
大正14年、琴平参宮電鉄・多度津~琴平間が開通し、写真左手の建物付近に、多度津桟橋駅がありました。正面は桃陵公園です。

かっこいい。残しておいてほしかった…。

そのすぐ南、桃陵(とうりょう)公園の下の桃山トンネルは、琴電のときのトンネルを利用しています。

右の石碑(大正10年)は「きしゃば」、左(明治14年)は「右はしくら道・すぐ金刀比ら道・すぐふなバ(向こう側)」と書いてあります。向こうに延びる道は、かつて讃岐新道と呼ばれました。明治19年に着工し、4年近くかかって徳島まで通じました。その中心になったのは、大久保諶之丞(おおくぼじんのじょう)さんで、私財を投じて完成させました。その他にも交通網整備などに尽力し、瀬戸大橋建設まで唱えていました。

町民会館の一角にある「四国鉄道発祥之地」の石碑。明治22年、丸亀~多度津~琴平に四国で初めて鉄道が開通しました(讃岐鉄道)。

多度津駅に残る古そうな建物。

登録有形文化財の給水塔。

乃木将軍の奥さんも泊ったという、旅館・花びし跡。いまは石碑が立つのみ。

少林寺拳法、発祥の地。1947年に宗道臣(そうどうしん)さんが初めて開いた道場。私が高校生のころには、すでに桃陵公園の大きな道場ができていました。宗道臣先生もご存命で、家の片づけの手伝いに行ったことがあります。ものすごく背の高い方で驚きました。

花びし跡の近くにあるかつての旅館。

高見屋旅館のマークが残っています。他にも、多度津にはレトロな建物がいっぱい残っています。
- 2013/09/29(日) 20:30:23|
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前回の終わりの「覚城院(仁尾城跡)」の階段から。この辺りもいい雰囲気。右側の家、お人形屋「すぎや」さんの方から伺ったのですが、この道、もとは道路中央の黄色の線のところまで家があったそうです。道路拡張の際、覚城院の階段を壊してはいけないということで、家の方がひっこむことになったんだそうです。

1930年ごろに建てられたお家だそうです。「確か、小学校○年生のころだから…、昭和5年だ」とおしゃっていました。

レトロだ。

さすが、豪華。

斜め向かいの、張り子のトラを作っているお店。

お人形屋さんが多い。

「人形工房」にあった、張り子のトラ。人形工房では、ときどき製作体験ができるそうです。この日は、豪華な節句人形がいっぱい飾られていました。


ここは、塩田開発(仁尾塩田株式会社)で財をなした塩田忠左衛門さんの屋敷跡。現在は空き家ですが、商工会などで古民家再生に取り組んでいるようです。

内部。



お庭も整備中。

広い。仁尾塩田株式会社は仁尾興産株式会社として存続しているようです。

金光寺(きんこうじ)の、細川頼弘さんのお墓です。

製菓・一原堂と書かれた壁。なんとも、レトロ。八朔人形の素晴らしさはもとより、懐古趣味から夢中になりすぎ、まだ暑かったこの日、何時間も歩いてダウンしました。
- 2013/09/26(木) 17:08:12|
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「仁尾八朔人形まつり」が9月21(土)~23(月)にかけて行われています。
町内を決められたルートで廻るようになっていて、2時間以上かかります。写真は、スタート地点の本部(案内・特産品売り場など)前の、仁尾酢・中橋造酢株式会社です。こういうときでないと、中を見る機会がありません。

中に入ると酢の臭いが強烈。こちらの会社は、創業、1741(寛保元)年。

発行している様子を覗いてきました。

最初は、田野屋(初代・中橋仁右衛門さん)といったそうです。江戸時代は、丸亀藩の認可を受けた醸造業が繁栄していたそうですが、いまではここだけになりました。

レンガ造りの煙突。

仁尾城主・細川頼弘さんが長宗我部軍の攻撃で落城したため、その命日である3月3日には雛祭りを行わず、八朔の日(旧暦の8月1日)に、男子と女子の節句をいっしょに祝うようになったそうです。

