どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

間男地蔵(綾川町)

DSCN7677_convert_20150830211926.jpg

 羽床駅の少し北、金毘羅街道沿いに「間男地蔵」という、すごく珍しいお地蔵さまがあります。

DSCN7681_convert_20150830212037.jpg

 ことでんの「駅ヒトめぐり」によりますと、江戸時代の高松藩のお侍さんの妻が、美男子の庭男と不倫したそうです。阿波まで逃亡してつかまり、(なぜか)羽床近くで首をはねられたんだそうです。ところがその後、夜になると人魂が出るようになり、二人の霊を弔うためにお地蔵様が祭られたそうです。
 いわゆる、女敵討ち(めがたきうち)でしょうか? 映画にもなった『鑓の権三(やりのごんざ)』は、なんともすさまじく、また、悲しい話でした。郷ひろみがモテモテの権三を演じていました。

DSCN7684_convert_20150830212104.jpg

 ここから堤山(つつまやま)を見る。

鄒ス蠎翫・譬礼・蝨ー蝗ウ_convert_20150830212130

 【付近の地図】
 快天山古墳
 円福寺のお地蔵様
 満州開拓記念碑
 羽床辰蔵の墓・宮武橋



  1. 2015/08/31(月) 17:29:37|
  2. 史跡・文化財など
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

丸亀市垂水町、その2

DSCN7873_convert_20150828165008.jpg

 浄楽寺には、垂水城というお城があったそうです。といっても「500年前に」といいますから、戦国時代に入ったばかりのころに無くなったわけです。お城の主が、どうやら出家してお坊さんになったようです。
 例によって愛読書『丸亀の歴史散歩』の受け売りですが、せいぜい伝言ゲームにならないよう、正確さに気をつけたいと思います。
 『讃岐名勝図会』には「藤田大隅守城跡也」とあるそうです。
 他方、お寺の記録には、祖先は藤原房前(北家の祖)に遡り、鎌倉時代前後に景盛という人が秋田城介に任じられ、秋田と名乗りました。その子孫が、かつての藤原から藤の字をとって藤田を名乗るようになりました。…で、藤田山城守頼雄さんが出家、その子も西円と名乗り、文亀2(1502)年に浄楽寺を創建したそうです。
 大隅守と山城守との違いが気になる所ですが、細かいことは置いときましょう(直井武久氏は一説を唱えています)。

DSCN7880_convert_20150828165036.jpg

 本堂。窓などに描かれた家紋は、下がり藤と何かが組み合わさっていて、その藤田氏の家紋なのでしょうか…。

DSCN7871_convert_20150828164941.jpg

 直井氏は鐘楼のところに隅櫓があったと推測。また、付近には馬場、弓場という地名があるそうです。

DSCN7868_convert_20150828164909.jpg

 土器川生物公園の駐車場横にある、「コレラ地蔵」さん。開国の影響で、幕末から何度もコレラが大流行しますが、1879(明治12)年には全国で10万人以上の方が亡くなりました。「日文研データーベース」でこの年のコレラ流行地域を示す地図を見ることができますが、全国にまんべんなく広がっていて、香川では特に西讃・中讃で流行したようです。
 「コレラ地蔵」さんについては、丸亀市のHPに、市民レポートというのがあり、垂水町の東山正章さんという方が詳しく説明されています。若い妊娠した女性がコレラにかかり、もうすぐ生まれる子どもだけでも助けて欲しいと懇願したけれど、社会全体がパニック状態のなか、この女性は生きたまま焼かれたという話が伝わっているそうです。お地蔵さまはコレラで亡くなった方々を供養するために建てられました。

DSCN7867_convert_20150828164751.jpg

 垂水町ではありませんが、公園から46号線を少し北へ進み、八丈池横の交差点を東へ行くと、土器川の土手の手前に墓地があり、この「六十六部供養塔」があります(川西町)。
 六十六部というのは室町時代に始まった風習で、全国六十六か所に法華経を納めて回った人たちです。厨子を背負って、鉦を叩いて回ったそうです。
 『丸亀の…』によれば、嘉永年間(1850年ごろ)、慶勲という六十六部がこの近くを通りかかりました。すると、豪雨で氾濫した土器川に幼児が溺れていたそうです。慶勲さんは思わず川に飛び込んで、なんとか幼児を岸にあげましたが、ご自身は力尽きてそのまま流されて亡くなりました。駆け付けた人々は嘆き悲しんだそうです。その後、各地を行脚する六十六部の人たちが、この話を全国に伝えました。それで全国からお金が集まり、この供養塔が建てられ、盛大な法要が営まれたそうです。お金が送られてきた地名が彫られているそうですが、いまでは磨滅してはっきりしません。言い伝えによれば、西は安芸から北は陸奥までたくさんの国名が書かれていたそうです。


