どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

陣の丸古墳(丸亀市)

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 前に紹介した快天山古墳から3kmほど北へ行ったところに、陣の丸古墳はあります。地図中の赤い道が、古墳へ上がる道です。

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 入口に説明板があります。地図にあったように、道はすぐそこで右へグギッと曲がります。

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 「陣の丸」といわれる独立した丘の上に、3つの古墳があります。前方後円墳が前方部で向き合い、間に方墳を挟むという不思議な配置です。快天山古墳と同じく、前期古墳です。

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 ややっ、いい感じな予感。 
 向こうが北西で、見えてきたのは1号墳。

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 向こうが1号墳の後円部のはず。

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 南東を振り返ると、おおーっ、出たっ。形が明瞭ではないものの、中央に方墳(3号墳)を挟んで、向こう側に2号墳があります。正面に見える山は竜王山といいます。255mの低い山です。左に横山が続きます。(まんのう町にも竜王山があり、そちらの方がよく知られていて、1060mもあります。)

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 1号墳の後円部から北西を見ると、飯野山(讃岐富士)が見えます。

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 さて、2号墳へ向かって南東へ。

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 今度は2号墳の後円部から、北西の飯野山方向を見る。

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 2号墳の後円部の盛り上がり。
 陣の丸古墳は見晴らしがいいので、戦国時代には陣城(戦のための陣地)が築かれたりしたようです。かなり満足度の高い史跡です。



  1. 2015/03/31(火) 21:32:25|
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円福寺のお地蔵さま(丸亀市)

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 快天山古墳から下りて来た辺りです(すぐ南が32号線)。池の向こうに住吉神社があります。
 私の背後に、ちょっと大きめの地域の歴史に関する掲示板が貼られていました。それによると、かつて円福寺というお寺があって、この辺りに茶堂があったそうです。また、付近にはお茶園が広がっていた。円福寺のお坊さんや付近の人々によって、空海さんが唐から持ち帰ったお茶が栽培されていたそうです。そして、いまもお茶を栽培されている方がいらっしゃるそうです。
 写真の道標にあるように、どうやらこの道が高松からの金毘羅街道にあたるようで、茶堂でお茶の接待なんかがあったのかも・・・ふと思っただけですが・・・。掲示板の話に戻しますが、その茶堂にお地蔵さまが祀られていて、いつからか風雨に晒されていたので、地元の人たちが大正11(1922)年に場所を移して、お堂を建てたとあります。西へ70mというので、探してみました。

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 発見。特に説明板などがないので、確認のため、近くの方に尋ねてみました。やはり、こちらのお地蔵さまのようです。

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 かつては、金毘羅参りの人々が手を合わせたことでしょう。

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 お地蔵さまつながりで、土居のお地蔵さまを紹介します。

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 角地蔵尊と呼ばれ、地元の信仰をあつめています。文政5(1822)年とあり、由緒あるお地蔵さまです。

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 お地蔵さまができたころ

海外との関係

 田沼期   最上徳内:国後・択捉・得撫探検

 寛政期   
   1792ラクスマン根室へ:大黒屋光太夫を送還・通商を要求→長崎入港を許可/海防強化
   1798近藤重蔵・最上徳内:択捉探検
   1799東蝦夷地直轄
   1800伊能忠敬の蝦夷地測量

 文化期   
   1804レザノフ長崎へ→追い返され、樺太・択捉を攻撃
   1807蝦夷地をすべて直轄(松前奉行)
   1808間宮林蔵:樺太探検→間宮海峡
   1808英船フェートン号事件:長崎オランダ商館を攻撃→長崎奉行・佐賀藩主の処罰
   1810白河・会津両藩に江戸湾防備を命令
   1811~ゴローウニン事件:高田屋嘉兵衛と捕虜交換

 文政期
   1821(~54)蝦夷地を松前藩に返す
   1825異国船打払令(無二念打払令)

 天保期
   1837米船モリソン号事件:漂流民を届けて通商要求→浦賀(相模)・山川(薩摩)で撃退
   →1838尚歯会の渡辺崋山(『慎機論』)・高野長英(『戊戌夢物語』)が幕府批判  
   →1839蛮社の獄


