どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

滝宮の念仏踊(綾川町)

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 滝宮の念仏踊りは、国の重要民俗文化財に指定されています。
 その起源は888(仁和4)年にさかのぼります。菅原道真さんが国司として讃岐にやって来たとき、3月から5月にかけて雨が降らず、百姓たちは困っていました。そこで、道真さんは城山(きやま)神社(坂出市)に7昼夜こもって祈りました。そして、満願の日に大雨が降り始め3昼夜続きました。それで、人々が滝宮神社(牛頭天皇社)に集まって感謝の踊りをしたのが、その始まりとされています。その後(1207年)、鎌倉時代に讃岐に配流された法然上人が振付を新しくし、念仏を唱えながら踊るよう教えたそうです。それが今日まで伝えられているそうです。
 写真は、踊りの前の「入庭(いりは)」といわれる入場の様子。最初に、神主さんのお祓いがあって、法螺貝・鉦を持った人々や、毛槍、薙刀によるお祓いなどもあります。

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 歌は「ナムアミドーヤ」を唱えます。踊りをしてくださる踊組がたくさんあります。この日は猛烈な暑さで、何度か立ち眩みがしたので、途中で退散しました…。踊組のみなさんは暑かったことと思います。特に、中央で舞う下知の方はからだが鍛えられた人でないとむりだなあと思いました。独特のスタイルがあって、見ごたえがありました。
 


 余談。教科書的には、「念仏踊り」という言葉は、室町時代の「盆踊り」のルーツとして出てくるぐらいです。華やかな飾りものを付けて踊る「風流」と、この「念仏踊り」が結びついて「盆踊り」になった、とあります。で、その「念仏踊り」の説明はありません。辞書などを見ると、一説によると平安時代の空也上人が始めたそうです。「念仏踊り」によく似た言葉として、鎌倉時代の一遍上人が行った「踊(おどり)念仏」が重要語句として出てきます。ややこしすぎる。というか、違いや関連性がよく分からない……。

  1. 2014/08/31(日) 10:23:27|
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丸亀うちわ

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 丸亀駅に展示されていた団扇(展示期間は終了しました)。丸亀市は全国のうちわ生産シェア90%といわれています。

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 私が子どものころは、近所中の人が内職でやっていました。それぞれが専門にする工程があり、分業体制です。母親は、竹でできた骨組みを団扇の形に広げ、糸で留めていましたが、指の動きが見えないぐらい早かったです。

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 「うちわの港ミュージアム」というのがあって、貴重なうちわが展示されていたり、職人技を見ることができたり、体験もできます(詳しくはHPをご覧ください)。写真は、平成9年に経済産業大臣指定の伝統工芸品に選ばれる際の一つの根拠になった江戸時代の団扇です。

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 全国の伝統的なうちわも紹介されています。

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 戦意高揚な絵柄のうちわ。

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 その他、いっぱい展示されています。

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 ミュージアムHPでは、丸亀でのうちわ生産の3つの起源というのが紹介されていて、①生駒氏時代に金毘羅さんの別当が土産物として生産することを藩に勧めた。②丸亀藩主が京極高朗さんのとき、藩士・瀬山登さんの発案で、殖産興業として根付かせました。③明治になって、塩屋平柄うちわが工場生産され始めた。というものです。
 写真は、太助灯籠のある一角ですが、瀬山登さんの像があります。

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 瀬山登さんについて→太助灯籠
 京極高朗さんについて→田宮坊太郎の墓
 新堀湛甫について→聖跡記念館など

見えないワタシ

 いま、丸亀駅の観光案内所などで丸亀市出身の作家・山下貴光さんの小説が無料配布されています。実は知らなかったのですが、山下さんは第7回『このミステリーがすごい!』大賞受賞など、有名な方のようです。薄い本なので一瞬で読めます。最近の小説家というと、勝手な印象ですがストーリー優先で文体に特色がなかったり、文章に惹かれない人が多いんですが、山下さんはいい文章を書かれるなあと思いました。どちらかというと若い人向けですが、内容もいいと思いました。



