ行くような人は数パーセントだろうから、描かれているのは結構お金持ちの人たちだ。小市民、中産階級という言葉の厳密な意味での、ちょっとうらやましい生活ぶりだろう(少なくとも、豊田正子のような生活ぶりとは格段の違いがある)。時代が違うので今から見れば建物や風景は少し貧乏な田舎のようだが、当時とすれば金持ちの都会(郊外?)暮らしだろう。したがって、その若者像にしても一般化はできないが、共通点もあるだろうといったところ。そうした意味でも、いろいろな局面で実証的に位置づけてみたくなる映画だ。
 それは置いといて、若者像として先ず言えることは、現代のませた子どもたちからするとはるかに「子ども」らしいこと。帝大生なのに、お兄さんが隣のおばさん(八重ちゃんの母親)に甘える姿などは本当に子どものようだし、彼らの屈託のない笑い方は、現在のドラマの演出なら小学生のそれに近い。特に、八重ちゃんの笑い方は、現在の演出であの年齢の者に使うなら、全く考えの足りない軽薄な若者といった役所だ(逢初夢子の素の笑い方ではないと思うが?)。
 ストーリーとの関係で見るなら、八重ちゃんの姉が突然、旦那のひどい生活ぶりに嫌気がさして帰ってくるが、親からは一方的に叱られてただ戻るよう強要されるばかり。行き場を失った彼女は、隣の大学生の兄さんに猛烈なアタックをかける。しまいに、お酒の出る高級料亭にみなを連れて行き、帰りのタクシー内で八重ちゃんとの真ん中に挟んだお兄さんに、酔ってまとわりつく。その後、大学生を河原に散歩に連れ出してストレートに告白するが、あっさり、「ぼく帰ります」と振られる。告白されるときの彼の顔には、“せっかく親切で相談にのっていたのに、嫌だなー”という表情が増していく。そして、彼はあっさり気持ちのままに去っていく。
 お姉さんはその後行方不明になる(このとき母と八重ちゃんが置き手紙を見て泣き、お兄さんと探しに出るが、これが姉が同情される唯一のシーンだ)。しかし、八重ちゃんの父親が会社の転勤で朝鮮に行くことになり、母親は心配したまま、姉が帰って来ることを願いつつ旦那と出発する。一方、八重ちゃんは隣に預けられることになり、「もう、隣の八重ちゃんじゃないわ」と喜び、幼馴染3人のハッピー・エンドとなる。お姉さんは周囲からあまり親身になってもらえず、物語の上でほとんど突然の嵐あつかいで、このあっけらかんぶりがすごい。
 映画の空気をもう少し具体的に伝えると、隣人同士が親密で、親どうしも互いに行き来し、お隣で飲食をしたり、酒を飲んで語り合ったりする。帝大生の兄さんなどはお隣でゴロゴロし、「おばさん、腹減ったー」と言って、出されたお昼ごはんを一人で食べたりする。おばさんが出かけて一人で食べている最中、お茶漬けをぶちまけて慌てているところへ、ちょうど八重ちゃんが友達を連れて帰って来る。現代のドラマならコントだが、お兄さんは汚れた座布団を2つに折って尻に敷いて隠す。しかし、八重ちゃんに手を叩かれた拍子に、また、茶碗をぶちまける。座布団のことも結局ばれてしまい、「まあ、汚い!」と驚かれる。精神年齢がとても幼く描かれている。
 記憶に残るシーンは、大学生のお兄さんの靴下に穴があいていて、八重ちゃんが縫ってあげる話。お金持ちでも、モノは大切にしたのだろうか(余談だが、今では、就職者が多い高校などでは、破れたズボンや汚い靴はエチケット違反だとして、「買い替えろ!」と本気で怒られる。私のような昭和30年代生まれには理解できない)。八重ちゃんは友人のいる場で縫おうとするが、「臭い!」と投げ出し、洗ってから縫うという。その後、縫った靴下を持ってお兄さんの部屋へ行く。二人は、靴下をはかせろ、自分ではけ、とじゃれあう。お兄さんが“夫婦ならこうだ”と言い、「八重子、はかせろ」と足を出す、八重ちゃんがはかせようとすると、彼は「冗談だよ」と笑う。怒った八重ちゃんが靴下を投げつけ、お兄さんが笑っていると、弟が出てくる。二人を“怪しい”と言うと、八重ちゃんが「妬いているの?」と笑い、弟がふてて出て行く。何ということのないコミカルなシーンだが、笑いの中にも微妙に封建的時代の空気が混じっている。
 また、こういう部屋に二人きりのシーンや、お姉さんが出て行ったとき、八重ちゃんが泣いて帝大生に抱きつき、お兄さんもすぐ彼女の両腕を握って慰めるシーンなど、まるで自然に描かれていて、その天然さに今よりかえっておおらかな空気を感じる。しかし、当時の観衆にとって、これが日常の事だったのか、ちょっとうらやましい事だったのか、この演出にとてもドキドキしたのか、また、当時の映画一般と比べてどうだったのか、など考えるときりがない。
 他にも、修理に来たガラス屋さんに仕事と関係のない用事を頼むシーンがあり、ここに何事も「へい」と引き受ける“立場”を見るべきか、立場とは関係なく、互いに何でも頼んだ“よき時代”を見るべきか。朝鮮への転勤がある会社にはどんなものがあったのか。お姉さんが突然帰って来るなんてことは、当時では“迷惑”以外の何でもなかったのか。等々、いろいろなことが気になる。深いテーマがないだけに、1934年という時代の日常の断片が写り込んでいて、大変に興味深い。ちなみに、この古さにしてはフィルム状態がいい。