その他

 文化・文政時代 11代徳川家斉の大御所政治(1793~1841、約50年)
   文化=質素倹約→文政=文政小判発行・商業活性化・庶民文化
   治安対策
       a.関東取締出役1805:領主の区別なく関東地域の犯罪を取締る幕府役人
       b.寄場組合1827:領主の違いを超えた組合で治安維持

 大塩の乱 1837
   a.天保の飢饉1832~39→郡内騒動(甲斐)・加茂一揆(三河)、打ちこわし
   b.大塩平八郎(大坂町奉行所・元与力、陽明学者)が門弟・民衆を率いて武装蜂起
   c.生田万の乱1837:国学者生田万が大塩門弟を名のり越後柏崎で陣屋を襲撃
   d.幕府は「救い小屋」で対応








 

  1. 2015/03/28(土) 15:32:01|
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快天山古墳(丸亀市)

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 綾歌町栗熊東の丘の上にある快天山古墳にやって来ました。ネットで調べるとすぐ、およその場所は分かります。ただし、近くまで来たあと、道が分からなくなります。ご近所の方に尋ねるのが一番です。丘の上に登る道は舗装された広い道です。くれぐれも、狭い道を登らないようにしましょう。私はこれまで、山で狭い道を上がって、何度も泣きそうな目にあいました。

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 初めの写真(クルマ停め放題の空き地)の脇に説明板があります。
 後円部が南です。で、北側から接近することになります。

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 快天というお坊さんの卵塔(お墓)が後円部にあることから、快天山古墳というそうです。全長98.8mは、四国最大の富田茶臼山古墳(さぬき市)に次ぐ、四国で2番目の大きさです。前期古墳としては、四国最大です。

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 初め、左の盛り上がりが前方部かとビックリします(長すぎっ!)が…

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 実は、この立て札から向こうだったりします。

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 途切れた前方部から、いよいよ後円部へ。

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 古墳て知っててお墓をつくったんでしょうか? 日本で初めて古墳の発掘調査を行ったのは徳川光圀(黄門さま)なので、古墳に関する知識はあったかも…。ちなみに、前方後円墳の名付け親は、幕末の蒲生君平さんです。

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 快天さんのお墓を囲むように、3基の石棺が埋まっていました。
 なんと、刳抜(くりぬき)式石棺としては国内最古!です。

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 後円部から前方部を見る。

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 丸亀市資料館の快天山古墳コーナー。ずいぶん長いこと展示していたので、今もあるかも…(もう終わった?)。

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 円筒埴輪など。葺石(ふきいし)も見つかっています。

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 青銅鏡や壷など。その他、鉄製品や管玉(くだたま)・勾玉(まがたま)なども出土しています。


  1. 2015/03/25(水) 00:02:02|
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ちかごろ気になる変な言葉

◎「関係性」という言葉

 昔から、ときどき使う人がいたが、最近のテレビでは「関係」と言うべきところを全て「関係性」と言っている。いつからコイツ(「関係性」)が天下をとったのか。
「~性」は言うまでもなく、何らかの「性質」を表現する。まず、大辞泉で「性質」と「関係」とを調べてみよう。

 性質「その事物に本来備わっている特徴」「持って生まれた気質」。
 関係「二つ以上の事物が互いにかかわり合うこと。また、そのかかわり合い」。
   「あるものが他に対して影響力をもっていること。また、その影響」。
   「人と人との間柄。また、縁故」。