  1. 2014/08/28(木) 08:29:29|
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読書メモ 『フロイトとベルクソン』(渡辺哲夫著、岩波書店)

 まず、ベルクソンによる知性の位置づけを振り返っておきたい。知性のスタンスは同一律、空間的配置(分割)であり、こうした知性がそのスタンスそのままに形而上学の領域にズカズカと侵入するとどうなるか。AでもなければBでもない、もしくは、AでもありBでもあるといった解答に必ず至りつく。これがヘーゲルの弁証法であり、カントのals obである。一見、ベルクソンは曖昧な発言に終始しているように見られがちだが、それはベルクソンの認識論(知性の厳格な位置づけ)を軽視もしくは、そもそも読み飛ばしているからに他ならない。ベルクソンの正しい読み方を心得さえすれば、それが如何に曖昧さを排除する論理であるかが分かる。例えば、物質と精神とは厳しく峻別されるが、それはもちろん、デカルト的、幾何学的分割ではない。経験から読みとられるその意味方向、傾向性が厳しく交差するのだ。方向は完全に異なる。AでもBでもない、などという曖昧さは許されない。しかし、方向性の違いであるがゆえに、y=1/xのグラフのようにy軸方向を「逆に」たどればx軸方向へと行きつける(図形は方向性を語るための隠喩にすぎないが、ベルクソンの説明を無視して悪意をもって見れば、A・Bを図形そのものの自己同一性のなかに曖昧に解消する見解ととられかねない)。形而上学的方向性を探求する途上で、際限なく立ちはだかるのが、我々のうちなる知性の物質的論理学に基づく、あれやこれやの見解、教条である。ベルクソンはそのたびに経験と科学的成果とを対話させ、事実に語らせることで、知性の予断を打破していく。形而上学的な傾向としての意味はこういうやり方で経験のただなかに浮き上る。
 渡辺氏はベルクソン理解において最もやってはいけないことをしている。『物質と記憶』の有名な円錐体を文脈から切り離して取り出し、まさしく、AでもありBでもあるという解釈を施すのだ(ここで、氏のいうAもBもベルクソンの主張とは無関係)。そして、この著書は始めから終わりまで金太郎飴のようにこの自己流解釈を手を変え品を変えて示すだけなのだ。氏は、まるで新発見でもしたかのように、生命の流動を示すはずのこの図形が物質性へと至りつくことが避けられないかのようだ、という趣旨のことを語る。しかし、ベルクソン自身が自らの認識論的立場から、自身が言葉を語らざるを得ないこと、言語は自ずと運動を不動性に置き換える知性の道具であること、そのことをくどいほど述べ、注意を促している。いわんや図形をやである。ベルクソンの言葉や図形は(彼の認識論によって厳密に定義づけられる特別な意味での、つまり、量的・固定的・同質的ではない質的・流動的・相互浸透的なある事実を指し示す)「隠喩」として見なければならない。そして、この図形の隠喩的意味合いは、ベルクソンが注意深く語る限定的な意味(方向)でのみ有効だ。勝手な解釈が可能だから許されるというものではない。脈絡を離れては意味を失う。また、一般に、ベルクソンを読むときに注意しなければならないのは、言葉の罠に陥らぬように細心の注意を払うことだ。ベルクソン自身、不可避的に「言葉の綾」を語らねばならない以上、よくよく本質的なことと「言葉の綾」とを区別しなければならない。例えば、収縮と弛緩である。本質的には、収縮は生命と意識の方向を意味し、弛緩は物質的方向(極限は瞬間にまで近づく)である。人間が眠りの際や、死に瀕するとき、記憶を制御する現在の関心が失われ、記憶の自動的亢進が生じる。しかし、生命の中でも高度な進化を遂げた人間の脳に関わる反応である。いくら、注意の弛緩といっても、そもそも物質的(逆)方向ではない。生命というだけで、すでに収縮の方向なのだ。(強力な収縮を可能にする)高度な脳をもつ人間の存在を前提にした話であり、そこで起こる特別な状態を事例に、ベルクソンは純粋記憶の存在を(身体化された習慣的記憶と対比して)示したいのだ。夢や記憶の亢進が物質性を意味するなどありえない。動物が人間のような夢を見るとは考えにくい。覚醒時にすら表象的なものをほぼ欠くと思われるのだから、おそらく、蘇る様々な感覚に襲われることに近いだろう。植物は……。夢や記憶の亢進は高度に精神的な生命にしか起こらない。そして当然、人が覚醒時に出会う物質的方向性とは問題が異なる。