どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

園芸総合センター(高松市)

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 サルスベリってどんな木なのかと思い、見てきました。正門近く、向こうは道路(高松空港線)です。

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 病気になりにくく、手ごろな大きさなので、公園なんかにもよく植えられているそうです。

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 木がツルツルなので、こんな名前がついたそうです。受験生には不吉かも。

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 満足。一つ賢くなったところで、せっかくなので他にも開花しているのを見てきました。

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 ハイビスカスがきれいでした。

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 なぜか、これぞ南国っていうイメージ。

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 ガーベラロックウールというそうです。まるで、ハクセコやー。

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 南アフリカ共和国産のを交配したそうです。

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 キク科のアスターです。中国が原産だそうです。

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 オキシペタルムといい、南米のブラジル、ウルグアイが原産だそうです。花言葉は「信じあう心」だそうです。


P.S.
 「ハクセコ」って方言なんですね。フと気になって調べたら、辞書になくてびっくり。落雁とか白雪糕(はくせつこう)っていうんですね。しかも、その方言すら、ネット上にもほとんどないとは・・・。高松では「はくせと」というそうですね。ハクセコは丸亀だけ???





  1. 2014/07/29(火) 17:37:47|
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立石隧道(高松市・三木町)

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 トンネルつながりで紹介します。香川県道38号線で高松市と三木町との間に新立石トンネルがあります。こちらはその東側を通る旧道のトンネルです。見て分かる通り、クルマはギリギリです。長さは100m以上で、ちょっと緊張します。というか、旧道そのものがクルマがすれ違えないドキドキの道です。もう二度と行きません。

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 ここに紹介する理由ですが、このトンネル、手掘りなんです。後からコンクリートで覆ったのは写真こちら側付近だけで、あとはずーっと手掘りのまま。いつ掘られたのかは分かりませんが、明治以前と言われています。手掘り部分をちゃんと写さんかっ!と叱られそうですが、実は、手掘り部分に入ってもう一度だけ停車して写真を撮ったのですが、ガラスで反射して写っていませんでした…。そうとも知らず、対向車が来たら嫌だったので焦って出てしまったのです。
 1990年にいまの県道38号線が通って、ここにあったお地蔵さんや牛の墓なんかもそちらへ移されたそうです(参考、馬の墓)。後で知ったのですが、そっち系のマニアの間では心霊スポットにされちゃっているようです…。どちらかというと、道の狭さの方が恐いので行かない方がいいです。
 恐いもの見たさっていうのは人類共通でしょうが、非科学的なことを本気で信じる度合いは、われわれ鉄腕アトム世代(科学にバラ色の夢を感じた世代)より、今の若い人の方が圧倒的に多いようです。大学生の時、岡山県牛窓の本蓮寺で数人で泊ったことがありますが、真夜中に一人で海水浴に出かけた友人がいます。海岸は幽霊が出るとのうわさがあり、街灯が一つもありませんでした。そのとき、幽霊話は話題にものぼらず、深夜に暗闇で泳ぐという変質者ぶりに呆れたものです。

博物館情報
1.香川県立ミュージアム『歴史の中のコドモたち』
 カバヤ文庫・戦後すぐの子ども新聞が印象に残っています。カバヤ文庫は、カバヤのキャラメルの当たり券を集めたら、本がもらえたというもの。本の内容は児童名作文学。本が今よりありがたいものだった。子ども新聞はいまもいろんな新聞社が発行していますが、戦後すぐのものは民主主義を啓蒙するという特別な意味がありました。でも、そのなかで片隅の広告欄に、『少国民の友』という(戦意高揚風の名前がついた)雑誌があったのがちょっと印象に残りました。
2.丸亀市立資料館『サムライの魂 日本刀の世界展』
 やはり有名な、ニッカリ青江脇差に興味がありました。豊臣秀吉から秀頼、そして京極家へと伝えられたものです。最初に刀を手にした武士が、ニッカリ笑う女の幽霊を切ったところ、朝になってみると、石の灯篭を真っ二つに切っていたという伝説をもちます。
 参考、御番鍛冶
 ついでに、黒田官兵衛関連…備中高松城水攻め冠山城跡と加藤清正陣地跡


 
  1. 2014/07/26(土) 10:06:02|
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岩屋架道橋(宇多津町)

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 岩屋架道橋は国の登録有形文化財です。鉄道が道路と用水路とを跨(また)ぐための跨道橋(こどうきょう)です。場所は、宇多津中学校の少し北です。

