どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

丸亀金毘羅街道(2)

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 前回に引き続き、パンフレット『金毘羅街道』を参考に国道11号線を南に渡り、三船病院の西側を通って行きます。
 正面寺(地名)の自然石灯籠。1860(万延元年)。万延元年といえば、江戸幕府が日米修好通商条約批准のために遣米使節を派遣した年(ポーハタン号・咸臨丸)。

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 一里屋の灯籠と丁石。灯籠は1874(明治7)年。

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 十二支で方位が示されています。

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 「是(これ)より鳥居まで百丁」「願主 京都 田原越前守藤原○○」「取次 丸亀三原屋」

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 皇子神社への道沿いにある両宮の石灯籠。1854(嘉永7)年。ペリーが2度目に来航し、日米和親条約が結ばれた年。また、安政大地震が起きた年(地震のあと安政と改元)。飯野山が見えます。

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 神野神社の前に立つ石灯籠。

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 郡家(ぐんげ)の茶堂跡と賽祷碑(さいとうひ)。神野神社の斜め真向かい。丸亀の殿様が立ち寄ったとき、神野神社の神主さんの烏帽子のひもが殿様よりも長かった(長い方が偉いそうです?)ので、殿様が休めないという理由で、茶堂を与北へ移したという言い伝えがあります。「休めない」とか、「茶堂を移した」とか、よく意味が分かりません。
 賽祷碑は、肥後の美作九平治一族(?)が神野神社と金毘羅さんに雨傘千本を献じて、国家安全・商運吉祥を祈ることを記したものだそうです。

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 県道4号線(この付近で金毘羅街道と重なる)をもう少し南へ行くと、ローソンの角に五十丁石があります。場所が移動させられていて、元は先ほどの茶堂あたりにあったようです。

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 角下(すみしも)組石灯籠と七十丁石。
 「奉献永代常夜灯」「金毘羅大権現」「寛政七(1795)年九月」

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 与北茶堂跡は目の前です。つづく。


茶堂関係
 垂水茶堂跡
 四つ足茶堂
 羽間の茶堂







 
  1. 2014/09/30(火) 08:40:51|
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丸亀金毘羅街道(1)

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 丸亀港です。金毘羅五街道で最も栄えた丸亀街道はここから始まります。右手に太助燈籠が見えます。

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 丸亀市によりますと、1838(天保9)年に完成。台座には「江戸講中(こうじゅう)」、灯籠の側面には寄進者や世話人ら1357人の名前が刻まれています。最高額80両を寄進した2代目塩原多助さんの名前が目立ちます。
 太助灯籠  新堀湛甫(しんぼりたんぼ)

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 以下の説明の多くは、こんぴらさんへの道しるべ協議会の資料『金毘羅街道』(丸亀駅などにあります)によります。
 まず、この写真は、みなと公園の一対の石灯籠です。もと3基あったそうです。1788(天明8)年に岡山古手屋中の寄進。

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 奥に見える船の遊具は、金毘羅参詣客のための丸亀・大坂間月参船をかたどったもの。6代藩主・京極高朗さん(在職1811~1850)のとき、この定期往来船が始められました。高朗さんは唯一丸亀にお墓のある名君で、団扇の生産や庶民に開放した敬止堂設立のほか、歴史書『西讃府誌』の編纂など、多くの治績を残しました。

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 丸亀駅の北にある常夜灯。

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 富屋町の妙法寺。与謝蕪村さんがしばしば滞在しました。

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 京極さんの前の丸亀藩主・山崎家の菩提寺・寿覚院山門前の燈籠と道標。

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 「左こんひら道」「右かわくち」。

 この次は、最近のブログで田宮坊太郎、南条町の石灯籠などを見てください。また、坊太郎餅も見てください。

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 大正3年に鶏鳴軒(けいめいけん)という散髪屋さんがつくった道標。「北汽車海岸へんろ道」。

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 「西ぜんつうじことひら道」「南このさきだいせん阿波街道」。

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 百四十丁石灯籠。1808(文化5)年。

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 百五拾丁石の起点石。丸亀湊から移されたといわれています。

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 このあたりに駕籠かきの詰所があったそうです。明治14年ごろから人力車にかわったそうです。
 1871(明治4)年に建てられた中府(なかふ)の大鳥居は、金刀比羅宮の一の鳥居です。高さ6.7m、幅4.5m。銅製の額には「金刀比羅宮」とあります。1943(昭和18)年の地震で倒れ、金刀比羅宮が修復したそうです。