そもそも、円錐体の議論は、身体を介して物質と関わる次元から、記憶(精神)の次元へと話が移行している。人間から単細胞生物にまで当てはまる、物質や死について話をしているのではない。目がさめている人が、動物のように何も考えずに生きていたり、過去を夢想ばかりするという思考実験で、記憶が収縮したり(se resserre)、膨張したり(se dilate)するというのは、「精神的な身構え」(『物質と記憶』第3章)としてである。何より重要なことは、人間が現在(生活の関心)から身を引いて(純粋記憶を自由に)夢想できる能力を備えていることであり、この能力が一般観念の形成とその創造的更新や自由そのものを可能にしているということである生命は発達した中枢を形成することでこの能力を得た。渡辺氏は、良識の人とは、夢想とは反対に、円錐体の先端に向かって収縮・緊張する(あるいは、それによって夢想とバランスをとる)人と捉えているが、そうではない。良識人とは、両極を自由に行き来して創造的に人生を切り開く人であり、この能力こそが両極の行動をも可能にしているのだ(両極は抽象であって、実際にはどちらかに重心を移すにすぎない)。これが、物質と関わりその「弛緩」した(カッコつきの)瞬間を「濃縮」するということ。引き絞られた弓(過去)が遠い未来を射程に入れ、物質的瞬間を創造性のなかに溶融する。物質との対比なしには濃縮も弛緩もない(感覚がすでに濃縮であるし、事物の具体的運動ですら一種の意識である)。「精神が、記憶力、すなわち、未来のための、過去と現在の総合だということ、精神は……行動によって自己を現す」(『物質と記憶』第4章)。
 渡辺氏がベルクソンをまともに理解しているとは思えない。基本的用語の意味すら理解していないことが見てとれる。例えば、円錐体の底辺を(小林秀雄を引用して)「夢」と同一視する。しかし、純粋記憶がそのまま夢なのではない。また、円錐体の先端、つまり、知覚活動や行動そのものを純粋知覚と呼ぶなど、無茶苦茶な読み方をしている。円錐体の先端には全過去の体重がかかっている。他方、純粋知覚については(「イマージュを分離すること」の項で)「持続の厚みを帯びている知覚ではなく、純粋知覚、実際にあるというよりも、理論上存在する知覚」とし、「イマージュは、知覚されなくても存在しうる」とされるとき、純粋知覚は「客観的実在」、物質の一部である。メルロ=ポンティがこうした知覚概念を受け継いでいることは間違いない(彼独自の脚色はともかくとして)。概して、渡辺氏には形而上学的視野(ベルクソン哲学)が欠落しているし、ベルクソンでは(それぞれが、それなしには得られない意味をもつ)多様な諸経験に寄り添いながら、それぞれのベクトルが大きな流れを描き出すが、渡辺氏の場合、金太郎飴式の新理論?を一方的に語るばかりである。その新理論たるや、円錐体をまさしく空間的に空疎化し、先端=緊張=覚醒=生、底辺=弛緩=無意識=死という等式をつくり、さらに、無意識、弛緩という言葉を単純に(曲芸?)物質のそれに結びつけるというもの。ベルクソンの思考の流れのすべてがバラバラに解体され、原型をとどめていないものを勝手にベルクソン哲学と呼び、ほとんど詩か何かの暗号のようなものを書き連ねている。私にはそう見える。その独自の論理の組み立て方を理解できる方がいるのが不思議でならない。いや、渡辺氏は先端・底辺を「方向性」として読んでいると反論するかもしれない。しかし、事物の持続から自由までを包括的に理解する形而上学的視野つまりは持続(具体的進行)を根底において、人間精神の一体的活動(生活への関心と過去に探りを入れることの、どちらかが薄れても一体的な活動、および、その可能性のもとで生じる夢や記憶の亢進といった現象)として見るのでなければ、言われる「方向性」はほとんど空間的図式のあれやこれを指さすにすぎない。ベルクソンの魂の不死に関する発言も、円錐体の底辺が冥界につながるというようなオカルト的教説にもっていかれてしまう。ちなみに、ベルクソンの不死に関する発言とは、生命現象が物質をはみ出し、そもそも物質が存在からの抽象にすぎない以上、死の解釈も物質的次元に解消されないというもっともな主張にとどまるもの(彼はオカルト的な意見をもつ人々に一定の理解を示すが、彼の主張内容そのものが経験をはみ出すことはない)。また、本能の中には他の生物を内的に知っていることが前提されており、巨大な生命の流れを考えるとき、個体の死はまた別の意味をもつだろう。