 「関係性」という言葉は、「関係」と「性質」とを合体させている。しかし、両者は人間が物事を把握する仕方の、かなり根底に横たわる区別を示している。ある物事それ自身に備わった状態を示すのが性質で、2つ以上の物事の間に見てとれる何らかの事態が関係。身近な例を挙げれば、A君がやさしいとか、頭がいいとかいうのは、A君に備わる<性質>。A君とBさんとは親子だ、友人だ、などが<関係>。ただ、後者の場合、「どんな親子」「どんな友人同士」という、関係の質に言及しうる。「関係性」という言葉を使いたいのは、そうした場合だろう。ただ、そうした場合でも、それはA君やBさん自身にそなわる性質ではなく、あくまでも問われているのは両者の「関係」だ。したがって、昔からよく行われた「二人はどんな関係ですか」という質問は、<含み>をもっていて、期待される答えは「友人」や「恋人」といった抽象的な言葉ではなく、具体的な「どんな」に及んでいたのだ。どこまで詳細な答えを求めているか、また、答えたいかは場合による。親しい友人間なら、質問を繰り返して追求することや、じらしながら答えることが楽しいこともある。ともかく、一昔前まで「お二人はどんな関係ですか」としか言っていなかったのだ。「二人の関係はどんな性質のものですか」などという必要はないのだ。
 そもそも、「関係性」は言葉としておかしい。例えば、「水溶性」は水に溶ける性質のことをいい、「~性」というとき、「~」には性質の内容が入る。「関係性」では「関係という性質」というわけのわからぬことを指すことになる。繰り返しになるが「関係」は性質の内容にはならない。性質と関係とは物事を把握する根源的2大ジャンルであり、それぞれについて具体的「内容」が語られる。一方のジャンルそのものを、他方の内容に据えるという意味不明なことをしてはいけない。何にでも「~性」をつければ気の利いた言い方になると思うのは大間違いだ。この言葉の奇妙さは、「性質関係」という言葉の奇妙さと同等だ。
 哲学的には、本質(性質)という理解から関係という理解への流れは決定的だ。アリストテレスは「落下」は(例えば)石に備わる性質と考えたが、近代物理学では物質間の関数関係として理解されるようになった。性質と関係には、物事を把握する思考方法の根底に関わる区別がある。ちなみに、論理学では、性質を関係の一特例と見るようだが、抽象が過ぎて、2つの言葉の日常的意味合い(区別)が消し飛んでいる。それはともかく、この場合、「関係」と「性質」とを合わせた「関係性」という言葉は、「性質」の上位概念を「~性」と呼ぶ、もっとひどい過ちを犯していることになる。いずれにせよ、両者をドッキングさせるなどありえない。

 補足
 似た表現として、「関連性」という言葉がある。しかし、こちらはニュアンスが異なる。複数の事物間に何らかの関係が「成立していること」に力点がある。何らかの関係が「働いていること」を指しているといってもよい。「関連性」が「あるか、ないか」などという使われ方をすることが多い。「関連性が見られる」という場合も、一定の関係が「ある」ことを言いたいのだ。また、「関連性を調べる」など、そこに一定の関係が「ある」か否か未確認の場合によく使われる。


◎「経験値」というゲーム由来の言葉

 大辞泉で「経験」という言葉を引いて欲しい。「実際に見たり、聞いたり、行ったりすること。また、それによって得られた知識や技能など」とある。つまり、「それによって得られた知識や技能」は始めから「経験」という言葉に含まれている。さらに、「経験が浅い」という用例から、その「程度」「度合い」も意味することが分かる。「経験値」という言葉は、ニュースのスポーツ解説などで使われるのをよく聞くが、「経験値を高めた」や「経験値がものを言う」など、「経験を積んだ」「経験がものを言う」などと何ら変わらないことしか言っていない。「経験」では、あやふやだと言われるかもしれない。しかし、その「あやふや」がいいのだ。
 もちろん、ゲームで「経験値」という言葉を使ったのには理由がある。文字通り、それを「数値化」するからだ。ゲームは数値化しないと成立しない、苦労もなければ、それに伴う真の喜びもない、遊びにすぎない。しかし、スポーツにおける技量は、どちらかというと芸術的なもの。確かに、より芸術に近いスポーツでも、順位を競う際には、一定の観点・基準から表現結果を数値化するだろう。しかし、どんなに単純に見えるスポーツでも、選手のもつ技量・能力そのものはそれぞれに個性的で、数字化して比較できるような味気ないものではなかろう。人にはそれぞれに贔屓の選手がいる。結果としての数字は大切だし、一般的な訓練方法もあるだろう。しかし、それらに応じるのは個性をもった心身だ。各選手が積み上げる技量の個性は数値化できない。数字が透けて見える「値」という言葉が似合わないように思う。「経験値」という言葉はこの場合、物事に沿った理解を歪める(皮相化する)点で、「あやふや」な言葉だと言える。そして、数字化するニュアンスをあえて持ち込まない「経験」という言葉を使う方が実は適切で、その意味で正確なのだ。ゲーム由来の数値化するような言葉が広がることの背景に、何にでも数字を求める価値観の皮相化・画一化傾向がなければよいが。