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 柞原(さくはら)の常夜灯。1863(文久3)年に建てられました。
 少し南に国道11号線が通っています。つづく。

  1. 2014/09/27(土) 08:26:47|
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仁尾・八朔人形まつり

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 今年も、仁尾の八朔人形まつりに行ってきました。今年は、黒田官兵衛の人形が多かったです。
 いただいたパンフレットによると、戦国時代、仁尾城主・細川頼弘さんの統治で、仁尾の町は商業などがとても発展したそうです。しかし、1579(天正7)年の3月3日、城内でひな節句の祝宴が開かれている時、長宗我部軍の攻撃で落城しました。その後、仁尾の人々は3月にお雛さまを飾らなくなり、男の節句の八朔にいっしょに祝うようになりました。

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 黒田官兵衛の出陣。

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 備中高松城の水攻め。
 手前両側に見えるのは西讃の風習、八朔だんご馬。

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 眠たいんだよー・・・。

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 浦島太郎さんと乙姫さん。

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 機械仕掛けで浦島太郎の物語が展開する。

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 赤穂屋さん。写真を撮らせていただいていると、詳しく赤穂屋の歴史を教えてくださいました。その名の通り、赤穂から寛永のころに移ってきて、手広く商いをしていたそうです。かつては典型的な町家建築で、敷地が奥にものすごく長いのです。
 そういえば、仁尾はかつて塩田の町でしたが、有名な坂出の塩田の起源も生駒氏のころ赤穂から来た人々でした。坂出市HPによると、宇多津の人が、「坂(田尾坂)を出るといつの間にか所々に家が建ち、寄洲を埋め立てて村が出来ている」と驚いたことから、「坂出(さかいで)」という地名になったそうです(田尾坂は33号線の坂出・宇多津の境)。

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 機械仕掛けの「花咲じじい」が子どもたちに大人気でした。

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 落城した仁尾城跡の覚城院です。

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 石段で振り返る。

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 空海さんの修行の様子が人形になっていました。

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 重要文化財の鐘楼堂(桃山時代の様式)。

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 金光(きんこう)寺の細川頼弘公の墓所です。

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 力作、平和への祈り。

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 普門院の前にある、高札場(県指定史跡)。辻の札場と呼ばれています。瓦には丸亀藩の家紋・四ツ目結があります。交通の要衝に立て、藩のお触れを周知しようとしました。当時、仁尾が栄えていたことが分かります。三豊市によりますと、昭和54年まで町の掲示板として使われていたそうです。


PS 以前の「弁慶の伝説」で分からなかった『弁慶がこしらえし菜は武蔵坊』の意味が分かりました。高松市に問い合わせたところ、丁寧に教えてくださいました。気になる方は、少し前のブログ「弁慶の伝説」の最後に「PS」として載せましたので、ぜひ、ご覧ください。高松市文化財課の方には感謝申し上げます。
 ついでに、赤穂つながりで坂出の塩田のことに触れましたが、仁尾の塩田そのものはそこまで歴史が古くはありません。また、触れる機会があればいいなと思っています。


  1. 2014/09/24(水) 17:31:59|
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与北茶堂(よきたちゃどう)跡(善通寺市)と宝光寺(丸亀市)

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 以下、解説は『与北町史』(与北長寿会、1988)によります。
 与北茶堂は、丸亀金毘羅街道のほぼ中間点にあって、一番大きな茶堂(5間×4間)だったそうです。内部は土間で、腰掛に座るようになっていました。お年寄りのボランティアで成り立っていました。中では湯が沸かされていて、旅人がお茶を飲んだり、お弁当を食べたりしたようです。旅人は1厘置いていくのが慣例でしたが、払わなくてもよかったそうです。また、ワラジや菓子類などが売られていて、とても安かったそうです(実費?)。

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 街道で最大の奉献石灯籠。

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 大坂(明治までは「大阪」ではなく「大坂」)、繁栄講。

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 手水鉢も当時のもの。「施主二代目阿波屋太兵衛」とあります。

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 文政11年に大坂繁栄講によって寄進されたが、昭和21年の南海道沖地震のため倒壊。昭和45年、地元有志と市によって復元された。大阪教育大学・理学博士、位野木寿一撰文・・・・・と書かれています(要旨)。

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 石の橋も当時のもの。

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 駒乗石。婦人子どもが馬に乗るための台。「備中 嶋屋仙二郎 早蔦」。