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 香川県で最初の鉄道、讃岐鉄道が丸亀から高松へと西に伸びた1897(明治30)年につくられました。

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 全部、石積みという所がかっこいいです。

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 どうして、「アーチ天端には、楔形の要石をはめ込んでいます」という、「この自動車には円形のハンドルがついております」的な説明をしようと思ったのかは謎。

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 この石感?がたまりません。

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 反対側から。

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 内部。


鉄道の歴史

1870 工部省(初代工部卿・伊藤博文)…鉱工業・交通・軍需産業
1872 新橋―横浜、神戸―大阪(‘74)―京都(‘77)
1881 日本鉄道会社(華族の設立)→会社設立ブーム(商人・地主ら)
1889 (官営)東海道線(東京―神戸)、民営>官営(営業キロ数)
1891 上野-青森(日本鉄道会社)
     日清戦争後 青森―下関が連絡
1906 鉄道国有法



  1. 2014/07/23(水) 18:02:28|
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琴弾公園のいろいろ(観音寺市)

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 琴弾八幡宮です。
 源平屋島合戦の時、源義経さんは伊予の田口佐衛門教能さん(平家方)を調略すべく、伊勢三郎義盛さんを使者に立てました。両者が出会ったのがこの琴弾山であったと、案内板に書かれてありました。
 観音寺市観光協会HPによると、石の大鳥居(右)は、丸亀藩主だった山崎治頼さんが寄進したもののようです。また、石段を上がって行くと途中にある木の鳥居は源氏の側近が寄進したという言い伝えがあるそうです。

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 鳥居の近くにある「早苗塚」。地元の俳人・小西帯河さんが芭蕉さんの書いた「早苗とる 手もとやむかし しのぶ摺」という短冊を持っていたようです。それで、小林一茶さんの師匠・二六庵竹阿さんがやって来た時、いっしょに句碑をつくったのだそうです。この句碑は壊れ、のち(1839年)半月庵五蕉さんによってなおされたそうです。

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 ここ琴弾八幡宮には、こんな案内板もあります。読本(よみほん)作家・滝沢馬琴さんの『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』の舞台にもなっているそうです。『椿説弓張月』は保元の乱(1156年)で敗れた源為朝さんが伊豆大島で死なず、最後は琉球王国の基礎を築くという荒唐無稽、愉快・痛快・奇奇怪怪な話。為朝さん逮捕の原因をつくった裏切り者を、為朝さんの妻がここ琴弾宮で討ったことになっています。その殺し方は恐ろしすぎて、R指定です。
 保元の乱は崇徳上皇が讃岐に流されることになった戦争で、源為朝さんと父・為義さんとは上皇方でした(兄・義朝さんが後白河天皇方)。為朝さんは弓の名手として、トンデモ伝説がいっぱいあるので、ぜひ、調べてみてください。一発の矢で、船に穴をあけて沈めたとか、もう、めちゃくちゃで、これこそ「神っ!」て感じです。

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 琴弾公園近く、道の駅・観音寺の横あたり。石造物がいくつか展示されています。昔ここにあった観音寺町公会堂で、1924 年に香川県水平社が結成されました。

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 弘法大師ゆかりの井戸があります。井戸はフタされていますが、水道から汲むことができます。煮沸してくださいと注意書きしてあります。

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 琴弾公園といえば、琴弾山から見る「寛永通宝」の銭形。東西122m、南北90m。

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 「金に不自由しなくなる」かどうかはともかく、四国新聞社のHP「21世紀へ残したい香川」では、お金の寛永通宝がつくられたのは寛永十三(1636)年からとして、1855年ごろ、京極朗徹(あきゆき)公が来訪した際に普請奉行が「藩主の一興に供せんがため掘らせた」という説も紹介しています。ちょっと分からないのは、もとは豊臣家の象徴の「ひょうたん」が描かれていたが、寛永十年に幕府の巡検使が訪れることになり、慌てていまの銭形に作り替えたという説を最後に紹介しているところ。えっ!?そのときには寛永通宝は作られていないのでは・・・?

