どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

宇垣一成生家・倉安川吉井水門(岡山市東区)

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 最近、岡山県瀬戸内市(吉井川の東)をよく取り上げました。中世に栄えた福岡から、吉井川にかかる備前大橋を西に渡ると、岡山市東区です。今回は、この辺りにある2つの史跡です。
 備前大橋から北に県道252号線を少し行くと、新幹線の高架があります。そこから500m程(岡山市東区瀬戸町大内519)に「一如庵(いちにょあん)」があります。

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 宇垣一成(うがきかずしげ)さん(1868~1956年)の生家です。
 宇垣一成さんといえば、加藤高明内閣(1924.6~’26.1)のとき、陸相として軍縮を行ったことと、二・二六事件を経て広田内閣総辞職後、穏健派の宇垣さんに組閣の大命が下ったが、軍部大臣現役武官制を盾に取る軍部によって組閣が阻止されたことで有名です。

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 実は、私が行ったのは2005年、ご子孫によって「一如庵」が誕生しましたという新聞記事を見て間もない時でした。写真の部分は整理されていますが、まだ、いろんな物が山積みになっていました。こんなに早く人が来るとは思われてなかったようで、大歓迎していただき、とても恐縮しました。
 関係ない話ですが、高校の時、少林寺拳法の道場に「拳禅一如」という額があったような気がします。

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 迎えて下さったのは宇垣一成さんのお孫さんにあたる方で、写真の中央に映っている子どもを指差し、「これが私です」と教えてくださいました。一成さんが帰省した際に一族が集まって撮った写真で、庭石は今と同じだそうです(上の家の写真にも写ってます)。

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 さて、再び、県道252号線を南へ新幹線の高架を過ぎ、「一如庵」から1km程の所に「倉安川吉井水門」はあります。

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 吉井川から西へニョロニョロと20kmもの長さの運河をつくったのが倉安川で、旭川までつながっています。といっても、小川です。江戸時代は運送や生活用水としても重要でした。今でも、農業用水として使われています。

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 私の立っているこちら側にも水門があって、吉井川との水面の高さを調節したそうです。船だまりとしても使われました。

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 積み荷の検問も行ったのではないかといわれています。岡山藩郡代津田永忠顕彰会のHPを見ると、そうとう貴重なものらしいです。


オマケ 宇垣一成の時代

加藤高明内閣(1924.6~’26.1)Ⅰ【護憲三派】Ⅱ【憲政会】普通選挙法・治安維持法・日ソ基本条約
  <宇垣軍縮(宇垣一成陸相)>軍事費:一般会計の50%(1921)→27%(1926)

若槻礼次郎【憲政会】1926.12.25大正天皇、没(48歳)→昭和 1927 金融恐慌

田中義一【立憲政友会】1927モラトリアム・第1次山東出兵・東方会議(満州権益を実力で守る)
  1928第1回普通選挙→三・一五事件(翌年、四・一六事件)・第2次山東出兵→済南事件・張作霖爆殺事件
  1928張学良、国民政府に合流(易幟)→国民党の中国統一  
  1929河本大作大佐の処分が甘く天皇の不興→総辞職

浜口雄幸【立憲民政党】1930金解禁(井上準之助蔵相)→昭和恐慌
  ・協調外交(幣原喜重郎外相)1930ロンドン海軍軍縮条約→統帥権干犯問題→浜口首相、狙撃される

若槻礼次郎Ⅱ【立憲民政党】1931
  3月事件:桜会(橋本欣五郎)+大川周明(右翼)のクーデタ計画(宇垣一成陸相を首班に軍事政権)→失敗
  9月、満州事変
  10月事件:桜会(橋本欣五郎)のクーデタ計画(荒木貞夫陸軍中将軍を首班に)→失敗
  「満蒙の危機」と軍・右翼が幣原外交を軟弱外交と批判、世論・マスコミの軍部支持→戦線拡大→内閣総辞職

犬養毅【立憲政友会】1931金輸出再禁止・高橋財政→景気回復
  1932血盟団事件(井上日昭)前蔵相・井上準之助、三井合名理事長・団琢磨暗殺
  五・一五事件:海軍「革新」将校+橘孝三郎(右翼)らが犬養首相(満州国に消極的)暗殺
 
斎藤実【海軍・挙国一致内閣】1932日満議定書(満州国承認)→リットン報告書(妥協的内容)
  1933国際連盟脱退

岡田啓介【海軍】1934ワシントン条約破棄・陸軍パンフレット事件
  1935国体明徴声明・関東軍、河北分離工作、1936ロンドン軍縮会議を脱退・天皇機関説事件
  1936二・二六事件

広田弘毅【文官】軍部大臣現役武官制の復活    (中国、西安事件)
  帝国国防方針の改定(軍部)→広田内閣「国策の基準」:陸軍の北進論(対ソ戦)、海軍の南進論の併記
  日独防共協定
  1937「腹切り問答」→内閣総辞職

(軍部の反対で宇垣一成、組閣できず)

林銑十郎【陸軍】1937文部省『国体の本義』

近衛文麿Ⅰ【華族】1937.7.7盧溝橋事件→日中戦争………
















   
  1. 2013/01/31(木) 21:07:19|
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渋染一揆(岡山市・瀬戸内市・備前市)

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 1856年、岡山藩で起こった渋染一揆は、かなり有名です。1855年、岡山藩はペリー来航以来、藩財政が逼迫していることを理由に、領民に29 か条の「御触(倹約令)」を出しましたが、その最後の五つの条文でえた・非人身分に対する特に厳しい「倹約?」(というべきか、差別待遇によって一般農民との分断と、農民に「そこまで言われなくてよかった」感を持たせるための条文というべきか)を押しつけました。
 岡山県の資料をお借りすると、「着るものは、無紋・渋染・藍染に限る。百姓に会うとき、はだしであいさつをしなければならない」などです。これに反発して強訴が起こったのです。
 写真は、最初に「嘆願書」をつくるために集まった岡山市の常福寺です。しかし、この嘆願書はつき返されました。