補足:ベルクソンの経験に寄り添う姿勢は、彼の敬愛するファーブルの姿勢と共通している。ベルクソンは1910年のファーブルの功績をたたえる動きに参加(「ファーブル昆虫記」奥本大三郎、NHK出版、100分de名著)したが、それ以前の第3の主著『創造的進化』でファーブルの行った昆虫の本能に関する研究(『昆虫記』)を引用している。ファーブルもまた実証的観点から、(進化論の先覚者に失礼だが)あえてダーウィン流のと言わせていただくが、理論ばかりが先行するその進化論に異を唱えていた。

P.S.邦訳『創造的進化』の昆虫の和名は、奥本大三郎氏の新訳『昆虫記』を参考に、訂正されるべきではないでしょうか。


  1. 2014/08/25(月) 07:55:13|
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多度津町の港

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 この石垣は明治時代に作られた防波堤だったそうです。左手が土地。防波堤は右手へ延びています。その幅を少し広げる形で埋め立て、家が立っているのです。向こう側は海で、港が残っています。

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 さっきの続き。右へずーっと延びています。排水口あたりから右は、1838(天保9)年につくられ、一文字防波堤と呼ばれていたそうです。元はもっと長かったそうです。写真右端の途切れた所から、港へ入るようになっています。たぶん、右手向こう側を埋め立てたせいで、港への入口が狭くなって防波堤を短くしたのでしょう。
 実は、多度津町立資料館へ「戦争資料展」を見に行った際、教えていただきました。資料館は気さくな方ばかりで、みなさん知識豊富です。

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 江戸時代に作られた部分は角度が緩やかって聞いてきましたが、なるほど(ナルヘソは死語なんでしょうか?)。

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 さらに沖合にも長い波止場が見えます。行ってみましょう。

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 多度津港旧外港(がいこう)東防波堤です。明治44年に作られたもので、近代化産業遺産と土木学会選奨の土木遺産に選ばれています。

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 とっとこ歩いてきました。

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 ちょっと下りてみましょうって気になれない狭さ。チャポンて落ちる夢を見そう。

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 先端。美しい。

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 振り返ると、飯野山(讃岐富士)。

  1. 2014/08/22(金) 16:57:12|
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弥勒石穴(みろくせっけつ、さぬき市)

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 さぬき市の弥勒池です。昔、この池ができたころ、水がたまらずに困っていました。せっかく、近くの津田川から導水路(掛井)をつくってみても、川の水が地面に浸み込みやすい地形で、さっぱりダメでした。

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 そこで庄屋の軒原庄蔵(のきはらしょうぞう、1828~1890)さんが村人のために設計し、山に穴をあけて川の水を最短距離で、しかも、岩盤の固いところを通すことにしました。勾配もあり、おかげで池の水はガンガン溜まりました。