  1. 2015/08/28(金) 18:27:57|
  2. 史跡・文化財など
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

真行寺と若一(にゃくいち)王子神社(高松市)

逵溯。悟ッコ繝サ邇句ュ千・樒、セ_convert_20150825172237

 真行寺の南、この地図のすぐ下あたりに香川大学があります。扇町郵便局の斜め向かい辺りには、わらび餅で有名な「かねすえ」があります。

DSCN7782_convert_20150824203433.jpg

 真行寺は、幕末の1868(慶応4)年、高松藩征討にやってきた参謀・板垣退助ら土佐兵が本陣を置いた場所です。

DSCN7790_convert_20150824203647.jpg

 説明板によると、約600人の将兵が城内とこのお寺に宿泊したそうです。軍議は書院で行ったそうです。
 『わが町の文化財探訪』によると、お城の周り3か所に「当分土佐預かり地」の高札を立てたそうです。結局、家老二名の切腹と12万両の献上で高松藩は許され、征討軍は高札を撤去して引き揚げたそうです。

DSCN7786_convert_20150824203538.jpg

 樹齢300年のハクの木。

DSCN7789_convert_20150824203619.jpg

 高松市の名木になっています。
 遠州流の池泉回遊式庭園があるそうですが、一般開放していない感じでした。

P8190009_convert_20150824203712.jpg

 戦国武将の西浜城主・岡田丹後守重宗さんが、紀州熊野から若一王子神社の分霊を迎えたのだそうです。この方の子孫は高島と名前を変え、松平氏に仕えたそうです。この辺が、西から城下に入る入口にあたるそうです。

P.S. 9月12日の「高松市民大学」で、法政大学社会学部講師・ 佐賀香織氏による「香川県独立運動と中野武営」を聴きましたが、中野武営さん生家は若一王子神社の近くと推測されるようです。(高松市民大学:主催は高松大学・高松短期大学、高松市・高松市教育委員会が共催)



  1. 2015/08/25(火) 17:53:39|
  2. 史跡・文化財など
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:6

蜂穴神社と髪授神社、克軍寺(高松市)

DSCN7816_convert_20150821210517.jpg

 石清尾(いわせお)神社の北側です。ここに「蜂穴神社」と「髪授神社」とがあります。

DSCN7796_convert_20150821210231.jpg

 右へ行きます。

DSCN7797_convert_20150821210300.jpg

 いい感じ。

DSCN7798_convert_20150821210329.jpg

 すぐ鳥居が見えます。鳥居をくぐると…

DSCN7803_convert_20150821210422.jpg

 「蜂穴神社」です。
 『わが町の文化財探訪(高松市文化財保護協会)』によると、話は室町時代にさかのぼります。貞治元(1362)年、管領細川頼之さんが伊予の河野氏との戦いの前に、三島明神に戦勝祈願しました。すると、戦いのときに、蜂の大群が河野軍に襲いかかり、頼之さんは戦いに勝利したそうです。そこで、讃岐に帰った頼之さんはここに三島明神を祭り、蜂穴神社と名付けたそうです。

DSCN7805_convert_20150821210447.jpg

 その隣に、小さな祠があります。こちらが「髪授神社」です。
 昭和31(1956)年に、市内の理美容関係者有志によって建立されたそうです。飽昨能宇斯神(アキグヒノ ウシノ神)と理容業の祖・北小路采女亮藤原政之(きたのこうじうねめのすけ・ふじわらまさゆき)さんが祀られています。飽昨能宇斯神は人に髪を授け、守ってくださる神様。ウィキペディアによれば、藤原政之さんの父は、亀山天皇の時代に京都御所の警備役でしたが、宝刀を無くした責任をとって浪人。宝刀を探すため、文永5(1268)年、元寇に備え武士が集まる下関へ向かいました。そのとき、髪結職の新羅人に親子で学び、亀山八幡宮裏に髪結所を開いたそうです。父の死後の弘安4(1281)年に采女亮さんは鎌倉に移り、その腕が高く評価されたそうです。建武2(1335)年没。