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 この写真は以前にも紹介しました。岡山藩筆頭家老伊木家に強訴することが決まり、1856年6月13日夜半~14日にかけて、ここ八日市河原(瀬戸内市・福岡城跡)に数千人が集まり、午後3時ごろ、家老の陣屋のある備前市の虫明に向かいました。

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 今の備前市に入り、この辺りで、伊木家の軍勢に行く手を阻まれました。

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 八反峠を越えると家老の陣屋ですが、峠の手前を西に下ったあたりです。ここで野営しました。

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 翌15日にかけて、伊木勢の陣取った佐山村榎塚で交渉が行われました。

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 「渋染一揆対決の地」の石碑。ここで「嘆願書」を受け取らせ、善処を約束させました。
 しかし、たいていの一揆の場合と同様、「嘆願書」の内容は認められましたが、のちに首謀者が囚われました。その後、赦免を願う嘆願書が出され、1859年に、残る5名が釈放されましたが、すでに6名が獄中で亡くなっていました。

 一般に江戸時代の「一揆」は、初期を除き、武器を持たない整然とした強訴でした。特に指導者は、死を覚悟していました。





  1. 2013/01/30(水) 11:55:18|
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倉敷・浅尾騒動(倉敷市・総社市)

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 倉敷アイビ-スクエア西門を入った所に、倉敷代官所跡の石碑と、当時からの堀があります。

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 代官所跡地に倉敷紡績ができ、現在、近代化遺産の建物を活かした観光地となっています。倉敷紡績(クラボウ)は倉敷の地主・大原家がつくった会社で、いまも大阪に本社を置く大会社です。特に、大原孫三郎さん(1880~1943年)が有名で、倉敷紡績(クラボウ)、倉敷絹織(クラレ)、中国合同銀行(中国銀行)、中国水力電気会社(中国電力)などの社長として大財閥になりました。

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 右が倉紡記念館で、左が児島虎次郎記念館です。

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 1614(慶長19)年の大坂冬の陣に際し、備中国総代官・小堀遠州が兵糧米を大坂に積み出すために陣屋を構えたことから倉敷が発展。1642(寛永19)年には倉敷代官所となり、備中(倉敷)・美作(久世)・讃岐(塩飽諸島)の天領を支配したそうです。

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 代官所の井戸です。
 先の案内板によれば、1866(慶応2)年、長州奇兵隊を脱走した一味約100名が、倉敷代官所および浅尾藩(総社市)を襲撃したため、代官所は焼けてしまいました(倉敷浅尾騒動)。

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 総社市の浅尾藩跡地に向かいましょう。総社駅の北東500m程の180号線沿いにリブ21というショッピングセンターがあります。その裏手のちょっと狭い道を進みます。吉備線と伯備線に挟まれた門田という地域です。

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 御台場ということは、大砲を置いた所でしょうか?

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 田んぼの縁のあぜ道を行きます。

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 この上のようです。

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 復原した塀のようです。

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 正面に立派な石碑が。

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 遺構は「現在位置」を囲む部分のみで、周囲は田んぼや畑です。

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 要するに、藩主は蒔田(まいた)氏といい、1603年に成立。1636年~幕末まで旗本。1862年にふたたび大名になった。1864年の禁門の変で、京都見廻役として長州勢を攻撃。しかし、これが災いして1866年に、立石孫一郎ら長州奇兵隊脱走組・約100名に襲撃されて焼失したそうです(倉敷浅尾騒動)。

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 少し高台なので眺めはまずまずです。

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 振り返ると、こんな感じです。

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 来た道を上から見たところ。
 長州奇兵隊の脱走組はのち、藩によって大半が処刑されたそうです。かなり、謎の事件です。それにしても、江戸時代はすぐ切腹だの斬首だのと恐ろしい時代です。森鴎外の「阿部一族」とか「堺事件」などを読むと、ぞっとします。

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 浅尾藩校集義館です。藩主のご子孫などからなる浅尾藩歴史顕彰会のHPによると、明治になって浅尾尋常小学校となりますが、1896(明治29)年に総社尋常小学校がつくられると廃止されました。建物の一部だけが民家として使われて残りましたが、これも老朽化により1982(昭和57)年に壊されました。いまの建物は、1995(平成7)年に再建されたものです。また、集義館とは、義を積み重ねるの意で、昌平黌儒官・佐藤一斎先生の命名によります。







  1. 2013/01/29(火) 15:16:54|
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白鳥神社とその周辺(東かがわ市)

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 東かがわ市の白鳥(しろとり)神社です。

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 白鳥になった日本武尊の神霊が舞い降りたという伝説があるそうです。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、両道入姫命(フタジイリヒメノミコト)、橘姫命(タチバナヒメノミコト)をお祭りしています。
 また、恵比須神をお祭りしています(県内の有名な寺院7か所に讃岐七福神が祭られています)。

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 本殿です。

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 この下をくぐって、裏の方へ行けます。

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 巨大鏑矢です。三本松高校弓道部OBが作って奉納しました。長さ18.1mで、かぶらの直径は80㎝。白鳥神社への感謝の気持ちからだそうです。というのは…

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 すぐ裏の弓道場のことです。三本松高校弓道部OBらが学校以外に弓道場をつくって一般に公開したいと考えていたところ、白鳥神社が場所を提供して、関係者で完成したそうです。

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 井戸とポンプを見ると懐かしさを覚える、昭和半ばの生まれ。

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 神社の裏は松原が広がっています。

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 こんな感じです。私が小学生のころは、遠足でどこかの松原に行ったりしてました。今考えると、結構じじくさい。小学生が松の木を見て、いいねーなんて思わない気がする。

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 さて、この松原を少し歩くと…

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 こういう所があります。

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 登頂。実は2度めです。社務所で用紙をもらって近くのお店へ行くと、登頂証明書がもらえます。

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 記念碑が。

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 当地は、全国の手袋の80%を生産しています。有名なスポーツ選手の手袋をつくるなど、質的にも優れていて、世界にも進出しているそうです。

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 三角定規っぽいオブジェがありました。小学校の教室にぶらさげてあった木の三角定規を思い出します。用途としては、算数の授業用と、先生の武器としての2つでした。

