どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

島木健作(木田郡三木町)など

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 島木健作さんは『生活の探求』しか読んだことはありません。改めて読んでみようとしたのですが、図書館にある本はどれも字が小さすぎて、読む気がしません。若い人にはこの辛さが分からないと思いますが、年をとると小さな字を見続けると、頭が痛くなります。最近はやりの本の読めるタブレットが、あらゆる本に対応してくれる時代になるといいのですが。

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 住居跡とありますが、実際はそうではありません。この石碑は元の場所から少し動かされています。ちなみにに、この場所は、琴電・平木駅からほんの少し東よりの新川です。写真で、南に琴電が走っています。

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 ここは、先ほどの線路からさらに南に行って、川沿いの道と長尾街道がぶつかった所から、斜め北に平木駅に向かう道です。地元の方によると、島木健作さんが住んでいたのは左の茶色の家だそうです。1926~28年にかけて住んでいました。そして、三木町での体験を1937年の『生活の探求』に書きました。香川県では1928年に、労働農民党の選挙活動などを行い、三・一五事件で検挙されました。
 『生活の探求』では、東京で家庭教師をしていた家での出来事が印象に残っています。生徒はもちろんお金持ちのぼっちゃんです。その家のお手伝いさんが何か粗相をしたとき、そのぼっちゃんがコップの水をお手伝いさんの頭からかけ、口汚くののしるのです(暴力があったかどうかは忘れました)。その女性はじっと耐えています。戦前を道徳観があったよい時代だなどと知りもせず言う人がいますが、お金のない人はこんなにも隷従させられていたことを忘れてはいけないと思います。やっぱり、民主主義はありがたいもんです。

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 全然関係ない話に飛びます。たまたま、新日本紀行で「うどん」というテーマをやっていて、大阪を中心に、昔はうどん屋さんで薬が売られていたというのです。あったかいうどんの後だと、よく薬が効くということで、薬屋さんが思いついたアイデアらしいです。写真は、琴平のかつてのうどん屋さんですが、屋根の上の看板に注目してください。

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 いろんな薬が出されていたことが分かります。NHKでは、大阪のうどん屋さんが、薬の宣伝も入ったホーロー看板を保存していて、「薬事法が出てから、看板をしまいました」と言ってました。


  1. 2012/12/30(日) 16:58:14|
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フランクルとハイデッガーにおける、死の問題

 フランクル Viktor Emil Frankl (1905―97)は言うまでもなく、オーストリアの精神医学者であり、第二次世界大戦中のナチスによってユダヤ人として強制収容所に入れられ、その時の体験を綴った『夜と霧』が、極限状況における人間を精神分析家の目から鋭く描いたのみならず、彼の思想の実践の記録として高く評価されている。他方、ドイツの哲学者であるハイデッガー Martin Heidegger (1889―1976)は、周知の如くそのナチスとの関わりがしばしば断罪されている。しかし、そのような両者について、フランクルの精神分析の方法がハイデッガーの影響を受けているとも指摘されている。
 もちろん、フランクルが実存的精神分析を標榜している以上、両者に何らかの関係が見いだせるのは当然である。ここで重要なのは、比較によって両者の思想をともに明晰にすることである。その点から、両者の思想を内的に関連付けるのがここでの目的である。フランクルへの思想的影響に関する実証的探求ではないことを断わっておく。
 フランクルの『夜と霧』に見られる思想は、そこで起こった事実を通して読まれるとき、強い説得力をもつ。しかし、ここではこの著作が既に読まれていることを前提とする。「創造的及び享受的生活は囚人にはとっくに閉ざされている。しかし、創造的及び享受的生活ばかりが意味をもっているわけではなく、生命そのものが一つの意味をもっているなら、苦悩もまた一つの意味をもっているに違いない。苦悩が生命に何らかの形で属しているならば、また運命も死もそうである。苦難と死は人間の実存を初めて一つの全体にするのである!一人の人間がどんなに彼の避けられ得ない運命とそれが彼に課する苦悩とを自らに引き受けるかというやり方の中に、すなわち、人間が彼の苦悩を彼の十字架としていかに引き受けるかというやり方の中に、たとえどんな困難の状況にあってもなお、生命の最後の一分まで、生命を有意義に形づくる豊かな可能性が開かれているのである」(霜山徳繭訳・みすず書房、傍線は私)。言うまでもないが、ここで「創造的」という言葉は狭義の、常識的な意味で使われている。問題はまさに、いつ如何なる時も、人は「生命を有意義に形づくる豊かな可能性」に開かれていること、その意味では“創造的”であるという点にある。下線部には、死の自覚を通してはじめて本来的に実存するという、ハイデッガーの立場の直接的な反響が見られる。が、これは一つの傍証の類にすぎない。
 もっと一気にフランクルの思想の核心部からはじめよう。「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない」(同上、傍線は私)。ここに、彼の思想の一切が表現されているといっても過言ではない。つまり、私たちが求めてやまない「意味」というもの。その一切(つまり、「意味の意味」)、それは<私たちに何が求められているのか>ということなのであり、それに行為で応えていくことなのである。したがってまた、意味とは、自由、創造のことでもある。
<10.19のブログに書いたことを、もう一度ここに載せておく。>
 『夜と霧』の作者・フランクル(1905~97年)は、ユダヤ人としてアウシュビッツ収容所に送られ、家族はみな殺されている。奴隷労働の果ての死、さらに、死体まで凌辱される(髪の毛や金歯などすべて利用される)極限状況の中、人生の意味とは何か。フランクルは一つの答えを見出す。「人生に何が期待できるか?」という問い、そこに最初から人生の意味はない。人生が私に対して「何ができるのか?」と問うているのだ。人間に、「できる」事がある限り、それが人生の意味だ。ただし、誤解してはいけない。それは、何かのために簡単に命を懸けるという話ではない。フランクルは、収容所で「強く生き抜いたのは」、そのような生き方をした人々だと述べている。人生に期待しかしない人々は、すぐ絶望して死んでいった。戦争が終わった後でさえ、絶望して自殺する者があった。フランクル自身は、生き残った自分に何ができるかを自分に問いかけた。再婚し、国の再建に尽くし、人類のために自らの体験を本に書き、精神科医として社会に貢献し続けた。
<この本の内容で、記憶に残っていることを付け加えておく。>
 戦争末期に、収容所内にあるうわさが流れる。×月×日にアメリカ軍がここにやって来る、というもので、人々は希望を取り戻し、生きる気力がわいてくる。しかし、精神科医フランクルは、一人、不安を覚えずにはいられなかった。そして、その日がやってきた。アメリカ軍は来なかった。翌日から、多くの方が力尽きて亡くなってしまった。こんな過酷な毎日において、フランクルは精神の輝きを数多く目撃する。自分のパンを残して、弱った人に分け与えている人々がいたのだ。

 こうしたフランクルの言葉と実践に対し、ハイデッガーの思想はどう関係するのか。

 ここでは、余り理論的な問題には首を突っ込まないことにする。しかし、現象学的世界観がドイツ観念論とさほど隔たっていないことだけは指摘しておきたい。現象学者のよく用いる「前-人称的」にせよ、「根源的信念」にせよ、「人称的」なものや「信念」との差異が明確ではないがゆえに、容易に汎神論的世界に回帰していく。いわゆる「カッコに入れ」たものは亡霊のように復活してくる。特に、メルロ=ポンティではその傾向が強く、物質を単に文化上のものとし、絵画的で詩的な世界観を根底に置く。木田元氏のハイデッガー解釈も同様である。しかし、そのような絵画的視像こそは、社会的財産たる文化的なもの、まさに「神話」であり、非本来的なものといえよう。ニーテェが系譜学的に明らかにした、繰り返し息を吹き返す神の一亜種ではないのか。さらに言えば、ロカンタンが唾棄した、市長室に飾られた肖像画の類ではないのか。私は、ハイデッガーの「本来性」はこの傾向にブレーキをかけていると見る。真に実存を開示する感情は「安住」ではなく、どこまでも「不安」である。メルロ=ポンティの「意味の揺籃」は、ハイデッガーの立場では(ベルクソン流に言うなら)回顧的錯覚である(「ひと」一般は、ベルクソンとハイデッガーでは、プラグマティックな一般性の次元に置かれる)。とはいえ、ハイデッガーを規定する現象学的方法論とベルクソンの方法論とのすれ違いは埋まらない。両者の共通点と食い違いはかなり複雑で、繊細に正確に解きほぐさなければならない。が、この問題にはここでは触れない。
 たとい、日々を世間話に明け暮れる惰性的な人生や、世間的向上心のみに生きる俗物であっても、(本来は創造的であるべき)実存的選択による世界を(非本来的な仕方で)生きている。サルトルの言うように、自然に流れる時間はこれっぽっちも存在していない。行動する「実存(自由)にとっての」世界を誰もが生きている。無意識にであれ、実存によるその切り開きと一対の世界が、意味という限りの意味のすべてであり、時間の本性は「将来する」ことにある。このような実存にとって、死(世界=内=存在しなくなること)は、実存にとっての意味の限界である。それは<実存する(実存しない)ことの意味を描くこと>の無意味さを示す。が、実存の無意味さではない。実存することにしか意味がないのだ。こうして、「実存にとっての意味ということ」の意味が最終的確認を得る。つまり、ハイデッガーにとっての現象学的な意味での「死」は、そもそも、実存がその純粋な姿に自覚的に立ち返ることである。実存的意味、それは、描かれた意味たる、誰でもよい「人」にとって意味があること、辞書的既定的なものではない。ただ一人の私に向かって投げかけられた問いに、自己に与えられた能力の全てをあげて(共闘への呼び掛けも含めて)ただ一人で応答していくこと、それが、およそ世界=内=存在にとっての意味という限りの意味のすべてなのだ。こうした呼びかけと応答は、潜在的行動の段階で「良心の呼び声」といえよう。他でもなくこの私に課された意味を創出することが自由であり、意味である。是か非かを言うのはヒトである。実存とは、一人神に向かう覚悟と言い換えられるかもしれない。採点を待つのではない。行動で答えるのはこちらであり、あえて言えば、言葉ではなく、その人に実感されるがままの人生そのものがその答えだ。人生は究極の贈与だ。○も×もないが、そんな軽いものではない。



  1. 2012/12/29(土) 19:17:15|
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最近聞いたCDもう一枚(+α)

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 昨日、CDを紹介したので、その流れでいきます。フランスの歌手ミレーヌ・ファルメールさんのファンです。コンビを組んでいるローラン・ブトナさんが作る曲も大好きです。新しいアルバム『monkey me』です。この前の『Bleu Noir』もそうでしたが、独特の世界観が薄れてきています。別に、それはどうでもいいのですが、曲の個性が薄れてきているのが気になります。普通にいい曲だと思うのですが、ブトナさんには普通以上を求めてしまいます。(注:ブルーレイ付きのは音しかはいってませんし、フランスでは20ユーロほどのが何万円という呆れる値段になっています。CDは日本でも安く買えます。)

