どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

汽車ぽっぽ祭り(JR多度津工場、10月26日)

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 JR多度津工場の中を見てきました。

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 明治時代の2等客車を1974(昭和49)年に復元したもの。全国に32両配車され、土讃線日下(くさか)~須崎(高知県内)を走っていました。

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 食堂です。

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 摑まるやつ…1コ500円でした。部品を解体して売っていました。

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 懐中時計など、高めのものも販売していました。

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 私は、線路の枕木を打ち付けたものを、文鎮代わりに買いました。500円。

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 讃岐鉄道が通っていた所。向こうが丸亀方面(東)。この線路を振り返ると……

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 アンパンマン列車。その後ろは……

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 こんな感じ。まっすぐさらに西へ行けば、讃岐鉄道の多度津駅があった場所。

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 ちょっと味が悪い(讃岐弁で「気持ち悪い」)かも。

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 残念ながら、本格的に作業をしている場所は、工場探検ツアーの遊園地の列車みたいなので回ることしかできません。なんと、イベント開始時刻の前から行列ができていて、すぐに6回あるツアーの券が売り切れたそうです。

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 獅子舞などもやってました。

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 写真を見ていると人が少なそうですが、なるべくこちらに向かってくる人が近くにいない瞬間をねらっています。正面の建物が気にいって、そうとうねばりました…。最近、写ると怒る人がいそうで、ちょっとやっかい。イベントや観光地の場合、あきらかにある人物に焦点を合わせて撮るのでない限り、OKだと思うんですが…。いろんな方がいますから。いつぞや、若い人が風景を撮っていて、近くの家族連れのお父さんが、「テメー、うちの娘を撮ってどうしょうってんだ!!」と怒り爆発させていてビックリしました。しかも、その若い人のデジカメをチェックして、「おお、違うとこ撮っとったんか」と、ふんぞり返っていました。嫌疑をかけられた若い人がなぜか「すいません・すいません」と謝っていて、かわいそうでした…。話が脱線。

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 最後は、多度津駅へと向かうシャトル列車をここで待ちました。工場への引き込み線を列車で移動してみたかったのです。JRの方はしょっちゅう行き来しているんだろうなと思って尋ねてみると、列車が工場へ入るのは月に何回かしかないそうです。意外に少ない気がしました。

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 車窓風景。すごい遅い速度でした。多度津高校の東グランドの横を通って、高架下を過ぎると多度津駅です。

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 こんな最新の列車でした。






  1. 2014/10/30(木) 18:36:55|
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初めて知る丸亀城(2)…三浦正幸先生(広島大学大学院教授)に学ぶ(10.19)

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 天守です。現存天守の中で最も小さいものです。本丸にあがって、城内側から見ています(南面)。
 前回に引き続き、三浦先生の興味深いお話を紹介します。まず、山崎氏が幕府に提出した絵図では「矢倉(=櫓)」となっていますが、武家諸法度以降は10万石以下の大名には新たに天守を作らせない方針があったので、矢倉という名で提出したようです。しかし、八方正面(全ての面に窓がある)は天守以外になく、実態は明らかに天守だそうです。
 一階・二階・三階の大きさの比が常識はずれで、差が大きく、目の錯覚で下が実際より大きく見えるそうです。
 破風(屋根の三角形の部分)は、長方形の家の平面図で短い辺に破風があるのが普通です。実は、丸亀城は長い辺に破風がある変な形をしています。城を正面側(北)から見上げると、破風が見えるので奥に長いのかと錯覚します。ちょっとインチキですが。しかし、もっと大事なことは、正面に破風を設ける建物の格式なんだそうです。室町将軍の御所、二条城、名古屋城本丸御殿、江戸城だけがそうだったようで、わざと立派な格式で作っているそうです。

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 入口(西面)付近からの風景。

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 鉄砲狭間。引き戸付きの発祥、日本最古、丸亀城オリジナル発明。中にいくほど広いのは、鉄砲を左右に向けるため。

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 堀(昔の内堀)の外の道路が見えます。

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 大筒(大砲)用です。天守に大筒用の窓があるのも他に類がないそうです。鉄砲用にしては低すぎるし、大きすぎる(狙われる)し、下の木の部分をわざわざ削り下げていることからも分かります。