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 「白鳥勧商場(しろとりかんしょうじょう)」という名の、神社の前のおもちゃ屋さん。大正時代の創業で、当時は、政府が商業振興のためにいろんなお店の物を並べて売った所らしいです。

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 神社で頂いた「周辺ぶらり散策絵図」によると、この辺りが「中原淳一生誕地」のはずです。石碑かなんか欲しいところです。

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 「元・白鳥郵便局」(昭和4年建築)。醤油醸造家の市場氏が郵便事業を行っていたそうです。明治の初めに、前島密さんが地方の有力者(名主)に国家のために一肌脱いでほしいと呼びかけたところ、あっという間に全国に郵便局が設立されました。昔は立派な方がいっぱいいたもんです。いつのまにやら弱肉強食の格差社会…。

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 「東讃メリヤス工業跡」。

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 樹齢800年の大楠で、香川の保存木、「環境省・かおり風景100選」。

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 正面は、代々神社の神職を勤めていた長束家。

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 こちらは、同じく冨浪家です。

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 代々宮司を務める猪熊家の邸宅です。

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 立派な長屋門です。

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 1664(寛文4)年に松平頼重さんが公卿の猪熊兼吉さんを京都から宮司として招いたのが始まりだそうです。

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 以前は内部を公開していましたが、現在は非公開です。

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 昭和9年建築の「元・橋本医院」です。

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 「みなとや亀鶴堂」です。ここで「御山(みやま)登山証・印」が押してもらえます。以前、ハンコをもらった際、「その間に、どうぞ」と、お茶とお菓子を出してくださいました。で、いろいろとお話をして、「登山証」もできたころ、「名物ぶどうまんじゅうはいかがですか」とやさしく尋ねられ、とても断れる空気ではなく、買って帰りました…。

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 「ヘヤーサロン・カワバタ」、なんと、昭和8年の建築。道理で、字が右から書かれています。総社市にも、こういう薄い造りで、結構流行っていそうなヘヤーサロンがありました。

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 白鳥神社灯篭。

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 「元・水主(みずし)薬局」。かっこいい。

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 本町小学校の二宮金次郎像です。
 帰りに、「菓子処・六車」に寄りました。濃厚なチーズケーキなどケーキを買って帰りました。なぜか、赤飯を売ってたので、これも買って帰りましたが、どれもおいしかったです。






 


  1. 2013/01/28(月) 21:11:23|
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大川山(だいせんざん、まんのう町)

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 車道で登れる展望台のある所から。香川県では大川山と竜王山だけが1000m越えの山です。香川県人なら、大喜びの高さです。

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 雪の時は、安全なうちに車を止めて、ゆっくり登ります。

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 人の目には、木々の間から見える風景も美しいのですが、写真だとどう撮っても、枝が邪魔です。

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 ぼちぼち頂上。

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 中央構造線の北側の地層で、和泉層群というそうです。よく分かっていませんが…。

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 小さな秋葉神社があります。

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 石仏が出迎えてくれます。

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 反対側の大川神社です。

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 上がってみると、手水台の水が氷り、手ぬぐいが斜めになって固まってました。神主さんから、お酒を飲みますかと声をかけていただきましたが、車を止めてあるので遠慮しました。神主さんは、いや、酔うほど飲むわけじゃないからとおっしゃるのですが、本当に飲めない人間なので失礼しました。お猪口に数ミリで酔っぱらうことが可能ですが、もう何年も前から、アルコールを受け付けません。

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 徳島県側は、山また山です。

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 神社の北側です。

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 香川県側は、すべてが下にあります。無敵です。

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 讃岐平野が見渡せます。

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 写真では遠さがいま一つ感じられませんが、ずーーーーっと向こうまで、遮るものがない奥深さです。

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 下は雪です。

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 いつまでも見てしまいます。

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 いつもより、月に近いです。ぼちぼち、満足して下山しましょう。

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 帰りも、展望台に寄り道。

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 満足。

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 右に屋島が見えます。

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 さらに、五剣山です。

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 左は満濃池です。

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 池の向こうが象頭山です。


  1. 2013/01/27(日) 18:23:21|
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琴電・片原町駅付近の文化財

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 「旧新塩屋町小学校門柱」(高松市末広町)です。もとは1897(明治30)年ごろ、高松市立鶴屋町尋常小学校の門としてつくられました。1941(昭和16)年~鶴屋町国民学校と改称。1945(昭和20)年7月4日の高松大空襲で校舎は全焼しましたが、この門柱だけが残ったそうです。欠けた部分は爆撃か機銃掃射の痕でしょうか。学校の位置は、片原町駅のすぐ東あたりだったようです。

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 1948(昭和23)年に開校した新塩屋町小学校の正門として現在地に移され、小学校も2010(平成22)年に閉校しました。

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 小学校跡の前の道を西へ進み、琴電の線路を渡ったところに、登録有形文化財「料亭二蝶(にちょう)表門」(百間町)があります。

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 1950年につくられたようです。

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 片原町商店街に参道がある「華下天神(はなのしたてんじん)」です。高松市で最も古い神社です。

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 高松市によれば、生駒親正が高松城の鎮守として社殿を北向きに改築しました。北向きは珍しいそうで、菊池寛は、同郷だからとお金の無心に来る者には、この天神の向きを尋ねて確認したのだそうです。

  1. 2013/01/26(土) 20:20:12|
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高松市の湧水

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 高松市東山崎町の「八反地出水(はったんじですい)」です。正面に見える高架は琴電長尾線で、すぐ左に水田駅があります。

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 810年に空海さんが久米寺(北東1kmほどの所)に参拝したのち、ここにあった庵に立寄ったそうです。その主(「釈門」とあるので、お坊さん?)が、この地方の水不足を訴えました。すると、空海さんが錫杖で地面をたたいて「ここを掘りたまえ」とおっしゃるので、村人とともに掘ると清水が湧き出たのだそうです。

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 「おっ、エサか?」「カモね」

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 高松市太田下町の「鹿の井出水」です。桜の名所らしいので、春に見に行きたいと思います。