  1. 2012/10/04(木) 11:45:12|
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1938年の『丸亀商工案内』に記載された店を調査

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 『案内』の広告欄です。右上の「秋山寅吉(とらきち)商店」は実はよく知られています。現在の丸亀商工会議所HPによれば、1991年に本社を工業地帯に移し、いまも現役ばりばりのようです。

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 一度は閉鎖された旧本社ですが、2002年に商工会議所などが市街地活性化の一環として「道の駅・秋寅の館」として再生させました。しかし、商店街活性化は未だならずです。他にも観光資源はあるのですが、お金を出してでも有望な出店希望者を一気に集めなければムリだと思います。

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 大正末期の建物です。私のような古風なものが好きな人間からすれば、こうした保存活動はうれしい限りです。かつて、りっぱな丸亀駅舎が壊されたときは残念でなりませんでした。

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 寅吉商店の看板など。壁に吊り下げた油傘が懐かしい。小学校の貸し出し用がこんな油傘でした。

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 看板という手法は新しいメディアが次々と誕生する今日にあっても、古来から広告手段としての座を維持しています。象印スコップやメリー印は現役です。

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 防空壕です。竹を編んだものの下に、重い扉があります。

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 こもった微小な浮遊物や水分を吸収したコンクリート独特のにおいがします。雨の日の道の臭いを何日も缶詰したような・・・。

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 中です。

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 左の広告、「台湾バナナ」の字が難しすぎますが、それとは別に「台湾」という言葉の意味が今日とは異なることも考えさせられる事実です。「重元商店」は残念ながら店じまいしましたが、1923年につくられた建物が国の登録有形文化財です。

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 建物の意匠に地域色があって貴重というのがその理由です。もちろん、シャッターより上です。

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 左の「武田時計商舗」がいまもあり、年配の方がご近所の方とお茶を飲みながら店番をしています。昔の広告に第十二連隊御用達ってありましたけど、と尋ねてみるが、「はーそうですか。そこに十二連隊がありましたからなー」というお返事で、何か特別なこともなかったようです。

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 店は明らかにつくり直されています。偶然、昨日めざまし時計が机から落下して大きく破損したばかりだったので、約2000円の電波時計を買いました。展示品のみでした。

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 歩兵第十二連隊の写真です。背景は丸亀城です。

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 広告欄ではないのですが、本文で紹介されたお店に「寶月堂」(ビルとその両側)があります。昭和初期の建物を市が文化財として認定しています。

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 「六万石」はもちろん、四つ目結の家紋からして京極家にちなんだお菓子です。

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 こちらは、絵が古風だったので購入。やはり、京極家がらみです。万象園は貞享5(1688)年に二代目・京極高豊が中津につくった別荘ですが、樹齢600年の「大傘松」が有名なのです。

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 以下、今回のテーマから外れます。「秋寅の館」でお茶を飲んでいると、先にお茶しておられたご婦人方のお一人から、寿覚院の観音像を見たかと尋ねられました。事情があって2、3回移転を繰り返し、ここに落ち着いた仏像で、たいそうご利益があるというので、「以前に仏像のあった高松近辺の人がわざわざお参りに来ていた」といいます。この方が「今から帰るとこなんやけど、途中にあるけん」と、案内してくださることになりました。写真は、途中にあった金毘羅灯籠と道標。かつて、丸亀街道沿いのそれらを調べたことがあったのですが、こんなところに立派なものがあるのを知りませんでした。

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 寿覚院は寛永18(1641)年、生駒氏のあと丸亀藩主となった山崎家治が菩提寺として建てました。