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 ミレーヌさんのオススメCDなどを紹介します。1999年の『Innamoramento』は、いい曲目白押しです。

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 それで(若者言葉で言うところの)テンションが上がったのでしょう。2000年のライブ『ミレニアム(綴りはもちろんシャレです)ツアー』は、ものすごく大掛かりです。このDVDが今のところ、CDも含めて全作品中一番のオススメです。CD最後のインスト曲で始まり、奈良の大仏みたいな巨大なセットの顔が2つに割れて、中から写真のミレーヌさんが現れ、空中からふわふわと下りてきます。歌はこれまでのベスト集。演出もかっこいいのですが、ともかく若い。1961年生まれなので当時39歳ですが、激しいダンスの連続ですが、笑顔いっぱいです。おまけの映像にトレーニングの様子も出てきますが、どうりで腹筋が割れているはずです…。

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 次に出たのが、2005年の『Avant que l'ombre 』です。独特の世界観がピークに達したときです。タイトル曲は、こんな暗い歌ありかなーという感じですが、かなり個性的でいい曲が多くあります。

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 2006年のライブです。振付が少し変なのもありましたが、演出はさらにエスカレート。スタジアムの観客の中央が十字の舞台になっていて、真っ赤に光り、天井からミレーヌさんの入った宇宙船の冬眠するやつか棺桶かというようなものが下りてきます(危険!)。巨大なステージを覆う、これまた巨大な門には全面に彫刻が施されていて、これがガガガーっと開き、下りてきたミレーヌさん入りの箱を屈強な男たちが運びこみます。ラストは、ステージ前面に雨が降り、歌詞の文字が浮かんで下りてきます(この手の演出を見た最初です)。大きな階段をミレーヌさんが悲しげなタイトル曲を歌いながら登りきると、門がまた閉じて終わるという、映画の世界のような演出でした。観客が泣いている様子が映っていて、カリスマ性がよくわかります。

 2008年のCD『Point de suture』は、とてもいい曲が多いのですが、ジャケットの絵に難ありで載せられません。

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 で、2009年に、お約束のライブDVDが出ました。さすがに、48歳なので、どうなっちゃってるんだろうと、見るのをためらいました。が、見てビックリ。前回より、むしろ2000年のライブに近い印象でした。若い!やはり超豪華でしたが、独特の世界観は薄れ、すっと始まり、盛り上がって終わりました。結構、オススメです。

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 こちらはベスト集+未発表曲です。ブトナさんの作曲能力がよく分かります。
 いままで、アマゾン・フランンスで注文してたのですが、今は、ほとんど日本のアマゾンで入手可能です。DVDやブルーレイはリージョン・コードがあるので、こちらをお勧めします。輸入盤DVDオンラインショップfantasiumなどで、全リージョン・コード対応のデッキが買えますが、外国語の勉強をする人以外には必要ないと思います。実は、フランス人の音楽に興味を持ったのは、フランス語に興味を持ったからです。それで、アマゾンのお試しで聞いたブトナさんの曲にひかれ、さらに、なぜかフランスではCDよりもDVDの方が安かったので、DVDから入りました。(注:日本のアマゾンで外国の方のCDなどを検索するとき、現地の言語で入力した方が多くヒットします。特殊なアルファベットがあるときは近い文字で入力。)

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 もう少し、万人向きな話にします。第九の季節です。私が大好きなCDがこれです。佐渡裕さん指揮・新日本フィルハーモニー交響楽団の、汗飛び散る?迫力の演奏です。おもしろい演奏もいいのですが、やっぱり、ベートーヴェンは人間臭い演奏がいいように思います。

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 どうせ変わったのを紹介するなら、ワーグナー編曲、ピアノ独奏盤にします。小川典子さんのピアノで、合唱指揮は鈴木雅明さんという本格派です。普通に変わった?演奏では、インマゼールやガーディナーが好きですが、いまは全集BOXしかないと思います…。


  1. 2012/12/28(金) 22:58:49|
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本日買ったCD

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 アーノンクール指揮、ブッフビンダーのピアノによるモーツァルトのピアノ協奏曲25番・23番。もともと、25番の方は22番・26番と並んで大好きな曲なので、この面子に期待して贅沢をしました(約1,500円ですが)。前奏が始まってすぐ、おっ何だこりゃ、と頬が緩んでしまいました。アーノンクールさん、やってくれましたねーと思っていると、ブッフビンダーのピアノも負けじと、この曲に新しい表情を作り出します。いやー面白かったです。未だにこんな新しい演奏が可能なんて、感動的。贅沢をいえば、フォルテピアノじゃなく、普通のピアノで華々しくやってくれると、もっとうれしかったんですが、素人考えですいません的な次元の話です。

 今日は実は、苦労して一度つくった全く別内容のブログを、「保存」直前に何かドジして消してしまいました。というわけで、以上です。ショック…


  1. 2012/12/27(木) 22:42:32|
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洲崎寺(高松市牟礼町)

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 源平合戦(1185年)で源義経をかばって死んだ佐藤継信の菩提寺です。倒れた佐藤継信を洲崎寺の戸板をはずして運んだそうです。

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 開明小学校というのは、学制発布(1872年)でこの地に建てられた最初の小学校らしいです。詳細不明です。

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 立派で新しい庭があります。このお寺も、伊能忠敬が宿泊しています。

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 四国八十八カ所ブームをつくった江戸時代初期の人、真念さんのお墓があります。

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 真念さんの著書『四国邊路道指南』は、八十八カ所の仏像や由来、道中のことなどを書いた、現在の入門書の先駆けです。また、前山おへんろ交流サロン(四国の立体模型や納札など資料豊富)によれば、道標のほとんどは、真念さんによる貞享年間(1684年~)のもの、伊予の徳右衛門さんによる寛政年間(1789年~)のもの、中務茂兵衛さんの明治時代(明治19年~)のものだそうです。

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 東には五剣山が見えます。
 洲崎寺は源平合戦で消失後に再建されるも、戦国時代の長宗我部元親軍の攻撃で再び消失、1699年に再建されたそうです。

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 八栗ケーブル駅に向かう道に入ってすぐにある、長宗我部軍の数珠掛孫兵衛久重さんの墓です。


  1. 2012/12/26(水) 21:41:38|
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今日の岡山香川のニュース―金山寺本堂焼失(岡山)・猿団子(香川)

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 朝からとても残念なニュースでした。岡山市の金山寺本堂(国の重要文化財)が全焼してしまいました。ブログでは岡山にいたころに撮った写真も、当時の思い出とともに紹介していますが、金山寺は2005年12月に訪れてました。

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 山門(1645年)は市の重要文化財です。

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 石段を登っていきます。

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 岡山県の重要文化財・護摩堂(1575年)は修理中でした。

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 さらに石段を登ります。

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 消失してしまった本堂(1575年)です。

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 ニュースでは、ロウソクの火が原因かもしれないとのこと。ご住職さんには本当にお気の毒です。

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 重要文化財などは、細かい設計図や材質を記録しておいてはいかがでしょう。せめて、再現できます。もともと、古い重要文化財などは、修繕や部材の交換などを繰り返しているので、新陳代謝してすっかり入れ替わっていることもあり得ます。余談ですが、正確な再現と、少しずつ入れ替わるのとは程度の違いなんでしょうか。とはいえ、世の中の大事なことはすべて「程度」の問題だというのも真実…。

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 県の重要文化財・三重塔(1788年)です。

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 もうひとつは、小豆島・銚子渓(ちょうしけい)の「お猿の国」で猿団子が見られるようになったという、のどかなニュースでした。これは2006年12月の写真です。この繁栄ぶりは、お猿の王国といっても過言ではありません。

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 こういうかたまりを猿団子といいます。

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 「さびーっ」「寒いゆーたら、50円な」「えーっ」「もう黙っとれんぐらい寒いがな」「…」

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 ついでに、寒霞渓の風景は紅葉シーズンに紹介しましたが、2006年の写真から未紹介の光景を並べます。

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 山と海の雄大な光景。

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 山と海の間に人間の生活があって、地球の丸さが写っています。学校の黒板のタテ一杯に円を描いて地球だとすると、大気圏の空気がある所も海の深さもそれぞれ1mmぐらいの幅らしいです。地震に限らず、そもそもぞっとするほど危ういバランスの上に人類は生きています。 

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 12月3日の写真ですが、この年はまだ紅葉が残ってたんですねー。

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 キングコングが出そうな岩山です。

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 最後の2つは、ロープウェイの中からです。
 ニュースの話題から離れましたが、猿団子といっしょに保存してたので、ちょっと紹介しました。




  1. 2012/12/25(火) 21:52:16|
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碁之浦(鳴門市)

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 東かがわ市から11号線を徳島県に入ったばかりの所です。

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 しろとり動物園に来たついでに、このようなものがあるとネットで知っていたので、寄り道をしました。伊能忠敬は日本中の海岸を歩いているので、単に来ましたよじゃないだろう…と思いつつ、見に来ました。隣の引田からここまで船に乗ったという記録があるそうです。伊能忠敬の書いたものを見たことがないので、珍しいのかどうなのか、結局、謎です。

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 港に出てみると、雰囲気のある場所で、思わず引き込まれました。

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 この岩がまた、水墨画に出てきそうではありませんか。右上の白いのはUFOではなく、月です。

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 風が強く、波がときどき、ドドン、パシャーっと飛んできます。東、もっと徳島県。

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 西、香川県。

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 上空、猛禽類。

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 香川県側の沖合に不思議な島影。

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 バトルシップか、アビスか。

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 海岸沿いの道は東へ弧を描いてすぐ国道11号に戻ります。そこから、先ほどの不思議な岩方向を見る。

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 望遠にして見ると、やはり怪しい光景。

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 沖合に、無人島。

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 泳いでます。

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 モケーレ・ムベンベっ!…ではなく、斜めに地層が見えます。

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 広い海岸ですが、夏は泳げるんでしょうか?波がうねってます。

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 ちょっと、東かがわ市引田町に戻って、「日下(くさか)家」です。

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 ほぼ東かがわ市を治めていた大庄屋です。

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 それがどうしたのかというと、実は、伊能忠敬が宿泊したんです。碁之浦が(風景としては一見の価値ありでしたが)伊能忠敬の史跡として微妙だったので、こちらを紹介しておきます。

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 以前紹介した井筒屋にも、一行が宿泊したようです。






  1. 2012/12/24(月) 21:47:06|
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三豊市の神社など

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 仁尾町の賀茂神社です。1084年、京都の賀茂大社の分霊を祀ったものです。

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 由緒ありそうです。今回は、ちょっと不思議な神社をめぐります。

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 石の橋も立派です。

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 大きな石にびっくりです。倒れたりしないんでしょうか。

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 注連石(しめいし)と呼ばれているそうです。詫間の鴨の越の海中にあって、船の通航の邪魔になっていたそうです。明治のころに引き上げて、ここに持ってきたといいます。理由は不明です???