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 「作州津山船頭町 高松屋 虎蔵 金 六十一回参詣 天保十三壬寅」

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 丁石「丸亀入口迄 是より 七十五町」「作州津山元魚町 治兵衛」

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 与北茶堂に祀っていた十一面観音さんは、いまは土器町の宝光寺にあります。お訪ねしたとき、ちょうど行事の準備のため木の剪定などが行われていました。

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 さぬき三十三観音霊場、第二十七番 寶光寺(ほうこうじ)。立派なお寺です。

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 屋根もかっこいい。ご住職様は終始にこやかで、お忙しい中とても親切にしてくださり、感謝感激しました。

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 十一面観音様です。
 ご住職様のお話によると、与北の茶堂にあったという説と、川から見つかったという説とがあるそうです。お寺では、川の観音様として人々の尊崇を集めているそうです。川が氾濫しませんようにとお願いしたようです。昔は土器川がよく氾濫したそうですと語っておられました。土器川は天井川で、実は私が小さいころ、一度だけ床下浸水がありました。いまは、治水が行き届いていて全くそんなことは起きていません。
 先ほどの2つの説ですが、ご住職様のお話では、ただ2つの説が伝わるというだけで、両方とも正しいのかもしれないし、その場合の関連も分かっていません。『与北町史』は、善通寺市による調査で、台座の文字から与北の茶堂にあった仏像であることが確認されたといいます。実際のところ、どうなんでしょうか。謎のままでもいいように思います。なお、撮影とブログ掲載の許可はいただきました。ご住職様には、いろいろとご親切にしていただき、本当にありがとうございました。


参考:高松市・渋柿地蔵・・・付近はかつて香東川の支流が流れていて、洪水がなくなりますようにと祈ったお地蔵様。川の観音様と同じような経緯です。



  1. 2014/09/21(日) 07:54:12|
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弁慶の伝説(高松市牟礼町)

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 牟礼町には、なぜか源平合戦の時の弁慶さんにかかわる伝説が残されています。まず、「菜切地蔵」さんです。

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 左に十一面観音さん、中央に地蔵菩薩さん、右に五輪塔があります。高松市によりますと、問題の地蔵さんとは右側の石塔のことらしいです。弁慶さんがまな板代わりに使い、長刀(なぎなた)で菜を切ったと伝えられています。ちょっと失礼して、丸いのぞき窓から撮影させていただきましたので、周囲がちょっとぼやけています。

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  義経さんの『弁慶がこしらえし菜は武蔵坊』の意味が不明です。弁慶さんの『それを知りつつ九郎判官』は「食らう判官」とかけているそうです。出所は、儒学者の中山城山(なかやまじょうざん、1763~1837)さんが書いた『全讃史』で、城山さんは高松藩の国家老に仕え、この『全讃史』は高く評価されたそうです。もちろん、この歌のやり取りは後世の人が作り伝えた話にすぎませんが、悲しいかな、歌の意味がよく分かりません…。

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 まあまあ近い所にある「長刀泉」です。

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 なぜか長刀で掘っています。便利すぎます。で、ふと思いました。合戦の時って、武器・食料を運ぶ輜重隊が必要だと思うのですが、源平合戦でもシャベルなどを運んだんでしょうか。

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 この辺に源氏の本陣が置かれたらしいので、実際に使った井戸かもしれません…。

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 最後は「弁慶の投げ石」です。

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 先ほどの「長刀泉」を掘ったときに出てきた高さ1mの巨石で、弁慶さんがここまで投げ飛ばしたそうです。約2km余り離れています。

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 場所は、道の駅「源平の里むれ」を東へ少し通り過ぎて、南へ行ったところ。原幼稚園の東にある田んぼの中です。
 地元の方は言い伝えのあるものをとても大切にしています。民間伝承は歴史を身近で、いきいきした温かいものに感じさせてくれるように思います。

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 ここから見る五剣山。


 屋島源平合戦史跡
 岡山の源平騒乱~水島の合戦まで
 源平藤戸合戦
 藤戸
 那須与一


PS 高松市文化財課に問い合わせたところ
 義経『弁慶がこしらえし菜は武蔵坊(むさくるしい)』
 弁慶『それを知りつつ九郎(喰らう)判官』
    ・・・という意味だそうです。
 遺跡の説明会などでも感じることですが、文化財関係の方はご親切な方が多いという印象をもっています。きちんとした説明を返してくださり、本当にありがとうございます。

