どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

帆山のひまわり(まんのう町)

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 今年も、帆山(ほのやま)のひまわり畑を見てきました。もしかして、もう見ごろは過ぎたかもしれません。関連HPによると、帆山での見ごろは7月下旬までとあり、中山というところでは8月中旬までとありました。

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 禁止されている路駐が目立つのが残念…。私には風景を害しているように思えるので、風景を楽しむ目的で来られる方がどうして…と単純な疑問が…?

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 昨年より、縮小している気がしました。

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 癒されました。



  1. 2016/07/30(土) 12:22:36|
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山姥の足跡

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 綾川町の生子山(ううこやまこうえん)公園です。
 小高い丘をちょっと登ると駐車場とこの看板があります。地図で見ると、けっこう歩かされる道なのかなーと思ってしまいそうですが、実はすごい狭い範囲です。左へまっすぐ行くと、軍人墓地と満州開拓団慰霊碑がありますが、そこからの眺めがいいです。
 山姥の足跡は地図の右上にあります。

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 先ほどの看板から右へ行って、山姥の方へ曲がらずに前方を見ると、こんな感じになっていて、実は古墳なのだそうです。

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 で、山姥の方へ行く道がこちら。下っています。「二十四輩さん」と呼ばれる石仏群があります。

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 …ということです。

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 坂を下るとすぐ、一段下がった怪しげな空間が…。山姥の足跡は写真中央当たりにありました。

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 下に降りる前には、こういう石仏が並んだところがあり、あたりは本当に信仰の場所って空気です。

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 外界から遮断された、独特の空間になっています。

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 こちらが、山姥の足跡。

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 山姥とその赤ちゃんの足跡なんだそうです。

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 左端の足跡にちょうど緑の葉っぱが落ちてるし、全体的に分かりづらい写真ですいません。

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 全体が足跡のようにも見えます。
 なんだか不思議な場所です。


  1. 2016/07/18(月) 21:06:14|
  2. 信仰・民俗・伝統など
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心理学者さん