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 外側から見たところ(北面)。右端が大筒用。先に見た三角形は左端。

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 一階です。異常に柱が多く、頑丈な造りです。外側をぐるっと廊下がめぐり、部屋が一つ。部屋の中まで柱だらけ。

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 2階。窓の下に四角くへこんでいるのは、大筒用の隠狭間です。いざ戦争というとき、くぼんで薄くなった壁を破って使います。2・3階は大手門の外を攻撃する大筒用です。

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 添え柱をつけ、隅が3本の柱になって丈夫。このやり方は津山城天守が最初だそうです。

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 3階です。隅の3本の柱が見えますでしょうか。中央奥の柱が壁が分厚くて埋もれています。右の柱の上部を見ればよく分かりますが、梁から下の壁がもりっと盛り上がっています。玉が突きぬけないように、人の背丈より下を厚くしています。添え柱2本を上部でつなぐのを火打梁というそうです。これは(お城に限らず)日本建築最古の使用なのだそうです。

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 大筒用の隠狭間がよく分かります。

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 窓から北を見る。

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 木を斜めにした連子窓は寺院建築風。

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 屋根裏の小屋組み。大手門内部のように丸太ではなく、角材の梁を使っている。

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 天守北面。
 講義いただいたことで触れていない話もありますが、こんなに詳しく丸亀城のすごい所を知ることができて、感謝感激しました。興味をもたれた方は、ぜひ足を運んでみてください。


  1. 2014/10/27(月) 18:02:02|
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初めて知る丸亀城(1)…三浦正幸先生(広島大学大学院教授)に学ぶ(10.19)

 先日の「丸亀城フェスタ」で、城郭研究の権威・三浦正幸先生の講演を聞きました。そのあと、自分の目で確認してきました。2回にわたって紹介します。

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 近世城郭のうち平山城が75%だそうです。なかでも、山全体を一二三(ひふみ)段の石垣が覆うものが美しく、メジャーな平山城のなかでは、津山城・甲府城と並んで「3大」に入るそうです。また、大手門と天守が同時に見られるのは、丸亀城と高知城だけだそうです。
 そして、いきなり定説を覆すお話が出てきてびっくりしました。山崎氏が幕府に提出した絵図にはすでに天守が描かれていて、まだ建築予定の部分とは描き方が異なるそうです。つまり、天守はこれまで考えられていたより古いことになります。さらに、大手門もこの場所に建設予定のものとして描かれています。つまり、山崎氏時代にはお城の南が正面だったというのは間違いらしいのです。

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 入口の高麗門。戸の上にある太い木は冠木(かぶき)といい、このように中央に束を立てるのが新しかったそうです。 
 一番最初に敵を迎え撃つ枡形と、左に見える櫓門がちゃんと残るのは、他に金沢城・江戸城・大坂城だけだそうです。櫓門2階から入ってくる敵に矢を射かけるには、このように高麗門を入って右に内門(櫓門)があるのが正しいそうです。矢は左に向かって放ちやすいからです。大坂城は逆になっていて残念な設計らしいです。

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 鉄砲を撃つ三角形の狭間があります。敵から撃たれない小ささで、左右に向けられる工夫です。

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 左隅に何か見えます。

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 引き戸式のふたです。戸はほとんどの部分が見えませんが、実は台形をしているそうです。そして、なな、なんと!これを発明したのは丸亀城なのだそうです。つまり、丸亀城にあるのが日本最古(天守のは次回、紹介)。ビックリ!

