どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

横潮神社(坂出市)

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 横潮神社には横潮大明神が祭られています。
 横潮大明神は、何度か紹介した『悪魚伝説』に登場します(坂出の昔話)。主人公は諸説ありますが、ここでは日本武尊命の子ども・武殻王(たけかいこおう)としておきます。讃岐の海で大暴れし、人々を船ごと丸呑みしていた巨大なエイを、武殻王と家来の兵士たちが退治しに来ましたが、やはり呑み込まれてしまいます。しかし、武殻王たちは魚のお腹の中で大暴れして、最後はエイのお腹を割いて出てきました。
 巨大なエイの頭は今の坂出高校の松林あたり、尾は江尻(エイの尻)町のあたりで、彼らのいたお腹は今の福江(エイの腹)町のあたりでした。古代の海岸線は坂出高校付近でした。
 しかし、悪魚の毒気にやられて、全員死にかけていました。そこへ小さな子どもが現れて不思議な清水を飲ませました。すると、たちまちみんな元気になりました。この清水は、八十八人の兵士たちを救ったことから八十八(やそば)の霊泉と呼ばれるようになりました。そして、この時の子どもこそ、横潮大明神だったのです。
 乗り物で行くなら、地図左端の太い道を11号線を越えて一番下まで下り、赤丸の上の池(御大師池)へ向かうのが分かりやすいです。池のほとりのお堂付近に軽四1台ぐらいなら、まがらずに(讃岐弁「邪魔にならずに」)停められます。一番安心なのは、駅の駐車場などに停めて歩くことです。細い道も歩きならOKなので、ここまで最短距離で1km少々だと思います。

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 この自然石灯籠が地図中の赤丸です。この道をまっすぐ行くと神社です。
 私は方向音痴なので、なぜか右へ進んで迷いました。「これはえらいことですよ、これは~」とルーキー新一の言葉がアタマの中でグルグルしました。結局、地元の方に道を尋ねて遠回りして行きました。

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 実際、どうしたら迷うのか、不思議なぐらいわかりやすい。

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 本来なら、すぐ到着。

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 横潮大明神様に手を合わせてきました。

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 その横に、日本武尊神社(悪魚を退治したのは日本武尊命という説も)。

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 若宮神社。
 ところで、広報『さかいで』(2011年12月)に、「悪魚の魂を弔うために」今の坂出高校の場所に「魚御堂」が建てられましたが、学校の建設にあたって魚御堂跡の石碑が建てられ、「魚御堂は横潮神社へ、本尊である仏像は薬師家へと移され、今に至っています」とあるのですが、横潮神社にそれらしきものは見当たりません…。高校の横にあったらしい薬師家も今はありませんし、謎だらけ…。「ひっじょーに、きびしーっ!!」(財津一郎っぽく)。でも、悪魚伝説の地、横潮大明神様を拝めたので満足。


P.S. 迷子(迷初老?徘徊?)になったとき、道を教えてくださった方から不思議な話を聞きました。
 今の11号線ができるとき、ここいらの南の山中に動物の姿をした石がいくつかあって、崇拝されていた。しかし、道路ができる際に、どこへ行ったのか分からなくなってしまったそうです。ただ、そのうちの一つは、あるお金持ちさんが自分ちの庭石にと持ち去ったそうです。ところが、その後、何があったか知らないが、その方はどこかへ行ってしまい、荒れ放題の家にいまもその石は残されているんだそうです。


 


  1. 2015/07/29(水) 18:50:58|
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不思議な伝説が残る丸亀市垂水町

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 丸亀市の垂水(たるみ)神社です。垂水町にあるから垂水神社なのではなく、逆に、地名の方が垂水神社があることから垂水村と名づけられました。
 讃岐の悪魚退治で有名な日本武尊命(もしくは、その子孫)が、この地方の人々が日照りに苦しんでいると聞きました。そして、松林の中に3本の大きな松があり、枝葉の先から水が滴り落ちているのを見つけました。それで、ここに社を建てて神々を祭ると、それからは水に恵まれるようになりました。これが垂水(水が垂れる)神社で、村は垂水村といわれるようになりました。
 悪魚退治伝説については→讃留霊王神社坂出の昔話を探すツアー