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 ともあれ、歴史あるものがボランティアの手で整備され、維持されているのがすばらしい。とてもいい眺めです。

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 琴弾公園に至る橋、三架橋です。昭和10(1935)年につくられました。江戸時代の木造の橋も3つのアーチをもっていたそうです。

 小林一茶と専念寺  観音寺郷土資料館など

PS 前回紹介した興昌寺には、京極丸亀藩・観音寺町奉行とその一族の墓があります。



  1. 2014/07/20(日) 11:44:32|
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一夜庵(観音寺市)

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 観音寺市の興昌寺です。

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 俳諧連歌を確立した山崎宗鑑さんが晩年を過ごし、この地で没しました。興昌寺の梅谷和尚さんを頼ってやってきたそうです。

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 仏足石です。1786(天明6)年と彫られています。

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 仏像がつくられる以前に、お釈迦様の足の裏を石に刻んで信仰したそうです(仏像は、アレクサンダー大王の遠征後できたギリシャ人の国バクトリアの影響で作られ始めたようです→ガンダーラ美術)。仏足石はその後、唐から奈良時代の日本に伝わったそうです。

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 ミニ霊場88ヶ所めぐりがあります。

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 「貸し夜着の袖をや霜にはし姫御」は、こちらに伝わる宗鑑さんが書いた短冊の文字を石に刻んだもの。

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 宗鑑さんが住んだ「一夜庵」です。市のHPによると、1528(享禄元)年に建てられ、その後何度か修復はされつつも原形をとどめているそうです。 「一夜庵」の名は、宗鑑の句 「上は立ち 中は日ぐらし 下は夜まで 一夜泊まりは下々の下の客」に由来するそうです。一夜以上の滞在を許さなかったようです。庵の額にも「上の客立帰り、中の客日帰り、下々の客泊がけ」と書いてあったそうです。面倒な客をびびらせるためだったのかも知れません。
 一度は荒れ果てた庵は江戸時代の俳人たちによって修復されました。西山宗因さん直筆による「宗鑑法師勧進帳」が残っているそうです(勧進帳とは寄付集めの趣意書)。

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 宗鑑法師の塔?
 説明板には、一夜庵の屋根は琵琶湖の葦で葺かれています。山崎宗鑑さんの生誕地、滋賀県草津市(姉妹都市)の市民の募金により寄贈されました、とあります。

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 庵の前にも説明のない古そうな石塔が…。

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オマケ

★連歌
 南北朝期:二条良基『莵玖波集』(準勅撰)『応安新式』(連歌規則書)
 東山文化:宗祇(正風連歌)『新撰莵玖波集』→宗鑑(俳諧連歌)『犬筑波集』
★俳諧 
 寛永期 :松永貞徳(貞門俳諧)  <参考>貞徳は松永久秀の孫? 子は藤原惺窩の門人・松永尺五
 元禄文化:西山宗因(談林派…井原西鶴ら)→松尾芭蕉(蕉風俳諧)『奥の細道』『笈の小文』『猿蓑』
 化政文化:蕪村『蕪村七分集』(天明・京都)、一茶『おらが春』(化政・信濃)
   <化政期参考>川柳:柄井川柳『誹風柳多留』  
             狂歌:大田南畝(蜀山人)・石川雅望(宿屋飯盛)
             和歌:香川景樹(桂園派)、良寛(生活歌・越後)







  1. 2014/07/17(木) 09:12:25|
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ひまわり(まんのう町)

 今年も、まんのう町帆山(ほのやま)のひまわりを見てきました。

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  1. 2014/07/14(月) 07:39:06|
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大師の水(さぬき市)

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 大師の水(たいしのみず)は、県道3号線をずーーーーっと南に向かい、もう少しで国道377号線に出るかという辺りにあります。四国八十八か所の結願の寺、大窪寺の近くで、昔からお遍路さんが喉を潤してきた湧水だそうです。現在は、立派に舗装された道沿いにあってコンクリートで固められているため、知らなければそんなものがあるとは思えない感じです。

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 県のHP「香川の環境」によれば、祀られている石仏は「水仏さん」と呼ばれて、昔から地元の方々に親しまれてきたそうです。各地の湧水については、自己責任でお飲みください。昔、岡山に住んでいたころ、有名な湧水の水をよくいただき、それでコーヒーを入れたりしていました。岡山市では、湧水の水質検査を頻繁に行って公開していました(雄町の冷泉)。