  1. 2014/09/18(木) 20:09:05|
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ふたたび田宮坊太郎

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 丸亀金毘羅街道に立つ、田宮坊太郎の墓を案内する石碑。以前にも紹介しました(田宮坊太郎の墓)ので、坊太郎さんの仇討については、そちらをご覧ください。以前はアスファルトに埋もれていたこの石碑が、きれいに設置しなおされていて感激! 丸亀市、やるではないか(史跡の説明もあちこちに立てられているし)。で、改めて紹介したいと思いました。

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 お墓はだいぶ傷んでいます(実在の人物ではないようなのですが)。

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 「三府合併大芝居太夫之 神戸市兵庫三河口町…大石久雄」とあります。1943年まで東京は「府」で、京都・大阪とあわせて三府といわれました。

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 右端の「市川鯉三郎」だけかろうじて読めます。あと、もう一人の「市川」さん・「中村」さん。歌舞伎役者のお名前だと思います。田宮坊太郎の敵討は歌舞伎にもなって、戦前まではメジャーなお話だったようなので、お芝居の関係者がお墓を整備したようです。

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 坊太郎のお父さん、田宮源八の家があった場所。

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 坊太郎さんのお話が「お話」のようなので、なんとも不思議です。

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 近くの金毘羅灯籠。

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 ちょっと南へ行けば、則包商店があります。大正初期から続く、「おいり」の生産・販売をしているお店。

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 「百十丁石(ちょうせき)」、1808(文化5)年に建てられたもの。

 その他、付近の様子は以下、ご参照ください。
 若江薫子(わかえにおこ)さんのお墓など(京極高朗公墓所なども)
 堀田製籠商店など(井上通さんの墓所なども)

  1. 2014/09/15(月) 08:17:53|
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川上古墳など(さぬき市)

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 川上古墳は5世紀の小さな円墳ですが、たくさんの出土品が見つかっています。

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 さぬき市歴史民俗資料館に展示されている、短甲と冑。すごい!!

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 ここから見える景色。視界が遮られています。
 ちょっと場所が分かりづらいです。私は、行基ハイツにある社会福祉協議会で尋ねました。とても親切に教えてくださいました。感謝感激。行基ハイツの東端のすぐ裏でした。東端から南へ行く小道があり、すぐ右手にお墓やこんもり木が茂った一角が見えます。そこです。クルマもちょっと置かしていただく許可を得て、無事たどり着けました。
 ここの施設の東にも道があったので、そっちから来たほうが気兼ねがいらないでしょう。

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 社会福祉協議会と道を挟んで反対側にあった、「から風呂」。ウワサには聞いていましたが、ここだったのか!これまた、感激。古代からある石風呂(サウナ)で、全国的にも珍しいそうです。

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 私は、サウナとか入るのは危険なので、まともに入れませんが、ちょっとだけならそのうち体験してみたい気もします。

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 川上古墳から直線で6kmほど北西(香川大学医学部の南)にある、三木町の池戸八幡神社です。

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 人物が彫られた大きな石碑があります。

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 奈良専二という方で、8歳で猫車を発明し、20歳のとき奈良稲という品種を開発し、普及させたそうです。明治三老農といわれた有名な方のようです。

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 ちょっと調べてみると、明治になって近代的な農業がすぐには受け入れられず、それまでの間、老農といわれる方々がこれまでの農業を集大成し改良を加え、各地で農業を指導したそうです。近代農業への橋渡し的な役割を果たされたようです。奈良専二さんは、最後は秋田県で活躍され、お亡くなりになったそうです。
 秋田県といえば、最初に高松城・丸亀城を築いた生駒氏は4代目のときの生駒騒動で、秋田県に小さな所領を与えられ、交代寄合(領地があり、参勤交代する旗本)として幕末まで存続しました。

注意!!!
から風呂のHPを見てみると、けっこう注意事項がありました。行かれる方は、ぜひHPの注意事項をお読みください。
http://karafuro.web.fc2.com/

  1. 2014/09/12(金) 17:44:54|
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富田茶臼山古墳など(さぬき市)

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 さぬき市の富田茶臼山古墳は四国最大の古墳です。全長139mで、国指定史跡です。

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 築造時期は5世紀初めで、やはり巨大古墳の時代(中期)のものです。内部はまだ調査が行われていません。