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 松は時雨松と呼ばれたそうです。2本は早くに枯れ、残る1本も江戸時代に枯れました。最後の松がこうして保存されています。

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 狛犬は泉屋庄七さんという方の作で、宮川一乗という方が安政4(1857)年に寄進したもの(『丸亀の歴史散歩』)。

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 珍しいことに、雌の方の狛犬は子犬を連れています。

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 すぐ近くの安楽寺です。修理のための募金を呼び掛けています。
 垂水神社の松から水が出なくなったころ、弘法大師がやって来ました。大師は神社で祈り、安楽寺・万福寺・常徳寺を並べて建て、満濃池の修築も行いました。すると、神社の松から再び水が滴り落ちるようになったそうです。
 長和3(1014)年に、善通寺の「善通之寺」という弘法大師の書いた額が泥棒に盗まれました。そのとき、安楽寺の仁王さん(空海さんが彫ったという謂れがあります)が泥棒を追いかけ、鵜足郡・坂本の峠で捕まえました(額坂)。

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 「額取りの仁王」さん。

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 「額取りの仁王」さん。
 こんな話も。旅人がわらじが擦り切れたので、この山門に掛けてあったわらじと取り替えました。すると、ぴたっと足が動かなくなったそうです。村人が「どしたんな?」と尋ねると、斯く斯く然々(カクカクシカジカ)、ハッパフミフミという。村人は、ここのわらじは足の悪い人が良よくなりますようにゆうて掛けとんで、直しとかないかんがなと教えてあげました。旅人がそうすると、すぐ歩けるようになったそうです(『垂水町ふるさとマップ』五月会)。

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 土器川沿いの垂水茶堂跡(以前にも、ちらっと紹介→飯野山)。北を見ています。飯野山が見えています。金毘羅さんへ向かう宇多津街道はここらへんで、土器川を東から西へと渡ったようです。『垂水ふるさとマップ』によれば、力蔵さんという方が安政元(1854)年に茶堂を建てたそうです。近くに「善六出水」という名水があったそうです。明治末ごろまで駄菓子屋さんなんかもあり、大変なにぎわいだったそうです。

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 文字が薄く、写真では見えませんが、「金毘羅大権現」「垂水村」など読みとれます。江戸時代のもののようです。

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 茶堂にあったお地蔵さん。あと三体あったそうですが、残りは「善通寺へ行かれた」そうです。


  1. 2015/07/26(日) 10:14:06|
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柞原(くばら)の水争いの証石など(丸亀市)

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 『みなみのむかし』に載っていた史跡を2つ(A・B)。A・Bを南北に分けるように東西方向に道が通ってますが、道の北側が柞原(くばら)町、南側が郡家(ぐんげ)町です。田村池の東にある大きな病院は三船病院です。

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 まずAですが、琴平工業株式会社を東から見た写真です。この一帯はその昔、本光寺というお寺だったそうです。見づらいですが、建物のこちら側に一段高くなった一角があり、お墓になっています。そこが本光寺の鐘つき堂だったそうです。ここは郡家町ですが、『みなみのむかし』で「柞原」の話としているので、お寺は道路から北(写真より右)にも広がっていたんでしょうか。
 『みなみのむかし』には不思議な伝承が載っています。豊臣秀吉さんの備中高松城の水攻めで切腹した清水宗治さんの兄がこのお寺をつくったというのです。といっても弟とともに自刃した有名な宗知(むねとも)さんではなく、誓玄(→宗晴→宗治と改名)さんという方だそうです。『みなみのむかし』では、高松城が危なくなったとき(?)に戻って、そこで討ち死にしたとあります。
 謎だらけです。本光寺はその子どもが継ぎましたが、長宗我部さんのために焼け落ち、三代目住職の時、ここから不思議な光の玉が飛んで行って、落ちた場所(川西町)に東光寺を建てたそうです(現存)。この本光寺跡付近は正面寺という地名ですが、清水さんという方がおられ、系図が残っているそうです。

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 つぎはBですが、写真は西を向いています。左隅の1mほどの石が「水争いの証石」です。昔この一帯は「茶ゴメ」の出水といって、水が湧き出ていたそうです。

