どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

よいお年を

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 香川県立ミュージアムは、一部写真撮影OKなところがあります。こちらは昔の学校の様子として、小豆島の岬の分教場(田浦分教場)の教室を再現しています。

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 私が小学校1年生の時にも、黒板の上に「あいうえお…」の表が貼られていました。不思議なのは、幼稚園のころには「キンダーブック」などを読んでいたはずなのに、ときどき「あかさたな…なにぬ…」とか、表を見て字を確認していたのを覚えています。大人になり、人前で緊張して、アタマがもやもやする性格に気づきましたが、小さいころからその傾向があったのかも…。

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 こんな学校で育ったら、性格がよくなりそう?

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 岬の分教場は、戸板で教室が仕切られていて、外すと講堂になりました。
 私の通った小学校は、後ろに私物が置ける棚、今で言うロッカーがありました。あるとき、図工の時間に、河原で拾った石に絵を描いて、棚の上に名札を付けて展示しました。たまたま、授業参観があり、それを見た親に「もお、恥ずかしかったわ!」と後で叱られました。拾った石の色・形に何故かすごく心を奪われ、そのまま、ポンッ!と展示していたのでした。先生や周囲の反応は記憶にありません。

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 「アイウエオ」がカタカナです。戦前の様子でしょうか。当時は、公式文書にカタカナを使うので、カタカナから習いました。

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 ぜひ、小豆島で実物と二十四の瞳映画村を尋ねてください。→小豆島
 ミュージアムでは、香川県の歴史に関する常設展の一部と、藩主の御座船「飛龍丸」内部などが写真撮影可です。もちろん、展示そのものに見ごたえがあり、お持ち帰りできる美しい説明シートが充実しています。企画展や講演会なども力が入っています。こちらもぜひ、おいで下さい。

 今年も、見に来てくださり、ありがとうございました。来年は、1月上旬には開始する予定です。よろしくお願いします。
 また、その間、パソコンから離れます。コメントへのご返事など遅れますが、お許しください。 
 みなさんにとって、よいお年でありますように!







  1. 2014/12/30(火) 11:42:56|
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権兵衛神社(三豊市)

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 三豊市の権兵衛神社は、寛延の大一揆(西讃農民一揆)を指導し、処刑された大西権兵衛ら七義士が祭られています。
 寛延3(1750)年1月に起こった一揆は、飢饉でも厳しく取り立てられた年貢によって追いつめられた、丸亀・多度津藩領の農民が6万5千人集結した大一揆でした。那珂郡・多度郡・三野郡・豊田郡、つまり、丸亀・多度津藩の全体に広がる全藩一揆でした。このころは農村の格差が拡大してきた時期ですが、このとき年貢未進(負債)を抱えていたのは零細農民だけではなく、中小農民のなかにまで広がっていました。

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 彼らが要求したのは、年貢未進の返済を30年で無利子にするなど経済的要求、年貢の銀納分を恣意的に決めず、大坂の相場に従う、役人の不正・乱費をなくす、などでした。1月23日、藩側は善通寺客殿で農民代表と会見し、13か条の要求のうち10か条を認め、残り3か条は保留としました。
 しかし、この一揆の最中、幕府は全国化した一揆に驚き、一揆弾圧令を出していました。2月10日、この知らせが丸亀藩に届き、丸亀・多度津両藩は態度を一変させました。指導者の捕縛、処刑、領外追放を行い、約束の破棄を通達しました。ただし、役人の不正・乱費などに関する要求は認めました。

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 権兵衛さんの辞世の句「此の世をば 泡と見て来し 我が心 民に代わりて 今日ぞ嬉しき」。元首相(当時大蔵大臣)大平正芳氏が揮毫しました。

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 右に見えるのは芝居小屋です。

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 8月の第1日曜日にイベントや権兵衛芝居が行われています。

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 宇賀神社(三豊市)の随身門です。七義士がこの天井裏で評定を行ったと伝わります。
 彼らが村々に呼びかけた回文には「御出の節は、かま・くわ・みのがさ御持参ならるべく候」とあり、脇差・鉄砲など武器を持たないことを指示しています。江戸初期を除いて、一揆はデモ行進に近いのが実態でした。大庄屋・庄屋の中には打ちこわしにあった者もいますが、役人の不正を糺すという一揆のスタンスにギリ納まっていると考えられます。