DSCN7814_convert_20150821210821.jpg

 京都にも御髪神社というのがあり、そちらは「日本で唯一の頭と髪の神社」を謳っています。「頭」にも効能があるようです。建立されたのは昭和36(1961)年なので、高松の髪授神社が少しだけ早いようです。香川県理容組合HPによると、髪授神社では11月の最終月曜日、午前11時から、「髪授神祠大祭」が行われているそうです。霊験にあやかりたい方は、ご参加してみてはいかがでしょうか。

DSCN7746_convert_20150821210120.jpg

 こちらも石清尾神社に近い、克軍寺(こくぐんじ)。円珍さんの開基ということですが、長宗我部軍の戦火で焼かれてしまいました。寛永8(1631)年に生駒高俊さんが外祖父・藤堂高虎さんの追善のために再興。次いで、慶安4(1651)年に松平頼重さんが本堂を再建。さらに、祖父・徳川家康さんを祭る社をつくりましたが、こちらは屋島東照宮の造営で廃止されました。残念ながら、1945年7月4日の高松空襲で全焼、1956年に本堂が再建されました。
 お庭は一説によると小堀遠州によるもので、切支丹燈籠もあるということで出かけてみたのですが、残念ながら見ることはできませんでした(ご住職様もこちらにお住まいではないようです)。



  1. 2015/08/22(土) 09:46:02|
  2. 史跡・文化財など
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

六角堂・香東川渡し場跡(高松市)

鬥呎擲蟾晄ク。縺怜エ縺ィ蜈ュ隗貞ゅ・蝨ー蝗ウ_convert_20150819084755

 前回には松岩寺(地図左上)、前々回には霊源寺(右下の駅のマークの上)を紹介しましたが、両者のすぐ近くに触れておくべき史跡があります。右下のは「六角堂」、左上のは「香東川渡し場跡」です。

DSCN7728_convert_20150819084457.jpg

 「六角堂」は高松空襲被災者の慰霊塔です。毎年、7月3日には慰霊祭が行われています。
 昭和20(1945)年7月4日未明、「B29」116機が高松市に焼夷弾を落としました。1359人の方が亡くなり、市街地の約8割が被災しました。栗林公園に避難した人々もいましたが、公園も爆撃され、多くの方が亡くなったそうです。
 今年は参加しなかったのですが、昨年は空襲跡を歩き、体験者のお話を伺いました。また、以前、岡山で水島空襲などの体験者の話を伺いましたが、すごく印象に残っているのは、動員で水島航空機製作所(爆撃機をつくっていた)で働いていた方から聞いた話です。普段から、爆撃があったら、両手で目と耳と鼻を塞ぐようにと言われていたそうです。そうしないと、爆風で目が飛び出すのだそうです。離れた所に爆弾が落ちても、爆風で吹き飛ばされたという話も聞きました。
 8月15日にはテレビでたくさんの「終戦」特集を見ました。実際には戦争が終わった日が、8月14日のポツダム宣言受諾か、8月15日の玉音放送か、9月2日の降伏文書調印か、いずれと考えるべきか分からない。そんなことより、番組で、東京大空襲などでも国や自治体が亡くなった方を調査したり、慰霊したりしようとはしなかったことを知りました。すべて住民の手で行われたという話。そういえば、中国残留孤児だった方からお話をうかがったこともありますが、帰国の世話をしたのは民間団体で、帰国しても生きていくのが困難な状態を国は放置してきました。結局、戦後も、私たちは「国」というものを国民一人一人の幸せを目指すものにできていないし、へたすれば人を消費財か資源ぐらいにみなす傾向が強いのではないか、と思ってしまう。他方、目を外に向けると、「国際協調」とか言いつつ、実際は、利害の共通する仲良しグループでしかない。
 ベルクソンは、社会というものは昆虫社会にも似て、群れを守る本能が自然によって与えられていると言います。しかし、それは「原始的」なレベルの話で、人間は「人類」を目指すことができます。そんなのは「理想」だと片づける人もいるでしょう。しかし、他国への無理解、さげすみは動物か昆虫レベルの本能の次元に根ざしています。理想を目指すところに人間の優位があります。本能は行動を「問題」視しません。ただ遂行あるのみです。人が何かを問題にすること、考えること、それは本能からはみ出ている部分であり、それが「意識」の意識たる方向であり、人が自由であることを示しています。つまり、理想を求めないなら、人間でなくてもかまわない。