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 保安3(1122)年は大ひでりで、雨乞いをしても一滴の雨も降りませんでした。ある日、居石(おりいし)神社(11号線のすぐ南)に白髪の老人が現れて、突然一匹の鹿に姿を変えて走り出したそうです。村人たちが驚いてその後を追うと、鹿はここで止まって前足で土を掘り、また走り去ったそうです。そして、鹿が土を掘ったところから清水が湧き出したのだそうです。

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 長細いです。

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 ここにも石碑が。

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 2000年に整備されたそうです。ちなみに、平成を西暦に直すには、’88(パパ)に足してください。平成元年は1988+1=1989年(消費税3%、マルタ会談)。

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 端っこまで歩いて、振り返る。

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 脚の長さ如何で、微妙な飛び石。

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 高松市国分寺町の「楠井の泉」です。市のHPでも紹介されています。

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 環境省の「平成の名水百選」に選ばれました。

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 薬師如来が現れ、手に持った杖で掘り下げたところ、清らかな水が湧き出したそうです。

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 「お前泉(おまいずみ)」ともいうそうです。

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 ちょっと見づらいのですが、ちょうどいい勢いで水が出ています。しゃがんで水が汲めるように、腰にやさしいマットが置いてあります。地元の方が清掃等してくださっているそうです。

 




  1. 2013/01/25(金) 20:39:34|
  2. 自然
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神谷神社・石井天満宮・福の宮神社・総社神社・相模坊社(坂出市)

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 まだ、紹介していない、坂出市の神社をいくつか回りましょう。まず、本殿が国宝の神谷(かんだに)神社です。拝殿は1930年に建築されたのだそうです。

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 本殿はジャンプしてもよく見えません。文化庁の文化遺産オンラインで全体像を見ることができます。

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 流造(ながれづくり)というそうですが、このタイプでは日本最古、1219年の建築です。

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 府中町の天満神社(石井天満宮)です。

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 国司・菅原道真がこの南山を気にいり、よく登ったのだそうです。

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 とはいえ、坂出市によれば、香川県に天神社は235社もあるそうです。

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 鴨川駅方面から城山温泉に登る途中にある、福の宮神社です。

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 1441年の「嘉吉の乱」で滅んだ赤松満祐の子孫がこの地に逃れ、ここに神社をつくったという伝説があるようです。

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 11.05のブログで「浜崎周吉」さんを取り上げたときに紹介した、林田町の総社神社です。

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 御神木の梛(なぎ)の木ですが、これまでに本殿が2回消失したそうですが、そのたびに御神体がこの木のところで発見されたという、不思議な話があるそうです。

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 大屋富(おおやぶ)町の相模坊(さがんぼう)社です。

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 坂出市のHPに、崇徳上皇に従った藤原氏の子孫が、白峯寺にあった相模坊天狗の木像二体のうち一体をゆずり受け、慶応四(1868)年3月に現在地に遷座したものだとあります。

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 この付近は、西に瀬戸大橋を臨む、夕日のきれいなところです。

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 いい眺めです。

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 2月9日(土)・10日(日)には、「第23回・坂出天狗まつり」が開かれます。


  
  1. 2013/01/24(木) 18:03:06|
  2. 信仰・民俗・伝統など
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御番鍛冶(倉敷市・瀬戸内市)と長船町福岡

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 倉敷市のイオン倉敷から北東へ2km程行った所に、「青江の井戸」があります。

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 鎌倉時代の初め、後鳥羽上皇が刀剣を作らせるために全国から集めた「御番鍛冶」が12人いました。うち、備前の刀工が7人、備中の刀工が3人、他2名は山城粟田口の国安・国友でした。
 備中の3人(貞次・恒次・次家)は青江鍛冶でした。

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 ちょっと心細くなる道です。

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 どうやら、これが「青江の清水」のようです。

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 「御番鍛冶」の備前の7人(則宗・延房・宗吉・助宗・行国・助成・助延)は「福岡一文字派」と呼ばれています。  
 瀬戸内市長船町福岡の「福岡一文字碑」です。
 説明板によれば、福岡一文字派は、銘に「一」の字を切るものが多かったことからそう呼ばれたそうです(個銘だけのものもあります)。また、福岡庄は、平安時代末期から鎌倉時代の正中元(1324)年に東寺の荘園となるまでは、皇室の重要な荘園でした。そして、「東寺百合文書」から、福岡一文字派の刀工たちは福岡庄の吉井周辺に居住し、皇室の庇護を受け広い給田を所有し、安定した生活をしていたことがうかがえるそうです。

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 福岡は中世に栄えた町として有名です。少し、回ってみましょう。

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 『一遍上人絵伝』でもお馴染みの「福岡の市」が開かれていたことでも有名です。

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 絵は、一遍上人を切ろうとした連中が、すっかり感化されていしまう場面です。絵の中には、備前焼などたくさんの品物や食品が描かれています。

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 江戸時代の村の共同井戸が4つ残っているそうです。

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 妙興寺です。

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 偉いお医者さんの像らしいです。戦時中の銅像の供出で、備前焼の像になったそうです。

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 宇喜多興家さんの墓です。

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 戦国の梟雄・宇喜多直家の父です。

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 こちらは黒田家の墓です。

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 説明板によると、黒田高政が永正八(1511)年に福岡に移住し、重隆・職隆とこの地の発展に尽くした。職隆は播州姫路城主となり、子官兵衛孝高が織田、豊臣両氏に属し備中高松城の水攻や、四国九州の平定などに功があった。子の長政は関が原の役に家康を援けて筑前52万石に封ぜられ、出身地の備前福岡から「福岡」と命名したそうです。

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 吉井川の河原のゴルフ場の一部に、備前・福岡城跡がある。古くは鎌倉時代に遡り、のち、浦上氏の城でもあったようです。

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 「渋染一揆結集の地」としてのほうが有名かもしれません。

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 多くの百姓一揆と同様に、成果を上げることができたが、また、6名が獄死するなど厳しい戦いでした。江戸時代のこうした民衆の姿を見るにつけ、特にその指導的立場の人々の教養の高さと高潔さに打たれます。



  1. 2013/01/23(水) 18:47:59|
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智証大師降誕浴灌井(ちしょうだいしこうたんよくかんい)伝承地(善通寺市原田町)