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 由緒もどっこいしょもありということでしょうか。豪快さが神秘性につながっています。

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 こちらも仁尾町の、履脱八幡神社(くつぬぎはちまんじんじゃ)です。

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 神様がこの岩に靴を脱いで休息されたという、珍しい伝承です。

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 「履脱(くつぬぎ)の石」と呼ばれています。

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 この石塔もずいぶん古そうです。

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 詫間町の妙見山(319m)にある妙見宮です。

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 少し登ると、建物が目に入ってきます。

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 おっと、なんか不思議なものが見えてきました。

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 巨大な岩が屋根になっています。妙見菩薩は北極星を神格化したもので、すべてお見通しだといいます。陰陽道+道教+密教といった不思議ミックスです。

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 宇宙人の基地の様です?

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 …と言われても、恐い。

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 崩れたりしないんでしょうか。ヘビは?

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 やっぱり、無理ですね。こんな寂しい山中で、毒蛇に噛まれて中でつっかえたまま死去、なんていまひとつです。東大寺大仏殿の柱の穴に引っかかって死ぬとか、ワイルドでありたいものです。

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 お地蔵さまが祭られていました。

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 岩の上から見た仁尾の町です。

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 詫間町に三四郎岩と、三四郎さんを祭る祠があります。

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 1583(天正11)年の豊臣秀吉の大阪城築城の際、詫間町でも採石が行われました。このとき、石工の三四郎さんという方が巨石の運搬中に、下敷きになって亡くなったのだそうです。


  1. 2012/12/23(日) 23:33:00|
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サンポート高松・かがわプラザ・かがわ発見ゾーン



 昔の高松駅周辺の写真だそうです。このごろ、本当にリヤカーを見なくなりました。昔は外を歩けば一度は目にするほどでした。小学校から帰るとき、荷物を一杯に積んだリヤカーを引いて坂道を上がるお年寄り(いろいろな方)に出会い、後ろから押してあげたものです。時には、10円とか、お小遣いをくれたものです。「いえ、結構です」と言えるほど、しっかりした子どもではありませんでした。
 あと、リヤカーの思い出で忘れられないのが、毎日リヤカーを引いて、お風呂の薪を製材所にもらいに行ったことです。料金は大人が払ったので、いくらだったのか分かりません。近所のおばあさん家の分もまとめてリヤカーに山盛り、いっしょに行く大人は、うちの親やおじいさん、近所のおばあさんたちが交代でした。ちなみに、私の家には、よそのおばあさんが一緒に住んでいて、私は高校生になるまで自分のおばあさんだと思っていました。

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 昔の琴平の駅舎だそうです。

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 昔は映画館が何軒も互いに近い所にありました。料金はいまほど高くなかったと思うのですが、高校生のとき友達と行くからと映画代をもらうと、その月のお小遣いはなしでした。「おとっちゃま」とは、讃岐弁で「こわがり」のことです。

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 「けっこい写真館」だそうです。ネーミングを讃岐弁で統一しているようです。「けっこい」とは「きれいな」という意味です。

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 正面は「うまげなホテル」。「うまげな」とは「かっこいい」とか「いい感じ」のこと。

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 小学校に入ってすぐのころ、家に戻ると白黒テレビがあった瞬間。いまも覚えています。そのうち、カラーテレビが出て、持ってる子が「ウルトラマンはカラータイマーが青から赤に変わるんぞ、白黒やったら、なんちゃ分からへんやろ」と言うので、「ピコピコゆうし、チカチカするけん分かるわ」と大真面目に答えてました。カラーテレビを体験するまで、そのすごさが全く分からず、満足しきっていたのでした…。

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 「きまい堂」は、「いらっしゃい堂」って感じです。そういえば、小学校の近くに貸本マンガの店がありました。私が思い出深いのは、少年マンガの付録(ペーパークラフトの船など)を別売りするお店があったことです。

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 「ぴっぴ」は「うどん」のこと。私が中学生の頃だったと思うのですが、一杯20円のセルフのチェーン店が香川県を席巻し、そして、またたくまに消えました…。

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 「まける」は「溢れる」のこと。銭湯では、マブチ・モーターをつけた船の模型を何度も走らせてひんしゅくを買いました。銭湯で怒られたので、浮き沈みを繰り返す仕組みの潜水艦シービュー号を海に持って行ったときは、潜ったままどこかへ消え去りました。親には「ほっこげなのー(バカげてるなー)」と呆れられました。

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 右は酒屋さんです。よく父親に買いに走らされました。酒屋さんなのに、仕事帰りの大人が何人か枡酒を飲んでいました。枡の角っこに塩を乗せて、一杯やっている人もいました。

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 紙芝居。私が子どもの頃はすでに全国では紙芝居はなくなっていたと、後で知って驚きました。おそらく、幼稚園かそれ以前ですが、奇跡的に体験できたからです。小学校の頃は、放課後の校門付近で、怪しげなものを売るおじさんが毎日のようにいました。

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 高松シンボルタワー30階からの眺めです。

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 高松市牟礼町の「うどん本陣・山田家」で、釜ぶっかけ卵黄入り600円をいただきました。おいしかったです。

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 五剣山の先っちょが見えています。
 本日は、遠方から友人が訪ねてきてくれ、あちこち案内して回りました。だいたい、ブログでは紹介した場所なので割愛。


  1. 2012/12/22(土) 21:31:33|
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池戸公民館(木田郡三木町)

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 池戸公民館は旧木田郡役所です。1919(大正8)年に作られました。

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 入口はこんな感じです。道幅が狭く、引いた写真を撮るために斜めから。

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 いい感じの建物です。1926(大正15)年に郡制が廃止されて公会堂になり、1930(昭和5)年から香川県蚕業試験場、1957年から同三木分場、1983年から池戸公民館になりました。1986年に町指定文化財になりました。そして、今年から三木町アートギャラリーがオープンしました。

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 中央は、通り抜けです。

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 左右に土間が続いています(木の廊下は新しく付けた感じです)。

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 すぐ、係りの方が出てこられ、いまちょうど子どもの発明展をしているのでどうぞ、と勧めてくださいました。「実は、建物の方に興味があって、寄らせていただきました」と、すぐ本音を言ってしまい後悔…。それにもかかわらず、「それなら…」と、すぐ鍵の締めてある部屋を案内してくださり、感謝感激しました。

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 隣の部屋の天井です。ここは、地域の考古資料や歴史などの展示場になる予定で、準備中でした。完成したら、また、見に行きたいと考えています。

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 ここがギャラリーで、作品が展示されていました。「電灯の光が柔らかくて色もいいですねー」と見とれてしまい、『あっ』と気づき、作品を見て「ほー…」と感心。内心『遅っ!』と自分にツッコミを入れてしまいました。

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 向かって右側の部屋を最後に見せていただきました。ここでは、小さなコンサートなどが催されているそうです。落ち着いた雰囲気でいい感じでしょうね。

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 入口の石段を見ると、胸がきゅーっとするのは、木造校舎を経験した世代。

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 レンガを使っていたり、昔の建物は絵になります。よく保存してくれたものです。戦後、どんどん、味もそっけもないコンクリート製の箱だらけになったのは、なぜでしょうか。ふと思い出したんですが、私たちが小学生のころ、大人になるころはこんなだろうなという話で、高層ビル群、新幹線の日本縦断、瀬戸大橋などが出ました。が、一つ、全然、実現しなかったことがあります。風景が悪いので、電線は地下に埋設されるという話があったのですが、あれはどこにいったんでしょう? 

 公民館はいつか見たいと思っていた所、近くまで来たので寄らせていただきました。実はこの日の主目的は、サンサン館みきへ、放送大学主催の講演「わが師 壷井栄」を聴きに行くことでした。講師は、壷井栄さんの弟子にあたる薄井八代子先生(壷井栄顕彰会理事で作家)です。壷井栄さんが1899年生まれですから、年齢が想像できると思うのですが、頭脳明晰、博覧強記、立て板に水、軽妙洒脱…やっぱり人間、頭は使うもんです。話の内容では、壷井栄さんが大変な苦労人で、子ども~青年時代の過酷な労働がからだを壊してしまったこと、昔の労働のひどさが印象に残りました。また、『二十四の瞳』の映画撮影のとき、頭から手ぬぐいを被って誰か分からなかったというエピソードにみられる、とても気さくな方だったということ。いろんな作家に助けられながらがんばったこと。写真の姿が、とても体格がよいことなどが印象に残りました。今の時代にこそ、『二十四の瞳』を若い人に見て(読んで)欲しい気がします。

  1. 2012/12/21(金) 23:30:01|
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三石城(備前市)

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 守護・赤松氏から備前を奪い取った守護代・浦上氏も、戦国の梟雄・宇喜多氏に下克上されました。その関連で、浦上氏の天神山城(和気町)は以前紹介しましたが、浦上氏のもう一つの拠点だったのが三石城(兵庫県との県境)です。
 まずは、この深谷(みたに)の滝に向かいます。

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 あんな高い所に不動明王らしき石像があります。
 ちょうど山から歩いて下りてきたご夫婦と出会い、道を尋ねてみました。「私ら、いま反対側からそこを通って来たばかりです」「すぐですよ」といいます。しかも、地図までいただけて、幸先のよさにすっかり油断しました。 
 車道をどんどん登っていくと、左に「三石城登山口」の標識が現れます。これをまた、どんどん登っていくと行き止まりが登山口で、説明板があります。

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 あのご夫婦と出会ってから、車でもずいぶん登りました。歩いて「すぐそこ」っていうんだから、もう「そこ」でしょう?

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 字が読みづらくてすいません。

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 ルンルン気分で登り始めました。

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 まさか、あの山まで行くっていうわけではないでしょう???

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 向かってますねー…。

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 道はうねって、どこまでも続きます。

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 けっこう登ったのに、下り…?

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 しばらく下ると、また、登りです。いやな予感が…。

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 なんかすごい山中ではありませんか。

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 少し、心細くなってきました。

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 ものすごく歩いてます。先が見えません。クマとかいないでしょうか?

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 また、下ってるーーーーっ!

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 「鶯丸跡」です。堀切で本丸と区切られた一角のはずです。もうすぐだ。

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 向こうが「本丸跡」、右が「間道」とあります。間道を行くと大手門のはずですが、先ずは本丸に向かい、そこから大手門を経由して、帰りに間道を通ってここに戻ることにしました。

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 本丸に向かう道です。横を見ると…

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 「堀切」です。

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 もうそこでしょう。

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 「本丸跡」です。

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 来たーって感じです。今は、帰り道のことを考えないようにしています。

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 右上が「鶯丸」で、「堀切」を通ってまっすぐ「本丸」に向かいました。このあと、「二の丸」・「三の丸」を見て、その横の細長い「馬場」(図に説明がありません)をちらっと見て、さらに下って、「大手曲輪」を見ます。

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 その前に、えらい目して来たので、本丸をじっくり見ましょう。

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 広い広い。

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 民家です。そんな山中でもなかった…。

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 はげしい田舎だなー。山また山です。本当にクマいないのかなー?