 (『讃岐の一豪農の三百年』刀水書房など参照)

 
 小村田之助さん
 新本義民
 山中一揆
 義民、徳武某と久森某 
 渋染一揆
 浜崎周吉さん
 西讃血税一揆
 伏石事件
 金倉寺事件


  1. 2014/12/28(日) 12:46:11|
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光賢寺(琴平町)に残る血税一揆の跡

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 光賢寺(真宗大谷派)には、驚くべき歴史の目撃者が残っています。史跡指定されているわけではありませんが、すごい史跡だと思います。
 1873(明治6)年、徴兵令に反対する全国的な一揆、いわゆる血税一揆が起こりました。香川県でも大一揆が起こりました。前年に発布された学制に対しても反対一揆が起こっていましたが、1871年に藩がなくなったばかりだという点に注目しなければなりません。ほとんんどの国民は苦しい生活を強いられてきた農民です。明治になったばかりなのに、働き手であるこどもを学校に取られ、授業料も徴収されるという生活苦から一揆が発生したのです。立て続けに出された徴兵令に、「おいおいっ」てなるのも分かります(このすぐ後には、地租改正で租税負担が江戸時代と変わらないことが決められ、やはり一揆が起きます)。
 以下、『讃岐の民衆史』によります。1873年6月26日、西讃血税一揆が起こりました。三野・豊田・那珂・多度・阿野・鵜足(うたづ)の6郡、130か村から2万人以上の農民が蜂起、4日間にわたって戸長・村役人・役場・警官詰所・小学校・寺院など600か所に放火・打ちこわしを行いました。
 光賢寺にはその時の焼け跡が残っているのです。写真の山門の裏側です。

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 庭に入ってまず目に入るのが、親鸞聖人像です。

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 遠目には、焼け跡らしきものが見えません。

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 あっ、左の柱が黒い。

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 はっきり残っていました。

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 一揆に対して、政府は広島鎮台高松分営の軍隊・士族・羅卒(警官)をさし向け、激しい戦闘も起こりました。農民の死者50余人、重軽傷者多数でした。処罰は、死刑7人、懲役51人、杖罪103人、笞罪26人、棒鎖1人、除族2人、罰金16,606人でした。

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 左に見える山は象頭山(大麻山)です。
 空襲の焼跡はたくさん保存されていますが、血税一揆の焼け跡が保存されているのは、奇跡的だと思います。

 『讃岐の民衆史』が1985年発行なので、もう残されていないかもと思い、お電話させていただきました。めんどくさい奴とも思わず、自由に見ていってくださいとおしゃって頂き、感謝感激。行ってみると、立派な建物が建っており、庭へ行くときご自宅前を通ると監視カメラがあり、ピンポン!と鳴ったので、事前に許可を得ているのでかえって迷惑かなと思いつつも、玄関に向かい、あいさつをさせて頂きました。その際も、とても親切な対応をしてくださり、恐縮しました。
 ご立派な建物を見ても、山門を修繕するのは容易だろうなと思いました。歴史的価値を意図的に残されてきたご見識に感動。



 
  1. 2014/12/25(木) 08:23:37|
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弘安寺廃寺(まんのう町四条)

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 四条幼稚園から東南へ100mほどの場所に立薬師と呼ばれるお堂があります。ここは、白鳳期の寺院・弘安寺の跡です。
 当時は1町(109m)四方もあったそうです。飛鳥時代後半~奈良時代の瓦が出土しています。また、軒丸瓦は、三木町の上高岡廃寺、さぬき市の極楽寺跡、徳島県美馬市の郡里廃寺から出土したものと同一の木型で製造されたものです。

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 塔の心礎を転用したものだそうです。また、お堂の下にも礎石がたくさんあるそうです。

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 お堂の横にある、十三仏笠塔婆です。四条村の人々が1519(永正16)年9月21日につくったと書かれています。写真ではさっぱり見えませんが、小さな13仏が浮き彫りされています。また、両側には、金剛界大日如来を表す梵字と胎蔵界大日如来を表す梵字が彫られています。

 ここはまんのう町ですが、地図(ヤフー地図で幼稚園名を検索→斜め下の自治会あたりを拡大→立薬師)を見れば分かりますが、金毘羅さんの近くです。金毘羅参りの時、足を延ばしてはいかがでしょうか。周囲は、とても静かな住宅地ですので、一人でこそこそしてください。怪しまれない範囲で。