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 この舌を噛みそうな史跡、要するに、円珍さんが産湯に使った泉だそうです。

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 円珍さんといえば、滋賀県・三井寺(園城寺)を天台別院として興したことで有名です。のち、円珍さんの弟子は三井寺を拠点に寺門派といわれ、円仁さんの弟子・山門派(延暦寺)と分裂しました。

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 ここに寺もあったそうですが、それは戦国期に廃され、庵(現在はありません)と泉を、この地の庄屋・真光家が維持管理してきたそうです。

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 真光家の立派なお墓がいくつか残っています。真光家はもと天霧城主・香川氏の家臣でしたが、真光忠兵衛善正が1583年に庄屋になり、明治を迎えるまで栄えました。

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 右側にも同じような形のお墓があります。
 市制町村制により、1990(明治23)年に丸亀町が誕生すると、この付近の原田村・金蔵寺村・木徳村が合併し、真光氏の命名により滝川村(金倉川の旧名)となりました。まだ、強い力を持っていたことが分かります。
 1954(昭和29)年に善通寺市が誕生すると、滝川の地名はなくなりました。翌1955(昭和30)年に、原田地区の一部が住民の意思により丸亀市へ合併しました。つまり、丸亀市原田町と善通寺市原田町が存在するという奇妙なことになっています。

  1. 2013/01/22(火) 17:41:20|
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金倉寺(こんぞうじ)周辺(善通寺市金蔵寺町)

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 金倉寺は、空海さんの甥・円珍さんの生誕地です。また、乃木希典さんのお住まいになったことでも知られています。「乃木将軍妻返しの松」というのがあって、奥さんが突然東京からやってきたとき、乃木さんは面会を断り、取次の人が困って、一時、宿(多度津の「花びし」)にお引き取りを願ったところ、奥さんがその松の前でしばらく佇んでいたという話です。お寺の資料によると、その後、周囲の説得で乃木さんも会うことにし、奥さんは一週間ばかり滞在したそうです。お寺には、その部屋や遺品が残っています。

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 この鐘楼は変わっていると思うのですが、特に説明がありません。

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 「一太郎親子松」?

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 本堂です。

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 円珍(智証大師)像です。

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 金倉寺の隣にある、というべきか、境内の中にあるというべきか、新羅神社があります。新羅明神は円珍さんの守り神です。

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 この町に生まれた、河田迪斎(かわたてきさい、1805~59年)さん顕彰碑です。昌平黌教授柴野栗山にも気にいられ、林述斎の同意のもと、幕府儒官林家の塾頭佐藤一斎の養子に迎えられ、37歳で跡を継いで塾頭になりました。
 1854(安政元)年の日米和親条約の交渉に立会い、交渉内容の翻訳や記録を担当し、日本側全権に開国を進言しました。

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 寺の北側の国道11号線沿いに、「金蔵寺事件記念碑」があります。

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 1924(大正13)年、2割5分の小作料減額を求めた小作争議でした。地主側は、小作料を差し押さえ、競売にふしました。金倉寺境内での競売に、小作人側は3000人が集まりました。地主代理人による不当なつり上げに対し、投石などのいざこざが起きましたが、最終的に、小作人側が競り落としました。

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 しかし、その後、騒擾罪などで36人が起訴されました。懲役の判決が下ったが、控訴の結果、無罪・執行猶予などになったようです(『香川県の百年』)。また、小作料は減額されました。




  1. 2013/01/21(月) 20:03:53|
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崇徳上皇の史跡(つづき)

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 崇徳上皇と関連の史跡を以前(8.17、7.24)紹介しましたが、そのとき紹介しきれなかった史跡をまとめて載せます。
 まず、讃岐に上陸した地点が「松山の津」です。

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 当時はここまで海だったそうです。

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 雄山・雌山の間の161号線を西に向かって登っています。

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 崇徳上皇が最初に住まわれた雲井御所は、綾川のそばにあった長命寺だったという説もあります。

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 大きなお寺だったそうなので、以前紹介した「雲井御所」の辺りまで広がっていたのかもしれません。

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 近くに「姫塚」(木が見える所)があります。

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 上皇と綾高遠の娘・綾の局との間に生まれた皇女の墓といわれています。

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 江戸時代に作られた「崇徳院御遊所池」の碑。雲井御所の近くの浜辺で、よくここに遊びに寄られたそうです。

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 さて、次に上皇の住まわれた木丸殿があった鼓岡神社は以前紹介しました。そこに1913(大正2)年、崇徳上皇没後750年記念に、木丸殿を再現する意味で建てられた「擬古堂」です。

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 同神社の「杜鵑(ホトトギス)塚」です。「啼けば聞く 聞けば都の恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす」と詠んだ上皇の気持ちを考え、ホトトギスを追い払ったり、殺したりしたそうで、ホトトギスを弔った塚です。 

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 以下しばらく、鼓岡神社周辺を回ってみましょう。まず、「椀塚」ですが、上皇がお亡くなりになったあと食器を埋めて供養したといわれています。

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 「柳田」は、上皇が実は暗殺されたという伝説の地です。

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 崇徳上皇と綾の局との間に生まれた皇子の墓といわれる、「菊塚」です。

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 讃岐国府がこの辺りだったといわれています。

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 国府を特定すべく、発掘調査が熱心に行われています。

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 「国府印鑰(いんやく)明神遺跡」の石碑です。

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 国府の印とかぎを保管した場所といわれています。

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 鼓岡神社すぐ東の池。

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 そのすぐ東の「開法寺塔跡」です。

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 讃岐国司・菅原道真も記録しています。

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 天皇寺・白峰宮は、崇徳上皇の御遺体を安置した場所です。

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 白峰(しろみね)宮・本殿は、上皇の御遺体を安置した場所に建てられ、上皇を祭っています。八十八の湧水はすぐ近くです。

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 さて、少し離れた白峰山の麓、高屋神社です。

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 上皇の御遺体を白峰山に運ぶ途中、この石の上に棺を置いて休息したとき、雷雨になって、棺から血が滴り落ちたといわれ、そのため、この地に神社がつくられたのだそうです。