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 望遠で。準備が足りず、裸足に草履で来てしまい、例によって(たびたびウィルス性の病気に感染して重症化)マダニ恐怖症の私は近づけないのでした。

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 今度は南側から。あとで本をよく確認したら、文字が書かれているのは北側で、どうしてもあぜ道に入らないと写せないと知り、がっかり。字が写っているか否か、カメラではよく確認できなかったのです。残念!!!
 『みなみのむかし』によりますと、明治27(1894)年8月、柞原と田村で水争いが起こり、役場が間に入って調停したそうです。証石には、このときに決められた両村への水の流し方(番水)の規定が書かれています。
 すごい貴重なものが残されていてビックリ。地域の歴史を本にまとめるという文化の高さに敬服。






  1. 2015/07/23(木) 18:47:49|
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丸亀城の外濠跡

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 まずは、お城の北側です。Bが外濠の角っこで、西へは33号線が、南へは細い水路のある部分が外濠跡です。Aから西へ城北小学校へと続き、そこからBに向かって南下する緑色部分が、城の水を排出し海へと向かう東汐入川の跡です。現在は緑道公園ですが、暗渠になっていて、下はいまも濠の水を排出する水路になっています。排出口は内堀の北東角と、東側中央付近にあります(丸亀市の方からお教えいただきました)。
 東中学校のグランドに藩校・正明館があり、東中学校の北側の細長いスペースは馬場、その右(外濠の内の角)は鉄砲の練習場、その南(東中学校の東側のスペース)は騎射馬場でした(『丸亀の歴史散歩』)。

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 A付近の写真。なぜ、公園の全体像を撮らなかったのか…我ながら不明…暑さにやられていた???

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 Bから北、城北小学校方向を見る。もとの東汐入川が暗渠になっている。私が子どものころは、汐入川が海まで続いており、小学校から東の方では、製材所の木材がたくさん筏になって浮かんでいた。橋が少なく、小学生にとっては向こう岸へ渡るのがめんどうくさかった。

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 Bから33号線を渡って、南方向を見る。この小さな川が、東側の外濠の跡で、当時なら、濠の角っこ付近に浮いている感じ。右の建物付近に鉄砲の練習場があったことになります。

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 先ほど見た東の濠の続きは、労災病院の西あたりにありました。いまも途切れ途切れに水路が見えます。
 南側の濠の跡がC~Fで示した緑道公園です。ここは埋め立てています。やはり、33号線が西側の濠跡で、まっすぐFにつながってました。

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 南を見ています。Cの位置にある、山北八幡神社の最初の大鳥居です。右手の木の生えているあたりから、ずーっと右(西)へ濠の跡が公園になっています。

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 「外濠緑道公園」入口。Cで北を見ています。左手、西へと濠の跡が続きます。Dにも入口があります。D地点へ行って、振り返ってみましょう。

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 D地点に到着しました。振り返ると、こんな感じ。奥がC地点。左に土塁があります。

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 ちょっと引いた写真。

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 Dから西へ向かいます。

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 ずーっと西へ。

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 Eあたりで南を見ると、濠の向こう側にあたる所に石垣が…。散歩中の方に伺うと、濠の石垣がそのまま残ってるんじゃないの(?)っておっしゃってました。昔、フナを釣ったというお話でした。

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 西側の濠。北を見ています。

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 西を見る。この緑生い茂る部分が、かつてはゴソッと掘れて水を湛えたいたんですねー。

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 Fから南を見る。このあと、満足して、来た道を戻りました。

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 東へ向かって戻るとき、飯野山が見えているのに気付きました(真ん中)。


 ついでに……


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 このまえ、ちょっと触れた昔の丸亀市の市章(丸亀藩の船印「立鼓」)です。マンホールのふたにけっこう残ってます。

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 市役所の前に目立つ電話ボックス(電話ボックス自体が希少?)があります。

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 その付近のちょっと新しめのマンホールのふたにも、旧市章がありました。






  1. 2015/07/20(月) 14:35:56|
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山北八幡宮と御野屋敷跡(丸亀市)