  1. 2014/12/22(月) 18:02:29|
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徳武神社・久森神社など(さぬき市)

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 さぬき市歴史民俗資料館で、江戸時代中ごろの義民の墓が、神社として祭られていることを知りました。
 徳武さん・久森さんといいます。写真は資料館による説明ですが、「某」っていうことは、お二人の名前が伝わっていないということでしょうか。同館HPによると、最初は庄屋・大庄屋に訴えたとありますが、しかし、苗字があるってことは、このお二人も庄屋さんクラスの人物でしょうか。資料館に写真も示されていましたので、これらを参考にして現地を訪ねてみました。

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 徳武さんを祭った神社です。洪水被害で苦しむ農民のため、二人は1743(寛保3)年、年貢減免を藩主に直訴しました。
 ここは、富田小学校の西の道を北に行き、産宮神社のすぐ北で細い道を西に入ったところ。

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 こちらは久森さんを祭った神社です。こちらも富田小学校から近く、140号線を郵便局から少し東へ行ったところです。
 江戸時代、直訴すればまず処刑されます。しかし、それと引き換えのように、全てではないかもしれませんが、願いが聞き届けられるのが通例です。そして、直訴した人は義民として、農民たちからしたわれ讃えられ、物語や芝居として後世に伝えられることもよく見られます。徳武さん・久森さんのお墓も神様として祭られています。また、直訴の翌年、農民たちが作った「義民久森ののぼり」が伝わっているようです。
 

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 二人の赦免を願い出たお坊さん、秋仙さんのお墓にも手を合わせてきました。場所は、140号線を爛川まで行き、川の西の道を南へ入ったらすぐ、家の間を西へ行き少し上がったところ。場所が分からなかったのですが、散歩中の方に伺うとすぐ教えてくださいました。ありがたいことです。

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 資料館にあった書(写しだと思います)。

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 徳武神社を探していて、場所を教えてくださったうえに、クルマを置かせてくださった、産宮(さんのみや)神社です。安産祈願などで有名なようです。
 こんな掲示板がありました。長宗我部さんの雨滝城攻めのとき、ここにも兵隊を置いたそうです。その際、神威を恐れ、元親さん自ら乱暴禁止の制札をここに建てたのだそうです。その棒杭が残っていたのが、いつの間にかなくなったそうです。説明では、それを復元したとあるのですが、どこなのか分かりませんでした。



 
  1. 2014/12/19(金) 08:38:10|
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本山寺(三豊市)

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 第70番札所・本山寺(もとやまじ)は三豊市にあります。
 駐車場にクルマを停めると、まず、この仁王門が目に入ります。

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 県の重要文化財で、鎌倉時代の作といわれているようです。国宝!!!!の本堂は後で見に行きましょう。

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 鎌倉時代の建築様式は和様(三十三間堂など)、禅宗様(円覚寺舎利殿など、唐様ともいう)、大仏様(東大寺南大門など、天竺様ともいう)と、それらを混ぜた折衷様(観心寺金堂など)があります。この仁王門は折衷様のようです。

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 その近くに、県指定有形文化財の鎮守堂があります。昭和59・60年の解体修理の時、1543(天文12)年に着手し、1547(天文16)年に完成したことが記されているのが発見されました。ただ、1714(正徳4)年に大修理されていることも分かっていて、江戸中期の様式も混ざっています。それで、できるだけ室町期の様式に戻して修理したそうです。
 内部には、南北朝期と推測される善女龍王像が安置されていました。善女龍王さんは、空海が京都で雨乞いをしたときに現れたといわれていて、他に残っている作品としては絵画しかないので、貴重だそうです。

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 山門が別にあります。

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 実は、不動の滝を見に来て、近くなので立ち寄ったのですが、こんなにお宝がいっぱいだとは知りませんでした。うれしくなりました。

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 しかも、立ち寄った理由は五重塔でした。解体修理を前に今年、学術調査が行われ、何度かニュースで取り上げられたからです。

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 明治43年に完成したのですが、江戸時代の様式を残していて、近代の技術を伺い知ることができます。心柱は吊り下げられていて、下まで届いていません。今回の調査で、心柱の下の木の箱と、地面の正方形の心礎の下に埋められたかめから、たくさんの経石が見つかりました。経石とは、お経の文字が書かれた石です。他にも、家内安全、息災延命などと書かれた石が出てきたそうです。