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 巨大な鳥居の立つ「青梅(おうみ)神社」です。

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 白峰山で上皇が荼毘に付されたとき、不思議なことに、その煙が山の麓に向かって流れ、煙の消えた後に一つの玉が現れたそうです。その玉を祭って青梅神社がつくられたのだそうです。

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 「煙の宮」ともいわれます。

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 ここから、「西行法師の道」が白峰御陵・白峰寺へとつながっています。

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 「思ひやれ都はるかに沖つ波 立ちへだてたる心細さを」。上皇の歌です。

 →前篇


  1. 2013/01/20(日) 21:10:57|
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伏石(ふせいし)事件(高松市)

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 高松市伏石町の蓮池の東側です。蓮池は、伏石中央公園のすぐ南で、天満屋ハピータウンレインボーロード店から西へ約400mの所にあります。

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 1924(大正13)年11月に起こった農民運動として有名です。
 1922年に日本農民組合ができると、1923年6月2日に日農香川県連合会が全国で4番目にでき、1924年6月には全国一の組合員数となっていました(140支部・12,055名)。
 香川郡伏石・松縄で1923年末、小作料永久3割減を要求する争議が起きました。地主側は裁判所に年貢米請求を訴え、さらに、納めなかった分の田んぼの稲の差し押さえを強行しました。農民組合側は、刈取・脱穀・保管を実行。これに対し、検察側は窃盗罪を適用し、24人を検挙し、連日長時間の取り調べで、悪罵・威嚇を行って自白を強要しました。日本弁護士協会が人権問題だと訴え、全国的な事件になりました。

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 無罪は1名で、22名が有罪(執行猶予を含む)、1名が自殺という結果になりました。他方、争議の結果、小作料は1割7分5厘減となりました。 また、実刑判決を受けた顧問弁護士は釈放後に子どもと無理心中しました。

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 伏石事件は、1925年の金蔵寺事件、1927年の土器事件と合わせて香川県の三大争議といわれています。
 写真は蓮池です。


  1. 2013/01/19(土) 20:58:59|
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讃岐の法然さん

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 丸亀市塩屋の浄土真宗・正宗寺(しょうしゅうじ)です。

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 法然上人が塩飽諸島から、こちらの塩屋に上陸しました。ここで上人は水を求め、船の棹で地面を掘ると水が湧き出たという伝説があります。「櫂堀(かいほり)の井」と呼ばれています。

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 蓋がしてあります。

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 ここは、青野山の東を南北に走る194号線沿いの「杖堀の井戸」です。鬱蒼としていて、ちょっと不安…。

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 上は意外に、こぎれいでした。

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 こちらは、水に困っている人々を救ったという伝説です。

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 どなたかが、お掃除してくださっているようです。

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 ちょっと、覗いてみました。

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 最後は、高松市の法然寺です。

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 法然上人の住まわれた小松庄生福寺の跡で、高松藩初代・松平頼重さんが復興して菩提寺としたものです。

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 本堂の葵の御紋が目に入ります。三つ葉葵を見ると、水戸黄門の「この紋所が目に入らぬか!」の音楽が聞こえてくる人、今後、それで年齢がわかる時代になるでしょう。


  1. 2013/01/18(金) 21:24:06|
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竹居観音(高松市)

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 高松市庵治町の竹居観音に向かいます。沖合に稲毛島が見えます。ずっと向こうの大きな島影は小豆島です。

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 稲毛島は無人島です。

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 「竹居岬、四国最北端」とあります。地味な主張です。

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 美しい砂浜です。

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 海も透明。先ほど見えた稲毛島がありました。左へ向かうと…

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 竹居観音寺本堂です。

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 さらに、向こうへ行くと自然にできた岩窟があります。

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 沖合を行くSFっぽいデザインの船。

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 「長命橋」という小さい橋を渡ります。

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 どうやら到着。

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 岩窟そのものは自然のものですが、コンクリートの屋根付き。

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 最初に、生駒親正さんが、つづいて、松平頼重さんが、高松城の鬼門の守りとして観音様を祀ったそうです。

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 沖合を大きな船が行き交います。

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 岩の上にも仏様が祀られています。

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 きれいな海でゆったり漁。

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 岩?島?どこからが「島」になるんでしょうか???

  1. 2013/01/17(木) 14:12:22|
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宇高連絡船記念展示場(高松市)

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 かつての連絡船の埠頭のあたりに、宇高連絡船記念展示場があります(3階)。レールは、線路をイメージしたものです。

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 1910~88年まで運航しました。私にとっての思い出は、大学生の長期休業中に実家との行き来に利用したことです。一度、近所のおばあさんが岡山へ行くとき、一緒に乗りました。おばあさんは、ひょいひょいと歩き、何食わぬ顔でエスカレーターに乗ったのですが、直後、自分が勝手に動いていることに気づき、驚いて猛然とバックし始めたので、必死でなだめました。突然の出来事に焦りました…。

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 船関係の博物館に模型はつきもの。

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 船内の見取り図(プラスチック板)に見覚えがあります。

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 乗船口を案内する掲示板も覚えています。懐かしい…。

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 人がいないのが、もったいない。

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 「宇高連絡船」というレコードがあったんですねー。三沢あけみさんが歌っています。

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 「非常の際の心得」も読みました。ときどき、沈没したときを想像して恐くなりました。決まってサメが来て、空想を追い払うというパターンでした。勝手な空想なのに、思い通りにならないのは、病気でしょうか?