DSCN7892_convert_20150819084712.jpg

 話が大脱線…。
 「香東川渡し場跡」です。北に見える橋が地図の33号線です。

DSCN7887_convert_20150819084632.jpg

 与謝蕪村さんの句。「炬燵(こたつ)出て 早あしもとの 野河かな」。蕪村さんは高松の豪商・富山家に宿泊したのち、川を船で渡りました。さっきまで炬燵にあたっていた足。いつの間にか河原に立っている。炬燵(みなさんのもてなし)は暖かかったなあ、という句。

DSCN7885_convert_20150819084548.jpg

 上流方向。


  1. 2015/08/19(水) 19:15:28|
  2. 史跡・文化財など
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

松岩寺(高松市)

DSCN7780_convert_20150815141258.jpg

 以下、『わが町の文化財探訪』(高松市文化財保護協会)を参照しています。
 「讃岐名勝図会」に載っていて、開基は不明だが「延宝7(1679)年に再興された」そうです。すぐ西に香東川が流れており、丸亀方面へ向かう人が船に乗る渡し場があったそうです。『わが町…』は、渡し場を前にして、旅人はこのお寺で休息をとったかもしれないと言います。

DSCN7779_convert_20150815141224.jpg

 古い石碑もあります。

DSCN7754_convert_20150815140909.jpg

 句碑や俳人の墓があります。右後ろは山本古道さんの墓で、高松における(西山宗因を祖とする)談林派の中心人物だったようです。左手前はその門人、赤沢古行さんの塚です。この塚は寛政2(1790)年につくられ、織部灯篭に人物像が彫られています。ご住職様のお話では、古道さんらは平賀源内さんと親密な交流があったそうです。また、古行さんの塚はキリシタン灯篭かもしれないということです。右手前は鶴州さんという方の句碑。

DSCN7756_convert_20150815140950.jpg

 左後ろは青夫さんという方の墓です。

DSCN7759_convert_20150815141022.jpg

DSCN7763_convert_20150815141054.jpg

 一番びっくりしたのは、大きな岩の前に設置されたこのお堂でした。

DSCN7774_convert_20150815141150.jpg

 地下に仏様が祭られています。「讃岐名勝図会」には「岩窟に薬師を安置、穴薬師という。昔は海岸だったろう」と述べられているようです。ご住職様によれば、こちらももしかすると、キリシタン信仰と関係があるかもしれないというお話でした。

DSCN7767_convert_20150815141121.jpg

 神秘的です。


  1. 2015/08/16(日) 10:30:09|
  2. 史跡・文化財など
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

霊源寺(高松市)

DSCN7730_convert_20150813070527.jpg

 お寺のすぐ北にあった、謎の欄干。

DSCN7731_convert_20150813070703.jpg

 片側はさらに北へ道路を渡った公園に…。お寺との関係は不明。

DSCN7732_convert_20150813070737.jpg

 霊源寺は、栗林公園北口から山沿いに500mほどの所にあります。高松藩・第二代藩主・松平頼常さんの母・親量院さんの墓所です。ずっと右手の塀の向こうに少し見えるお墓がそれなのでしょうか?

DSCN7733_convert_20150813070816.jpg

 お寺はもと香川郡坂田郷―石清尾山(いわせおやま)南麓付近―にあり、千光寺といいました。初代藩主・頼重さんが女婿の菩提を弔うためにこちらに移し、霊源寺と改称したそうです。

DSCN7742_convert_20150813071033.jpg

 入ってすぐ右手にあったのですが、謎。あとで水撒きされていたお寺の方に、いろいろと教えていただいたのですが、この印塚のことをすっかり聞き忘れました。もともと、人と話すとき緊張しすぎて意識が薄れていく方なので失敗談には事欠きませんが、このごろ加齢による物忘れも手伝って、しまった!しまった!の連発です。関係ない話ですが、英語なんかだと、Oops!とか、Oh,no!とか、Shit!(くそ!)とか、ほとんど音でユーモラスに気持ちを表します。気持ち発散型とでも言いましょうか。「仕舞った(手遅れ)」は事実を口にしているだけで、感情の発散が少ない気がする。