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 今回の解体修理は、塔が傾いてきたからだそうです。ピサの斜塔まではいってませんが…。ちなみに、ピサの斜塔でガリレイが落体の法則を実験したというのはウソのようです。空気抵抗がなければ、高い所から落とした堅い球も羽毛も同時に着地するだろう、と理論上の話をしただけのようです。凡人にとっての「経験」を越えるのが、科学の力で、それはロケットを飛ばしたり、様々な応用で実証されます。優れた発明や目に見える価値を生み出さないのが、我々凡人が口にする「経験」だとも言えます。なぜか、話が脱線…。

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 国宝!!!の本堂です。
 昭和28年の解体修理の時、礎石に正安2年(1300)(1300年)と墨書されているのが発見されました。また、棟札には暦仁2(1239)年と建長7(1255)年に修理され、正応4年(1291)年に本堂破損再建と書かれているそうです。
 長宗我部軍が本堂に乱入したとき、住職さんを切ろうとしましたが、阿弥陀如来の右手から血が流れ、軍勢は驚いて退去したと伝わります。


  1. 2014/12/16(火) 18:08:42|
  2. 史跡・文化財など
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讃岐提灯

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 11月22日(土)、香川県立ミュージアムのワークショップ「讃岐提灯づくり」に参加しました。講師は、三好正信さん(提灯作家・県伝統工芸士)と三好年也さん(提灯作家)でした。三好さんは世界的にも有名です。簡単な経歴はお店のHPにも載っています。「讃岐提灯」で検索してください。

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 讃岐提灯は、四国八十八ヶ所巡礼や金毘羅参りなどで全国からいろんな明り文化が入ってきて、そのなかから讃岐独自の手法が生みだされてきたそうです。
 讃岐一本掛け提灯は一本の竹ひごを切らずに作ります。すごい!!

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 しかも、三重構造になっています。

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 ワークショップでは、和紙に竹ひごを貼りつけるだけの、折提灯を作りました。写真は、作ってお持ち帰りしたもの。形をつくるのも初めての上、色をつける時間が短かったので、適当な感じに…。ちょっと試作してみましたというシロモノです。昔の人が、木の枝を折って和紙を貼り、簡単な明りにしたのが提灯の始まりらしいです。

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 全く色を塗る時間がなかったもの。
 形だけなら、本当に短時間でできます。ビックリです。また、世界遺産になった和紙のよさも再認識しました。
 折提灯の基本的な作業が分かって、とても有益な体験でした。






  1. 2014/12/13(土) 08:32:52|
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詫間海軍航空隊跡(三豊市)

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 232号線が香川高専詫間キャンパスを迂回する辺りです。この眼下に、詫間海軍航空隊がありました。

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 道の反対側には防空壕跡と慰霊碑があります。

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 海沿いには、詫間海軍航空隊滑走台がいくつか残っています。

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 土木遺産に選ばれています。

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 302人の特攻隊員がここを飛び立っていったそうです。

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 美しい瀬戸内海の島々をどんな気持ちで眺めたのでしょうか。

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 いまでは瀬戸大橋が目に入ります。

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 詫間民俗資料館で平和を考えるテーマで展示されていた、水上偵察機『紫雲』の先端。