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 山北八幡神社です。丸亀城のある亀山の南にあるのに、「山北」八幡。丸亀市民ならその云われを知っています。もとは亀山の北にあったのですが、生駒氏が築城するにあたって、この地に移したのです。その後、山崎氏も京極氏も社殿を修築するなどし、歴代藩主が崇敬してきました。山北(やまのきた)町として町名にもなっています。正月には大勢の市民が「山の北の八幡さん」にお参りします。

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 京極侯参勤交代御船揃絵馬(県有形民俗文化財)です。お正月などには公開されています。

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 中央に描かれた泰平丸・万年丸が藩主の御座船です。

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 家紋「四つ目結」の幔幕が鮮やかです。

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 ガラスが反射して見づらいのですが、中央の泰平丸の左上辺りに、金色の鼓が見えます。藩の船印「立鼓(りゅうご)」です。昔の丸亀市の市章にもなっていました。いまでも、古いマンホールのふたには描かれています。県外で初めてそごうデパートのマークを見た時、『なんで丸亀市の建物がこんなところに…?』とびっくりしました。

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 軍馬・軍用犬の像の後ろに、四角く囲まれた一角があります。石碑には、神社がこの地に移転することになった経緯が書かれていますが、ほとんど読み取れません。私は『みなみのむかし』で読みました。生駒一正さんが移転先をどうしようかと迷っていたとき、ある夜、松の木の上がこうこうと輝き、それは一晩中続いたそうです。これは八幡様のお告げだということで、この地に決まったそうです。松の木は「神光松」と呼ばれ、大切にされてきました。明治になって、玉垣で囲みこの石碑を建てたそうです。
 残念ながら松の木は枯れてしまいました。かなり大きな木だったそうです。神職の方にお伺いしたところ、四角い囲みが玉垣を巡らせていたところで、周辺の石柱(後方にも何本か横になってました)は枝を支えるためのものだったようです。

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 神光松の種から育てられたといわれる「二代目神光松」。

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 神社から少し北へ行って、聖池の方へ向かうと、右手(道の南側)に根元に六地蔵さんが祭られている一本の木があります。
 この付近には、御野屋敷という殿様の別荘地があったそうです。高い楼閣があって、六代藩主・高朗さんが気にいっていたそうです(『丸亀の歴史散歩』)。高朗さんは楼閣を、望青楼、対翠楼、望野楼などと呼んで詩に詠んだそうです。北には、丸亀城の向こうに海が広がり、東には聖池、飯野山が、南には田畑と阿讃山脈が見えて美しかったようです。
 用水路は、お屋敷のころからあったようです。

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 地元の人々から信仰されている六地蔵さん。


  1. 2015/07/17(金) 18:08:04|
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曼荼羅寺と西行さん(善通寺市)

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 72番札所・曼荼羅寺です。西行さんは近くの水茎の岡に庵を結び、曼荼羅寺にもよく足を運びました。

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 門を入るとすぐ、昔の鬼瓦があります。

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 立派な石橋を渡ると正面に本堂が見えます。

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 かつては巨大な「不老の松」がここにありました。西行さんも見たようです。

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 残念ながら、2002年に枯れてしまい、松の木からお大師さんを彫り出しました。

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 南無大師遍照金剛。

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 アジサイ。

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 アサガオが一輪。

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 ここから我拝師山が見えます。

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 山の中腹に、73番札所・出釈迦寺の奥の院・捨身ヶ嶽禅定があります。

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 石碑は「西行法師笠掛けの桜」。誰かが笠を木にかけて忘れたのを、西行さんが歌に詠みました。
 「笠はありその身はいかになりぬらむ あわれはかなき あめが下かな」

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 大きな石は「西行の昼寝石」。腰かけているうちに、ウトウトと居眠りをしたそうです。
 残念ながら非公開ですが、お寺には「曲水式枯山水の庭」があります。西行さんが築庭を指導したといわれており、もしかして、その疲れで居眠りをしちゃったのかも。

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 ついでに、以前紹介した玉泉院の西行庵にある、「久の松」の石碑です。松はいずこへ…?
 西行法師の歌。 「久に経て 我が後の世を問えよ松 跡しのぶべき人も無き身ぞ」 「ここをまた我住みうして浮かれなば 松はひとりにならむとすらむ」