いい感じの街並みが残っています。

初めて男子が誕生した家は、屋敷の一角に舞台をつくって、武者人形を置いたり、歴史上の名場面などを再現したそうです。左手前の「八朔だんご馬」は西讃(香川県西部)の風習です。


NHKドラマ『八重の桜』の一場面。

小さいだんご馬を売っていました。15kgとか、巨大なものも作られます。

「源義家、後三年の役」です。雁の列の乱れから、伏兵を知ったという有名な話。芸術的な作品になっています。

隣りは、創業、1893(明治26)年の土佐屋さん。昔は、ここで売っていない品物はなかったそうです。
続く…。
- 2013/09/22(日) 18:17:55|
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鈴木さえ子さんの『スタジオ・ロマンチスト』(1987年)がいつの間にか、リマスター・再発されていました。日本人のつくったアルバムの中では、最高にメロディアスなアルバムです。昔の(音の悪い)CDをもっている上に、SHM-CDということで値段が高すぎなので、ずいぶん迷ったのですが、個人的な思い出とも重なっているので、つい買ってしまいました。リマスターでいい音になってました。
当時よく聞いていたXTCのアンディー・パートリッジさんが共同プロヂュースしたアルバムで、シリアスなのが好きな人にはカチンとくるかもしれない、意味不明なおもしろさ、楽しさがあります。日清の「すぐおいしい、すごくおいしい」の作曲者です。


ロバート・パーマーのアルバムが、一斉にリマスターされました。Edsel Records UKという、過去のCDをリマスター・再発しているレーベルから出たものです。アマゾンで、「新品の出品」をクリックすると、海外発注のが安く買えます。これだけ安いと、郵送料が高くても、まだかなり安いです。そのまま日本のアマゾンで買えば一枚2,280円が、私はimportcds_comで購入したので912円でした。
SNEAKIN'SALLY THROUGHT THE ALLEY(1974)とPRIDE(1983)が聞きたかったので、これがセットなら一枚で済んだのですが…。前者は、ずーっと廃盤だったので、うれしかったです。音もいいと思いました。私の中では、スティーヴ・ミラー・バンドの『ジョーカー』と似た感じ。どちらも大傑作。後者は、テクノ流行を背景につくられたものだけど、テクノが彼流に消化されていて、古びないカッコよさ。やっぱり、歌がうまいし。

BTOはいま純粋に楽しめるかというと、「懐かしさ」で買ってしまった感があります。いわゆるハード・ロックです。若いころはよく聞きました。やはり2つのアルバムが収められていて、NOT FRAGILE(1974)とFOUR WHEL DRIVE(1975)です。前者が一番いいと思います。本国以外では、マイナーだと思うので、すぐまた廃盤になりそう…。

ここからは、最近の話ではありません。ハード・ロックといえば…で思い出しました。ステイタス・クオーのHallo!(1973)。このCDは2005年に発売されていたのに気づいて、やはり懐かしくて買ったもの(で、やはり、輸入で1000円切っていたと思います)。若いころはこのバンドが大好きで、よく聞いていました。なかでも、このアルバムがいい曲満載です。イギリスでは国民的人気を誇っています。最近、日本でリマスター・SHM-CDが出ました。が、高い!!!!!日本のメーカーはやることが…。SHM-CDより、リマスターの方が大事。2005年の音で十分満足しています。

再発で喜んだのがこれ。オリビア・ニュートン・ジョンの『水の中の妖精』(1976年)。当時は、オリビア・ニュートン・ジョンが好きだとか言ったら、ミーハーっぽく思われそうで、そっと聞いていましたが、今改めて聞くと、特徴的ですごくいい声、もちろん、歌がうまい。一昔前の歌手は、みな個性が際立ってる。リマスターのよさも感激もの(2010年発売)。個性的な歌声の女性歌手としては、他に、Tanya Tucker が好きです。本国ではベスト盤的なものが際限なく出ていますが、日本では…で悲しい。
- 2013/09/19(木) 22:11:50|
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多度津町の三井正八幡宮です。北を見ています。実際は、北西を向いていますが、ややこしいので、北or南で話を進めます。