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 日本の平和、もしくは正義の勝利を願って戦死した方々の心情、とりわけ、そのために命をささげることを覚悟された特攻隊の方々の心情を思うとき、身の引き締まる思いとともに、強い悲しみに襲われる。この戦争による死者を悼むのは当然のことである。しかし、この悲しみの意味を少し語りたい。
 日本の行なった戦争、少なくとも、満州事変に始まる十五年戦争が侵略戦争であったことは紛れもない事実だからだ。もっとも、侵略ではなかったという立場の人々が存在することは知っている。しかし、日本が武をもって支配・強要した国々が、逆に日本に攻め込んだ事実はない。今の日本が最大のパートナーとしている米国をはじめとする先進諸国すべての認識は、当時(独伊以外)も今も日本の行為が侵略であったことでは一致している(※)。また、このことは戦後日本が加盟し、その中で重きをなしたいと願っている国際連合の認識でもある(いつか敵国条項に抹消線が引かれても、国連ができた経緯として歴史には残る)。ゆえに、これは日本政府の認識でもあり、したがって外務省のホームページにも明記されている。つい最近、中国を訪問した安倍総理大臣も歴史認識については歴代内閣の立場を堅持すると明言した。
 早く過去のことにしたいと考える人々もいるだろう。しかし、一方では、一般に人々にとっての時間感覚を一方的に決めることはできないということがある。加害側には、罪の意識を背負い続ける人々もいれば、さっさと荷物を下ろしたがる人々もいる。しかし、被害側のダメージは容易に消えるものではない。たとい寛大な人々であっても、加害側の中から「間違っているのはお前たちだ」、「もういいだろ」という声が聞こえてくれば、癒えかかった傷口が広がらない人がいるだろうか。個々人の精神的ダメージには、トラウマという現在形で働き続ける過去さえある。社会的・国際的問題となれば、ことが大きければ大きいほど、過去となるには時間がかかるのは当然である。他方、過去を克服するとは、この場合、事実認識がほとんどの国民の間に根付いていることである。侵略の事実を認めるとは、何が侵略かを判断できるということであり、国際的な共通認識をもっていることである。しばしば、過去の自国の行為を教育などで徹底しているドイツに対し、日本はドイツとは違うという人々がいるが、その主張にあまり意味があるとは思えない。この世に存在する物事で、他との共通点と差異とをもたないものは何もないからだ。それぞれの仕方で行った侵略の事実に対して、真摯に向き合うことが前に向かって進むために必要なのだ。この点に変わりはない。その意味で別な道を歩むとは、過去を引きずり続け、国際的信用を欠く道を歩むことでしかない。
 靖国神社の立場は明確だ。日本は過去に誤った行為をしていない、したがって、戦犯も存在しないというものだ。正義の戦争のための死者の魂を英雄として祭り、神国日本の無謬性を主張している。先に述べたとおり、侵略によってアジア諸国に多大な迷惑をかけたというのは日本国政府の公式見解であり、世界に対して明確に発信している。その一方で、政府の要人が侵略を認めない立場に支持を与えるかのような行為をすることは、二枚舌である。怒りや不信、不快感が世界に広がったのは自然な反応だ。それに、国家の代表者に(本音がどっちであれ)表裏があるようで、子どもの心に正義感が育つだろうか。おまけに、この立場の人々の一部は、世界に明言している国の立場を個々人が口にするだけで恫喝することがあり、反社会的側面さえ見られる。そもそも、政府の主張が位置する世界の常識に逆らって、一体どんな結果を望みうるのか。「国益」を害するばかりである。私個人は(現在認められている専守防衛を認めつつ)非武装中立を目指すのが理想だが、理論上は集団的自衛権をもつという選択もあるだろう。しかし、その立場に立ってみても、何が侵略かを判断できない国というレッテルを貼られたら、どれだけ日本にとって不利益か、考えた事はあるのだろうか。経済的にも、アジア諸国との連携が欠かせない時代だ。無用の争いは避けたい。その他、領土問題等で他国の間違いを正すためにも、核兵器廃絶等で日本の主張を有効にするためにも…いろんな意味で自ら襟を正すことが必要だ。私は謙虚であることが日本人の美徳となり、同時に意見を通しやすくして国益にもつながると思う。
 戦争で亡くなった方々の心情を思うとき、私は悲しくなる。平和や正義を信じて命をささげた、その心情をこそ尊重しなければならない。いま、我々は戦時中の教育や情報操作によって、多くの国民が正しい認識をもつことが困難だったことを知っている。いまを生きる我々が誤った認識を尊重してどうするのか。平和や正義のために命をささげようとした魂に真剣に向き合い、正しい認識のもとその志をこそ受け継ぐべきではないのか。誤った認識をもたされ、国民の尊い志が利用されたのだ。権力者たちは、亡くなった人々にまだ戦争中と同じ嘘を語りかけるのか。それこそは国民の尊い志を穢す行為ではないか。そうして他方で、今を生きる国民を再びただ利用しようとしているのか。若くして戦場に散っていった人々の覚悟や無念さを思うとき、私はこんな欺瞞が存在していることに怒りと悲しみを感じる。
 特攻隊の基地の跡に立って、どうしても抑えられない思いを書いてしまいました。まだ、言い足りないことはありますが、一言触れるに留めます。沖縄戦で亡くなった方々、空襲や原爆などのために亡くなった方々、みんな国のために尽くしていました。そして、戦争に反対して、節を曲げなかったために、まるで足蹴にされるように死んでいった人々がいました。やはり、国を憂う私心のない犠牲的精神です。私にはまねできそうにありません。そんな恐ろしい時代に戻らないことを願うばかりです。江戸時代の義民を思い出させますが、今では義民の顕彰碑には地元出身の総理大臣らの名も見えます。しかし、国賊の汚名を着せられて亡くなった方々の顕彰は地元有志などに留まるのではないでしょうか。