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 「二の丸」です。といっても、なんだかよく分かりません。

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 「三の丸」だったと思います。

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 「馬場跡」です。さらに下りて大手門に向かいましょう。

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 何かですねー?

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 出たっ。「大手門」です。

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 ここだけ何故か石垣がしっかり残っています。さて、予定では「間道」を通って戻るはずでしたが、方向音痴の悲しさ、方角に自信が持てません。こんな山中で迷ったら遭難です。携帯で救助隊を呼びたくないので、来た道を引き返しました。

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 長い長い帰り道が待ってます。もうしんどすぎて、「線路は続くよ」をコソコソ歌ってしまいました。

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 南天でしょうか?

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 もう、大ごとですよ、これは。戦国武士は体力勝負ですね。というか、別ルートから本丸に登って、ずっと歩いて滝まで下りてきて、「すぐですよ」とケロッとしてたあのご夫婦は鉄人でした

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 空は気持ちいい。ヤッホーものです。

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 シダの大波がザブーン状態です。

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 霜柱、発見!

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 ソーセージのような雲を見ながら、無事、自動車の地点まで下山しました。「三石城」、恐るべし。今まで登った戦国城跡でもっとも秘境でした。しかし、それにも増して、鉄人ご夫婦のスゴさが記憶に残りました。


  1. 2012/12/21(金) 00:16:16|
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善通寺市の湧水

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 生野町の「二頭出水(ふたがしらですい)」です。善通寺駅の少し南です。

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 2か所から滾滾と湧きだして広い地域を潤していたようです。

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 昔は家々の間を流れ、「がばいばあちゃん」みたいに、いろいろな物を洗ったことでしょう。

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 ちょうど、電車が来ました。

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 「壱岐の湧(いきのゆう)」です。

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 国の重要文化財「善通寺伽藍并(ならびに)寺領絵図」(1307年・善通寺所蔵)にも描かれているそうです。

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 私がもし善通寺に生まれていたら、小学生のころ夏には絶対ここで遊んだと思います。私の生まれた地域では、幼稚園の頃はまだ井戸水が使われていて、近所で共有しているポンプ付きのもありました。おばあさん・おばさんが洗濯板を使いながら、ホンモノの井戸端会議をしていました。

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 今ではコイを飼っています。

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 下吉田町の「永井清水(ながいのしみず)」です。

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 石碑に「万延改元」とあります。桜田門外の変などがあって、改元された大変な年です。

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 ここにはかつて「お茶屋」と呼ばれた、丸亀藩のお殿様の休憩所があったそうです。ところてんの名所でもあったそうです。

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 最後は小さいものになりましたが、善通寺町伏見の「弘法の泉」と呼ばれる井戸です。地元の方から教えていただきました。コンクリートのふたみたいなのが半分覆っている下に、丸い井戸があります。涸れたことがないそうです。

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 このすぐ横の山中にある「弘法の産盥岩(うぶだらいいわ)」という謎の巨石です。たまった水が眼病に効くと信じられています。実は、これを探しに来て辺りをさまよっているとき、ご近所の方がわざわざ案内してくださり、先の井戸のことも教えてくださったのです。

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 この辺りから見た我拝師山(がはいしさん)と筆ノ山(ふでのやま)です。




  1. 2012/12/20(木) 00:06:37|
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三豊市仁尾町

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 覚城院は、讃岐守護細川頼弘の「仁尾城」跡です。仁尾は城下町だったそうです。

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 1579(天正7)年に長宗我部元親軍によって落城しました。

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 棟の端っこの瓦には、丸亀藩・京極家の家紋、四ツ目結があります。「辻の札場」と呼ばれる、江戸時代にお触れを出した高札場です。これだけ原形をとどめているのは全国でも珍しいそうです。

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 常徳寺は1391(明徳2)年の創建といわれています。

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 「円通殿」は1401(応永8)年に作られた禅宗様式の仏堂で、国の重要文化財です。禅宗のお寺は、柱の下にそろばんの珠みたいな石が敷かれています。

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 仁尾酢・中橋造酢株式会社です。江戸時代に、田野屋・中橋仁右衛門さんが始めました。

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 1741(寛保元)年、香川県で最初の米酢製造だったそうです。

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 古い建物がたくさん残っています。

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 仁尾尋常高等小学校跡です。

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 荘内半島の風景は以前にも紹介しましたが、天候の悪い時に撮った、ちょっと不思議な印象(勝手にそう思っているだけですが)の写真を紹介します。

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 以前の冬に撮った写真です。

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 海に島が浮かんでいるだけなんですが、光が不思議な感じになっていました。

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 雪が降っています。


  1. 2012/12/18(火) 22:26:09|
  2. 史跡・文化財など
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牛額寺(善通寺市)

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 三豊市から11号線を鳥坂(とっさか)峠を越えて善通寺市に入るとしましょう。ちょっと行って左手に、上池・吉原大池の間を通って高速道路下をくぐる道を行くと、牛額寺があります。さらに山道を少し上がると、昔の牛額寺跡があります。
 けっこう大きな石垣の上に2つの石像があります。

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 「讃岐一国札所」というのはよく知りませんが、善通寺の末寺です。有名な勤皇僧・月照さんがこの付近で生まれ、この寺で修行したそうです。調べてみると、一般的には、月照さんは大坂の商人の子として生まれたことになっています。ところが、父親に当たるこの商人が香川県の出身なのです。

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 向かって左が弟の信海さん、右が月照さんです。

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 父親が大阪へ行ってから生まれたとは限らないので、お寺の記録が正しい可能性は十分あります。

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 善通寺市によれば、戦前は銅像でしたが戦争で供出され、1978年に石造として復活したそうです。

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 旧牛額寺跡に建つ薬師堂です。そこにあるのが…

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 「牛穴」と呼ばれる、ちょっと不気味な穴です。伝説では、この穴は多度津町白方村の山中まで通じ、そこで生まれた頭が2つある牛の霊が出入りするんだそうです。この付近はちょうど、霊山・弥谷山と天霧山の間の尾根にあたります。多度津町側の山の中腹なら、まっすぐ穴を掘れば約1kmです。
 なんだか、ちょっと恐い伝説です。



  1. 2012/12/17(月) 20:52:06|
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大串半島(さぬき市)

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 大串半島の「石切り場跡」です。1339年の石清水八幡宮の修理の際、ここの石を使ったという記録がある由緒ある採石場です。

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 近世まで採石が行われたようです。

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 かなりジャングル化していて、全貌はよく分かりません。

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 「大串自然公園」とあります。高松市の北に屋島、その東には庵治や八栗寺のある半島があって、そのまた東に飛び出た半島がさぬき市の大串です。

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 ともかく景色がいいんです。香川県の絶景NO.1かも。体積の圧力を感じるぐらいの雄大な広がり。「神様、空気をありがとう!」

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 西には五剣山が見えます。

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 ひろびろ。ひっそりした温泉施設がもったいない。これだけの眺めです。文化的施設が欲しいところ。

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 岬突端の展望台。

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 海が実に美しい。

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 ちょっと、雲行きに変化が…。

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 下の方に観音様が見えます。

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 なんかありますよ。

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 もとは丘の上にあったノロシ台です。

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 狼煙や手旗信号は、電話のない時代には最高速度の通信手段でした。江戸時代、堂島の米相場も手旗信号で伝えていました。見える範囲なら光速で伝わります。

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 あの上にあったんでしょうか。

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 この辺りも気持ちいいほど何もありません。

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 さぬき市文化財保護協会HPによると、この「長ぞわい観音」が建つのは、幕末に高松藩が砲台・弾薬庫を設置した場所らしい。また、同HPによれば、もとの観音像は「大串半島の北島の岬にある長ぞわい(そわい=岩礁)に建っていた。二百年ほどむかし、小田西の谷の漁師が小舟に松葉を積んで高松へ行く途中、このそわいで遭難してから、死者の供養のために祀られたといわれる」。「瀬戸内海を航行する船のうち、気に入らない船は長ぞわいで動けなくなるという不思議なことが続くので、漁師たちは相談してこの観音坂へ移し替えたという話である」。

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 観音様からさらに下に行くと、海辺をめぐる道がありました。ここで釣り人に遭遇。大串半島で初めて見た人でしたが、少し手前の草地で犬のフン臭うずまく風に包まれ、思わず「う、ポチ臭いっ!」と唸ってしまったので、『聞かれたかな?』とチラッと頭をかすめました。

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 絵になりそうな岩がありました。

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 こちらは半島の付け根。いま立っているのは「バベの端(はな)」と名付けられた場所。ウバメガシ(バベ)の木があったそうです。さぬき市文化財保護協会のHPをまとめると、太平洋戦争末期、海軍が神戸で建造中の空母を空襲から疎開させて、ここの湾にもってきたそうです。そして、軍は住民に松の木を切って来させ、空母をカモフラージュさせました。しかし、これがバレバレで、毎日、銃撃、爆撃の嵐で船は沈没。向こうはそれを知らず攻撃を続け、湾は投下された機雷でいっぱいになるなど、いどい目にあったそうです。船のマストは新開消防署と四国村に残されているそうです。






  1. 2012/12/16(日) 23:34:06|
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国宝にしてほしいCD

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 小川美潮さんの『4to3』(1991年)です。チャクラ、はにわオールスターズなど、今の若い人の知らない超暴走した音楽をやってきた小川美潮さんが、まっとうな曲を歌う。私にとっては、日本人のつくった最高のアルバム。とにかく、ありそうでない個性的名曲ぞろいで、ホンワカした小川美潮さんの歌が幸福な気持ちにしてくれます。

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 ちわきまゆみさんの1988年作『GLORIA』。今どうしているのかと思ってインターネットで検索したら、HPがありました。独特の力強いサウンドで、加藤和彦さんなんかも曲を提供している、元気でメロディいっぱいのアルバム。

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 細野晴臣さんの『はらいそ』(1978年)。これまたホンワカしたいい曲ばかり。この年、YMOを結成しました。日本型ロックの一つの完成形?