◎「ただそれだけです」という表現

 大変な状況にある方が、「今は何も考えられない」という意味で使うのは理解できる。しかし、第三者がインタヴューに答える際にもよく使われる。「犯人が早く捕まって欲しいという、それだけです」「政治家として、常識がない、それに尽きます」等々。「それ以上、何も考えていません」を、なぜか、いいことを言った雰囲気にするアイテムとして多用されている。


◎「そういった形になっています(という形です)」などの表現

 「雪で動きがとれない形です」など。もってまわった言い方で、表現不足を補いたいという心理。うまいこと言いたいという自意識過剰の、まさにその(中味のない)過剰分。


◎「素直にそう思う」(と自分で言うこと)

 おそらく、「率直に」の間違い?


◎表現を雑にする「部分」という言葉の多用

 「納得できないという部分もあります」「(事故などで)運転手の慣れという部分もあるようです」等々。「…もあります」と言いたいとき、すべて「部分」で済ませる傾向がある。「納得できない思いがあります」「運転手の慣れも一因かと思われます」等、場合に応じて的確に表現して欲しい。ましてや、「危険回避という部分もあります」や「リスク管理という部分が抜けています」などは、「側面もあります」「という点が抜けています」など、ニュアンスに応じて自然と入るべき言葉があるのに、「ワザとか!」って言いたくなるほどだ。

  1. 2015/03/22(日) 20:17:40|
  2. ひょっこり思ったこと
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讃留霊王(さるれおう)神社と法勲寺(ほうくんじ)跡(丸亀市飯山町下法軍寺)

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 讃留霊王神社です。讃留霊王は讃岐の悪魚退治伝説で有名です。人間を船ごと襲って食べたといいますから、なかなかの怪魚です。讃留霊王は、西讃では、景行天皇の子である日本武尊命のそのまた子ども、武殻王(たけかいこおう)のことだとされています(東讃では、日本武尊の兄弟・神櫛王)。
 讃留霊王と88人の兵士は怪物に呑まれますが、悪魚のお腹の中で船が燃え、苦しむ怪魚の腹を裂いて外へ出ました。悪魚の毒でみんな死にかけますが、八十場の清水で助かります。怪魚退治の現場は坂出市で、いわれのある地名等が残っています。

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 神社は径20mの円墳の上に建てられています。

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 左が円墳。右手に見えるのは、地元の方による古墳の縮小モデル。

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 ちょうど真北に讃岐富士(飯野山)が見えます。この付近は白鳳期の法勲寺跡で、神社の北側に礎石などが並べられてあります。

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 「奈良時代前期」と書いていますが、奈良時代は710年~で、実際は白鳳期かと思われます。
 法勲寺は武殻王(たけかいこおう)=讃留霊王の子孫を名乗る綾氏が建立したといわれています。この付近の田んぼには条里制のあとも残り、なかなかに由緒ある土地柄です。

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 礎石は、近くを流れる逆(さかさま)川の修復整備に使われたらしく、川から引き揚げられたそうです。

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 白鳳期の軒丸瓦が何種類か見つかっています。

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 塔の心礎は、一部しか残っておらず、こちらは想定に基づき復元されたもの。

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 礎石は実物なので、むしろこちらが貴重。

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 条里制の形が残るのは、すぐ右手(手前)の田んぼ。

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 現在の浄土真宗法勲寺。古代寺院の講堂付近と推定されています。
 『法勲寺村史』によると、この石の塔は鎌倉時代ごろのものらしい。豊島石で、五層を残しているが、七層か九層だったらしい。お寺の方によると、近くで発見されたもの(いろいろと、お教えくださり、ありがとうございました)。

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 そして、こちらが割れた塔心礎の実物です。

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 お寺付近から見る飯野山。







 
   
  1. 2015/03/20(金) 18:30:07|
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地神社(ぢじんじゃ)など(坂出市)

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 坂出の塩田開発などで有名な久米通賢さん。以前にも紹介しましたが、第3回目の通賢さん関連の話です。
 塩田開発を記念して、高松藩主・松平頼恕(よりひろ)さんが塩田堤防の捨石を台座にし、地神社をつくらせたそうです。梅がきれいに咲いていました。

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 かつてはもっと広かったようで、境内で芝居や盆踊りなどが行われていたそうです。