(※)戦争の結果として、千島列島に米軍・ソ連軍が、沖縄に米軍が攻め込んだが、千島列島はソ連→ロシアが不法占拠。

(蛇足)
 もし仮に、神がいて、信じるべき宗教があるとすれば、それは決して、政治を語ったり、戦争を導いたりなどしない。祭政一致は神を人の手垢にまみれたものにする、神の名を騙るアナクロニズムでグロテスクな政治である。神の名をみだりに唱えるなかれ。神を政治の具にするなど、神を穢すにこれほど甚だしいものはない。私は決して、戦死した人々の魂の美しさを否定しない。さらに、神を否定しない。だが、生身の人間は過つのだ。無謬ということはない。死んだ人の魂に戦時中と同じ嘘を語りかけ、戦時中と同じように神意を代弁する。神をも恐れぬのは誰か。
 別の追悼施設をつくったらどうか、という意見もあるようだが、むしろ、当時の限られた認識のもとで尊い命をささげた人々の魂にただ手を合わせ、平和を誓う場所になって欲しいと思います。政治的主張をやめてほしい。また、政治がそこに関わることをやめてほしい。亡くなった方々の魂を、いつまで苦しいあの時代に閉じ込めるのか。人間界の思惑から解放してあげてほしい。極端なことを言えば、本当に政治(人間)を超越した神であれば、他方でA級戦犯も穏やかに眠れるでしょう。

(蛇足2)
 互いに矛盾し、両立しない論理を平然と並べて持ち出すことを、「ああ言えばこう言う」といいます。日本が過去に行った行為は間違っていないという立場から、悪いのは日本だけではないという理屈が平然と飛び出してくる。日本は侵略をしていないし、侵略をした(!)のは日本だけではない…という。
 あえて、後者について述べておきたい。近代資本主義的な帝国主義が世界を席巻したことを言いたいのだと思います(※)。しかし、そもそも帝国主義自体が否定されるべき、責められるべきことだとすれば、それを極端に推し進める行為が正当化されるはずがありません。また、帝国主義の歩みを、歴史に沿って最低限、教科書程度には具体的に見るべきだ。少なくとも、第一次世界大戦後、国際連盟の方針として民族自決が打ち出され、あらゆる国や階層の本音ではなかったかもしれませんが、帝国主義に対する一定の負の評価が共有されたのです。国際連盟常任理事国だった日本が、これに真っ向から逆らったのが満州事変でした。まだまだ矛盾を抱える帝国主義諸国の譲歩にもかかわらず、日本は合意を探る努力をせず、連盟を脱退したのです。他方、このころの日本が国家としての体をなしていなかったことは、歴史学者はいうまでもなく、松本清張さんや半藤一利さんなどの多くの著書から学ぶことができます。軍の出先機関が独走する、政府や軍中央の命令も聞かない、で、独走を追認する。マスコミが国民を煽る。そんなことの繰り返し。しかも、軍中枢を担う人の中には、出先機関にあるときには自ら暴走し、軍中央にいるときには止めに入る者もいる。立場によって一貫性がない。その最初の動きは軍人による外国の要人暗殺だったが、これに対する天皇の怒りで総理大臣が辞任するほどのことだった。しかし、軍は関係者を軽い処分にしただけで受け流した。国内でも、統帥権干犯問題から浜口首相狙撃事件が起き、その後、クーデター未遂事件と要人暗殺が続く。言論圧殺は社会的抹殺・生命抹殺にまで強化される…。満州事変前後から、日本が先進諸国のなかでどんどん浮いた存在になっていったのは明らかです。世界中どこも同じだったという議論が大雑把すぎるのは明白。だれもが知っていること。「ああ言えばこう言う」の心境が、そんなことすら見えなくしている。