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 加藤和彦さんはフォーク・クルセダーズ、サディスティック・ミカ・バンドで有名。「イムジン川」「あの素晴らしい愛をもう一度」「帰ってきたヨッパライ」「タイムマシンにお願い」など、今更言うまでもない日本ポップス界の大物でした。1979年の『パパ・ヘミングウェイ』です。当時は、実に新しい感覚で、よく聞きました。

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 突然、新しくなりますが、リクル・マイ(日本人です)さんの『miration』(2009年)です。若い方なので、歌詞はちょっと恥ずかしくなることもあるのですが、曲がすごくいいです。UB40やサード・ワールドの初期の曲のような味わい深い曲です。

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 浜田真理子さんの『mariko』(1998年)。うっとりする美しい歌です。『聖歌』もいいです。

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 中島みゆきさんの『生きていてもいいですか』(1980年)。タイトルからして想像できる、もうとんでもなく暗い、しかし、美しい世界。一曲目はまずパスですね。

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 '70年代のフォーク・グループ、NSPが2005年に出した『Radio days』。曲もよく、'70年代にトリップさせてくれます。もっとも、メンバーも年をとり、青春っぽい歌詞はどこかひねっています。リーダーの方がこのあとお亡くなりになりました。合掌。

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 くるりは有名なバンドですが、年寄りが聞いても、いい曲作るなーと思います。いい仕事してます。2007年の『ワルツを踊れ』も日本のポップス史に残るいいアルバムだなーと思います。

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 ローザ・ルクセンブルグの『ポンパラス(ベスト盤)』です。空前絶後の個性を放っていましたが、リーダーの方が2000年に亡くなりました。

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 鈴木さえ子さんの『STADIO ROMANTIC』(1987年)。XTCのアンディー・パートリッジがプロデュースしました。おもしろ系としてはダントツの名曲ぞろいだと思います。廃盤なのが残念でなりません。映画音楽などをつくったりドラマーとしても活躍する才人です。もうあと何作か名盤をつくってもいいような才能だと思うのですが。

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 サザンオールスターズといえば国民的人気バンドですが、私には1980年発表の『タイニー・バブルズ』しか理解できず、猫またぎ状態です。このアルバムは猫にまたたび、宝の山なのですが。

  1. 2012/12/15(土) 22:08:05|
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旧善通寺偕行社(かいこうしゃ)など

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 偕行社は旧陸軍将校の親睦団体で、この集会所は1903(明治36)年に建てられたものです。2001年に国の重要文化財になったのち、約5億円かけて改修しました。

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 廊下も豪華。ちなみに親睦団体としての偕行社は現在も存続し、HPがあります。

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 「北貴賓室」です。1922(大正11)年に陸軍軍事大演習のとき皇太子(のちの昭和天皇)がご宿泊。

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 中心となる「大広間」は東西31m、南北11mで、約340㎡。シャンデリアが6基あります。

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 「食堂」だった部屋です。今は会議等に使用。

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 「東応接室」です。

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 過去の補修の様子が見えるようにしています。

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 裏側です。現在この建物は市の行事や、イベントなどで使用しています。

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 自衛隊の敷地内にある、1941(昭和16)年建築の「第11師団・輜重(しちょう)兵第11大隊建物」です。昔の学校の木造校舎を思い出します。

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 旧善通寺郵便局ですが、昨年、解体されたようです。崩壊しかけていたので、なんとか改修してほしかったのですが、残念。もとは1900年に建てられた役場でした。

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 1930(昭和5)年に旧軍関係者が住宅として建てたもの。今も個人宅なので、『すいません』と心で手を合わせつつも、写真に撮るのでした…。

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 1923(大正12)年築。琴平参宮電鉄・赤門前停車場待合所だった所。1963(昭和38)年まで使用。

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 水尾写真館は大正末期に建てられたました。営業は1901(明治34)年から今日まで続いています。

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 善通寺駅前の瀬川酒店は1917(大正6)年の建物です。ここも営業は古く、琴平の丸尾酒店の支店として1898(明治31)年に始まりました。

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 善通寺駅は、まず、1889(明治22)年に建てられ、1922(大正11)年に大改築され、さらに、1991(平成3)年にも改築されました。

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 この骨組は大正時代のものだそうです。

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 川田ナショナルは、店主の趣味が高じて、レトロおもちゃの店になりました。ちょっと気になる。


  1. 2012/12/14(金) 22:36:28|
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旧陸軍第11師団司令部など(善通寺市)

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 1898(明治31)年に四国を管区とする第11師団が置かれました。

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 受付を済ませ、まず、目に入るのが戦車やヘリです。

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 昔、怪獣映画で見たような気がします。

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 明治31年からある司令部です。

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 隣の建物も古そうです。終戦までに師団長が25代就任したそうです(掲示物による、以下、ときどき引用)。

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 乃木将軍は1898(明治31)年から1901年までの2年8ヶ月、初代師団長を務めました。

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 乃木記念室(旧師団長室)です。

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 机、椅子などそのまま残されています。

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 遺品や書もたくさん展示されています。

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 別な部屋ですが、何の跡だろうと思って写真に撮りました。床は張り替えずにそのままな感じです。

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 ここはシベリア出兵関連の展示です。

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 写真もたくさん展示されています。

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 こ、恐い…。

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 恩賜煙草です。

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 戦後は、郵政省簡易保険局などになり、1961(昭和36)年に陸上自衛隊・第2教育団本部に、1981(昭和56)年に第2混成団本部(司令部)となって今日に至っているそうです。

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 乃木神社にある工兵第11大隊の正門です。

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 自衛隊基地内にある、第11師団兵器部倉庫です。

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 四国学院大学の校舎になっている、第11師団・騎兵第11連隊兵舎です。

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 同じく、大学構内にある騎兵第11連隊本部です。「サマータイムマシン・ブルース」という映画のロケ地になりました。



  1. 2012/12/13(木) 22:18:12|
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雲辺寺ヶ原史跡広場(観音寺市)・旅順模擬要塞跡(高松市)

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 雲辺寺ロープウェイの近くに、「雲辺寺ヶ原史跡広場」があります。

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 トーチカです。

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 掲示板の前に自動車が止めてあって、斜めからの写真になりました。日清戦争後はさらに軍備増強が進められ、1896年に善通寺に第十一師団(初代師団長・乃木希典中将)が置かれ、1901年に雲辺寺ヶ原が山砲の射撃場にされたとあります。明らかに、日露戦争(1904~05年)に備えてのことです。

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 左上、大谷池の北に「発射地点」とあります。右下のちょうど水色の川の源流の南が、字が読めないのですが「現在地」です。大砲の着弾地点を観測する場所です。他にも、中央付近とその右上に同様の「監的所」があったことが黄色の点で示されています。

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 間違って飛んで来なかったとは思いますが、ちょっと恐ろしいでしょうね。

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 こんな穏やかな田舎が、1945年に戦争が終わるまで戦場さながらだったとは、信じられません。

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 高松市西宝町の山に花樹海というホテルがあり、その少し上に「旅順模擬要塞跡」があります。最初に目に入るのがこのレンガづくりの建築物です。

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 そのあと、土を掘ったり、盛り上げたりした人工的な地形に出ます。

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 「第11師団は多大の犠牲(4,072名の戦死者、10,259名の戦傷者)を払いながらも百五十五日の攻略戦のすえ遂にこの要塞を陥落させた。高松市の実業家、牛窪求馬(うしくぼもとめ)翁は日露戦争を忘れないため、この地に旅順要塞の模擬要塞を造った。日本軍のみならず犠牲となったロシア軍の兵士をも追悼し平和を願ったのである」と記されています。

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 築造当時の写真です。

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 付近からの風景です。右手に屋島が見えます。


オマケ 日露戦争年表

1.義和団の乱1900→ロシアの満州占領+大韓帝国(1897~)のロシア接近
  →桂太郎内閣の対露強硬論→1902日英同盟 (伊藤博文の日露協商論=満韓交換は否定された)

2.a.非戦論・反戦論:幸徳秋水・堺利彦ら平民社(社会主義)、内村鑑三(キリスト教)
           与謝野晶子(『明星』に「君死にたまふこと勿れ」)
  b.主戦論:「七博士意見書」(戸水寛人ら東京帝国大学教授が中心)、対露同志会        
       『万朝報』(黒岩涙香)、『国民新聞』(徳富蘇峰)

3.日露戦争
  1904.2 旅順港・仁川沖の奇襲→宣戦布告
  1905.1 旅順要塞陥落→.3奉天会戦→.5日本海海戦(バルチック艦隊を破る)
  1905.9 ポーツマス条約(米大統領T.=ローズベルトの斡旋)
      日本全権:小村寿太郎―ロシア全権:ヴィッテ
    a.韓国に対する日本の指導・監督権
    b.旅順・大連の租借権、長州以南の鉄道+付属利権
    c.北緯50度以南のサハリン(樺太)と付属の諸島
    d.沿海州とカムチャッカの漁業権   以上、ロシアは日本に認める
   →賠償金をとれず、日比谷焼打ち事件

4.満州進出1906 旅順に関東都督府(関東州統治)・南満州鉄道株式会社(長春―旅順、炭鉱)
  →日米関係悪化、英・露と協調

5.1911 辛亥革命(清朝崩壊)→1912中華民国
  臨時大総統:孫文→袁世凱→軍閥の抗争


<朝鮮との関係>
1904.2 日韓議定書
    9 第1次日韓協約(財政・外交顧問)
1905.7 桂・タフト協定
    8  第2次日英同盟(米英、日本の韓国保護国化を承認)
   11  第2次日韓協約(保護国化)→漢城に統監府(初代統監・伊藤博文)
1907.6  ハーグ密使事件
    7  第3次日韓協約(韓国軍解散)→義兵運動
1909.10 伊藤博文暗殺(安重根)
1910.8  韓国併合条約―京城(漢城)に朝鮮総督府(初代総督・寺内正毅)
~1918  土地調査事業→接取した土地を東洋拓殖会社などに払い下げ
















 
  1. 2012/12/12(水) 22:26:59|
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柴野栗山・八栗寺(高松市牟礼町)

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 琴電志度線・八栗駅から八栗寺のロープウェイに向かって少し歩くと、栗山記念館があります。「栗山堂」と書かれています。正面は栗山幼稚園で、左にちらっと見えるのが記念館です。

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 「栗山先生宅址」碑です。

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 寛政の改革で有名な、柴野栗山(1736~1807年)生誕地です。

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 記念館にはたくさんの資料があります。写真は尾藤二州から古賀精里への手紙です。他にも、交流のあった人々の手紙が展示されています。

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 谷文晁の書にも序を書いているそうです。

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 書や絵もたくさんあります。

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 なんか図鑑みたいなものまでありました。柴野栗山手書きとあります。

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 二階に栗山先生の木像が安置されています。お参りに来る方が結構いて、受験のお守りも売っています。中には巻物が入っています。

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 ここまで来ると、まあ普通、ロープウェイで第85番札所・八栗さんに登ります。後ろに見えるのは五剣山です。4つしかないのは、1707(宝永4)年の宝永大地震で嶺が一つ崩れたからです。このときは南海トラフが動いて大ごとになったそうです。あとで、富士山も噴火して宝永火口を残しました。

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 帰りは歩いて下りるのがいいと思います。「お迎え大師」の所からの見晴らしがいいです。