 大窪寺の紅葉 大窪寺の柴灯大護摩供養

 お遍路さんといえば、この前、県立文書館の展示でおもしろいものを見ました。お遍路さんを泊めるときは、「往来手形」(出身地の名主か旦那寺で発行)と「船上がり切手」(上陸したときにもらう、たぶん、手数料がいると思います)を確認しなければならず、持っていないものを泊めてはいけない。病気やけがなどで歩けなくなった者がいたら、藩に願い出て、「村送り」といって、村から村へと引き継いで、送り返してあげたそうです。文書館の方にお伺いすると、幕府からそういう指示が出ていたようです。費用は後で藩から出してもらえたようです。意外なやさしさに感動。しかし、こんな史料も。ある役所で書類の不備が発覚し、病人を最初に搬送した地点まで送り返すようにとの指示。村人は、無用の労力がかかるので、何とかしてほしいと申し出たという史料。その件がどうなったのかは不明。型にはまった「お役所仕事」も強烈だったようです。その他の史料も大変おもしろく、解説も簡潔で分かりやすかったです。

 香川県立文書館「古文書で読み解く境界の風景」は9月7日まで



  1. 2014/07/11(金) 17:26:09|
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伊舎那院(いしゃないん、三豊市)

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 三豊市によれば、伊舎那院は1587(天正6)年に長宗我部元親に焼かれ、慶長年間(1596~1615年)に再建されたそうです。値打ちものの建物じゃないですか。なんで、あまり知られていないのでしょう???

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 山門の金剛力士像は高さ約2m。

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 金毘羅宮から贈られたもので、なんと、鎌倉時代だそうです!!!

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 奥の本堂は新しいものです。

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 塔も古そうです。

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 天井の絵もきっと価値があると思います。特に説明もなく、さりげないのが不思議。

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 こちらも、鎌倉時代後期の石造宝塔。

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 橘城主・大平国秀さんの供養塔とあります。大平氏は歴史の古い武士ですが、国秀さんは香川氏と運命を供にした戦国大名のようです。すると、「鎌倉時代」と矛盾してますよ…???戦国好きの方には残念かもしれませんが、鎌倉時代のものの方がもちろん貴重です。さらっと書かれたこの謎や如何に?
 「伽藍(がらん)」は寺院の建物群のことで、「七堂伽藍」は一通りそろってますという意味です。そういえば、高校日本史の入試問題で出題される、奈良時代までの伽藍配置の変遷って有名ですが、どうも疑問な点があります。要は、仏舎利(お釈迦様の骨)をおさめた塔を中心とした、最初の飛鳥寺式から、仏像を納めた金堂が中心になって、塔がどんどん外へ出されるっていう6パターンです。最後は、東大寺式(塔が中門の外)→大安寺式(塔が南大門の外)となります。で、何が気に食わないのかっていうと、大安寺より東大寺の方が後に作られたってことです。どうして、順序を逆にしていいんでしょうか???
 時々、こういう謎が普通にあったりします。



  1. 2014/07/08(火) 21:44:39|
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玉藻公園(高松城)の艮櫓(うしとらやぐら)

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 艮櫓(うしとらやぐら)はもとの高松城東ノ丸(アルファあなぶきホール=県民ホール付近)にあったものです。移転・修理の際、建物の向きを右回りに90度回転させています。というのも、北東角にあったものを、南東角へもってきたので、濠に面した2面の造りが合わないからです(本の右上角を見ながら、右に90度回せば分かります)。
 (注:普段は公開していませんので、公開日をチェックしましょう。)

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 上から下りていきます。北を見ています。

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 南、濠の向こうに琴電の線路。

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 2階。

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 西。

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 もともとは太鼓櫓(たいこやぐら)があった場所のようです。

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 高松城は豊臣秀吉さんの時代に、生駒親正さんが1587年に入府して造りました。生駒氏は4代で移封となり、出羽(秋田県)で1万石の領主として明治維新まで存続しました。1632年に松平賴重さんが東讃の領主として高松城に入り、以後、松平氏の城として大改修が行われました。艮櫓(うしとらやぐら)は1677年に完成したそうです。

参照→天守台月見櫓披雲閣アルファあなぶきホールの東ノ丸遺構



  1. 2014/07/05(土) 09:19:46|
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国分寺北部小学校校門(高松市)

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 1894(明治27)年に創立された端岡尋常小学校の正門で、赤門と呼ばれています。

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 高さ3.4m、間口2mで、赤レンガ造り。下半分は補修されているが、上半分は当時のままだそうです。