(※)資本主義という用語はマルクスから発し、その発展段階としての帝国主義という概念はレーニンによる。

(本当の蛇足)
 歴史を流れとしてつかむ必要があります。大きな流れはどこに向かおうとしていたのか。その中で、ある国や、社会、階層、集団、個人がどこに向かおうとしていたのか。大きな流れの中で、可能性のあるバリエーションを描こうとしていたのか、もっと先を目指していたのか、とりあえず流れに棹さしていたのか、それとも、流れに逆行しようとしていたのか、流れを大きく変えようとしていたのか…等々。例えば、アメリカで黒人差別が問題になったからといって、どこかの独裁国家が「所詮アメリカだって人権無視じゃないか、五十歩百歩だよ」という理屈で自分を正当化したらどうか。問題は、その独裁国家が世界の流れに逆行して進んでいることであって、他方で、アメリカが奴隷制の時代から真に民主主義的な国家へと前進していること、人々がさらにそれを推し進めようと意志していることは明白だ。

(本当の蛇足2)
 戦時中、哲学者が侵略戦争に加担したことを理由に、あるいは哲学がそれに対して無力だったことから、現代哲学はこの問題を核心に据えたものでなければならないかの傾向が見られる。私は、それに断固反対する。
 似たものとして、宗教者が戦争に関わった反省から、「宗教者」の立場から平和を語る責任ということが言われます。もちろん、宗教者は世間のことに無関心でよいということにはなりません。その意味で、宗教者も一人の人間の立場から平和を考える必要があります。しかし、それは「宗教」の立場から平和を考えるということではありません。問われているのは、社会に生きる人間としての責任であって、宗教という超越的な立場からの見解を打ち立てることではありません。理性的な批判の余地のない見解は、個人の内面の問題にとどまるべきであって、政治的主張へと拡張すべきではありません。戦争への関与が批判されたのは、まさしく、御仏の道に適うものとして戦争賛美を行ったからに他なりません。実際には、賛成にせよ反対にせよ個別具体的な戦争についてできるのは、個人の見解を述べることですし、それ以上の内容はもちえません。そこに「御仏の道」を冠したのが間違いです。それは「私の考え」を「御仏の道」と呼んで権威づけるとともに、「私の責任」を回避することにすぎません。これからも「御仏の道」に適うような、超越的、絶対的な政治的主張などあろうはずがありません。宗教は政治に介入せず、それこそ、時代を超越した教えとして、不殺生を力強く唱えて欲しいと思います。そして他方、人間である以上、過つこともあることを前提に、一市民としての責任から真剣に平和を考え、(仏の教えとしてではなく)人として地に足の着いた発言をしていく…求められているのはそういうことだと思います。
 哲学もこれに同じです。宗教者の「御仏の道」が哲学者の超越的な議論に置き換わるだけです。一般の人々がどこからどう切り込んでよいやら分からぬ、独自の論理で高みから社会を云々するなら、それは批判を許さぬ独断論にしかなりません。大学の偉い先生だから、庶民より高度な絶対的な視点をもっているに違いないという幻想のほうが危険です。現実社会で起きることについて絶対的見解を語れるのは、真の宗教でも真の哲学でもなく、神の代弁者だけでしょう。そして、神は実際には人々に、知恵と勇気と行動力とを(つまり、自由を)与えただけで、答えを用意してはいないでしょう。神から与えられたものをフル稼働させる責任の自覚以外に、神を信じるということはないのかもしれません。宗教や哲学は、魂の問題について、一方は信仰の面から、他方は理論的に関わるものだと私は思っています。それぞれ重要な意味を持ちますが、人としての責任はそれだけでは果たせないという、当然のことを認識すればよいだけのこと。人としての責任を宗教や哲学が見渡せるという思い上がりが、神の代弁者というへたな役回りを演じさせるのだ。

  1. 2014/12/10(水) 06:35:09|
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栗林公園の紅葉(高松市)

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 北門近く。

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 鴨場近くのイチョウ。

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 日暮亭(ひぐらしてい)。

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 1898(明治31)年に建てられた茶室。

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 西湖。

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 楓岸(ふうがん)。

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 南湖と掬月亭(きくげつてい)。

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 和船。

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 南湖。背景の紫雲山は厳密にいえば「借」景ではありません。こちら側半分は栗林公園の一部です。

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 今年も紅葉の季節が終わりました(多分)。徳島県が大雪で大変なことに…。