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 外から見たところ。天守の場合には戸がないと、ふだん雨風が入って大変なので、それまで四角い窓に上開きの戸しかなかったようです。三角形の窓に引き戸を考えた人、えらい。

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 上から矢を射かけた櫓門。
 太い柱は1本の木で、他に例がないそうです。他のお城のは、いくつかの木を組み合わせたもので、見栄えを考えて鉄板を張っているのだそうです。丸亀城の京極氏が作った部分の特徴は、見える所に力を入れ、見えない所は手を抜くだそうです。天守の堅固さ・実用性は、やはり山崎氏らしさだそうです(次回、紹介)。また、右回りの枡形は実践的ですが、先に触れたように配置計画は山崎氏時代のもの。
 これは私の考えですが、お城に見る両氏の違いには時代背景もあると思います。山崎氏時代は(1641年~)1657年までです。1651年に徳川家綱さんが11歳で4代将軍になって以降、慶安の変もひとつのきっかけとなり、戦国遺風の廃止など文治政治が推進されました。そういう時代の空気も関係あるのかも…(ないかも?)。

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 櫓門の内部。天守と比べて簡略な作りなのだそうです。時を告げる太鼓が見えます。
 次回につづく…


 
  1. 2014/10/24(金) 18:01:14|
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讃岐抜刀道・丸亀城鉄砲隊(丸亀城フェスタ10月19日)

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 讃岐抜刀道のみなさんでした。

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 暴発事故ではありません。

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 丸亀城鉄砲隊のみなさんでした。

  1. 2014/10/21(火) 16:58:26|
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犬塚(善通寺市)

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 犬塚です。
 四国こどもとおとなの医療センターと関連施設のある一角の北東の近くに、「弘法大師幼時霊場・仙遊寺」があります(ヤフー地図に表示されます)。そのもう一つ南の通りに面した小さな公園にあります。

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 義犬伝説とは、次のようなものです。弘法大師が唐に留学したとき、天竺の国?で王様が持ち出し禁止にしていた薬草を持って帰ろうとしました。畑に番犬がいたので、ばれないように3粒の種を足の股の肉を裂いてその中に隠しました(痛い!)。それでも、1匹の番犬に吠えられてしまいます。弘法大師は番人に問いつめられても盗んでないといい通したため、犬のほうが番人に叩かれて死んでしまいました。弘法大師はその犬の死骸を長安まで運び、真言の秘法を施して生き返らせました。薬草とともにこの犬も連れて帰国し、その後、死んだ犬を祀ったそうです。
 死んだ犬を生き返らせるパワーがあるんなら、もっとファンタジックな魔法で種を持ち出せなかったのでしょうか?いや、その前に王様を説得できたのでは?ていうか、盗んでもよかったの?この王様は悪者な設定?そもそも、義犬伝説っていうより、犬にしてみれば、痛いのちビックリ不思議体験で、義犬て言われても腑に落ちんんわー…では?かくして、いまではツッコミどころ満載な話ですが、大昔の話には理屈に合わないところがあってナンボ、いや、ありがたいってもんです。目がテンの犬がほほ笑んでいる気がしました。

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 ここはどこ?

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 仙遊寺が建て替え工事中なのでした。

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 石の稚児大師像と大地蔵さんです。
 改めて、善通寺市のHPを見ると、「夜泣きに霊験がある寺としても有名で、境内の庭にある楠木の前に赤ん坊を寝かせてから、お母さんが抱き上げてお参りすると、夜泣きしなくなるといわれ、全国各地からお参りの人が訪ねてきます」とありました。楠木、残ってたっけ?写真には見えないので心配。現場になかったら、たぶん、別なところに移しているのだと思います。本年度内に再建予定、納経・朱印は総本山善通寺御影堂までと書いていました。

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 獅子舞が行われていました。

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  1. 2014/10/18(土) 11:46:35|
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善通寺の湧水(その2)

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 木熊野神社のすぐ北にある「掘出湧」。ここで、水の祭りの神具を洗うそうです。

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 木熊野神社の裏手には、「蛭子湧」があります。説明が見づらくてすいません。なな、なんと、源三位・源頼政さんがつくらせたそうです。丸亀藩の『西讃府誌』にも領地があったらしいことが書かれているようです。

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 向こうの方にも行ってみます。

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 草がぼうぼうです。たぶん、町内の清掃前ぐらいのタイミングに来てしまったのでしょう。湧水はけっこう整備されています。

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 前に紹介した仲村城跡です。ここの南あたりにも湧水があるらしいのですが、分からなかったので、近所の方に尋ねてみました。