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 右に屋島が見えます。

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 八栗さんを見る空海。空海が天から降ってきた五本の剣を埋めたといわれています。しかも、8つの焼き栗!を埋めたところ、唐から帰ってきてみると栗が芽を出していたといいます。

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 下山したらすぐ、よもぎ屋さんがあります。「男はつらいよ・寅次郎の縁談」のロケがあったそうです。


オマケ 寛政の改革1787~93 11代・家斉(一橋家) 老中松平定信 白河藩主(吉宗の孫)

 <1>農村復興
  a.東北農民の出稼ぎ制限
  b.耕地復旧→公金貸付
  c.囲米:飢饉に備えて米穀貯蓄(社倉義倉)

 <2>都市政策
  a.勘定所御用達(10名、両替商などの豪商)→経済政策に協力
  b.旧里帰農令:資金を与えて帰農奨励
  c.石川島人足寄場:無宿人を強制収容して職業訓練
  d.七分積金:町費節約分の7割を積み立て→江戸町会所が運用→飢饉・災害への備え

 <3>旗本・御家人の救済:棄捐令札差の貸金を放棄させた

 <4>思想統制・風俗取締り
  a.寛政異学の禁…朱子学=正学→聖堂学問所は朱子学の講義・研究のみ
    寛政の三博士柴野栗山尾藤二洲岡田寒泉(→古賀精里)
    1797聖堂学問所→官立・昌平坂(しょうへいざか)学問所
  b.出版統制
    幕政批判で処罰:林子平海国兵談』『三国通覧図説』(海岸防備)
    風俗違反で処罰:山東京伝(洒落本)・恋川春町(黄表紙)・蔦屋重三郎(出版元)
     
 <5>列強接近:1792ラクスマン根室へ:大黒屋光太夫を送還・通商を要求
         →長崎入港を許可/海防強化

 <6>「尊号一件」で失脚
    光格天皇が実父・閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号宣下→拒否+武家伝奏ら処分
    【結果Ⅰ】将軍・家斉も実父に「大御所」の尊号を送れなくなり、松平定信が失脚!
    【結果Ⅱ】朝幕関係の悪化

 <7>寛政期 藩政改革
    熊本・細川重賢時習館、蠟の専売
    米沢・上杉治憲興譲館、養蚕・製糸業を奨励
    秋田・佐竹義和明徳館、養蚕・織物・銅山


  1. 2012/12/11(火) 22:43:33|
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広島県福山市神辺町の史跡

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 福山市は岡山県のすぐ隣です。しかし、神辺町は少し北にあります。神辺は宿場町で、これは「本陣跡」です。

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 古い建物が多く残っています。

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 菅茶山(かんちゃざん・1748~1827年)の「廉塾(れんじゅく)跡」です。廉塾は藩の郷学になり、茶山は藩校でも教えました。詩人として全国的に有名で、頼山陽とも交友がありました。

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 畑になってます。どなたが耕しているんでしょう?

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 ここで魚の養殖をしたようです。石碑には茶山の字で「廉塾養魚碑」とあります。

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 付近の方に、中に入れる日があるのかどうか、尋ねてみました。「管理されている方がいらっしゃれば入れるのだが、今日は出かけてましたねー」「あー、そうですかー」などとやり取りをしていると、突然、「あっ、あの人あの人、管理されてる人」と、自転車でやってくる方を手招きし、「ちょうど、いいとこに帰って来られましたねー」と、紹介してくださり、すぐ中に案内していただけました。写真は中に入った所。

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 ちょっと傷んでいる部分も…。

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 ここで筆を洗ったそうです。

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 ずーっと向こうから川を引きこんでいます。

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 手洗いの形が四角と丸なのが、江戸時代にしては新しい感じがします。

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 縁側も、板と竹を組み合わせた茶山自身によるデザインです。

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 菅茶山記念館にある像です。

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 「箱田良助(1790~1860年)」生誕地です。1807年に江戸で伊能忠敬に弟子入り、筆頭内弟子として大日本沿海與地全図の完成に寄与しました。1822年に榎本家に養子に入り、旗本にもなりました。榎本武揚の父です。

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 家は見学できません。

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 童謡作家・葛原しげる(1886~1961年)生家跡です。

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 「葛原しげる先生童謡碑」に「夕日」の歌が刻まれています。この曲は違いますが、有名な宮城道雄が曲を作ったのも多いようです。

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 そういえば、音楽の授業では理論がさっぱり分からないまま、今日に至るです。未だに、「半音」とか言われても、全く理解不能です。そのくせ、クラシックを聴くのは大好きで、小学校のとき、ときどき一斉放送で教室で交響曲などのレコードを通して聴くという、不思議な時間がありました。その時間はもう夢見心地でした。何故か家にあった何枚かのクラシックのレコードは、音の流れをほぼそっくり覚えていて、授業中などに頭の中で再生していました…。おかげで、先生にあてられて答えられず、掛け算の2の段を100回書かされたり、訳の分からぬ居残りがしょっちゅうでした…。


  1. 2012/12/10(月) 23:46:31|
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瀬戸大橋記念館(流政之さんの彫刻など)

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 流政之さんの「どだま獅子」という作品です。橋脚の島々などの石から作られています。瀬戸大橋の守り神になることを願って作ったそうです。

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 瀬戸大橋記念館(坂出市)には、こんないい庭があります。「甲之池」といいます。

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 「どだま獅子」の右手にある、円筒のピラミッドは「鬼屏風」と名付けられたオブジェです。さて、手前右手は道が下がって…

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 トンネルがあります。こんな楽しい庭は珍しいと思います。

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 これも流政之さんの作品で、「くぐり滝」といいます。

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 「甲之池」に出ます。

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 振り返るとこうなっています。こっちから行くと、右手に滝を見ながら洞窟をくぐって、「どだま獅子」にたどり着くことになります。

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 水が流れています。長さは50mあります。

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 寒さにめげず、けっこう散歩している方がいました。

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 左の濃い影の島は牛島でしょうか(注:左端は島ではありません)。右は本島だと思います。

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 橋がずっと向こうの与島・櫃石島につながっています。

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 大きな船が行き交っています。

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 瀬戸大橋タワーです。基本的に高所恐怖症ぎみ+強風+ちょっと高い料金=見るだけ。

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 瀬戸大橋記念館です。

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 精密な模型がたくさんあります。

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 模型好きの方はたまらんでしょう。

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 構造計算がややこしそう…。

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 飯野山から橋までの模型もあります。その他、工事中の模型なども多く、歴史も詳しく学べます。

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 「瀬戸大橋音頭」というレコードがありました。橋の開通は1988年(CDの発売は1982年)。ちょうど、LPレコードが一度滅びるころ…。

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 記念館から南方向。青野山?

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 下で見たのとそう変わらない。

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 不思議なほど真っ白い雲。
 小学校の図画工作の授業のとき、「赤と青は、どっちがあったかそうですか?」と先生から聞かれ、「青です」ときっぱり答えたことを思い出しました。暖かい日に草むらで寝転ぶと、いつも青い空と白い雲があったからです。先生が「じゃ、赤は?」と聞くので、「冷たい」と答えました。毎日のように怪我をし、流れた血がヒヤッとしたからです。もちろん、「逆です」と正され、初めて「青は水、赤は火に結びつけるのが普通で、青は冷たく、赤は温かく感じるんだ」と知りました。その「約束」がなんか不思議に思えて、この世界の約束事を一つ知ったことにワクワクしたのを覚えています。なんか欠落していると気付くのは大人になってからです。中学校の美術の先生から、「色を塗らなきゃ上手なのに」とよく言われ、友達から持ち物などが「ハデ」だの「ジミ」だの言われても、実は意味が分かってなかったのです。自分がこんなでしたから、他人が理解できていないことを伝えることが如何に困難なことか、よく分かります。

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 話が大脱線。これも流政之さんの獅子です。アイパル香川(高松市)にある、水不足がなくなるよう願った「雨ごいジシ」です。





  1. 2012/12/09(日) 23:59:33|
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しろとり動物園(東かがわ市)

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 今年の写真ではありませんが、知る人ぞ知る「しろとり動物園」を紹介します。駐車場でまず、びっくりします。クジャクがあちこち歩いており、軽トラの荷台に飛び乗ったりしています。

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 なぜ突然、動物園なのかというと、12月~1月にかけて毎年、動物園に行くからです。年賀状用の干支の写真を撮りに行くわけです。しろとり動物園にはヘビはいなかったと思うのですが、特別に持ってきてくれるかな?と、気をつけてHPをチェックしています。たくさんの動物が檻の外にいます。

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 すっとんきょうなダチョウ。

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 笑いすぎ。

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 ホワイトタイガーが一番かわいらしい。

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 ネコです。

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 ゴロゴロしたい年頃なのでしょう。

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 トラの子どもと写真が撮れます。

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 自分のカメラで写真を撮ってもらえます。この写真はトリミングしたもので、もちろん、ちゃんと撮ってくれます。くっつきすぎて、じゃれつかれた人もいました。

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 オトナのトラは迫力があります。ネコと違う所は、砂場以外でトイレする点です。だれも文句が言えないようです。

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 頭上に「?」が2つ並んで見えます。他にも、珍しい動物がいろいろいます。イヌやネコのコーナーもあります。おサルさんの芸もやっています。ぜひ、見に来てください。




  1. 2012/12/08(土) 20:39:10|
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高松市内のアート

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 丹下健三(1913~2005)さんによる香川県立体育館です。

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 船型の体育館です。1964年といえば、丹下さんが有名な東京オリンピック国立屋内総合競技場を作った年です。


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 1964年に始まったテレビ番組は、「ひょっこりひょうたん島」「忍者部隊月光」「0戦はやと」「少年忍者風のフジ丸」「ビッグX」だそうです。「風のフジ丸」は、番組の最後に忍者研究家みたいな人が忍者の武器を紹介していました。水グモで溺れかけた人が全国にいたはずです。

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 このあたりに塩田があったそうですが、昭和34(1959)年の廃止といえば、早い方でしょう。

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 同じく丹下さんによる香川県庁(2000年)です。映画「県庁の星」のロケ地だそうです。

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 21階に展望室があります。

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 中央の島は、女木島、男木島、豊島で、右の奥に霞んでいるのが小豆島です。

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 こちらは、やはり丹下さん設計の旧館(1958年)です。けっこう人気があるようです。

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 時代が感じられる「縣廰」の字がいいです。

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 庭もゆったりしています。丹下健三さんといえば、東京都庁舎は贅沢すぎですが、モード学園コクーンタワーがかっこいいです。

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 1階が高く、ガラス張りで、中の絵が外から見えるのもいいです。

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 高松で生まれ、丸亀で育った猪熊弦一郎(1902~93)さんの絵です。「和敬清寂」というそうです。

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 まるで美術館です。

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 こちらは、同じく猪熊さんの絵で、アルファあなぶきホールの「21世紀に贈るメッセージ」です。

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 香川県立ミュージアムにある、イサム・ノグチ(1904~88)さんの「アーケイック」(1981年)です。

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 高松空港にあるイサム・ノグチさんの遺作です。

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 「TIME AND SPACE」と題されています。

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 庵治石が使われています。

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 風景もいいです。

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 ともかくデカい。しかし、これは何なんですかねー???