 若いころ、大雪のためクルマに乗っていて死ぬかと思ったことが2度あります。2度ともチェーンをしていたのですが、えらいことに。一度目。道を走っていて、「あっ、ここだ!」と気付いて、慌ててブレーキを踏むことってあります(決して急なブレーキではない範囲で)。これ、大雪の時、やってしまったのです。周囲に人もクルマもいないような所でしたが、クルマが回転しました。点になった目の前には、行きたかった場所が…。ちょうどそのまん前に止まっていたのでした。もう一回は、もう春が来ていたのですが、山の上のお寺を目指したときでした。細くてかなりの傾斜になり、恐ーっと思っていたら、道にちらほら雪が…このあるか無きかの雪がワナでした。いつの間にか、けっこうな雪が…ま、登ってるし、行けてるし。と思いつつ登ってると…あらっ!?と思った時、タイヤがスリップ。登らない。すると、ズズッ…て音です。すすす滑った!?後ろにーーーえーーーーーっ!!!「神様ーっ、いや、お寺だから仏様かーっ」とか言いつつ、左に断崖絶壁からの景色を見ながら、どーっと滑らないように細心の注意を払いながら、ズ、ズズッてバックで下りていきました。安全な場所まで来た時には冷や汗まみれでした…。



  1. 2014/12/07(日) 10:25:16|
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八栗寺・洲崎寺の紅葉(高松市)

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 右の八栗ケーブルで登り、左の道を歩いて下りました。
 五剣山が見えます。空海さんが、天から降ってきた五振りの剣を山中に埋め、五剣山と名付けたといいます。右端の峰は1707(宝永4)年の宝永地震で崩れて低くなっています。

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 ケーブルカーで山上に着き、風景を楽しみながら少し歩くことになります。

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 正面が本堂、左が聖天堂。

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 左に見えるのは香川県の保存木、32mのイチョウです。残念ながら、黄葉を見ることができませんでした。

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 お迎え大師さん。右に見える平たい山は屋島です。

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 眼下に牟礼の町から西方向がずーっと見渡せます。

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 お寺方向を振り返ると、こんな感じ。

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 歩いて、ほぼ下りてきたところで、ケーブルカーとすれ違いました。

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 1993年の「寅次郎の縁談」でロケがあったそうです。手作りよもぎ餅のお店。

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 同じく牟礼にある洲崎寺。源平合戦で亡くなった佐藤継信の菩提寺です。

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 こちらのイチョウも香川県の保存木で、24mあります。

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 四国遍路の父・真念さんのお墓もイチョウの葉で飾られています。
 真念さんは『四国邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)』などを書いて、主に修行の場であった遍路を広く庶民に開きました。道中の見どころなども紹介した、いまのガイドブックの先駆でもあります。また、真念さんは四国中に道標を建てたり、遍路宿をつくったりもしました。

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  1. 2014/12/05(金) 08:08:23|
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不動の滝の紅葉(三豊市)

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 三豊市の不動の滝は落差50m。七宝山の谷間を流れてきた水です。

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 下流域の扇状傾斜地には弥生時代の集落があったそうです。滝は弥生時代の光景にぴったりはまりそう。

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 滝の手前に橋が架かっていて、そこから駐車場を振り返る。

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 近すぎて、普通のレンズではタテにしても全貌は写せません。両側にお不動さん。

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 滝の名の由来は、弘法大師が彫ったと言い伝えられるお不動さんがあるから…のはずなんですが、まだ見たことがありません。実は、滝の手前に架かる橋は、向こう側に鎖が掛かっていて通行禁止になっています(今では、向こう側は草ぼうぼう)。初めてここを訪れた時、すでに「道が崩れて危険」という掲示とともに鎖が掛けられていましたが、向こうに道らしきものが見えました。そして、「お不動さんはこちら」みたいな案内板がありました。…それでしょうか???例のお不動さんていうのは???なんせ、見たことがないので分かりません。そんな埋もれた伝説の神秘を感じながら見るのもいいかも知れません。ただ、危険ですし、通行禁止場所には入らないでください。空海さんも怒りますよ、きっと。

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 近くには、第70番札所・本山寺があります。本堂が国宝で、最近の調査で話題になった五重塔などがあります。





 
  1. 2014/12/02(火) 08:12:03|
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犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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