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 「内湧」といいます。家とその裏手の草木の生い茂った小山の間にありました。ジャングルに接近を拒まれました。草の間から望遠で覗くだけで満足。

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 吉田八幡神社のすぐ近く(北東)にある「上湧下湧」。水はとてもきれいです(他の湧水もよく写っていないだけで、きれいです)。

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 配水のためでしょう、複雑になっています。

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 JR土讃線(写真右)をまたぐ高松自動車道高架からすぐ北。

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 そこから北へもう少し行ったところ。こちらも湧水です。どうしてこんなに湧水が多いのかというと、金倉川の昔の通り道のようです。

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 ここから北へ行くと、湿原が11号線に向けて広がっています。今回はパス。

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 以前にも紹介した「永井清水(ながいのしみず)」です。きれいに改修されていてビックリ。

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 「榎之木湧」とも呼ばれています。殿様の休憩所があったそうです。

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 北側から。

 今回は、比較的マニアックな場所を回っています。以前に紹介した、善通寺市の湧水がメジャーなので、ぜひ見てください。

  1. 2014/10/15(水) 18:27:14|
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「仏像を彫ってみる」に参加

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 おへんろつかさの会主催の「仏像を彫ってみる」に参加しました。京都の仏師・冨田睦海さんとお弟子さんたちが指導してくださいました。冨田睦海(とみたむつみ)さんは1978年生まれで、お若いのに有名な仏師です。「わらべ地蔵を被災地へプロジェクト」など社会的な活動もされています。
 写真は私が彫ったお地蔵さまですが、うまく彫れているでしょうか。といっても、大まかな形は角ばったものですが、前もってできています。材料は木曾檜です。

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 後ろ姿。
 台風が1日待ってくれたおかげて、雨も降らず、気持ちのよい気候でした。しかも、志度寺の(重森美鈴さんの)庭園を前にした部屋で、仏像彫りには最適の雰囲気でした。

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 正面です。


6月8日(日)の仏師・冨田睦海さんによる講演 「仏師の語る、仏像の見方・楽しみ方」のメモです(ブログ掲載の許可は得ています)。

 
1.仏師は位牌もつくる。明治以前の位牌は、ただ四角いものが四角い台に乗っているだけの簡単なものだった。

2.子どものころは、学校から帰って刃物を3本磨かなければ、外へ遊びに出してくれなかった。のちに大変役に立った。稼業に慣れ親しんで育った。

3.京都で観光客がふらっと立ち寄れるオープン工房をしている。昔は、路地の奥で世間と隔絶して作業をしており、また、業者を通して仕事をしていたので、仏像がどこのお寺に行くのかさえ知らない状況だった。

4.最初に作った釈迦如来は、父・兄との合作で、いまも工房にある。1尺6寸で、実際の仏さんのもとになるもので、10分の1。光背を担当したが、半年かかった。

5.そのあと彫った8寸の不動明王の写真。火炎光背のなかに鳥がいるので調べて見て、カルーラと分かった。実際、人から説明を求められても知らないことがいっぱいあった。

6.花園大学(臨済宗)へ仏教を学びに行った。

7.隠元禅師像の製作には2年半かかった。いま、京都万福寺に納められている。絵をもとに像の製作を頼まれた。子どものころから、何でも立体として捉える訓練をしてきたので、絵を見ただけで隠元禅師が腰かけている獅子が、前後に3mと分かった。寺側は、そんなに要らない、50cmぐらいだろう、広いスペースは取れないと言っていた。絶対3m必要だと主張し、あとで実際にそうなったので感謝された。

8.2尺5寸の地蔵菩薩の写真。2年かかった。松島・瑞巌寺に納められている。若いうちに力強いものをつくっておきたかった。運慶の地蔵菩薩や大日如来のような力強さは、若いうちでないと作れない。

9.阿弥陀如来立像、5尺。3年かかった。金粉を塗り、その上に金箔を小さく切って貼る。截金(きりがね)という手法。快慶の東大寺・阿弥陀如来にも見られる手法。燈明などの明りが下から当たるとき、その神秘的な効果が現れる。