私の後ろに続く「参道(馬場)」の跡が、町の史跡に指定されています。
説明にある「〔多度津〕金毘羅街道」は、神社のすぐ西側を、並行して南北に走っています。そして、しばらく南へ行った所で東に折れ、神社の参道(馬場)と合流していました(下の地図を参照)。
「古くからの伊予街道」というのは、金毘羅街道のそれではありません。ちょうど、高松自動車道あたりを通っていた古代「南海道」をベースにした道のことで、坂出から国境までを、中世から「伊予街道」と呼んでいたようです。多度津こんぴら街道とそれが、この少し南で交差していました。
三井は、古代南海道の駅家(えきか・うまや=公務で使う、馬を準備した宿泊所)「甕井(みかい)駅」があった所ともいわれています。

南を振り返る。参道(馬場)が続きます。この右手の方(西)を金毘羅街道が並行して通っています。それが、この先で左手(東)に曲がり、参道と合流していました。
ずっと向こうの鳥居まで行きましょう…。

まだ続いています。

ややっ、まだ先が…。

残念、そこで途切れています。昭和45(1970)年発行の『グラフたどつ』で見た白黒写真では、周囲は一面の田んぼで、道は昔のままずーっと続いており、道の両側に松の木がずらーっと並んでいました。でも、昔のよすががこれだけ残っているだけで貴重です。

再び、来た道を(北に、神社を)振り返る。

赤い線が多度津金毘羅街道。三井正八幡宮(地図では、三井八幡宮)前の、2つの青丸が、残っている「参道」の両端を示しています。ちょうど金毘羅街道が折れ曲がる辺り、ツー・トン・トンの線が善通寺市との堺です。右下にチラッと見えるのが国道11号線です。11号線のすぐ南に、高松自動車道が通っています。

神社にも寄って行きましょう。随身門が見えていますが、その中を覗いてびっくり…。

古そうな狛犬が納められていました。

写真のサイズ間違えました…。

境内です。

神社の横(西)を通る金毘羅街道を南下。

途切れた参道のすぐ南、善通寺に入った辺り。昔の旅人が見た風景に近いかも…。
- 2013/09/16(月) 16:38:48|
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空海さんのお母さん、玉依御前(たまよりごぜん)の屋敷跡といわれる仏母院です。三角(みすみ)寺ともいわれます。訪ねたとき、どなたもいらっしゃらず、「御用の方は、隣の保育園へ」と書かれていたので、そちらへ向かいインターホンを鳴らすと、すぐに出てきてくださいました。やはり、お寺の方はお留守のようで、園の方が分かる範囲で教えてくださいました。
まず、本堂の中に、空海さんが子どものころに作られたという伝承の、泥仏があることを教えてくださいました。本堂は、先に拝んでいたので、見るだけにしました。

向かいの「御住(みすみ)屋敷」です。こちらが玉依御前(たまよりごぜん)の屋敷跡とされ、ここで空海さんを身籠られたそうです。

「三教指帰(さんごうしいき)」は日本史の教科書にも出てくる有名な本ですが、そこに、出生地について述べたくだりがあるそうです。

空海さんの生誕地は諸説ありますが、弘田川の河口といえば、なるほどここかも。

空海さんのへその緒を納めた「胞衣(えな)塚」があるそうです。→の通り進むと…

安産祈願をされる方が来られるようです。

ここからの景色。

写真で、向こうから来ました。私の左手に「御住屋敷」、右手にお寺があります。で、目の前に見えているのが、空海さんの産湯の井戸です(善通寺や海岸寺にもあります)。



のどかな田園が広がっています。

左が「御住屋敷」、右がお寺です。
- 2013/09/13(金) 17:22:52|
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9月8日(日)、高松市香川町で「ひょうげ祭り」が行われました。高松市指定・無形民俗文化財、香川県指定・有形民俗文化財になっています。以下、いただいたプリントや、香川県のいろいろなHPを参考に説明します。