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 向かいの公園も、かつて境内だったようです。
 これは久米通賢さんの計画に基づいて、安政2(1855)年に宮崎駒吉さんが完成させた簡易水道です。

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 少し南の角山の麓にあった大堀という水源から水を引いたそうです。

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 塩田開発にともなって、神社があちこちにつくられたようです。

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 もう一つ北側の通りにある西光寺支坊に、通賢さんの墓碑があります。命日の5月7日に法要が行われるそうです。また、本当のお墓は出身地の東かがわ市馬宿にあります。通賢さん関連は以上です。

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 地神社から東へ、19号線を渡ってすぐの延命地蔵さん。梅がきれいに咲いていました。

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 自動車を停めた市民美術館などがある一角。写真は、以前にも紹介しました郷土資料館(香川県立坂出商業学校本館)です。

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 桜が咲いていました。

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 メジロ。

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 メジロ。

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 メジロ。

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 メジロ押しっ!


 久米通賢さん1
 久米通賢さん2






  1. 2015/03/17(火) 08:22:28|
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木の葉塚・鴨廃寺塔心礎(坂出市)

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 坂出市加茂町には多くの古墳があります。場所はJR鴨川駅と讃岐府中駅との間付近で、左下に綾川と11号線が見えます。また、JRの線路と33号線とがずっと接近している部分です。地図中の大きな池の中に、史跡の赤丸マークが3つ見えます。鴻ノ池といい、烏帽子山の麓にあります。
 私はまず、この池の北端に来ました。予備知識はほとんどありません。池のほとりにこの地図と、「木の葉塚(サギノクチ一号墳)」の説明を見つけ、「とりあえず、木の葉塚を探そう!」と考えました。と、池の下を南へ向かう道を散歩中の方々を発見。まずは人に聞くべしで、その方々の元へ。「そこの階段から池へ上がって、山の方へ行く道がある」ということ、「イノシシの柵があるが、開けて通れる」ことを教えていただきました。で、池の周囲をめぐる道に上がると、ここでも散歩中の方に遭遇。

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 鴻ノ池と古墳へと続く道。散歩中の方が古墳まで案内してくださり、感謝感激しました。なんと、ちょうどこの日、市かなんかの主催する史跡めぐりの行事があった直後ということでした。情報をキャッチできなくて大失敗…。

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 でたっ。これです。

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 付近に十数基の古墳があるようです。木の葉塚は後期古墳で、木の葉の線刻画があるんだそうです。

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 案内してくださった方が、「鍵がかかっていて中は見られないけど…」と残念がってくださり、恐縮しました。イノシシが恐いけど、深く感謝しつつ、ここでお別れしました。

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 檻の間から写真を撮る。

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 望遠では、線刻を見つけるのは不可能でした。行事に気づいてたらなー…。でも、いい人と出会えてラッキー。

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 イノシシの柵を開け閉めして、ホッと一息。帰りは鴻ノ池のほとりを回って、自動車を停めた場所へ。と、「おりょ?」、池の中に何かが…。

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 池の中に古墳のあとが3つあり、そのうち1号墳がこんなかっこいい感じに。

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 こ、これだー。なんか恐い。南無阿弥陀仏…。
 さて、道路を池からほんの少し登ると、折り返して戻る道があります。ここを下ると、鴨廃寺跡があるはず。

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 ありました。説明板と、田んぼの中の巨大な塔心礎。

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 鴨廃寺は7世紀後半~8世紀初頭の寺院。他に狭い範囲に、開法寺・醍醐寺という古代寺院跡もあり、やはり、国府跡が近いせいでしょうか。

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 説明板にあったように、二重の円が見えます。外側の円が柱の太さのようです。

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 瓦を製作したところは開法寺と同じと考えられているようです。伽藍配置などはいまのところ謎です。
 梅の咲くのどかな農村風景です。


  1. 2015/03/14(土) 10:42:32|
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西教寺(さいきょうじ)の磨崖仏(まがいぶつ)など(さぬき市)

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 さぬき市の西教寺(さぬき市大川町富田東1809)です。お寺の中にも、古そうな宝篋印塔(ほうきょういんとう)などがあります。

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 門前から周囲の様子。少し見づらいのですが、右手(西側)に見えるこちらへやってくる道沿いに、西教寺六面石幢があります。以下、さぬき市教育委員会の説明板や、さぬき市文化財保護協会HPなどを参照しています。