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 船上に人がいないのが、ちょっと残念。ベンチでうどんをすする人とか。

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 これはかなり古い写真。

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 背広姿がなぜか懐かしさを余計に感じさせます。

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 柵があれば登る、昭和の子ども。

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 港の風景がきれいに見えます。右の方に、テンコツ(てっぺん)が平らな屋島があります。

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 いい景色です。

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 船内の写真。

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 伝声管です。

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 昨年壊された高松港旧管理事務所です。

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 四国フェリーは頑張ってます。岡山で仕事をしていたころ、橋が開通するまではよく利用しました。私の方向音痴の頭は、道路の激変する香川県についていけず、高松から丸亀の実家に帰るたびに道に迷ったものです。

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 讃岐丸の錨。


  1. 2013/01/16(水) 16:30:00|
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岡山市中心部を歩く

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 後楽園の北東の橋を渡ると、夢二美術館です。ここはかつての西大寺鉄道(1910~62年)の起点・後楽園駅の跡です。美術館は西大寺鉄道の後身・両備グループによって維持されています。

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 夢二美術館から北東へ直線で約1kmの大林寺です。

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 日蓮宗の寺院ですが、帝釈天堂があり、庚申信仰でも知られています。

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 三猿が、狛犬になりきってます。どこか、シュール。

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 今度は、後楽園の南端に近い古京町。内田百閒(1889~1971年)生家跡です。なぜ牛の像かというと、丑年生まれであることから、子どものころに牛マニアになり、ペットとして飼っていたそうです。

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 「木蓮や塀の外吹く俄風」という百閒の句です。

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 後楽園の西の橋を渡ると出石町で、ここには国吉康雄生家跡があります。

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 国吉さんの絵に出てくるとんがった牛。百閒さんも牛の像で、こんがらがりそう。

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 1889~1953年。国吉さんの絵はインパクトがあるので、多くの方が見覚えがあると思います。ウーパールーパーみたいな子どもや、どこか、ムーミンぽい女性…。

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 付近には、レトロな建物がいっぱい。

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 昭和だ。
 実は若かりし頃、大学受験の前日、現地で宿を探すという行き当たりばったりぶりを発揮し、ここ出石町に宿を見つけました。当時としても、かなりな宿で、隣の部屋との堺が衾でした。しかも、向こうが若い女性だったので、ドキドキしたのを覚えています。

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 こういうのも昭和っぽいですねー。

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 きりがないので、この辺でやめましょう。
 大学生のサークル活動で竹内流古武道を習いましたが、こっちの方にあった木工店で棒術の棒を買っていたのもよき思い出です。いまは、別の武道具店で扱っているようです。

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 最後は、ちょっと離れています。後楽園から西へ、岡山駅をまたいで2km以上、北区島田本町の坪田譲治生家跡です。クスノキは生家にあったものらしいです。


  1. 2013/01/15(火) 20:28:17|
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重源(岡山市)

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 重源は養和元年(1181年、60歳)に東大寺再建の勧進(費用を募ること)職に任じられ、86歳で没するまでの25年間を東大寺の再興に捧げました。周防国(山口県、文治2=1186年)、備前国(建久4=1193年)は造営料国(東大寺再建費用をまかなう国)として重源に与えられました。周防国からは良材が、備前国からは瓦が供給されました。
 岡山市中区のJR高島駅の北部に重源の勤めた国庁跡や、この看板の浄土寺があります。

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 重源は、湯迫(ゆば)に大湯屋という温泉(蒸し風呂?)をつくりました。ここがその跡とされています。

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 現在は冷泉です。当時、お風呂は心身を清める、信仰と健康の施設として庶民に解放されました。

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 また、残念ながら昨年末に本堂が消失した金山寺が、その本堂と末寺の修理料田3町歩を免田(租税免除)にして欲しいと願い出たものに重源が裁許を与えた、金山寺文書は貴重です(県立博物館に保存されていて無事)。

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 岡山市東区瀬戸町の万富で、東大寺の瓦がつくられました。

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 重源も視察に来たことでしょう。

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 ここで焼かれた瓦は、吉井川から積み出されて瀬戸内海を奈良へと運ばれました。

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 レプリカが置かれています。


鎌倉時代の建築様式

①東大寺南大門=大仏様……重源+陳和卿が東大寺再建    
②円覚寺舎利殿=禅宗様
③三十三間堂=和様
④観心寺金堂=折衷様(和+新様式)


少し、体調を崩して入院してきました。ほぼ、回復。寝過ぎて、腰も痛めてトホホ。この前、電話をしていて、今年最初の大ボケをしました。「お電話いただいてよろしいでしょうか?」と聞かれ、「えっ、おでん……?」と言ってしまいました。何の話かなー、おでんが食べたいのかなーって思いました。






            


  1. 2013/01/14(月) 14:20:44|
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しばらくお休み

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 事情により、10日間ほど更新できません。
 ご覧くださっているみなさん、ありがとうございます。

  1. 2013/01/04(金) 15:25:37|
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法然

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 岡山県久米南町の誕生寺は、法然さんが生まれた場所です。熊谷直実(蓮生)さんがお寺にしたといわれています。20代のころここを訪れた時、寺の向かいの土産物屋さんで安くて大きいという理由で買って帰った塩羊羹。今でも歯ごたえを覚えています。

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 法然さんが立てた杖が銀杏になったといわれています(樹齢850年、町指定重要文化財)。

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 法然さんは1133年に、美作国稲岡(いなおか)荘の押領使(おうりょうし)・漆時国(うるまときくに)の子として誕生しました(幼名・勢至丸)。1141年に、稲岡荘の預所(あずかりどころ)・明石定明(あかしじょうみょう)の夜襲で父が亡くなり、その遺言で出家しました。

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 本堂・御影堂(国指定重要文化財)です。

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 ときどき、中を公開しています。

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 唐門から中に入ります。

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 横から見る御影堂。

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 池・鐘楼がまず目に入ります。

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 お寺で合図に使う版木(板木)です。

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 お寺って感じ?です。宝物館には、鎌倉後期の60㎝の阿弥陀如来立像(県指定重要文化財)があり、中から、約千枚の刷り仏が発見されました。「法然上人御生所御本尊」と書かれた印仏も多数発見され、その像が誕生寺旧本尊で、寺が法然上人の御生所である証拠とされています。

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 お庭。そのほか、絵画などの重要な文化財がたくさん展示されていました。また、七不思議っぽいものもあります。ぜひ、見に行ってください。ちなみに、宝物館には「八百屋お七の振袖」なんてものまであります。

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 2つとも室町時代の石塔(岡山県指定重要文化財)です。

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 片目川という川が流れています。父が明石定明に襲われた際、9歳の勢至丸(法然)が文字通り一矢報い、父の敵・明石定明の右目を射ました。明石定明はこの川で目を洗い、以後、片目の魚が出現するようになったといいます。宝物館には片目の魚のアルコール漬けもあります…。