10.仏像の材料
①金銅:金色の輝きが仏像に相応しいと思われた。材料が不足。
②粘土:塑像―焼いていないのに残っているのは奇跡的。
③乾漆像―塑像がもろいので、強くしようとした。
 木の粉と漆を混ぜ、盛り上げて、あとで削った。漆は一回一回、乾かすのにすごい時間がかかる。大窪寺の今公開されている御本尊の周りの四天王が昨年できたばかりと聞いたが、乾漆像で、いまも作っていることが興味深かった。
④木像
 Ⅰ)一木造り:クス・カヤ・ビャクダンが使われる。インドでは香りのいいビャクダンを使用すべきと考えられた。クスは香りもよく、大きい材料が得られる。カヤは弥生時代から霊木と考えられ、注連縄を周囲に巻かれたりした。倒木が使われた。十一面観音や室生寺釈迦如来など。
 Ⅱ)寄木造り:大きな像が可能になる。木を丸ごと使うと割れやすいが、薄くすることで割れにくくなる。また、分解により加工がしやすく、より写実性が高まった。玉眼も可能になった。玉眼はかなり難しい。瞼など割れたら、やりなおし。運慶(阿)・快慶(吽)の東大寺南大門金剛力士像は、60日で完成したという記録が残っている(分業)。仏師は指揮者。最初に完成させて立てたとき、快慶のは眼線やへそが下を向いており、運慶はその手法に感心し、やり直した。平成の修理のとき、作りなおした痕が確認された。

 (さぬき市・長尾公民館)


  1. 2014/10/12(日) 18:06:20|
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月食

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 月食ですと?ニュースを見て「ほんまー?」と思い、外へ出てみました。

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 シャッターが遅い。三脚がない。困った。固まる催眠術を自分にかけよう。「はいかかった!」、カッ・・・シャ!

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 カッ…シャ!の間に月が少し伸びた。手が動いたとも考えられる。
 月食は地上で、平均すると年に2回ほど見られるそうです。「地上で」というのは、今回、せっかく地球の影に月が入っても、お昼のアメリカでは見られなかったけど、そんなのを無視して数えたらという意味。地上のどこかでということなら、日食の方が頻繁に起きているそうです(「頻繁」はウソです)。といっても、太陽側に回った月の小さい影が地上にできるっていう意味なので、影に入った人々しか経験できません。
 今回、見やすい位置でよかったです。学生のころ何度か、月食を見る会みたいなことで首を痛めました。じーっと見すぎ?
そんなことで、月を見ながら、なぜか昔の妙な記憶がよみがえって来ました。人造肉っていうのが一時はやりましたが、あれってどうなったんだろう。大豆かなんかから作ったはず。で、人造肉がカップラーメンのお肉っぽかったので、そういえば、カップラーメンの容器から危険な化学物質が出ているという話があったけど、あれもいつの間にか聞かなくなった。「あの人は今?」じゃないけど、気になる。で、月食に満ち足りて家に戻るとネットで調査。ゲゲッ!いま人造肉というと、幹細胞から作る話になっているらしい。恐い…。大豆にしときましょう…誰に言ってよいのか分かりませんが。カップラーメンのほうは、その話が出てから、紙容器に変わりだし、さらに、実は発砲スチロールも安全だってことになって、また、戻っていったそうです。しかし、最近、アメリカの有名病院からやっぱり危険という報告が出たそうです。なにはともあれ、うやむやはいけません。我々の脳みそはけっこうウヤムヤにできているので、気をつけたい。ホッピングで脱腸になるという話で、最初のホッピング・ブームは終わりましたが、あれは濡れ衣だったようです。ウヤムヤに加えて、テキトーなのが人類の避けがたい性質のようです。リチャード・キンブルを助けて、悪い奴を撃ったジェラード警部みたいになりたい。…何の話か分からなくなりました。


  1. 2014/10/09(木) 17:30:47|
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ジョージ・ハリスンのリマスター発売