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 凝灰岩でできており、2基とも室町時代のものです。江戸末期の『讃岐国名勝図会』に紹介され、近くに山門が描かれているようです。

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 凝灰岩は風化しやすいので、写真では文字がよく読めません。「永和2(1376)年」などと書かれています。かつて「経筒…」という字もあったといわれ、供養塔や経塚の標識として建てられた可能性があるそうです。梵字なども刻まれています。

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 こちらは「応安□年壬子(みずのえね)」(1372年)。梵字が13文字刻まれ、13仏を表しています。33回忌を司る仏で、十三仏信仰というそうです。
 お寺は火山(ひやま)の麓にあり、お寺の西を通るこの道を少し進むと、山へ登る道があります。まず、歩いて登る道が、続いて、自動車で登れる道があります。西教寺奥の院には磨崖仏があります。私は自動車で登りましたが、できたら歩くことをお勧めします。

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 左前方に見えるのが磨崖仏で、平安時代後期~鎌倉時代初頭と推測されているようです。木の後ろにお堂が見えますが、この中にも磨崖仏などがあり、時代はもっと下るそうです。

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 振り返ると、こんな感じ。道の先は急な下り坂で、ヘアピン・カーブになっています。曲がった先はゆとりのあるスペースになってますが、問題は曲がる部分。向こうは崖です。タイヤが何らかの原因で滑りだしたら、大ごとです。タイヤが磨滅しているとか、濡れた葉っぱが積もってるとか…。登るときには分からなかった恐ろしい急な坂。そして、その先は空。ガードレールはなく、本当に滑ったら、あっても役立つか否かという急さ。落ちる前のジェットコースターのおしりムズムズ感です。クルマで来る場所ではありません。距離はないですが、途中も道が狭いです。

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 話を戻します。こちらも凝灰岩でかなり摩耗しています。弘法大師が一夜で彫ろうとしたが、鶏が鳴いたので途中でやめたのだという言い伝えがあるそうです。
 地元ラジオ局のHPに、岩の右下に弘法大師の姿が見えると書いてましたが、ほんまやー。

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 火山の凝灰岩でつくられた石造物は西日本各地に流通したそうです。大川町は平安時代後期に、鳥羽上皇が京都につくった安楽寿院の荘園だったそうで、安楽寿院の凝灰岩の石仏も火山でつくられたようです。

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 雨が降りそうになったので、ここで満足して帰りました。もっと上にも磨崖仏があり、頂上には、鬢盥(びんだらい)と呼ばれる大きな水溜まりがあり、風景もとてもいいそうです。比較的低い山なので、残念でした。




  1. 2015/03/11(水) 08:37:14|
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多度津町のちょっと気になるもの

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 さぬき浜街道です。日の出町の辺りです。日の出町というのは、多度津町立資料館から北へ行くと、JR四国多度津工場への引き込み線がありますが、その辺りから北の部分です。
 写真は丸亀方面(東)を見ています。町の北側を浜街道が通っているわけですが、どう見ても海の防波堤です。写真で、堤防の右手が日の出町です。

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 西を見ています。
 日の出町は1964(昭和39)年(東京オリンピックの年)に、埋め立てによってできた町です。これは、その時の海岸線につくられた防波堤です。工業用地として埋め立てられたのですが、需要がなくて住宅地になりました。1944(昭和19)年に最初の工業用地造成の計画がもちあがり、戦争のため中断されていたようです。その後、1974(昭和49)年にさらに北側が埋め立てられ、工業用地(東港町)になっています。それで、防波堤がいかつい遮音壁として取り残されているのです。
 なぜか、1944年→1964年→1974年と、10年(20年)おき。

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 さぬき浜街道をもうちょっと西へ行った、海岸寺の北側(海水浴ができます)。

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 気になる石碑があります。

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 「日露戦役 俘虜収容所 記念松」。日露戦争の時の、ロシア兵の俘虜収容所が丸亀市・塩屋別院(第一次世界大戦中のドイツ兵の収容所にもなった)と、ここ多度津町の白方につくられました。「香川近代史研究会 丸亀ドイツ兵俘虜研究会」のHPに詳しいです。