行列は、香川町浅野の研修センターから出発して、新池までの約1.5kmを鉦・太鼓を叩きながら練り歩きます。

供侍の衣装は飼料袋などで、その他の神具もすべて農作物や家庭用品などでつくっています。

祭りは、高松藩の下級武士だった矢延平六(やのべへいろく)さんの功績をたたえるものです。平六さんは、香川県内のたくさんの水利事業を手掛けた方です。香東川の水を引いた新池は、貯水量120万トンの大きなもので、水不足に困っていた農民から感謝されました。
しかし、この新池完成後、阿波国へ追放されてしまいました。理由は、勝手に予定以上の大きな池を作ったから(浪費)とか、高松城を水攻めにしようとしたとか、いわれています。もしかすると、腹黒い同僚のワナ???
農民たちは、平六さんの徳をしのび、水の恵みに感謝するために、この祭りを始めました。

疾走してます。


平六さんは、のち、高松藩に戻ることができ、晩年は富熊村(丸亀市綾歌町富熊)に住み、貞享2年(1685年)に76歳でなくなりました。





最後は、新池に入ります。
ここに紹介しきれていませんが、子どもたちもたくさん参加し、行列ももっと多彩です。
- 2013/09/10(火) 22:23:25|
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青ノ山(土器山)の中腹に、泉聖天教本部があります。昭和26(1951)年ごろ、徳島県から移ってきた新しい宗教団体のようです。お寺?自体は丸亀市観光協会・婆娑羅マップにも出ていますが、どういう団体なのかは全く知りません。私は無色無味無臭無宗教なので、関心がありません。
こちらにある薬師堂がいわれがあるのです(以下、『丸亀の歴史散歩』1983年発行によります)。

江戸初期のもので、桃山時代の様式を残しています。もとは、県道33号線沿いの富屋町付近にあり、(お城の堀端なので)堀端薬師院といったそうです。

額に「薬師如来」と書かれてあります。残念ながら、内部は見ていませんが、これまた、貴重です。とりわけ、丸亀市民にとっては…。

内部に、棟札(修理のいきさつなどを書いたもの)が残されていて、玄要寺(京極氏ゆかりの寺)四代住職・義海周恵さんが1668(寛文8)年に書いたものです。それに、薬師如来のことが書かれてあるのですが、この如来様は亀の背に乗っているのです。

棟札によると、大昔、この如来様が亀に乗って来たので、安置した山(いま丸亀城のある山)を「亀山」と呼び、県を「円亀」といったというのです。歴史上、「県(あがた)」というと、律令制以前のものしか思いつきません。まあ、深く考えず、この辺りを昔むかーし、亀に乗った如来様から「円亀」と呼んだらしい(と、くどいようですが、玄要寺の住職さんは記す)。その後、中世になって(!)、あちこちに移転し、棟札が書かれる20年ほど前、堀端に安置されたそうです。それで、寄付を募って、立派な建物にし、仏像も修復したそうです。
『丸亀の…』の著者、直井武久氏も述べている通り、奉行も2名参加して、玄要寺の住職さんが供養していることから、藩主の信仰が厚かったようです。