  1. 2012/12/07(金) 22:46:03|
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宇喜多秀家さんとその後の岡山

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 備前市にある「太閤門」です。羽柴秀吉が備中高松城攻めに向かうとき、この地の豪商・来住法悦(きしゅほうえつ)に帰りに立ち寄ることを約束しました。喜んだ法悦さんは御殿を新築しましたが、そのときの門だといわれています。ちょっと侘びしすぎるような…?「門跡」???

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 本能寺の変のおかげで、この約束が反故になったことは言うまでもありません。新築の御殿で一人、法悦さんはお茶を飲んで、一句ひねったんでしょうか?
 羽柴秀吉は有名な中国大返しで明智光秀を1ラウンドKOし、引き続いて織田信長の重臣・柴田勝家にも楽勝し、信長からチャンピオン・ベルトを引き継ぎました。

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 宇喜多秀家(1572~1655年)は豊臣秀吉に気に入られ、実は元服のときに「秀」の一字をもらってこの名前になったのでした。岡山城天守台の石垣は宇喜多時代のものです。

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 岡山城内では埋もれた宇喜多時代の遺構なども、発掘の様子が展示されています。

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 宇喜多秀家は、1583年の賎ヶ岳の戦い(対・柴田勝家)、1584年の小牧・長久手の戦い(対・徳川家康)、1585年の四国攻め(対・長宗我部元親)、1587年の九州攻め(対・島津義弘ら)と皆勤賞で参加。1589年には前田利家の娘・豪姫(秀吉の養女)と結婚しました。当然、1590年には小田原攻め(対・北条氏政・氏直)にも出兵しました。

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 これも岡山城内の遺構です。

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 秀家のモーレツ社員(1970年前後に「モーレツ」という言葉が流行)ぶりはこれで終わりませんでした。1592年~文禄の役では総大将を務め、1596年~の慶長の役では監軍として海を渡るのでした。1598年には、徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝とともに五大老に任命されました。

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 宇喜多秀家が築いた天守の絵もあります。

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 こんな感じです。地層のスライスも貼っています。

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 宇喜多さんは埋め立てによる新田開発をどんどん進めました。早島の県道倉敷・妹尾線(国道2号線から一本南にある道)は「宇喜多堤」の跡といわれています。写真は南を見ており、左右に走る道がそれです。 また、この辺りは江戸時代の旗本・戸川氏3,400石の領地で、書物蔵を改装した戸川家記念館や、石の橋や井戸などの遺構が残っています。戸川氏は宇喜多氏のお家騒動で袂を分った結果、関ヶ原の合戦などで徳川家康につき、おかげで、庭瀬に城をもらうなど一族が繁栄しました。
 因みに、正面の建物は畳表問屋・寺山邸を改修した「いかしの舎」で、見学自由です。付近には、早島町立歴史民俗資料館、お隣の倉敷市茶屋町には、磯崎眠亀記念館、倉敷刀剣美術館、日本最古を誇る竹内流古武道の日新館道場(注:見学する所ではありません、入門する方はどうぞ)などがかたまっています。

 1600年、関ヶ原の戦いで西軍の主力として戦った宇喜多氏は、敗れて八丈島に流されました。前田家とのつながりもあって、どうにかこうにか一家は存続し、ご子孫がおられます。天下人・秀吉の寵愛を受けた大大名から八丈島の島流し第一号まで、父・直家とはまた違った波乱万丈の生涯を体験しました。戦国の梟雄といわれた直家が生きていたら、別な選択をしたかもしれません。

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 1601年、代わって岡山城主となったのは、豊臣秀吉の正室・高台院(ねね)の兄・木下家定の子で、秀吉の養子だった小早川秀秋さんです。西軍から寝返って、関ヶ原の戦いで家康に勝利をもたらした有名人です。ところが、翌1602年、21歳の若さで急死、跡継ぎが無く断絶してしまいました。
 写真は墓所の瑞雲寺です(岡山市)。

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 町中にある、ひっそりと目立たないお寺です。

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 小早川秀秋さんの木造です。

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 建物の中、この奥の部屋にお墓があります。

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 1603年、徳川家康は備前28万石を池田忠継(姫路城主・池田輝政の次男)に、美作19万石を森忠政(信濃川中島領主、森蘭丸の弟)に与えました。写真は岡山城天守。

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 津山城の森忠政像です。力が入ってます。ただ、森氏は元禄年間に5代目で改易され、越前松平氏が入封しました(森氏の一族は赤穂藩主などとして存続)。
 また、木下家定には足守25,000石が与えられました。足守は一度は、木下家から取り上げられますが、大坂夏の陣の活躍で、家定の次男・利房の領地となってからは明治まで続きました。


  1. 2012/12/06(木) 08:33:42|
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八浜合戦・備中高松城の水攻め

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 1576年、宇喜多直家は主家の浦上氏を破った勢いで、毛利氏とともに播磨に侵攻する。以後、織田方と毛利方との激しい攻防が各地で繰り広げられ、大混乱の様相を呈しました。なかでも上月城(兵庫県佐用郡佐用町)の奪い合いや、織田方の荒木村重の離反などが有名です。こうしたなか、羽柴秀吉の実力も知った宇喜多直家は1579年、秀吉と講和、織田方に与することを決めました。これにより、荒木村重の孤立、敗北も決定的になりました(捕虜になっていた黒田孝高にとってはラッキー)。
 宇喜多直家が大きな勢力であるとはいえ、毛利・織田の強大さに比べれば、究極の選択を迫られたって感じでしょう。直家は1580~81年にかけて、岡山県内各地で毛利方との戦争を強いられました。こうしたなか1582年2月、ついに直家は亡くなりました。しかし、その死は1年間伏せられました。息子・八郎(秀家)はまだ11歳で、宇喜多直家の弟・忠家が後見しました。
 8月、玉野市で八浜合戦が起きました。写真は八浜城跡の両児山(ふたごやま)公園です。

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 細長く土が盛り上がっています。八浜城は直家の甥・宇喜多基家の城ですが、毛利方は村上水軍も動員して大軍で押し寄せ、大変な苦戦になります。

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 児島湾に向かってもう一山盛り上がっています。当時、児島はまだ島です。

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 敗北色が濃くなるなか、城主・宇喜多基家が流れ弾に当たって死去しました(写真は、城跡から見る八浜の町)。

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 宇喜多氏としては久々の武闘派魂発揮といいますか、「八浜の七本槍」(能勢・馬場・岸本・小森・粟井・宍甘・国富氏)の奮戦で毛利軍を撃退しました。
 城主・基家の墓は「与太郎様」(写真)と呼ばれ、いまも信仰されています。

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 備中高松城跡です。1582年、備中高松城をめぐって、毛利方と宇喜多秀家・羽柴秀吉方の大軍が対峙しました。

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 高松城は毛利方・清水宗治の居城で、広い沼に守られていました。秀吉はこれを逆用。地形を巧みに利用して、足守川の水によって水没、孤立させました。一説によると軍船を浮かべて大砲で攻撃したりしました。

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 毛利方は小早川隆景・吉川元春が3万の援軍で周囲の山々に布陣。毛利輝元が猿掛城に出陣しました。宇喜多・秀吉側も両軍合わせて3万人。戦況は膠着しました。

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 こんな感じだったのでしょうか。

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 赤い矢印のあたりが石井山の秀吉本陣跡で、城跡を挟んで、左の足守川の切れた部分が川を決壊させた所です。そして、水浸しになった南側(図で下側)に堤防を築かせました。

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 6月2日に本能寺の変が起こり、織田信長が死去。3日にこれを知った秀吉は、4日、清水宗治の切腹を条件に和議を結びました。信長の死を隠してポーカーフェイスで強気に出たのです。一説によると、3日に信長の死を伝えたのは、陣地を間違えた毛利方の忍者だったとも言われており、もしそうなら、ドンマイというほかない。

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 秀吉が本陣を置いた石井山を登ると一本道が続き、まず、もともとの「清水宗治公・首塚跡」に至ります(のち、城内に移されました)。

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 本陣跡です。特に、何の形跡もありません。

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 こんな山道が続きます。

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 秀吉がいたといわれる「太閤岩」。

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 「蛙ヶ鼻(かわずがはな)築堤跡」です。川の水をせき止めるために築いた堤防の一部が残ったものです。足守川とちょうど反対側です。水攻めは黒田孝高の発案といわれています。

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 発掘の様子が保存されています。杭や土俵の一部が発見されています。

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 石碑の後ろが築堤跡です。

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 妙玄寺の清水宗治公自刃の跡。辞世の句は「浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して」です。

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 このあたりに船を並べて城外との出入りをしたそうです。

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 池上孫兵尉さんは清水宗治公の娘婿で、孤立した城内に物資を運び入れる役割をしたといわれています。

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 最上稲荷はこの戦争の真っただ中にあって被害を受け、江戸時代に再建されました。このあたりで一番目立つのが写真の大鳥居で、1972年に作られた鉄筋コンクリート製、高さ27.5mです。
 
 おっと、またも肝心なことを忘れるところでした。1583年~毛利氏との領土交渉があり、備前・美作・備中3郡・児島郡の57万4千石が宇喜多秀家のものになりました。




 
  1. 2012/12/05(水) 12:52:38|
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天神山城の戦い(岡山県和気郡和気町)

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 1574~75年にかけて、宇喜多直家はついに主家・浦上宗景の天神山城を落城させ、浦上氏を備前から追放しました。直家が県内各地での戦いに勝ち、浦上方の国人を寝返らせ、天神山城を孤立させたあとのことでした。
 標高約400mの天神山は、「和気美しい森」ビジターセンターまで車で行けます。

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 右端の「現在地」から「太鼓丸城址」まで500m、約20分とあります。楽勝です。

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 先の絵では、「土塁」「堀切」「曲輪」「郭」などとありますが、草木深しで全然分かりませんので、割愛。快適な道をちょっと歩くと「石門」に出ます。

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 岩がゴロゴロしている場所があります。

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 その辺りで風景が見えます。眼下に見えるのは吉井川です。

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 木の多い公園を歩いている感じでしょうか。

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 石垣っぽい遺構が少しあります。

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 目的地「太鼓丸」でした。

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 こっちが見晴らしがよさそうです。

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 尖った先を石が取り巻いています。船の舳先のようです。

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 自然な石でしょうか、組んだのでしょうか?