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 ぴょこっと見えているのは高見島でしょうか。

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 東方向。たぶん、高見島だと思います。瀬戸内国際芸術祭で会場になったようです。若いころ、一度だけ行ったことがあります。海がものすごくきれいで、目に焼き付いています。もう一度、行ってみたい島です。

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 西方向。正面の小さな島は亀笠島(無人島)。


 海岸寺
 仏母院
 塩屋別院とドイツ兵俘虜
 塩屋別院大門




  1. 2015/03/08(日) 09:50:04|
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風袋(ふうたい)町・御供所(ごぶしょ)町の遍路道標など(丸亀市)

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 「四国八十八箇所霊場電子国土地図(国土地理院)」から遍路道の地図を借りています。この地図のすぐ南に丸亀城があります。赤い線が遍路道です。左(西)から風袋町の手前までは本町通りといいます。以前に、多度津の道隆寺から宇多津の郷照寺へ向かう遍路道が、丸亀城下で2つに分かれることを述べました。そのとき、蓬莱橋の西にある常夜灯は紹介しました。今回は、1から4の順に紹介します。

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 1~3は風袋町です。まず、1番目。「左 遍路道」。裏に「明治十九(1886)年」とあります。

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 2は、こっち向きの手が遍路道を示し、左向きの手は来た方向で「道隆寺」を教えています。裏に「明治二十六(1893)年」とあります。この付近が仇討で有名な尼崎里也(あまがさきりや)宅でした。

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 3の道標「右 遍路道」。あとは土居町に入って、土器川に出ます。

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 4は御供所町の遍路道標。「弘化2(1845)年」とあります。

 次は、地図上の緑の○部分(「通町」の所)に関する話です。

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 黄色い宮脇書店ビル(映画udonに出ていた気がする)の前を南北に走るのが通町。これと交差する青線が遍路道(本町通り)。左上に見えるのがJRの線路で、すぐ左辺りに丸亀駅があります。
 『丸亀の歴史散歩』(直井武久著)によれば、元禄時代(1700年前後)の地図では、赤で囲った部分は、丸亀港の海が入り込んでいた。現在のJRの線路から北あたりは海で、この赤囲み周辺は地面が低くて、もともと海がここまで入り込んでいたそうだ。元禄時代の地図には、赤囲みが中断している部分に橋が描かれていて、京橋とある。青線は遍路道で、京橋を渡った場所(通町)で一度突き当たり、さらに東へ伸びるが、遍路道のちょうど地図に見えるあたりを本町通りという。道が突き当たること自体は、城下町ではよく見られ、不思議でもなんでもない。敵が攻めてきた際、見通しが利かないように、ずらすことが多いから。京橋は貞享4(1687)年6月に架けられ、浜町の宗左衛門さんという方が渡り初めをしたそうだ。京橋ができるまでは、下の赤囲みを南へ迂回していたようだ。京橋の西の付け根は現在SPACE114(もと百十四銀行支店)です。下の赤囲みの西面・南面を通る迂回路のL字部分を、カギ町と呼んでいたそうだ。先に、道が突き当たること自体は不思議でもなんでもないと述べたが、最初、橋を架けることを全く考えてなかったなら、ここに関しては、偶然ずれちゃったのかも知れない。ちなみに、通町から東の海は、最初の遍路道の地図で、御供所を通る半円形の道のすぐ北側でした。