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 みろく公園に石穴はあります。

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 1857年に約190mの石穴が貫通しました。

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 下へ降りて振り返るとあります。

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 国の登録有形文化財です。

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 これを手で掘るのは大変だったでしょう。

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 公園内のさぬき市歴史民俗資料館の展示です。

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 昼夜12人交代で手ノミで掘ったそうです。

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 資料館の近くにある軒原庄蔵さんの像。

  1. 2014/08/19(火) 19:01:28|
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玉泉院の西行庵(善通寺市)

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 西行さんが崇徳上皇の霊を弔うために白峰に向かったのち、善通寺に滞在したことは以前にも紹介したばかりです(吉原町の西行庵)。善通寺の末寺・玉泉院(ぎょくせんいん)にも西行庵があります。写真は総本山善通寺の南の道ですが、このお店の横を少し南へ入った所に玉泉院はあります。

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 玉泉院に入る手前にあり、まず目に入るのがこちらの井戸。「玉の井」という名でよく知られているようです。空海さんが自ら掘った井戸で、本尊の阿弥陀如来に水をお供えしたそうです。

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 説明板には西行さんの歌があります。「岩に堰(せ)く 阿伽井(あかい)の水の わりなきは 心すめとも 宿る月かな」。仏様にお供えするための井戸の水。岩に囲まれたその水を覗くと、とても美しかった。心を澄ますように月が宿っている。

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 こちらが再現された西行庵です。

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 さて、こちらは善通寺の仁王門。香川県立ミュージアムの「空海の足音 四国へんろ展」(10月18日~11月24日)のために仁王さんが運び出され、現在はお留守です。ずっと江戸時代の作と思われていたのが、最近、1370(応安3)年の作だと分かり、にわかに注目を集めました。とはいえ、1976年のお寺の宗報に記述があるのが分かって、その他にも裏付けをとったということで、少し複雑な気持ち。1976年というと最近の話で、当時の文化財関係者のアンテナがゆるいとしか思えない…。今回、気付いてくださったミュージアムの方、偉い!!!
 門に貼られていた梵字をあとで調べたら、向かって右が「阿(あ)」、左が「吽(うん)」のようです。日本史オタクの私は、フト仁王さんの代表作、東大寺南大門金剛力士像の阿形・吽形の配置がこれとは逆なのを思い出しました。あれっ、善通寺は大丈夫なのかと思って調べて見ると、どうやらこちらが大多数のようです。特に決まってないということのようです。さらに調べて見ると、阿吽は(あいうえおじゃなくて)サンスクリット語の最初と最後の字をあらわすそうで、ギリシャ語でいうα(アルファ)からω(オメガ)みたいなもので、「全て」、つまり、宇宙の全てを意味するようです。
 さらにさらに脱線すると、昔は字を右から書いたから、右から阿・吽じゃないの、ということにはなりません。戦前の右から書かれた文字は、タイトルや額などに限られ、数少ない横書きの書物では江戸時代からちゃんと左から右へと書かれたようです。タイトルなどの文字は、縦書きで1行1文字なのだそうです。

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 仁王門の前に咲いていました。

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  1. 2014/08/16(土) 11:33:06|
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真光寺の「師弟の松」

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 丸亀市の真光寺には香川県の保存木にも指定されている、大きな松があります。

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 立派な松ですが、こちらではありません。立て札があるので、見てみましょう。

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 本尊は、崇徳上皇が讃岐に配流されたとき、沖合に輝き現れた千手観音だそうです。真光寺はもとは坂出市御供所町にあったのです。1601(慶長6)年に、生駒親正さんは坂出の御供所の浦人の一部をを丸亀に水夫として移し、今の丸亀市御供所町ができたそうです。のち、丸亀藩の海からの出入りの番所も置かれました。真光寺は、生駒親正さんが丸亀城を築いたとき、城の鬼門を守る寺として移されたそうです。

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 まずはお参りをして、お寺の方に場所を伺って、松を見ました。

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 東西:13.0m、南北:7.5mあり、美しい姿です。距離がとれず、両端が写真に収まりませんでした。
 大徳瑞竜和尚さんがわが子のように大事に育て、病に倒れ生死の間をさまよったとき、弟子に「死ぬ前に花を見たかったが残念じゃ、わしが死んでも大事にして欲しい」と言いました。弟子は、その晩にお経を唱え続け、花よ開けと願い続けました。すると翌朝、花が満開になり、和尚さんの病気も治りました。立て札にもあったように、のち、伏見宮家の文秀女王(尼門跡)がここを訪れ、「翠玉の松」と名付けました。