DSCN7735_convert_20150813070848.jpg

 本尊は子安観音です。この観音像は元禄10(1697)年に綾歌郡長炭村(まんのう町)の佐岡寺山?から出土したそうです。二代藩主・頼常さんの母・親量院さんの発願で元禄12(1699)年にこちらに安置されました。頼常さんの母は、水戸藩主・光圀さんの側室です。初代高松藩主・頼重さんと光圀さんとは兄弟で、互いに跡継ぎの子どもを交換したのでした。

DSCN7739_convert_20150813070956.jpg

 「瘞刀之碑(えいとうのひ)」というものがあります。瘞は「うずめる」という漢字。

DSCN7737_convert_20150813070923.jpg

 慶応4(1868)年3月に、参政・玉井信敏さんが藩主の密書をもって江戸へ行く途中、三河・岡崎で薩長兵に見つかり、密書を焼いて切腹したそうです。そして、このときの刀がここに埋められているのだそうです(『わが町の文化財探訪』高松市文化財保護協会)。幕末の高松藩は戊辰戦争で幕府方だったので朝敵とされましたが、すぐに新政府側に恭順することを決め、すでに城は明け渡されていたはずなので、いまのところ経緯がよく理解できずにいます。自分でも調べてみようとは思っていますが、ご存知の方、お教えいただけると助かります。

P.S.さらに、子安観音が出土した「佐岡寺山」というのは、佐岡寺と関係あるんでしょうか?






  1. 2015/08/13(木) 11:14:52|
  2. 史跡・文化財など
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

四国村3(高松市)

DSCN7490_convert_20150809130411.jpg

 四国村紹介の最終回です。やはり、解説は現地の説明板を基にしています。
 こちらの民家は徳島県の「木地屋」地区にありました。そこは、盆や椀などをつくった木地師の住んだ村でした。安永10(1781)年の棟札が出てきました。

DSCN7492_convert_20150809130523.jpg

 仏壇の前の床が開くようになっていて、湯灌の水をそこから床下に流して、魂が家の中にとどまることを願ったんだそうです。不思議な習俗ですね。
 関係ない話ですが、私の祖父が亡くなったとき不思議なことがありました。通夜の夜、高校生だった私が疲れて眠っていると、棺の方から大きなクモがまっすぐ私の顔に向かってきて、ぴょこっとのっかったそうです。周りの大人が追い払おうとしても、私の顔の上をグルグル回ってなかなかのかなかったそうです。もちろん、数秒のことでしょうが、そのあとどこかへ去ったそうです。翌日、みんなが「あれはおじいさんじゃ、お前に会いに来たんじゃ」と言うのでした。

DSCN7491_convert_20150809130453.jpg

 私が小さいころ、カマドはまだ使われていました。といっても、すぐに電気炊飯器の時代になり、しばらくはカマドの上が物置になっていました。たぶん、井戸にふたがされ、その上に洗濯機がのっかったのもそのころ…。

DSCN7493_convert_20150809130556.jpg

 縁側はいいですねー。昭和30年代はどこの家にも縁側があったように思います。縁側で「あー、お茶がうまい」と年寄りのまねをして、イヌやネコと日向ぼっこしたり、涼んだりしたものです。ホタルや月見も縁側が定番でした。

DSCN7499_convert_20150809130627.jpg

 添水唐臼(そうずからうす)。小型の水車小屋です。こちらは昭和30(1955)年ごろまで徳島県一宇村(いっちゅうそん)に残っていたものだそうです。精白に時間がかかるものの、水量が少なくてもよかったのでどこでも重宝がられたようです。

DSCN7500_convert_20150809130657.jpg

 今回、いたく感動したのがこちら。

DSCN7501_convert_20150809130730.jpg

 尊敬する久米通賢大先生の生家です。いつの間にか、以前より奇麗になっているではありませんか。

DSCN7503_convert_20150809130804.jpg

 中はお店になっています。先の写真の解説・青字「久米通賢」をぜひ押して、先生の偉業を知ってお出かけください。中でくつろげるなんて感激ものですよ。

DSCN7506_convert_20150809130906.jpg

 移築の際、測量器具や大砲の木型など貴重なものが出てきたそうです。大砲の木型には装飾や付属品も描かれていたそうです。

DSCN7504_convert_20150809130833.jpg

 自宅は実験工房でもあったそうです。

DSCN7507_convert_20150809130940.jpg

 名残惜しい。

DSCN7522_convert_20150809131014.jpg

 丸亀市通町にあった、丸亀藩御用蔵。内部には「玉」の字の落書きが残っているそうです。米俵を数えるときに書いたようです。江戸時代は「正」の字ではなく、「玉」を書いていました。