 最近、『古地図で歩く香川の歴史』(井上正夫著)という本を買ったが、その初っ端にこの話が出ていて、江戸時代の地図として直井氏が引用したのより少し古い『讃岐国丸亀絵図』(正保年間・1644~48年)を引用している。しかし、肝心の部分の地形は同じだし、『丸亀の…』の方が詳しい地図になっている。さて、井上氏はL字型の細くて「へんな道」があるのは何故か、本町通りが通町でぶつかって、ずれて東へ向かう「へんな道」になっているのは何故か、という疑問から、いろんな時代の地図を調べ、江戸時代に原因(入江の存在)があったことを突き止めたという。城下町で道がずれていることを「へん」だと考えるほうがよっぽど変で、ムリやり感がある。お城好きの初心者でも、わざとずらされた道が多いというのは常識だからだ。事実、氏の引用している絵図でも、外堀の内側にそんな道がいくつか描かれている。さらに、入江の左右(東西)の町が互いに無関係につくられたから道がずれたと、氏は結論付ける。しかし、それを図示するために引用された正保期の地図をよく見れば、もう一つ海側につくられた道が、橋もないのに入江の東西でちゃんと一直線につくられている…。何より解せないのが、たくさん載せられた地図の一つの説明(小文字)の中で、「このあたりには、17世紀の終り頃に京橋という橋がかけられたという(直井武久『丸亀の歴史散歩』119頁)」と、橋の話に矮小化してではあるがわざわざ直井氏の本に触れておきながら、井上氏が言っている肝心な点はすでに直井氏が詳しく述べてあるということを、全く伏せてあることだ。『丸亀の…』の愛読者の一人としては、納得のいかないことである。井上氏は明治の地図を引っぱり出したりしながら、場所を特定する証拠を積み上げるといった風に話をもっていくが、ほとんど余計な回り道で、地図を見れば一目瞭然なのだ。そのうえ、子どものころから、細くて「へんな」「L字型」が気になっていたといい、地元ならではの独自の着目として語る。が、直井氏は、L字部分は一昔前までカギ町と呼ばれていて、それなりに由緒ある場所だったことを明らかにしている。
 『古地図で…』は、でかい写真などで水増しされた感のある薄さの割に高価な本ですが、誤解のないように言っておくと、私は買いました。地元大好きで歴史を歩きたい人間には、魅力的な本でしたから。しかし、『丸亀の歴史散歩』の愛読者にして直井氏を尊敬する一人として、ひとこと言わずにはおれないのでした。




  1. 2015/03/05(木) 18:28:26|
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うたづの町家とおひなさん2015

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 駐車場の宇多津北小学校から南へ行った場所に、「右遍路道」の遍路道標。別の面に「文久三(1863)年」「西丸亀道」とあります。ここを渡って、宇夫階(うぶしな)神社方向へ向かい、会場の西端から回ることにしました。

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 宇多津は中世には讃岐の中心でしたから、お寺・町家が多く、たくさんの町家などにおひなさんが展示されています。

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 いきなりですが、ちょっとぶっとんだ飾り付けに出会いました。

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 クマ界の人気を二分する、二大巨頭が贅沢に並ぶ。

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 ふつうヴァージョン。

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 こちらは、浄泉寺の閻魔堂。
 浄泉寺はこの後方に広がるまま大きなお寺です。かつてここには浄願寺がありましたが、1588年に生駒氏が高松へ移しました。1600年に、もとの寺を浄泉寺としたそうです。江戸時代には寺子屋を開いており、1872(明治5)年には鵜足(うた)郡法勲寺楠波小学校の分教場が置かれました。村役場としても使われたことがあるようです。
 また、幕末には勤皇の志士たちが集まる場所になっており、高松藩に捕まって殺された志士のお墓があるそうです。

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 8月16日に「閻魔さん法要」が行われるそうです。
 ややこしい話ですが、閻魔堂は1873(明治6)年にまんのう町真福寺の末庵だったものを譲り受けたのだそうです。
 町の歴史に関する説明も貼りだされていて、それによると、この付近は鍛冶屋町といい、かつて鍛冶屋さんがあったそうです。桃山時代の刀が残っているようです。

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 西光寺ではいろんな行事が行われていました。写真は「船屋形茶室」。

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 昭和の歴史に関するすごい展示。

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 「天花粉」とか言ってました。私の家の付近では、「ぱんぱん」とも言ってました(パンパンするから…)。
 外に出ている品々のほんの一部ですが、家の中には超貴重なものがギッシリでした。

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 円通寺には、室町幕府管領・細川頼之さんの居館があったと伝えられ、隣の多聞寺とともに守護所跡。

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 14世紀の五輪塔(265㎝)。奈良県の西大寺叡尊塔と同型で、律宗の影響があったとされています。

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 聖徳院です。

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 「菅原道真公御手植之松」。

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 賢さで人気を二分する(?)、菅原道真さんと聖徳太子さんとが関係している、すごいお寺なのです。しっかり、拝んできました。

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 お釈迦様の誕生を祝うお花まつりの行列もあり、満足度の高いイベントです。
 昨年の様子も見てください。
 うたづの町家とおひなさん・1
 うたづの町家とおひなさん・2
 うたづ町歩き

 
  1. 2015/03/02(月) 19:00:18|
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犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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