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 法然上人御両親御霊廟・勢至堂です。

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 法然上人産湯の井戸です。伝説では、弘法大師が「末法乱世のとき、ここに万民救済の聖者が生まれるだろう」と予言し、杖で地面を指すと水が湧き出たそうです。立て札に「万病の霊水」と書いてあったので、飲んでみたところ、ジャリっとしたので水面をよく見ると、砂埃だらけでした。さらに、傍らには「飲まないでください」という立て札がありました…。

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 誕生寺から約2㎞北にある、美咲町の「仰叡の灯(ぎょうえいのひ)」です。

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 法然さんが旅立つとき、母と別れた場所です。

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 出家した勢至丸は最初、那岐山菩提寺(なぎさんぼだいじ、奈義町)に入りました。

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 いまは大銀杏のほうがメインの観光名所で、かなりさびれています。

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 門が見えてきました。

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 ジャングル化しつつあります。

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 本堂です。

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 クマが出そうです。岡山と鳥取の県境なので、本当に怪しいです。

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 何でも出そう…。

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 大イチョウです。

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 『ロード・オブ・ザ・リング』???

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 国の天然記念物です。杖が木になったという点では、誕生寺の大銀杏と同じです。

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 ネコ発見。

 その後、1145年には比叡山延暦寺に登り、1150年に比叡山西塔黒谷の叡空(えいくう)に師事し、法然房源空と改名しました。
 1175年に専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教えを広め、各地に念仏衆の集団がつくられました。1190年には『撰択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』を著しました。
 これに対して、延暦寺や興福寺など旧仏教の反発が高まりました。法然さんは、他宗派を批判しないよう七カ条の制戒(弟子への戒め)を書きました。しかし、延暦寺や興福寺などは後鳥羽上皇に専修念仏停止を訴えました。こうした時に、院の女房が法然さんの弟子住蓮・安楽を尋ねて出家し、怒った上皇が住蓮・安楽を死罪にし、法然さんを讃岐に配流しました(1207年2月→12月に赦免の宣旨)。1211年に京都に入ることをを許され、1212年1月25日、80歳で没しました。

  1. 2013/01/03(木) 14:27:36|
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栄西

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 岡山市の吉備津神社(備中国一宮)といえば、すぐ近くにある最上稲荷、吉備津彦神社(備前国一宮)とともに初詣で180号線が大変な交通渋滞になることで有名です。岡山に住んでいたころ、渋滞に辛抱できず、ついに一度も正月にお参りに行きませんでした。香川県の実家付近でのお参りは欠かしたことがありません(…今年までは…、ちょっと体調を崩し、神社へ行くのはこのあとになりそう)。
 で、思い出したのが、吉備津神社の近くにある栄西禅師生誕地です。

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 お茶の栽培を伝えたので、こんな石碑が立っています。近所の方に場所を尋ねた際、その方が「ワシが小さい頃は、栄西の家が建っとった」とおしゃり、驚いたことを覚えています。「えっ、寺社などは古いものが残っていますが、個人の家は江戸時代のものでも超貴重で、鎌倉時代なんて、ちょっと信じられません」と言うと、「いや、栄西の家の写真が、市役所に展示されとった」というお話でした。市役所に微妙なものが展示されていたという、歴史の一こまに興味をそそられたのを覚えています。

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 栄西は子どもの頃、安養寺で修行しました。ところが、倉敷と岡山に安養寺があって、どちらか分からないのです。こちらは、倉敷市の浅原安養寺です。巨大な毘沙門天がいます。

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 いかり(怒り)を鎮めるという意味だそうです。

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 栄西さんの像があります。

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 裏山には、平安時代~鎌倉時代に栄えた浅原寺の礎石が残っています。また、末法思想の影響でお経を書いた瓦や経筒など、たくさんのものが埋められていました。

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 こちらは、岡山市の救世山安養寺です。 

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 こちらも譲りません。

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 祖師堂といい、栄西が自分の姿を彫った木像が収められているそうです。

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 茶筅まで供養されているんですね。


栄西 年表

1141年 備中吉備津宮の神主・賀陽氏の家に生まれた。
1151年(11歳)安養寺に入る(岡山市日近・救世山安養寺?倉敷市浅原・朝原山安養寺?)
1154年(14歳)比叡山で天台教学を学ぶ。→伯耆国大山寺で天台密教を学ぶ。
1168年 宋に渡る。宋では俊乗房重源と出会い、以後、行動を伴にして同時に帰国した。
    五ヶ月の滞在で、禅宗に関心をもった。
    →金山寺・日応寺(岡山市)→安井寺(後月郡)→1175年、誓願寺(博多)
1187年 2度目の入宋。臨済宗の虚庵懐敞から禅の教えを受けて印可(悟りを得たことの証明)を得た。
1191年 帰国。
1194年 比叡山などの排斥運動のため、禅宗停止の宣旨(上皇の命令)が出された。
1198年 『興禅護国論』を著す。臨済宗は天台教学にそむくものではなく、鎮護国家に通じると主張。
    →鎌倉幕府は栄西を支持。
1200年 栄西を導師として源頼朝の法要が行われた。
    北条政子が栄西を開山に寿福寺(鎌倉)を建立。
1202年 将軍頼家を開基に、(建仁2年)京都に建仁寺を開いた。
  注:禅宗では、開山とは寺院の創始者。開基とは寺院創建の経済的負担をする世俗信者のこと。
1206年 重源の没後、「造東大寺大勧進職」に任命された。
1211年 『喫茶養生記』を著す。
    栄西は2度目の入宋のとき茶の種子を持ち帰って栽培。京都栂尾の明恵に茶の実を送って栽培を勧めた。
    『喫茶養生記』は茶の栽培法・喫茶法・効用などを記したもの。
1214年 二日酔いの源実朝に『喫茶養生記』を献上して喫茶を勧めた。
1214年 道元(15歳、のちの曹洞宗の開祖)が弟子になった。
1215年 京都・建仁寺で没する。


  1. 2013/01/02(水) 17:40:33|
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プロフィール

犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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