DSCN7534_convert_20150809131117.jpg

 この洋館は、明治38(1905)年にワサ・ダウンさん(ウィキペディアに載っています)の住宅として神戸に建てられ、昭和19(1944)年から日本郵船の船員寮として使われたそうです。
 ここも内部がお店になっていて、四国村の出口が洋館の裏にあり、お店の入口の前を通るようになっています。

DSCN7532_convert_20150809131047.jpg

 イスと羊飼い像は19世紀後半のもの。ポストなどはロンドン南部のチェルシーにあったそうです。チェルシーには、夏目漱石さんが留学中に住んでいたそうで、ひょっとしたらこのポストを使ったかも…?


  1. 2015/08/10(月) 18:10:03|
  2. 史跡・文化財など
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

四国村(高松市)2

DSCN7413_convert_20150806173114.jpg

 愛媛県の山深いところにあった河野家住宅。18世紀中ごろ。
 本来、四国村の真骨頂はこうした民家で、それぞれに特徴があります。この後も少し紹介します。

DSCN7411_convert_20150806173042.jpg

 土間に入ってみました。

DSCN7408_convert_20150806173006.jpg

 紙の原料、楮(こうぞ)を蒸すクドがあったり、大きな桶がぶら下がっていたりします。

DSCN7423_convert_20150806173258.jpg

 このかわいらしい建物は、砂糖〆(しめ)小屋です。香川は江戸時代に白糖生産で日本一を誇りました。今も上質な和三盆は香川県を代表するものの一つです。サトウキビは畑で4月~11月にかけてつくられます。私が小さい頃は、サトウキビがそのまま何でも屋さんで売られていて、ガシガシ噛んでいました。あの少し青臭いけどさわやかな甘さは忘れられません。今食べたら、それほど甘さを感じないと思います(その前に口の中が出血しそう)。

DSCN7424_convert_20150806173328.jpg

 内部はこうなっています。牛がぐるぐる回って、サトウキビの汁を絞りました。

DSCN7421_convert_20150806173226.jpg

 釜屋で煮沸して、アクを取ったり、純度を高めたりします。

DSCN7397_convert_20150806172928.jpg

 これは小豆島の猪垣(ししがき)。作物を守るために長い猪垣がめぐらされています。最近、イノシシが本土から島へ向かって泳ぐ姿が映像に撮られ話題になりました。島の農家からすれば、「もーっ!!!」って感じでしょう。

DSCN7430_convert_20150806173430.jpg

 こちらは徳島県の猪垣。イノシシが垣根に沿ってウロウロしてると、陥穴(おとしあな)にどしんと落ちる仕組み。畑を守り、牡丹鍋も食べられるというすぐれもの。

DSCN7433_convert_20150806173459.jpg

 で、これがリアル罠。…危険な香りがする野外博物館、四国村へ来てみませんか。

DSCN7434_convert_20150806173525.jpg

 土佐から伊予へ越す龍王街道にあった茶堂。「坂本竜馬も…一休みしたかも…」とありました。四国の茶堂では、旅人の接待などもしていました。

DSCN7437_convert_20150806173612.jpg

 四国村ギャラリーの裏庭。中原淳一展をやっていました(終了)。特に印象に残ったのは、何かの遊びに使う世界中の風景やおしゃれを描いたカードに、かわいらしい女子の姿などに交じって、鍵十字のマークが美しく描かれた絵がさらっと入っていたこと。三国同盟のころの雑誌の付録かなんかかも…。ユダヤ人が見たらぞっとするような絵でしょう。それで女の子たちが無邪気に遊んでしまうのが、時代の空気というもの。そんな空気って恐いですね。「空気を読む」って、その場に働く力を察してうまくやれってことでしょうけど、私に言わせれば「余計なことを」って感じです。結局、そんな連中がみんなでその力を構成していくんですから。むしろ、カート・ヴォネガットさんではないけれど、この空気「なんか変だ」と気付くカナリアさんの方が偉い。…話が超脱線。