正面に亀山(丸亀城)を見る。
『丸亀の…』の著者によると、太平洋戦争前後、青ノ山のこの辺りは食糧増産のためのイモ畑だったそうです。たぶん、学校の生徒たちも畑仕事をさせられたはずです。
また、この筆者は、執筆当時のこととして、「一帯に新興住宅」が立ち並ぶと書いていますが、この本の発行よりもずっとずっと前、私が小学生か中学生のころ、この付近にあった同級生の別荘で、卓球をした思い出があります。家に卓球台があるだけでもすごいのに、別荘とは…「上流階級だー」とうらやましく思ったものです。
- 2013/09/07(土) 17:05:07|
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丸亀市飯野町、青ノ山の南です。県道194号線が国道11号線にぶつかった所から少し北上すると、道はカーブしながらすぐ、県道193号線と交差します。それも越えて、道なりに進むとすぐ、この三差路に出ます。右の道が県道194号線からまっすぐにつながっている主たる道です。昔の金毘羅街道の一つ、宇多津街道です。左の狭い道は、地元では青山(あおやま)神社と呼ばれる神社へと続きます(地図には池ノ宮大明神と正式名称?で載っています)。

左は「吉岡(ここの地名)常夜灯」とあります。そして、「宮本立本」と書かれています。つまり、この宇多津街道の常夜灯を宮本立本さんが立てたというわけです。
右は「貞婦 吉村チヨ女跡」と書かれています。

まず、「吉岡常夜灯」ですが、これを作った宮本さんは丸亀藩士で、なぜか、高松藩領(土器川から東)にあった野田貞蔵さんという方の寺子屋を手伝い、見込まれて後継者になったそうです。 そののち、吉岡小学校に勤めたそうです。

「貞婦 吉村チヨ女跡」ですが、「昭和十二年三月」と書かれてあります。つまり、1937年です。
吉村チヨさんは、大正14(1925)年の「大正天皇・同皇后陛下御結婚二十五年」の際、全国から309人が表彰された「徳行者」の一人でした。明治2(1869)年生まれで、農家に嫁ぎましたが、夫が病気になり、また、そのせいで乱暴になりました。近所の人は離婚を勧めましたが、一人で働いて夫の薬代を稼ぎ、子どもを育てました。夫は大正6(1917)年に亡くなり、チヨさんは昭和11(1936)年に亡くなりました。

「建設者 吉岡東国防婦人会」とあります。戦前の国民生活の一端を記録する史跡です。
- 2013/09/04(水) 18:16:53|
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地図は、左が北です。県道6号線が、左「(三豊市)山本町」から右「徳島県・池田町」へ向かって(北から南へ)うねうねと走っています。今回は、この道沿いの「逆瀬池」、「薬師鼻展望台」、「六地蔵」を見ます。ちょうど、六地蔵あたりが峠で、その向こうが徳島県です。徳島県側へ少し行った所で上(東)へ行く道があり、国道32号線に出ます。国道32号線は、香川県から猪鼻峠を通って南の徳島県へと向かっています。
ちなみに、この地図の太い道は、実際には狭い山道です。この遍路道を示す看板です。

逆瀬池。毎年5月に、川上の龍王渕から竜神がやってきたそうです。池のユル抜きは竜神が帰ってからしていました。ある年、まだ竜神が水遊びをしているのに、村人が誤ってユル抜きをしてしまったそうです。怒った竜神は、水を全部上流に逆流させてしまったそうです。その後、毎年、龍王渕で「水もらいのお祭り」をするようになったそうな。

薬師鼻展望台からの景色です。


こんな山深いところまで登って来ました。

峠付近に、六地蔵があります。写真は、来た道を振り返っています。

目の前に、「六地蔵峠」と書いた標識が立てられています。昔の道だと思います。おそらく、県道が通る前はその上が峠だったのでしょう。上には古い尾根伝いの道が残っているようです。

向こうは徳島県です。

六地蔵さんです。一枚の石板に六地蔵を彫った珍しいものです。もとは昔の峠の上にあったようです。
県境は、クルマがすれ違えない狭い道が延々続く所もあるので、気をつけましょう。ナビはけっこう無表情で、泣きそうな道に連れ込みますので(体験談

)、事前に遠回りでも広い道を調べておきましょう。
- 2013/09/01(日) 17:21:46|
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