どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

八浜合戦・備中高松城の水攻め

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 1576年、宇喜多直家は主家の浦上氏を破った勢いで、毛利氏とともに播磨に侵攻する。以後、織田方と毛利方との激しい攻防が各地で繰り広げられ、大混乱の様相を呈しました。なかでも上月城(兵庫県佐用郡佐用町)の奪い合いや、織田方の荒木村重の離反などが有名です。こうしたなか、羽柴秀吉の実力も知った宇喜多直家は1579年、秀吉と講和、織田方に与することを決めました。これにより、荒木村重の孤立、敗北も決定的になりました(捕虜になっていた黒田孝高にとってはラッキー)。
 宇喜多直家が大きな勢力であるとはいえ、毛利・織田の強大さに比べれば、究極の選択を迫られたって感じでしょう。直家は1580~81年にかけて、岡山県内各地で毛利方との戦争を強いられました。こうしたなか1582年2月、ついに直家は亡くなりました。しかし、その死は1年間伏せられました。息子・八郎(秀家)はまだ11歳で、宇喜多直家の弟・忠家が後見しました。
 8月、玉野市で八浜合戦が起きました。写真は八浜城跡の両児山(ふたごやま)公園です。

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 細長く土が盛り上がっています。八浜城は直家の甥・宇喜多基家の城ですが、毛利方は村上水軍も動員して大軍で押し寄せ、大変な苦戦になります。

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 児島湾に向かってもう一山盛り上がっています。当時、児島はまだ島です。

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 敗北色が濃くなるなか、城主・宇喜多基家が流れ弾に当たって死去しました(写真は、城跡から見る八浜の町)。

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 宇喜多氏としては久々の武闘派魂発揮といいますか、「八浜の七本槍」(能勢・馬場・岸本・小森・粟井・宍甘・国富氏)の奮戦で毛利軍を撃退しました。
 城主・基家の墓は「与太郎様」(写真)と呼ばれ、いまも信仰されています。

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 備中高松城跡です。1582年、備中高松城をめぐって、毛利方と宇喜多秀家・羽柴秀吉方の大軍が対峙しました。

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 高松城は毛利方・清水宗治の居城で、広い沼に守られていました。秀吉はこれを逆用。地形を巧みに利用して、足守川の水によって水没、孤立させました。一説によると軍船を浮かべて大砲で攻撃したりしました。

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 毛利方は小早川隆景・吉川元春が3万の援軍で周囲の山々に布陣。毛利輝元が猿掛城に出陣しました。宇喜多・秀吉側も両軍合わせて3万人。戦況は膠着しました。

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 こんな感じだったのでしょうか。

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 赤い矢印のあたりが石井山の秀吉本陣跡で、城跡を挟んで、左の足守川の切れた部分が川を決壊させた所です。そして、水浸しになった南側(図で下側)に堤防を築かせました。

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 6月2日に本能寺の変が起こり、織田信長が死去。3日にこれを知った秀吉は、4日、清水宗治の切腹を条件に和議を結びました。信長の死を隠してポーカーフェイスで強気に出たのです。一説によると、3日に信長の死を伝えたのは、陣地を間違えた毛利方の忍者だったとも言われており、もしそうなら、ドンマイというほかない。

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 秀吉が本陣を置いた石井山を登ると一本道が続き、まず、もともとの「清水宗治公・首塚跡」に至ります(のち、城内に移されました)。

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 本陣跡です。特に、何の形跡もありません。

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 こんな山道が続きます。

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 秀吉がいたといわれる「太閤岩」。

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 「蛙ヶ鼻(かわずがはな)築堤跡」です。川の水をせき止めるために築いた堤防の一部が残ったものです。足守川とちょうど反対側です。水攻めは黒田孝高の発案といわれています。

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 発掘の様子が保存されています。杭や土俵の一部が発見されています。

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 石碑の後ろが築堤跡です。

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 妙玄寺の清水宗治公自刃の跡。辞世の句は「浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して」です。

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 このあたりに船を並べて城外との出入りをしたそうです。

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 池上孫兵尉さんは清水宗治公の娘婿で、孤立した城内に物資を運び入れる役割をしたといわれています。

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 最上稲荷はこの戦争の真っただ中にあって被害を受け、江戸時代に再建されました。このあたりで一番目立つのが写真の大鳥居で、1972年に作られた鉄筋コンクリート製、高さ27.5mです。
 
 おっと、またも肝心なことを忘れるところでした。1583年~毛利氏との領土交渉があり、備前・美作・備中3郡・児島郡の57万4千石が宇喜多秀家のものになりました。




 
  1. 2012/12/05(水) 12:52:38|
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丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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