どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

学者のみなさんに、初心者をバカにするなと言いたい

 
 
 お金もないのに、放送大学の講義を1つぐらい受けてみようかなと思い、自転車で10分の施設が見学できるというので出かけてみた。テキストやCDなどを試しに見聞きしてよいと言われ、現象学入門みたいなタイトルのテキストを手に取り、テキストの中ごろより少し前あたりのCDを適当につかんだ。初心者向けのようなので、最初から読むのはだるい。このあたりなら、だいたい話の流れも見えるだろうとの思いだった(専門家ではないが、「初心者ではない」)。何かに触れる手に、もう一方の手で触れるという話が出てくる。というか、延々と続く。“現象学”の創始者、ドイツのE.フッサール、その弟子ハイデッガー、後期フッサールの研究から入ったフランスのM.メルロ=ポンティ(有名なJ.P.サルトルとともに社会的活動も行った)、このあたりがおそらく、現象学番付の横綱だろう。そして、メルロ=ポンティの主著『知覚の現象学』に、上記のような手の話が出てくる(晩年の遺稿集にも微妙に異なった脈絡で出てくる)。ただし、ここで彼が言いたいのは、身体は物体でも意識でもないということだ。
 放送大学のテキストに驚いたのは、選んだCDの部分が、次のような記述から始まっていたからだ。何らかの事物を「それ」として捉える、知的判断の加わった“知覚”と、それ以前の“感覚”・・・云々・・・。だが、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』は、このような感覚概念の否定からまず始まる。著者は、メルロ=ポンティのことなんか語っていないと言うかもしれないが、現象学が最も勢いがあった時期、その中心人物(少なくとも最重要人物の1人)の基本的立場を無視して、初心者に、これが現象学ですというのはいかがなものでしょうか。
 イギリス経験論、とりわけ有名なD.ヒュームは、人間は受け取った感覚以外を知らないので、外界を直接知らない。感覚の習慣的結合によって、知識や「外界」までもが生まれるとした。哲学門外漢の人々から(常識的に)見れば、これが「観念論」ですよ。そして、哲学史上の観念論といえば、これに異を唱えたカントから始まる。カントは、物自体は実在するが、人間は感覚(直観)でこれを捉える。直観は空間と時間という2つの形式のもと、経験世界を形成する(超越論的感性論)。しかし、経験に由来しない、例えば、数学的真理のようなものがある。つまり、経験に由来しない、基本的な認識の枠組み(原因・結果、多数と一、否定、相互関係、存在と非存在、偶然・必然など)がカテゴリーとして存在するという(超越論的分析論)。こうしたカテゴリーを感覚に当てはめる、あるいは、むしろ、感覚をカテゴリーにより取りまとめる力が悟性(ごせい)といわれる。こうして、自然界(感覚世界)に論理的脈絡が与えられる。どのように両者がうまくかみ合うのかを検証する作業を、超越論的演繹という。その際、カントは感性的時間をそもそも数学的に描いて見せたが、ベルクソンはこれこそカントがこけてしまった最大の原因と見た。
 対するに、メルロ=ポンティは全く別のアプローチをした。心理学の世界でも、感覚を事物になぞらえることは普通に行われていて、精神物理学などというものさえ構想されていた。ヒュームも心的要素がばらばらに存在し、これが化学反応すると見た。しかし、メルロ=ポンティの時代、心理学はゲシュタルト心理学とともに新たな段階に至った。テレビなどでおなじみの錯視図が、視覚が最初から全体的な意味を有して存在し、「それ以前」の感覚(生物学的な意味ではなく、心理学的意味での)などは無用の論理的想定にすぎないことを教える。動物がそれぞれの環境世界を生きていると構想したユクスキュルも同時代だ。経験に勝手な枠組みを嵌めるのをやめて経験そのものから出発しようという現象学は、人間的意味に満ちたこの世界を、知性が勝手に覆い尽くして、煤けてしまった絵画のようになったものを、生まれつつある姿に修復しようとした。
 放送大学のテキストの、何らかの事物を「それ」として捉える、知的判断の加わった“知覚”と、それ以前の“感覚”-というカント的記述に驚いた理由、伝わりましたでしょうか?

(補足)
1.もっとも、ベルクソン的に言えば、「意味に満ちた世界」ということは、哲学的にはそれほど有難がることではなく、生命の最下層の段階から存在する知性的なもの(図式化)による抽象に満ちているということであって、そこからさらに、動的な実在へと辿っていく必要がある。現象学の、ありのままを見ようという発想自体が、生まれつつあるものを観想するという幻想だ。現象学のいわゆる「現象野」には生命・精神の足跡が刻まれているが、それを静的に見るなら、むしろ物質の一側面である。大切なのは、持続(創造的な時の流れ)から目を離さないことだ。
2.ゲシュタルト心理学自身は自らのもつ意味を深く理解していなかったことは、メルロ=ポンティが指摘している通りだ。最近では、大脳生理学による、「脳にだまされている」などといった通俗的説明がテレビ視聴者を喜ばせている。われわれは、脳の生み出す世界を見ているのではない。そんなことを言い出せば、錯視図を超えて、世界そのものが脳の中に存在することになる。現実は、われわれの脳が世界の中に存在する。
 われわれは世界を見るというより、そこに関わっている。働きかけられ、働きかけている。われわれのほとんど遺伝的な働きかけの力が強く働くのを、現に感じていることが、錯視といわれる。直線が「実際に」歪んでいるのか否か、本当は誰もよく分かっていない。まっすぐと言われればそんな気もするし、訓練すれば、まっすぐに見える。上下反対に見えるメガネでも、何日もかけ続ければ、普通に見えてくる。身体が世界に対応するのだ。3D映画も、距離を計る目の構造(働き)を利用して成立するが、実際の立体だとは誰も感じていない。それは、そもそも映画が現実でないのに、その世界に入り込むことができることの、延長上にある。どんなにリアルでも、それに向かって実際的働きかけができないのは知っている。私は椅子に座ったままだ。逆に、片目に眼帯をしていても、現実世界は立体だ。平面になんか絶対に見えない(SF映画の2次元人にはならない)。距離が計りにくいだけだ。
 映画『マトリックス』の世界も、ありえない。脳が現に生きているように、指先の神経まで現に生きている。歯も痛けりゃ、蚊に刺されたくるぶしも痒い。脳が痛かったり痒かったりするわけではない。もし、あの映画のような超ハイテクマシンが生み出されたら、半分夢の世界を彷徨うことはできるかもしれない。
3.昔流行った『ソフィーの世界』という童話は、イギリス経験論の観念論的世界観を軸に、現代哲学の視点を完全に欠いた哲学史(骨董品の陳列)を叙述していた。骨董品の陳列場ではあるが分かりやすい哲学史の本は、それまでにもたくさんあった。童話でひきつけた点が画期的だったわけだが、しかし、あんな観念論的世界観で哲学を印象付けたのは、私は害悪だと思う(D.ヒュームなどを現代的視点から読み直すなら有意義だが)。


  1. 2012/08/16(木) 12:38:04|
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丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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