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 「さぬき百景」の石碑(1968年に四国新聞社が明治百年を記念して、読者投票 などで選定)。

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 神社になってます。鳥居の前、右手に弥勒池から出てきた弥勒仏が祭られています。

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 中世の作と考えられています。お花も飾られていて、毎日、きれいにお掃除されている様子です。市指定有形文化財です。

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 「弥勒石穴」で紹介した掲示板にもありましたが、弥勒池周辺から石仏がいくつか出てきたそうです。弥勒池というのは上池、中池、通池の3つを総称するものでしたが、ここに書かれてある「通り池」の部分は現在は埋められています。

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 奥3号墳の復元です。発生期の古墳です。付近からは20基ほどの古墳が発掘されたそうです。

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 全長37mの前方後円墳だったようです。さぬき市歴史民俗資料館で出土品を見てきましたが、オススメは三角縁神獣鏡(鏡の断面を見ると、縁が小山のように三角形に盛り上がっている)です。 京都椿井大塚山古墳のものと同范鏡(同じ型から造られたもの)だそうです。
 三角縁神獣鏡は考古学ファンが喜ぶ謎の多い鏡です。卑弥呼が魏から銅鏡100枚をもらいました(『魏志倭人伝』)が、魏の年号の入った三角縁神獣鏡が何枚か発見されていて、中には「景初3年(西暦239年)」の銘のやつがあります(239年は卑弥呼が魏に遣使した年)。その一方で、このタイプの鏡が中国からは発掘されていないことなど謎だらけなんです(魏では「景初」は3年までなのに、「景初4年」の鏡が出土して???なことにもなっています)。年号云々は別として、三角縁神獣鏡はたくさん出土しています。京都椿井大塚山古墳からは32面も出土しています。同范鏡ということは、そこから配布された可能性もあります。ぜひ、実物を見にさぬき市歴史民俗資料館へ足を運んでください。

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 大井七ツ塚古墳の一つ、4号墳です。径22mで、5世紀に築造され、6世紀にかけて追葬されています。

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 田口さんという方が個人で復元されたそうです。さぬき市は、歴史的なものを大切にされる文化人が多いようです。



  1. 2014/09/09(火) 08:26:13|
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カンカン寿司(さぬき市)

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 さぬき市志度の郷土料理、カンカン寿司です。
 私は丸亀生まれなので、最近までまったく知りませんでした。ずいぶん前にテレビでやっていて、道の駅「源平の里むれ」(高松市)で売っていると知り、さっそく買って食べたのでした。写真はその時、記録魔なので撮っておいたものです。土日限定で売っていましたが、今はどうなんでしょう。ちょっと自信がないので、買ってみようかという方は電話で尋ねてみてください。

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 サワラをのせた押し寿司です。店から出た際、引力で下がった(私の生まれた地域では「すこける」と言いますが)ズボンを持ちあげようとして、レジ袋から指が外れて自由落下させてしまいました。というわけで、お寿司たちは本来、もっと右に寄って並んでいたのかも。期せずして、「落ちても形が崩れない」堅さを立証することになりました。
 詳しくは、ネットでお調べいただけるとうれしいのですが、押し型の木枠を上から押さえる木があって、くさびをカンカン打ち込むことでこれを押し下げるメカニズムになっております。お寿司界の中性子星は言いすぎかもしれませんが、押し込まれた物の形に変形したトムとジェリーのトム状態です。


  1. 2014/09/06(土) 10:40:45|
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如意輪寺公園のオニバス・瓦窯跡など(高松市国分寺町)

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 今年の夏も、オニバスの花を見てきました。如意輪寺公園には初めてやって来ましたが、いい眺めです。

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 カエルが花を観賞。

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 ・・・・・・・・・

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 池から平安末期の窯跡が2基発見されましたが、現在は保存のため埋め戻されています。如意輪寺は昔ここにあったお寺で、国分寺の末寺でした。

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 樹齢200~300年以上の野生種のヒゴツバキ。高さ7m。マダニが恐くて、近寄れません。

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 高松市指定天然記念物です。花が咲いているときに、また見に来たいと思います。

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 こちらは、少し離れた位置にある府中山内瓦窯跡(ふちゅうやまのうちがようあと) 。

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 国分寺・国分尼寺の瓦をつくっていたそうです。お寺からも同じ軒瓦が発掘されています。周辺にもっと同様の瓦窯があったようです。

  1. 2014/09/03(水) 07:56:18|
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犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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