 夜中になんとなくテレビをつけたら、ちょうど心理学者と称する人が「興味のない話を聞かされると、なぜ眠くなるのか」っていう某芸能人の質問に答えるところでした。飲み会などで先輩から興味のない話を聞かされ、眠くなって困っているそうだ。かの心理学者氏によれば、人間の脳は刺激がなくなると眠くなるようにできている。興味のない話は、単なる音でしかなく、脳はこれを刺激と見なさなくなるので眠くなるのです。電車に乗っているとき、ガタゴトいう繰り返し音を聞いていると眠くなるのも、脳がこの音を刺激と見なさなくなるからだ…という。
 まず思うのですが、なぜ彼らはすぐ「脳は…」と言うのか。「人は」と言えばよいではないか。人格と関係のないところで、不随意運動として起こることなら、人格からの半独立性を示すために、あるからだの部位を主語にしてもよいだろう。だが、彼らが「脳の」活動と呼ぶものは、我々の人格的で意識的な活動である。まして「眠くなる」という現象の場合、意識そのものが鈍っていくという出来事。ふつう「私は眠くなる」とは言っても、「私の脳は眠くなる」なんていう言う人はいない。日常会話では、変な目で見られる発言だ。会議中に、「私は寝たくないのですが、脳が寝るのです」などといえば、もう頭がおかしい人あつかいされること間違いなしです。心理学者たちは常識の欠落した発言によって、常識以上のことを言っていると思わせる心理学的テクニックを使っているのかも…冗談ですが…。「私の足はしびれやすい」というのは普通だが、「私の足はすぐ眠くなる」ってことはありえない。眠くなるのは、手や足、おなかではありえず、「私」以外にないのだとすれば、彼らは「私」とは「脳」のことだと前提している。検証以前に前提ありきという態度は、科学的とはいえない。しかも、ここでは脳の解剖学的、生理学的所見はつゆほども登場しない。ただ、心理学的事実関係だけが語られている。なぜ、わざわざ解剖学的、生物学的な対象としての脳に言及するのか。心理学者は物質的なものへのコンプレックスをもっていて、精神に曖昧で極端な物質的限定を与えたがっているのだろうか。ある心の法則を発見したことを証明したければ、事実関係だけを語ればよい。「脳は…」という枕詞はいらない。
 さて、話を戻そう。刺激がなくなると眠くなるというが、深夜に夢中で本を読むことがある。外的刺激はほぼ皆無に近い。なぜ、眠くならないのか。たぶん、その本がとても刺激的なのだろう。当たり前だが、刺激というのは単に外部環境のことをいうのではない。ここで心理学者氏はちょっとしたインチキをしている。彼は「興味のない話は単なる音になる」「単なる音の繰り返しは刺激とはみなされなくなる」「ゆえに、刺激がなくなって眠くなる」と、一見、三段論法もどきのような言い方をしている。しかし、よく考えてみれば、最初の「興味のない話は単なる音になる」のはなぜか。それは「話」としての刺激がないということに尽きる。そんなことは、常識的にわかっている。要するに、ここでいう「刺激がない」は「興味がない」と同じなのだ。興味がない(刺激がない)話は眠くなる、これ当たり前。最初からそう言っているにすぎない。私が「インチキ」といっているのはむしろ次の点だ。「単なる音」と「脳」との関係という言い方で、なんだか人格的・精神的なものとは別次元のステージに移行したかのような錯覚をもたらすことだ。しかし、実際はここで「単なる音」一般については一言も語られてはいない。「単なる音」と言いかえているが、それが意味しているのはあくまでも「興味のない話」でしかない。言語的意味のない音一般が刺激として扱われない、眠気を誘うというのは決して一般的な事態ではない。良い音楽は精神的感動をもたらすし、ひどい騒音は生理的不快感をもたらす。精神的なものにせよ、生物学的なものにせよ、それらは関心の対象、大いなる刺激である。結局、どうしたって、ここで問題となっている事例、先輩の発する音声については、関心を引かないものは関心を引かないという同義語反復しか語られていない。
 単に眠くならないということだけなら、その話を聞くことが強制されていなければ何の問題もない。ビールを飲んだり、おいしいものを食べることに集中したり、可能なら、友達と好きな話をすればいい。そうできない強制力が働いており、眠気を催すことのなかに閉じ込められる状況が問題になっている。テレビでの心理学者氏の眠気防止策、冷たいものを握ったり、氷水に足をつけるなどに対し、番組出演者が「変な目で見られるでしょ」とかなんとか言ってツッコんでいたが、その通りである。自分の太ももをつねるとか、誰もが常識的に知っている。どや顔をする前に、そもそも、ではなぜ単調な音は刺激にならず、冷たいものに触れるのは刺激になるのかを説明しなければならない。後者の場合は生体反応であり、あまり冷たいものや、痛みをもたらすものは、生体へ悪影響をもたらすものとして、生体が排除しようとしているか、少なくとも警戒している。その意味で、「関心を示している」のだ。面白い本や話という「刺激」は、高度で人格的な「興味・関心」だが、単に眠らないだけなら、生体レベルの「関心」で十分である。質問をした芸能人の先輩がもし、とてつもなく怖い人だったら、恐怖によって眠気は吹き飛ぶでしょう。やさしい先輩なのだから、眠い話ぐらい我慢したっていいのではないか、とかいう話はどうでもよい。
 心理学者氏は一般に、音とか刺激とか脳とかいった言葉を連発して、物理学寄りの惰性的法則をイメージさせることで自らを権威づけしたがる傾向にある。しかし、この例からも分かるように、逆に人間の意志を前提にし、さらに、生物の意志や関心といった擬人化を用いる方がより整合的な説明が得られる。つまり、少なくともテレビでよく見る心理学者氏の与太話については、むしろ常識の側にまともな説明を期待できる。
 最後に、電車の中のガタゴトについて。繰り返し音が眠気を誘うのは、この心理学者氏の言うように、脳が単なる音の繰り返しを刺激と見なさなくなるからだろうか。一般に仮説というものは、それに反するように思われる例と突き合わせて検証する必要がある。<比較①>ラヴェルのボレロのように美しい音楽なら、繰り返しは高揚感さえもたらす。<比較②>工事現場の騒音は眠りたくともこれを妨害する、生体にとって危険な「刺激」だ。以上で、「音の繰り返し云々」が根底にあるのではなく、そこに主体の関心があるかどうか(生物として、強制的に関心を持たされる場合も含めて)こそが根底にあることが分かる。次に、電車の中のガタンゴトンが眠りを誘うのは、それに関心がなくなるから、刺激ではなくなるからだろうか。刺激の無が、新聞や本、風景、考え事、向かいの席の美人など、ほかの刺激に打ち勝つのはなぜか。もちろん、いつもかならず、そうだとは言わない。私がそう言っているのではない。みなさんが「電車にガタゴト揺られてると眠くなる」とおっしゃる場合、「比較的そうなる傾向がある」ということを言っているわけです。ボレロのように芸術的対象として人を引き付けるわけでもなく、工事音のように生理的不快感を与えるわけでもない電車のガタゴトは、果たして無刺激になるのだろうか。そもそも、無刺激が眠りを誘うのだろうか。なら、<比較③>全く無音の列車があれば最適だろう。常識的に誰もが気づいていると思うが、リズムを刻むことが重要だろう。つまり、「繰り返し音→無刺激」ではなく、むしろ、繰り返しそのものが心地よい「刺激」になっているのではないか。マッサージだってそうだが、同じことの繰り返しだから途中から刺激と見なさなくなるというよりも、人をリラックスさせる心地よい刺激だから、リラックスした結果として眠くなるのだろう。

 オマケ。テレビでよく心理学者氏が「○○する人(○○という行動)は、△△という心の現れです」などと発言します。でも、それってテレビで言っちゃったら意味ないのでは? それを知った以上、それを意識して行動しますよね。少なくとも、その番組を見なかった人にしか当てはまらなくなります。そのうち、それが広まると、もう賞味期限切れになります。一般に真理といわれるものは、検証を経たものであるからには、必ず普及・応用されていって、どんどん盤石なものになっていきます。普及することで、どんどん真実でなくなることって、少なくとも学問的真実ではないと思います。


  1. 2016/07/03(日) 13:18:51|
  2. ひょっこり思ったこと
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犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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