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 絶景です。

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 まだ道が右手下へと続いています。

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 今いる所は右端の小山の上です。浦上氏のかつての勢力が伺われる巨大さです。城跡はまだまだ続くのですが、ここらで満足しました。
 宇喜多直家が毛利氏と結んでいたのに対し、浦上宗景は織田信長と手を握っていました。この段階では、岡山県に勢力を及ぼしていたのは毛利氏でしたが、羽柴秀吉が侵攻してくると事情が変わってきます。大勢力となった宇喜多直家は、今度は秀吉と手を握ります。



  1. 2012/12/04(火) 13:14:37|
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常山合戦(岡山市・玉野市)

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 1575年に備中松山城が落ちて三村元親が自刃したのち、元親の妹・鶴姫の旦那さんで常山城主であった上野隆徳は降伏せず、小早川隆景の大軍に囲まれました。これが三村氏側として最後の戦争になりました。写真は常山城跡の遠望です。

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 「千人岩」付近からの眺めです。

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 巨大な岩がゴロゴロしています。

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 「底なし井戸」です。

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 覗いてみました。恐っ!

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 本丸まで段々になっている所がはっきり残っています。

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 城主一族、鶴姫と侍女34人が最期の戦いを挑んで討ち死に、または、自刃しました。1937年にその冥福を祈って、40基の墓石と墓碑がつくられました。「女軍の墓」と言われています。

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 詳しくは上記参照してください。合掌…。

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 天守跡に立つ上野隆徳公碑です。

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 本丸跡はけっこう広いです。

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 常山合戦の後は、宇喜多直家の配下・戸川秀安(友林)が常山城主に命じられ、晩年は山麓で隠居生活をしていました。写真は麓にある戸川友林の墓です。

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 戸川氏は宇喜多直家の子・秀家と対立したことが幸いして、徳川家康に旗本として仕え、岡山に領地を持って繁栄しました。

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 説明板にある友林の重臣の墓です。

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 1805(文化2)年に戸川氏が建てた霊廟・友林堂です。戸川友林の位牌を安置しています。

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 柴野栗山銘の「啓宇」の額です。意味はよく分かりません…。








  1. 2012/12/03(月) 10:13:26|
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三村VS宇喜多抗争

 1564年、三村家親が備前に侵攻して岡山城(金光宗高)を支配下にするなど、抗争がはじまり、1566年には、宇喜多直家が三村家親を暗殺、1567年、怒った三村元親(家親の子)が宇喜多方の明善寺城(岡山市・操山)を奪いました。

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 操山(みさおやま)の北西・里山センターの背後に明善寺城跡はあります。ここに自動車を停めて、城跡への行き方を教えてもらいました。

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 画像が粗いのですが、ちょうど「里山センター」の文字の下辺りに「明善寺城跡●」とあります。

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 最初のうち、「畑ん中ちゃうん?」…「竹やぶ、暗っ!」…「城はどこ?」という感じで不安で胸が膨らんできますが、ここは、気にしないで前進。で、それっぽい道が現れました。こういう時『いいね、いいねー』と心の中でつぶやいています。

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 『ややっ』、何かですね、これは…?

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 1567年、ここを取り返そうとする宇喜多直家方5,000VS三村方22,000が激突しました。これは宇喜多方の大勝利に終わり、”明善寺崩し”と言われるようになりました。

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 それなりの広さはありますが、木が生えすぎて眺望がよいとは言えません。

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 詳しくはこちらをどうぞ。

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 この戦いで、宇喜多氏は浦上氏配下での地位を確固たるものにしました。
 街中なので、見える風景もコンクリートだらけです。よく、都会のビルから見える光景を絶景と言ったりしますが、山や川が見える場合は分かるのですが、ビルばっかりでも喜ぶ人の気持ちはどうも理解できません。 

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 つぎに宇喜多直家は1568年、姻戚関係にあった松田元輝(金川城=玉松城、岡山市北区)を攻めました。内通者もあって、わずか2日で落城しました。元輝・元賢親子は死去、元賢の妻(宇喜多直家の娘)も自害しました。やっぱり、ワルです。
 地図を左回りに、「北の丸」「本丸」「二の丸」と見て回ります。

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 ここから登りました。方向音痴ということもあり、先に、妙覚寺付近の御津町郷土歴史資料館に寄って道の状態を伺いました。地図を下さったうえ、とても親切に教えてくれました。因みに、資料館には古い蔵があったり、展示資料も充実していたりします。また、地域の歴史に関するきれいなパンフ類をいっぱい戴けました。

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 宇甘川が見えます。

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 「北の丸へ」の標識のすぐ向こうで道が崩れています…。資料館で行かない方が多いと聞いていましたが、とりあえずこれを突破し、行ける所まで行くことにしました。

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 やはり怪しい道が続きます。

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 来てしまいました。実は、途中、山と落ち葉がバーッと広がり道が分かりませんでした。

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 何らかの遺構だと思います。このあと、来た方角に確信が持てなくなり、見覚えのある道に出た時は涙ちょちょぎれもんでした。そんなわけで、「白水の井戸」には行く気が消失。

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 途中経過略で、「本丸」です。長細く、かなり広いです。

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 唯一きれいな看板がありました。

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 説明が全くなく、何なのか不明…。

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 次は「天守の井戸跡」。

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 一番、強烈な印象でした。写真では伝わりにくいのですが、鳥肌が立つほど深いです…ぞーっとしました。幅も何メートルかあります。「危険、近寄るな」の立て札はあるのですが、柵もなく恐いです。落ちたら、次に人が来るまで叫ぶしか手がないです。

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 ここも「杉の木井戸跡」とあります。

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 旭川が流れています。

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 「二の丸」です。あとはスイスイ下りるだけです。というわけで、「北の丸」さえ行かなければ、散歩コースにちょうどです(井戸に落っこちなければ)。

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 ちょっと付近を散策。御津町役場跡ですが、この石垣が、岡山藩家老・日置(へき)氏の陣屋跡といわれています。

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 妙覚寺です。

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 近世の宗教弾圧として日本史の教科書なんかにも載っている、日蓮宗不授布施派が明治になって再興した寺院。土地は、江戸後期の医師・難波抱節さん宅跡を購入したもの。

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 難波抱節さん宅の門などが保存されています。

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 掲示板によれば、この梵鐘は岡山県の重要文化財で、「備前金剛寺(藤原道長建立の京都法勝寺の末寺)の鐘」だったが、「天正十年の高松城水攻め」のときに使用され、その後、土中に埋められていたそうです。どう「使用され」たんでしょうか?

 肝心なことを忘れてました。明善寺合戦ののちの、三村氏と宇喜多氏の抗争をまとめておきます。

①1570年、宇喜多さんは岡山城主・金光与次郎を切腹させ、岡山城を摂取。やっぱりワル?
 1573年、岡平内を奉行に岡山城を拡張、修築してここに移った。まだ、規模が小さく、石山城と呼ばれていました。

②1574年、宇喜多さんは、備後・鞆にいた室町将軍・足利義昭(前年、織田信長によって京を追われた)の仲介で毛利氏と和議を結んだ。逆に、これに反発した三村元親は毛利さんから羽柴秀吉さんにのりかえ!

③1575年、毛利氏によって松山城が落城し、三村元親は自刃しました。合掌…。


  1. 2012/12/02(日) 17:38:09|
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備前の宇喜多氏(砥石城・乙子城・沼城)

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 瀬戸内市邑久町の砥石山(標高100m)です。

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 ここに戦国の梟雄・宇喜多直家のおじいさん宇喜多能家(よしいえ)の城がありました。

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 こんな感じの道を上がると、すぐ頂上です。

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 おーっ、見晴らしがよさそう。

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 備前の守護は四職の赤松氏。赤松満祐が有名で、1441年の”嘉吉の乱”で6代将軍・足利義教を殺した人です。このひとは、すぐ山名氏に討たれましたが、1467年~の”応仁の乱”のとき赤松政則さんが東軍の細川方について、山名氏から旧領、播磨・備前・美作を奪い返しました。がいな(讃岐弁で「いかつい」)一族です。赤松氏の守護代(室町時代の守護は京都にいて、地元は守護代に任せていた)が浦上氏で、これまたがいげな(いかつい)やつで、主家の赤松氏から備前を奪いました(根拠地は三石城、天神山城など)。
 宇喜多氏はこの浦上氏の家来でした。

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 1534年、宇喜多直家(1529~81)が5歳のとき、この城は島村盛実に夜襲されて、おじいさんは亡くなりました。直家は父・興家といっしょに脱出。はじめ、備後・鞆に行きましたが、のち、備前にもどって福岡(中世に繁栄した町、「一遍上人絵伝」で有名)に住み、再び、浦上氏に仕えました。

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 史跡はきれいに整備されています。

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 絶景。東を見ています。千町(せんちょう)川が流れています。

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 隣にも山があります。

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 石垣っぽいものも見えます。

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 西も開けています。

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 南東方向。

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 けっこう広いです。

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 南に道があります。すぐ石段があります。

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 石段を振り返る。

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 尾根伝いにずーっと道が続いています。

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 宇喜多直家の出発点、乙子(おとご)城(岡山市乙子)です。

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 標高約40mで、子どもの戦争ごっこにちょうどぐらいの大きさです。

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 当時は吉井川の河口で海(児島湾)に面していました。

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 すぐ、頂上です。

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 1544年に元服して、足軽30人を得てこの城を守りました。まだ15歳というのがすごい。乏しい食料を節約し、分け合いながら、海賊などを相手に激しい戦争に明け暮れたらしい。

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 戦争が無いときは、なるべく食べずにいたというから、ギリギリです。捨石にされてたまるかーっ!てところ。若いからできた武闘派時代です。

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 宇喜多直家の出発点だからでしょうか、掲示物が多いです。

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 その後の活躍で、城を他にももらったのち、1551年、沼城の中山信正の娘と結婚しました。

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 沼城跡です(岡山市沼)。形から、亀山城とも呼ばれます。

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 1559年、敵に内応したという理由で、義父の中山信正と、じいさんの仇・島村盛実とをやっつけました。以後、ここに移って、14年後に岡山城に移るまでの拠点になります。

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 それにしても、自分の嫁さんの父を「お義父さん、酒でも飲みましょう」とか言って城内に入り、酔ったところをバッサリですよ。ワルですねー。ちょうど30歳、戦国の梟雄の誕生です。

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 秀家生誕地の碑です。

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 久米郡久米南町の興善寺跡です。池の向こうに宝篋印塔(お墓)があります。

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 備前でのし上がった宇喜多直家は、備中の三村氏と対立しました。1566年、三村さんが興善寺に陣をしいたとき、宇喜多直家は遠藤又二郎・喜三郎兄弟という鉄砲の名手を刺客として送り込み、暗殺しました。写真は三村家親さんの宝篋印塔です。

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 付近の景色です。


  1. 2012/12/01(土) 21:56:01|
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犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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