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 ジョージ・ハリスンが亡くなって早や13年。早すぎる死にショックを受けたことがまだ最近のことのようです。
 もとビートルズのメンバーであるにもかかわらず、長い間CDがリマスターされないことに、ファンはみなとても悔しい気持ちだったと思います。ダーク・ホース・イヤーズ(1976~87年のアルバムなど )だけがボックス発売されたり、”All Things Must Pass”” Living in the Material World ”が単発でリマスターされましたが、あと2枚のアルバムがほったらかしでした。
 個人的には、この”Extra Texture ”がジョージ・ハリスンのアルバムでイチオシです。なぜか、あまり一般受けしていないようですが、全ての曲に魔法がかかっていて最高傑作だと思うのです。ビートルズ時代のWhile My Guitar Gently Weepsとよく比較されるThis Guitarも、個人的には甲乙つけがたいです。

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 もう一枚の”Dark Horse”の方は、実はそれほどいいとは感じていません。 でも、Ding Dong, Ding Dong はとても個性的でいい曲なので、リマスターで聴けて大満足。

 ジョージ・ハリスンのアルバムとして、他にオススメは”Cloud Nine ”と”33&1/3”です。前者は世界的に大ヒットし、日本でも彼のアルバムで一番売れました。ほぼ全曲、明るくポップでメロディも個性的でいい曲ばかりです。後者は、当時のレコードの回転数と彼の年齢とをタイトルにしたもの。Beautiful Girl 、This Song 、Pure Smokey 、Learning How To Love You は大好きで、彼にしか作れない個性的なメロディだと思います。曲単位では、My Sweet Lordはもちろん好きですが、Isn't it a pity?の方がもっと気にいっています。最後のアルバムのRising Sunもいいと思います。
 ビートルズ時代の曲はいまさら言及しませんが、なぜか低い評価の初作曲のDon't Bother Meがいい曲だと思うのは私だけでしょうか?本人による「イマイチ」発言が独り歩きしすぎだと思うのです。何度も語ったのならそうなんでしょうが、深い意味もなく語られた言葉もけっこうあると思います。ポール・マッカートニーのYesterdayでも、メンバーの話かなんかで、誰かがなんか一曲歌ってくれと言ったときに、ポールが即興で歌ったという話が昔はよく雑誌なんかに載っていたが、後年の自身の話では、作るのに結構苦労したと言ってましたし…。

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 最近の「待ちわびた体験」、うれしかったリマスターの一つがティアーズ・フォー・フィアーズのファースト・アルバム”The Hurting ”(Deluxe Edition2枚組、2013、輸入盤で2,500円ほど)です。次のアルバムから世界的認知度が広がったせいか、日本ではShoutばかりが流され、アルバムもそちらの方が高く評価されています。個人的には、Shoutは悪くないけど同じメロディばかり繰り返していて、めんどくさい。アルバム全体もパッとしない印象です。”The Hurting ”はロック史に残る名盤だと思うのですが、これまた私が変なのか……。

  1. 2014/10/08(水) 09:05:08|
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丸亀金毘羅街道(4)

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 冨熊神社から少し進んだ場所に、平成の丁石と案内板。

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 田んぼのせいでしょうか、街道がギザギザに。現在のまんのう町(右)・琴平町(左)の境界もこのギザギザです。

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 「金」の字の自然石灯籠。「京小道具屋笹屋嘉右衛門」とある百二十四丁石。

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 琴平町に入り、代官所跡。

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 1642(寛永19)年から、苗田村・榎井村・五条村・五毛村が天領となり、年貢は満濃池の改修や用水路の整備などに充てられた。

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 こんな感じで、もう少し南へ向かいます。

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 ここで西に曲がり、象頭山へと向かいます。右手に見える石碑と彼岸花の見えるところは、奈良出身の放浪の画家・大原東野さんの住居跡です(今回もパンフレット『金毘羅街道』に頼っています)。

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 多くの文人たちが訪ねたそうです。ここの藤棚が見事で名所になっていたそうです。明治30年ごろ藤棚は金毘羅宮北神苑に移されました。百三十一丁石の寄進者は京都・後藤八郎兵衛さん。

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 横瀬の石鳥居。1871(明治4)年の建立。児島(岡山県)・塩飽(しわく)島・丸亀・琴平の人々の寄進によります。道はこの後、ガード下をくぐって南へ向かい、いよいよ昔の中心街に近づきます。