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 現在は、ここから出入りできません。昔の建造物は非常に凝っていたのに、戦後の建物はどうして味気なくなったんでしょうか。近年やっと、学校などにも機能美を備えた、形を意識したものも現れているようです。私が小学~中学のころ、どんどん木造校舎が鉄筋コンクリートに建て替えられていきました。そのころは、思い出が失われていく寂しさはあるものの、新しい校舎にワクワクしたものです。しかし、高校生ぐらいから、建物の味気なさにうんざりし始めました…。父親が大工の棟梁だったことも影響していると思います。

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 門の中央には「忠孝」と書かれた扁額が掲げてあったそうです。

 ところで、忠孝とは戦前の国家理念の一つで、制度や心情として社会的に形成された(しようとする)忠誠心を、自然な感情である親孝行したいという気持ちに擬したもの。前者が後者から借りるのは単に、それが「自然なものである」という部分だけである。つまり、ヒトが作り出す社会的価値観を、ヒトがヒトである以上動かし難い自然に備わった盤石の土台と見なすのだ。しかし、言うまでもなく、社会的価値観というものは、最近問題になった女性蔑視のように、絶えず見直されるべきものである。この点は後で論じるとして、忠誠心(社会的なもの)と親孝行の気持ち(自然なもの)との擬制だが、これがご都合主義だということは明白だ。自然な感情から「孝行」だけを切り離してはいけない。動物界にあってはヒトも含めて、ほとんど親は子のために存在しているようなものであって、自分の身を犠牲にしても子を守るものだ。ヒトは親孝行する珍しい動物だが、それでも、親の子への愛情が勝る点では他の動物と違わない。ときには命も含めた犠牲は、親が子に払うのが自然界だ。普通、逆はない。こういう肝心な部分は無視して、自然な感情を逆転させるのが、忠孝という擬制だ。それは親子関係の方を強い戸主権で規定するところまでいく。これほど見やすいインチキでも、繰り返し刷り込めば「真実」に変わるのが、思い込みや社会に浸透した価値観・心情というもののやっかいな点だ。
 日本の近代国家は下級武士がリードし、彼らの道徳観である忠誠心(武士道)をもとに法や制度がつくられ、前近代的要素が強いものとなった。本来の近代国家は、話し合いによって約束事としての法・制度をつくり、より根幹の法体系を憲法として定める。国家とは国民自身が決めた国家の在り様であって、国民の約束としての憲法のこと。近代的な国民にとって順法精神は非常に重要なものであって、憲法をないがしろにする心情は前近代的だ。また、近代的民主主義と忠孝道徳との違いは、国を愛する気持ちや、文化・伝統を重んじる気持ちとは全く関わりがない。少なくとも、社会を大切に思う気持ちは本来、近代民主主義の方が強い。なぜなら、所属する社会の在り方を議論して合意を形成する責任があるからだ。もし、今の日本人が社会意識に欠け、自己中心な人が多いとすれば、それは民主主義のせいではなく、未だに民主主義が根付いていないせいだといえる。逆に、忠誠心に身を任せるのは無責任であるばかりか、それを根幹にした国家(国が言うことが正義で、従わなければ非国民)の内部では、そこに合わせることで明らかに自分が優位に立て、危険を回避できる。これでは、むしろ単なる自己愛にすぎず、不道徳極まりない。実際、それが目先の利益(危険回避)にすぎず、破局に向かうのは目に見えているし、歴史的事実でもある。それが嫌なら、現実の歴史から学んで、よりよい価値観を形成する他ないのだから、思考停止を命じるような価値観とはまず、縁を切るのは理の当然だろう。
 誤解を避けるために付言すると、私は坂本竜馬をはじめ幕末の志士の大ファンである。他国による侵略を排除し、曲がりなりにも(カッコ付き)近代国家を驚くべき速さで形成した。しかし、ものごとを一面的に見てはいけない。武士道というものにも、もちろん高潔な精神がある。だが、そこで思考を止めてはいけない。武士ではない多くの人々の力が大きく歴史を動かしたのであって、武士道精神がそれをなしたわけではない。むしろ、明治政府が民権運動を弾圧しつつ、忠孝を制度化し(拡大・浸透させ)ていったのだ。武士道はやはり、近世同様の忠誠心に基づく体制作りの面でこそ実質的役割を果たしたのではないか。武士道を単純にカッコイイと思う外国人は残念に思う。森鴎外の「阿部一族」や「堺事件」、遠藤周作の「反逆」なども読んでみて欲しい。作者の意図はともかく、理想化された武士道とは程遠い利害、欲望、保身などが現実を動かしていることに目を覆いたくなる…。


  1. 2014/07/02(水) 07:38:48|
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犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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