 (以上、善通寺市史参照)


 玉泉院の西行庵
 真尾坂の西行庵
 七仏薬師の西行庵
 水茎の岡の西行庵
 下がり松の跡
 西行三本松





  1. 2015/07/14(火) 17:47:29|
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高幢神社(丸亀市)

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 丸亀市の高幢(こうどう)神社です。
 大庄屋の真光家が鳥居を寄進した、と『みなみのむかし』(みなみのむかし編集委員会・H16年)で読んだのですが、ピッカピカの新品に変わっていました。以下、この本を参考にしました。

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 いい感じの石橋。
 左の玉垣には福崎宗十郎・福崎善八とあります。福崎氏は大庄屋でした。

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 安政6(1859)年の狛犬。
 ちょっと変わってないですか。向かって右側が影になって見づらいですが…。実は、狛犬さんが外を向かず、境内の中を見ています…。

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 拝殿でお参りをして、左手を見ると…

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 「西行三本松」というものがあります。

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 1167年に崇徳上皇の白峰御陵を参拝したのち、西行さんは善通寺にしばらく滞在しました(庵跡が2か所あります)。西行さんが高幢神社を尋ねたとき、住吉大明神ゆかりの石を見つけたそうです。それで、記念に松を3本植えました。

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 その後、松は枯れてしまいましたが、村人は大切にしてきました。この建物は1940年につくられたそうです。


 
  1. 2015/07/11(土) 20:11:34|
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坂出の海岸線の移り変わり

坂出の海岸線の移り変わり

 一番下の赤い線が古代の海岸線です。次に、江戸時代の海岸線が真ん中の青い線。最後は、1826年に久米通賢さんを中心に塩田開発されたときの海岸線が、いまの海岸線である一番上の赤い線。

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 坂出高校の南西角にある松林は、古代の海岸線にあった松林が残ったもの。といっても、一本一本は枯れますので、松林全体として今に続いてきたということです。かつては、学校の南側を東に向かってずーっと続いていたそうです。

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 写真向こうが東です。海岸線は、この方角に延びていたので、こう見た方がイメージがつかみやすいかも。

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 今度は、江戸時代の海岸線を見ましょう。青線の右端にある青●に、この石灯籠があります。

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 「新開常夜灯」です。 灯籠の右下に海の堤防だった石垣があり、これが延々と西へ向かって残っています。

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 「坂出の昔話を探すツアー」に参加したとき、地元の参加者の方が教えてくださり、ツアーのあとで個人的に案内してくださったのです。感謝感激です。

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 ここは確か、東を振り返って撮ったもの。石垣は現在の道からは少し南で、知らないと気付きにくいです。

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 この家は海岸べりに建っていたそうです。この位置に家があったということか、この家がリフォームしつつ続いているのかは、忘れました…。このあと、商店街を越え、少し南にずれてさらに西へと石垣は続きます。

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 けっこう歩いたあと、広めの駐車場が道の南側にあり、その奥に石垣がはっきり残っています。

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 こんな感じ。

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 最後は、地図の一番上。すでに紹介済みの、久米通賢さんがつくった一文字防波堤。東を見ています。

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 先ほどの位置から、西を見ています。この道の下に防波堤の続きが埋まっているはずです。


  1. 2015/07/08(水) 18:18:31|
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多度津町・町歩きに参加(3)

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 まずは、最初に紹介しました陣屋跡ですが、資料館(浅見邸)の模型を写真に撮らせていただいてたので、それを使って位置関係を示しておきます。
 そのあと、須加金毘羅宮を見学しましたが割愛。金毘羅の神様がご上陸された?場所だそうです。ポセイドン的な???