DSCN7464_convert_20150806173642.jpg

 四国村の一番高い所にあるのが、灯台関連の建物群。こちらは灯台員の住居となった退息所で、鍋島にあったもの。明治6(1873)年~昭和30(1955)年ごろまで使われました。

DSCN7468_convert_20150806173710.jpg

 初期につくられたものは洋式です。

DSCN7481_convert_20150806173806.jpg

 こちらは明治36(1903)年のクダコ灯台退息所(愛媛県)。

DSCN7482_convert_20150806173834.jpg

 外観は洋式ですが…

DSCN7478_convert_20150806173738.jpg

 内部は和式になっています。
 このあと、室内を撮ろうとして背中を窓側に寄せようとして、事件発生。ふと悪寒がして振り返ると、超巨大なクモが窓に張り付いているのでした。そのまま斜め後ろへ(何しろ場所がない)、稗田八方斎なら脳天ぶつけたぐらいのけ反り、こけそうになりました。




  1. 2015/08/07(金) 18:17:36|
  2. 史跡・文化財など
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

四国村(高松市)1

DSCN7536_convert_20150804162503.jpg

 四国村は高松市の屋島山麓に広大な敷地をもっています。中心になっているのは、四国各地から集めた民俗資料的価値の高い家屋です。ほとんどは本物を移築したものです。ここでは、その一部を紹介します。
 まずは、キップ売り場の建物ですが、これは本物ソックリに再現されたもので、実物は高知県宿下市にあるそうです。土佐の若者組の宿泊所、泊屋(とまりや)です。戦前ぐらいまでは、若者組というのが残っていて、一定の年齢になるとこういう宿泊施設で歓迎会がありました。性の手ほどきなどもあったようです。

DSCN7528_convert_20150804162404.jpg

 愛媛との県境、箕浦港にあった旧丸亀藩斥候番所。「地元民の詰めていた番所」という説明があります。
 説明がちょっとザックリしすぎて分かりません。藩の役人が詰める番所は別にあったようですが、そのことも含めて番所の仕組みがどうなっていたのか、おいおい調べてみたくなりました。江戸時代はたとえば農民なら、名主・組頭・百姓代らが代表として政治の末端組織でした。有名な五人組なんていうのもあり、隅々まで政治に組み込んでいました。「地元民の」といっても、今の町内会的な取り組みとはわけが違います。本百姓と水呑とでも区別があるように、封建的身分制はタテにヨコに細かく張り巡らされていました。そんななかでの「番所」という制度がどうなっていたのか。

DSCN7529_convert_20150804162434.jpg

 京極家の家紋、四つ目結。

DSCN7365_convert_20150804161639.jpg

 中に入ると、わりと広い。

DSCN7367_convert_20150804161713.jpg

DSCN7368_convert_20150804161740.jpg

 表側と裏側とで内部が仕切られています。
 番所で特に監視したのはなんなんでしょう。役人の番所なら、関所に近い感じだろうと想像ができるんですが。

DSCN7375_convert_20150804161809.jpg

 建物は屋島にあった消防団の屯所と小豆島にあった石蔵。

DSCN7378_convert_20150804161920.jpg

 志度町にあった警鐘台ですが、もとは護衛空母「しまね丸」の無線マスト。しまね丸は神戸の川崎重工でつくられたあと、昭和20(1945)年4月3日に志度湾の長浜沖にカモフラージュして隠されました。7月4日の高松空襲のあと、27日に攻撃を受けて沈没しました。

DSCN7376_convert_20150804161839.jpg

 弾痕がなまなましく残っています。

DSCN7381_convert_20150804161951.jpg

 小豆島の石蔵は、小豆島の北浦村出身の藤原浜太郎さんが大正4(1915)年につくったもの。公債1万4千円(今の4000万円ほど)を村に寄付し、この蔵に入れておいたそうです。その利子で村の財政が潤い、村民税が軽くなったそうです。そんな人がいて欲しー!!!超尊敬します。

DSCN7387_convert_20150804162106.jpg

 この石蔵は国分寺のこんぴら街道沿いにあったそうです。古墳時代に畿内の石棺にも使われた、国分寺の鷲ノ山産・角閃安山岩でできています。明治中期のものですが、今も寸分の狂いもないそうです。ガチーッて感じ。(石船石棺)