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 右側の野崎武吉郎さんは、塩田王・野崎武左衛門さんの孫だと思います。参考→野崎家旧宅など

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 横瀬の石灯籠は備中国酒津村・梶谷伊平治さんが寛永10(1871)年に、地蔵堂は横瀬と金毘羅茶屋の人々が嘉永7(1854)年に寄進したもの。
 この後は、ぜひ、以下をご覧ください。

 金毘羅付近の丸亀街道・多度津街道
 阿波街道、伊予・土佐街道など
 高燈籠など
 日柳燕石さん
 日柳燕石ゆかり展
 松里庵など




  1. 2014/10/06(月) 08:28:50|
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丸亀金毘羅街道(3)

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 前回の角下組石灯籠・与北茶堂は善通寺市に入ったところにあります。次に街道はここで一瞬だけ、また丸亀市に入ります。境界が入り組んでいます。願誓寺です。

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 なんか歴史を感じさせる立派な鐘楼です。

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 この道が街道で、向こう(北)から来ました。願誓寺はすぐ東(右)にあります。
 『与北町史』によりますと、願誓寺の西に「垂水のおかしや跡」といわれる場所があるという。この付近のどこかだろう…。そして、町史は成島柳北 (なるしま りゅうほく、幕末の将軍侍講)さんの「航微日記」の一節を紹介しています。「垂水村という所にいたり茶屋に憩い、饂飩(うどん)を食う、ねぎと小えびを加えたり風味ゐなか(田舎)めきておかし」。

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 すぐ善通寺側に入りますが、ちょっと外れて県道200号線沿いにある仲多度農業共済組合の北西角にある「八十七丁石」。実際は、100mほど東の街道沿いにあったらしい。

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 山下の道標(右は平成の道標)。「右金刀比羅道 左大川剣山道」。

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 「明治拾一歳 寅十一月吉日」。

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 北を見ると、家々の間から讃岐富士(飯野山)。

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 街道を進む前に、買田池の北西角にある御野立(おのだち)公園。大正十一年の陸軍特別大演習のとき、摂政の宮が観戦した場所。御野立所というのはいくつかあったんでしょうか?というのも、「一太郎やあい」の岡田梶太郎母子が勝間村の天神山御野立所付近で摂政の宮に拝謁したという写真が残っているからです。

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 街道はまんのう町に入ります。公文の茶堂というのがあったそうです。

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 街道は突き当たりを左(北)から右(南)へ続いています。カーブミラーの向こうに茶堂があったようです。パンフレット『金毘羅街道』に、建物は吉祥寺の本堂になっているとあったので探してみたのですが、分かりませんでした。

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 「吉祥寺」と書かれた石碑があるのですが、寺らしきものが見当たりません…。

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 先の案内板にもあった冨熊神社です。灯籠と丁石6本がここに移されているそうです。

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 灯籠はあったのですが、丁石は未発見。実は、草・落ち葉・鬱蒼とした木々というマダニ好みの環境に恐れをなし、探索できなかったのです(ウィルス性の病気によく罹る軟弱者なので)。

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 木食上人さんはそば粉・木の芽・野草ばかり食べたそうです。岡本信人さんの師匠みたいな方です。入定塔にたどり着くのも諦めました。上人の護摩堂も神社の一角にあったはずです。説明文中の「諸入」は、「諸人のため」だと思います。

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 近くの家にあった仁尾酢の古い看板。

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 木食上人を尊崇する岡山藩の家中の方が、眼鏡灯籠5基を護摩堂前に寄進したそうです。いまは、櫛梨神社の参道に1基が残るのみです。

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 ここは冨熊神社から山沿いに少し西へ進んだ場所ですが、琴平町になります。

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 この付近、丸亀市・善通寺市・まんのう町・琴平町の境界があります。街道はこのあと、まんのう町と琴平町との境界線上を少し進んで、いよいよ琴平町に入ります。つづく。


P.S. 眼鏡灯籠のうち、あと2基は善通寺境内にあります。






  1. 2014/10/03(金) 18:20:25|
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犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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