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 法然上人像と本堂です。

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 観音堂は創建当時のもので、桃山時代の様式を残すといわれています。仏像は、小さな穴から覗くだけですが、けっこう立派なものではないかと思いました。帰りに門の立て札をよく読んだら、「金毘羅の観音堂に古くからあった十一面観音菩薩」とある。立て札は昭和48年のもので、「以前」、遠くからの参拝者があったというのは、そんな「以前」だったのだろうか・・・。

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ご住職はここに住んでおらず、通いだそうです。写真を撮って帰りたかったので、丁重にお礼を言ってお別れしたのですが、そのとき「裏のお庭もいいですよ」と場所を教えていただいた。行ってみると、確かに小さいながら立派なお庭がありましたが、草に覆われていました・・・。写真は途中に咲いていたセンニチコウ。









  1. 2012/10/03(水) 08:57:09|
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超マニアックな丸亀城

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 『丸亀市水道誌』(1928年)によると、川から丸亀城・二の丸まで水を上げ、ここに配水池をつくって、その圧力で水道の水を出すという、水道の計画が大正13年末に内務大臣・若槻礼次郎の名前で認可された。1992年までここに配水池がありました。ちなみに、現在はポンプの圧力で水道水を送っています。

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 『丸亀水道誌』の写真。同じ位置です。

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 ここら辺りに、水をくみ上げた巨大な管が急角度で取り付いていました。補強のためか、修理のときのためか、コンクリートの巨大なハシゴ状のものの真ん中に管が通っており、小学生のときの忍者ごっこで、やはり登ってしまいました。

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 これです。

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 下の広場は見返り坂を上がった所です。その向こうのジャングルの地面は、きれいな正方形をしていて、石垣の上にのっています(見えなくなっています)。ここに、私が小学生のころ、謎の施設がありました。1畳ほどの小さな小屋があって、中をのぞくと地面がありません。暗闇がぽっかりと口を開いています。好奇心旺盛な小学生が黙って見ているわけがありません。目を凝らすと、壁にカスガイ状の鉄の梯子が付いている。男女数名で懐中電灯、ロウソクを持ち寄り、下に降りてみました。ほぼ、石垣で囲まれた四角いスペース一杯に大きな部屋が広がり、四角い柱がいくつも立っていました。
 さて、今になって『あれは何だったのだろう?』と気になり、県立資料館で調べたが全く資料がない。資料館の方に訪ねてみたが、郷土史に詳しい方も全く知らないという。丸亀市立資料館で訪ねてはどうか、という。それで、前もって用件を伝えておいて訪ねてみました。そこで見せてくれたのが、昭和9(1934)年の大きな手書きの地図でした(資料館でも公開しているものではないので、写真の掲載はしません)。お城は軍の管轄下にあったのですが、そこには「配水池」と書かれていました。『なーんだ、そうだったのか』と思うが、資料館の方も初めてこの事実を知ったようだ。で、次に考えたのが、まだあのジャングルの下にあるのだろうかということでした。
 近所から散歩に来ている人達に片っ端から聞いてみましたが、誰一人その存在すら知らない。唯一、見返り坂下のお店の方だけが、「ああ、昔よく子どもが入って遊んでた」と覚えていました。「壊したという話は聞かないから、まだ、あるんじゃないの」と言う。見に行きたいが、ヘビ、ハチ、クモが恐く、少なくても冬まではムリと判断。ところが、その後、ショッキングなものを発見してしまう。次の写真です。

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 1976年の観光用パンフレットにあった見開きA3の、空撮写真です。見返り坂を登った広場の下(写真左)が分かるだろうか。四角いところだ。何もない上に、中央が少しくぼんでいる。おそらく、壊して埋めちゃってるなーこれは・・・。すっきりしない結末でした。謎が多いままです。1928年の『水道誌』にはこんな所に配水池は全く載っていない。1934年の地図までに6年あるので、付け加えたと考えられる。しかし、二の丸の配水池を知っている近所の人が誰も知らないのはなぜか。よく知らないが、配水池っていうのは、水を注ぎこんだり出したりする所があるのではないか?小学生の時、2度ほど探検したが、密閉された部屋以外何もなかった。配水池なら配水池で、すっきり説明が欲しい。かつての一部の小学生しか誰も覚えていない何かがここにありました・・・。

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 最後の写真は、本丸へ上がる坂道です。一番下のコンクリートが割れて、青いものがのぞいているのが見えますか。ブルーシートの端っこです。コンクリートの坂道の下には昔の石段があります。シートはそれを保護するためのものです。


  1. 2012/10/01(月) 20:51:58|
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プロフィール

犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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