 
  1. 2014/08/13(水) 10:54:55|
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西行庵(善通寺市)

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 1167(仁安2)年、西行さん(50歳)は香川県にやってきて、崇徳上皇の霊を弔い、空海の生誕地・善通寺にしばらく庵を構えたといわれています。庵は何度か再建され、この建物は1991(平成3)年・西行800年忌に落成したものです。

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 『山家集』にも空海を偲んだ歌があるようです。

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 中河与一さんの歌碑。「西行が い保里せし跡 希典が うえしホルトの 繁り居り今」。 

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 曼荼羅寺から少し南西方向。 地図は、善通寺市デジタルミュージアムなどを見てください。

 坂出市王越山の庵跡 

  1. 2014/08/10(日) 08:02:01|
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ナカンダ浜(坂出市)

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 坂出市・沙弥島(しゃみじま)のナカンダ浜では、縄文土器や弥生時代~古墳時代にかけての製塩土器などが発掘されています。島といっても、埋め立てで陸続きになっていて、子どものころ自転車で来て、海水浴を楽しみました(海水浴場はこちらではなく西の浜)。地名の由来は、「中の田」、「中の浦」などの説があるようです。

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 『愛恋無限』などを書いた作家・中河与一さん(1897~1994年)が立てた「柿本人麿の碑」。
 万葉集の「讃岐国狭岑島(さみねのしま=沙弥島)にて石中(岩の間に流れ着いた)の死人を視て、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌」というのが、ちょっと有名です。「玉藻よし 讃岐の国は 国柄か 見れども飽かぬ・・・・・・」で始まり、名もない「石中の死人」を悲しむ内容で終わります。

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  中河与一さんを記念した「愛恋無限文学碑」。

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 付近の小山にはたくさんの古墳が残っています。東山魁夷せとうち美術館や瀬戸大橋記念公園へおいでの際は、ぜひ、足を運んでみてください。

  1. 2014/08/07(木) 08:15:02|
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原爆慰霊碑とアオギリの木(高松市)

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 高松市の峰山公園に原爆慰霊碑があります。場所は、キャンプ場の上の辺りです。

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 香川県原爆被害者の会が毎年8月6日か9日に慰霊祭を行います。

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 広島の爆心地の近く、逓信局に植えられていた4本のアオギリの木がありました。熱戦と爆風を直接受けて、1本は焼けてしまいましたが、3本の木が残りました。翌年、奇跡的に芽を出し、人々に希望を与えました。のち、平和公園内に移され、種や苗木から育てられた被爆アオギリ2世は、平和活動の一環として日本中、また、世界にも贈られました。
 その木がここ峰山公園にもあります。

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 すぐ上の展望台からの景色です。

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 展望台に上がる途中には、石清尾山13号墳もあります。

  1. 2014/08/04(月) 07:39:19|
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三ノ瀬橋(三豊市)

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 三豊市財田町財田上の三ノ瀬橋。財田川に架かっています。近くには萬福寺があります。東へ行くと国道32号線に出て、そのまま少し南へ行けば「道の駅・たからだの里さいた」があります。
 財田川はずーっと西に向かって流れ、観音寺で海に出ます。  

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 流れ橋のように見えるのですが、それにしてはちょっと頑丈なつくり。流れ橋というのは、鉄のロープかなんかで木の両端を束ねてバラバラにならないように繋げただけの簡略なもので、増水したとき、流れてくる物で橋が壊れてしまうより、どうせなら流れに逆らわずヒラヒラさせといて、あとでつけ直すというもの。
 増水しなくなったので頑丈にした?もともと、こんな橋?

P8130072_convert_20140731110623.jpg

 辺りにはキバナコスモスが咲きます。

  1. 2014/08/01(金) 08:02:21|
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犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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