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 柳原菓子店でお菓子をいただいたり、手焼きの器械を見学したあとは、本町通りへ向かいました。この神様は、たどつの本陣だった油屋さんがつくられたそうです。

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 こちらに油屋さんがあったそうです。服屋さんに転職されたようです。
 以前、昭和45年のグラフたどつという本で、油屋さんの写真を見て、いまもあるんだろうかと探したのですが、どうりで分からなかったはずです。昭和45年までは残っていたのに残念。同書によれば、あの伊能忠敬さんも宿泊した記録があるようです(全国を測量して回ったので、たいがい地方の有力者宅にはお泊りしたはずです)。

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 備前屋さん。餅・まんじゅうの製造販売をしていました。金毘羅参拝の道筋にあり、大好評でした。明治中期からは肥料を扱いました。 
 
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 まちの展示館「よっていってやー」に寄っていきました。子どもの節句の伝統的飾り付けを展示していました。

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 いまはもう一般には販売していないお餅をいただきました。写真がピンボケな上に印刷が味のある袋。

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 満足。

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 本町通り近辺は、以前にも個人で見て回りました。ぜひ、そちらもご覧ください(ブログ末尾)。

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 かつて花街だったあたりを少し回りました。

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 宮崎海鮮総業に寄りました。いりこ製造機です。
 普通スーパーで何百円かで売っている「いりこ」1パックが100円で、しかも、かなりおいしかったです。海産物が安いので、みなさんいっぱい買っていました。

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 宮崎海鮮総業の前あたりは、江戸時代・明治期の防波堤が残っています(これも以前、紹介しました)。
 最後は、一太郎やぁーい食堂で、アナゴ飯や元気味噌などをいただきました。こちらも満足。

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 帰り道に教えていただいた、関西汽船の多度津代理店跡。これも、グラフ多度津(S.45)の写真と比べてみると、石段と手すりが当時のままのようです。

 本町通り
 防波堤
 多度津町のいろいろ
 多度津藩主・御座船「日吉丸



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 あとで個人的に寄ってみた、梅割り石。やはり、産廃処理場の一角に竹やぶに覆われて、ひっそりと残されていました。





  1. 2015/07/05(日) 18:41:14|
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多度津町・町歩きに参加(2)

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 前回の地図・Eの場所。東御殿の跡です。家老の林家もここに住んでいたそうです。林求馬さんは幕末に奥白方に引っ越しましたが、そちらは「林求馬邸」として残っています。

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 遺構らしきもの。

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 こっちはさらにコンクリートで助けられています。残骸を活かして治療した歯みたいで、あわれ…。

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 前回の地図・Fです。この道路が、藩主御殿の東にあった堀のあとです。北を向いています。だいたい視界の範囲までが陸地で、すぐ向こうは海でした。藩主の館があったところは、現在のJR四国多度津工場になっています。→讃岐鉄道開業記念汽車ぽっぽまつり

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 桜川。船だまりがあったところ。南を見ています。

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 桜川遊歩道を西へ。

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 極楽橋。橋から右(北)へ行けば藩主の御殿。
 極楽橋の名前の由来は、陣屋がつくられるより前は、橋より北には海までお墓しかなかったからだそうです。「へー」って聞いていたのですが、あとから『お墓』はどうなったんでしょうと「?」が頭の周りをぐるぐるしました。それはともかく、前方の小山は桃陵(とうりょう)公園で、その中腹に「一太郎やあい」の像が立っています。

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 左は旧・楽天堂医院(大正時代の建物)で、右は現役の山本医院(大正の終わり、1926年)です。

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 山本医院は国の登録有形文化財です。

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 多度津藩の家紋が2つ。

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 ヘラジカと、角につかまる少年。アクション映画なみの迫力。

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 石川金物店。かつては北前舟で財をなした七福神(七人の豪商)の蔵。

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 庇の裏まで模様をつけています。

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 ご厚意で中を見せていただけました。二階の太い梁。ゆがんだ木材をうまく組んでいます。こういうことは腕のいい大工さんでないとできません。大工の棟梁だった父が存命の時、ゆがんだ梁をちゃんと組むのは棟梁しかできないと大工さんが言ってました。ただ、だんだんと建売住宅の時代になり、腕が発揮できず嘆いていました。

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 なぜか、内部に古い看板が…。
 普段は蔵の内部を見ることはできないので、思いがけず貴重なものを見せていただけてラッキーでした。

 つづく。

 遊佐選手遊泳の地など
 林求馬邸など 


  1. 2015/07/02(木) 17:58:23|
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犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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