DSCN7391_convert_20150804162212.jpg

 これも国分寺にあったアーチ橋。キーストーンの下側に「明治34(1901)年 石工 兎子尾(としお)与次郎・米吉」が築造したとあるそうです。

DSCN7393_convert_20150804162243.jpg

 キーストーン正面には鯉と唐獅子の彫刻。
 こんなアーチ橋が現地に残ってたらいい雰囲気だったでしょうね。諸事情があったんでしょう。こうして残されたことを感謝。

 以上、情報は現地の説明板から得ています。


  1. 2015/08/04(火) 17:46:56|
  2. 史跡・文化財など
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

最近買ったCD

garlandjeffreys.jpg

 よくあることですが、若いころ大好きだったアルバムがリマスターされているのを知り、今聴いたらどうかなー?とか、贅沢は敵だ!とか思いつつ、アマゾンで買い物かごに入れたまんま何カ月も(へたすると1年以上も)放置するという、散々な迷いようの末、結局、懐かしさに負けて(貧しさにもめげず)買ってしまうパターン。
 ガーランド・ジェフリ-ズGARLAD JEFFREYSさんは1943年にブルックリンで生まれたプエルトリコ系の人。1980年のESCAPE ARTISTは当時はもちろんLPレコードで、おまけのレコードがついてたんですが、それも含めて全曲が名曲といっていいレベルで、うれしすぎて涙ちょちょぎれものでした。今聴き直してみて、調子がよくないと元気いっぱいすぎて疲れる面はあるものの、やはり、いい曲の連続攻撃なのでした。
 今回のCDはさすがに3枚分入っているので、値段を考えて輸入盤を取り寄せました。どうせ送料がかかるので、ついでに、ノリントンさんの旧録音のドイツ・レクイエム(ブラームス)とモーツァルトのレクイエムが入って1,000円そこそこというお買い得CDも購入。一般にドイツ・レクイエムの録音は音の大きさの差が激しく、飛び上がってしまうのですが、このCDはそこが抑えられていて、その点でも気にいりました。もちろん、いい演奏でした。モーツァルトの方は珍しい版なのが楽しみでした。まだあまり聴いていないので何とも言えないのですが、一聴して、おーっ!てことにはなりませんでした…。

patbenatar.jpg

 パット・ベネターPAT BENATARさんは、いうまでもなく有名なアメリカのロック・シンガーで、1953年生まれです。1985年のSEVEN THE HARD WAYもよく聞きました。やはり、レコードでした(そろそろCD生産も始まっていたころ?)。曲そのものは全曲すばらしくて大好きなレコードでしたが、やはり、今聴くとあんまりノリノリ・モリモリ(?)な曲はちょっと気恥ずかしいです。とはいえ、当時からゆっくりめな曲run between the raindropsが特に好きでしたので、いい音で聴けて満足。いまさらですが、歌詞よりメロディーというか、音楽そのものを聞きたいほうなので、歌詞重視の方には私のCD紹介はほとんど無価値ですので、ご注意ください。
 2枚のアルバムをセットにしたこのシリーズは、リマスターが出てきて、そのうちこれも出るんだろうなと期待させられ続けたので、これまたブレーキがかからず、わざわざUSAのアマゾンから取り寄せてしまいました…。2015年1月に出ていたようです。いつまでも出ないので、ふと、海外のアマゾンを覗いて、目に入ってしまったのでした…。イギリスからの輸入盤でしたが、なぜかイギリスのアマゾンには出てないという不思議。「…」の理由、それはやはり、贅沢は敵だという良心の声に耳を塞いでしまったこと…。ときどき、聴いてみたい(いい音でまた聴いてみたい)というCDが心に住みついて、だんだん悪魔のささやきに変わってくるんですねー。
 最近、ゲオの宅配レンタルを知り(今更!野性児か!)、CSNの曲を集めたやつなどが気になっています。アルバム・タイトル『CSN』が何故かリマスターされないなか、ここからの曲がたくさん入っているようなので気になっています。しかし、いつも貸し出し中です。中年以上の利用者も多いんだなあとシミジミ。


  1. 2015/08/01(土) 12:50:11|
  2. 音楽
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

プロフィール

犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

最新記事

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (57)
史跡・文化財など (345)
音楽 (15)
ひょっこり思ったこと (5)
歴史 (40)
自然 (117)
映画 (5)
信仰・民俗・伝統など (70)
哲学する (14)
名勝 (1)

カレンダー

07 | 2015/08 | 09
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

FC2カウンター

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR