どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

「哲学する」のカテゴリの2012.9.22「哲学書の誤訳について(続き)」の<例1>の見直し

 まず、宇波彰さん(『思考と運動』レグルス文庫)・河野与一さんの(『思考と動くもの』岩波文庫)両者の訳本全般に対する評価は、全く変わっていないことを述べておきます。その後、図書館で(2012.9.22で取り上げた2か所のみ)立ち読みした平凡社のもの(『思考と動き』原章二さん2013.4.10発行)について、<例2>が正しくなっていた(私の指摘と同じ見解だった)こと、<例1>は変わっていなかったことを紹介しました(2013.10.20)。―本論と関係ありませんが、宇波さん・河野さんがあまりにひどい誤訳の嵐だったので、私はその反動で、自分の訳に自信を持ちすぎました。最近、原さんの平凡社版を図書館で借りて来て、ざっと見た限り、あの誤訳の嵐が直されていて、むしろ、私の「宇波版・河野版は誤訳だらけ」発言を裏付けてくれていて、嬉しく思いました。暇な方は、見比べてください。そうでない方には、原さん訳をお勧めします(といっても、ざっと見ただけですが、すでに2か所、誤訳ではないが不適切と思われるものを発見→機会があれば、また、書きます)。このたび、<例1>を見直さざるを得なくなり、宇波・河野訳しかまだきちんと読んでなかったとはいえ、2013.10.20に「どちらが日本語として本当に意味が通じているか、考えていただけるとありがたいです」と自信たっぷりに書いたことを後悔しています。お恥ずかしい。とはいえ、単純に、他の方が正しいという意味でもありません。以下の解説で、その経緯も分かると思います。
 また、ずっと見てくださっている方はご存知のように、見直すきっかけとなったのは、X氏(仮)からの当ブログに対する批判です。そのとき、主たる問題となったのは、こうしたことをブログに書くこと自体と、原さんの『精神のエネルギー』「夢」のなかの一文でした。これについては、2013.11.20「ちょっとがっかりした話」で決着がついた(を着けた)と思っています。私の見解で終わるのも気持ちが悪いので、X氏の主張で終わらせようとしたのですが、未だにコメントがないままです(もちろん、氏の自由です)。私は、こちらからわざわざ出向いて人を批判することはしませんが、降りかかる火の粉は払います(もちろん、公的立場、その道のプロの方の、その道での言動に対する批判精神はもっていますが、それと一私人への批判とは区別しています。……前者の場合でも出向くまではしませんが)。X氏はご自身は他人のフンドシで相撲を取りつつ、相手を見下す姿勢でしたので、彼からの最後のコメントをもってシャットアウトすることにしました。ただ、私が原さんについて悪く書きすぎたこと自体について(ブログを読んでくださっている方々に対しても)申し訳なかったとの思いは撤回していません(ただの一か所でも誤訳は誤訳、少なくとも意味不明の訳ですが)。このたび、『思考と動き』を見て、その思いは強くなりました。―
 話を戻します。

★2012.9.22「哲学書の誤訳について(続き)」の<例1>の再検討(赤の部分)

 Voilà pour la Science, et pour le reproche qu'on nous fit de la combattre. Quant à l'Intelligence, point n'était besoin de tant s'agiter pour elle. Que ne la consultait-on d'abord ? Étant intelligence et par conséquent comprenant tout, elle eût compris et dit que nous ne lui voulions que du bien.
 En réalité, ce qu'on défendait contre nous, c'était d'abord un rationalisme sec, fait surtout de négations, et dont nous éliminions la partie négative par le seul fait de proposer certaines solutions ; c'était ensuite, et peut-être principalement, un verbalisme qui vicie encore une bonne partie de la connaissance et que nous voulions définitivement écarter.

 便宜的に、原章二さんの訳(平凡社)をお借りします(なお、原文に段落分けはありません)。

 科学について、および私が科学を否定しているという非難については以上の通りである。知性については、それほど騒ぎたてる必要はなかったであろう。どうしてまず知性そのものにお伺いを立てなかったのか。お伺いを立てさえすれば、知性である以上はすべてを理解してくれるのだから、私が知性に良かれとだけ念じていたことも同じように理解してくれただろう。(→原訳では、ditを省略している)
 実際のところ、私に反対して擁護されていたのは第一に、主としてかずかずの否定から成る干からびた合理主義であるが、私はそれに対してはいくつかの解決を提出してその否定的な部分を除去している。第二には、おそらくこれが主たるものだが、そこでは言語偏重主義ともいうべきものが擁護されていたのであり、これは今日でもなお多くの認識を痛めつけているものであって、私はこれを最後に除去しようと思ったのだった。

★2012.9.22の時点で示した訳(恥ずかしながら)
(宇波)私が知性の美点du bienだけを望んでいたということを知性は理解し、語っていた
であろう。
(河野)悟性は私がそのためを思っていたということは理解して認めたに違いない。
(私) われわれが知性に望むのは利益du bienだけだと理解していて、そう答えていたは
ずだ。

 結果から言えば、今では河野訳・原訳のvouloir du bien à qn「…に好意的」「…によかれと思う」という成句による解釈を正解だと考えますただし、両者の訳がそのままでいいとは思っていません。以前、私が成句を取らなかった理由をこのあと説明します。まず、前置きですが、宇野・河野訳しか知らない(原訳は未刊)時点では、お二人の訳全般が余りにひどく、心の中のハードルが下がってしまったようで、これは反省点です。で、成句による解釈には以下に挙げる問題があったので、宇野流の解釈もあるのならdu bienは「美点」じゃなく、「利益」だろうと考えたわけです(ただし、辞書に部分冠詞duで載っていたのは「財産」だったので、直訳的には「財産」で、ひろく我々に役立つもの、有用なものという観点から「利益」としました)。

★いよいよ、本論。成句vouloir du bien à qnによる解釈に伴う問題点。
 ベルクソンの主張は、知性は生活するための能力であり、物質を扱うことや、社会生活の利便性のためにあり、科学もその線上にあり、単位を固定し、これらを一定の規則性のもとに取り集めて、物質を説明し、扱えるようにする。他方、精神に向かうためには、方法論的に全く逆の方向に進まねばならず、固定することがその本質を損なう持続の全体像を見ようとすることが必要で、これを直観と命名するというもの。知性と直観とは実在を理解する上で補い合い、精神と物質の触れあう面では、哲学と科学とが互いに検証しあうことを可能にするというもの。ベルクソンの主眼は、知性の精神の分野への越境を押しとどめ、精神の現れにかかる仮象を一つずつ排除していくことにあります。vouloir du bien à qn(「…に好意的」「…によかれと思う」)、しかも、それにne… queがついて「知性にただただ好意的」という表現には違和感があります。「知性によかれ」でも、知性のためになることをしている(orしたい)という意味合いになり、知性からすれば、大きなお世話であり、ベルクソンの言動としても、押しつけがましい感じがします。「ベルクソンは知性を否定した」という(エセ哲学者からの)批判に対し、「否定していない」を超えて、そこまで言うか、という違和感です。ベルクソンの主張と反しているというより、「好意的」とか「知性のためになることをしている」などと言うことが、脈絡から浮いていて、完全にズレているという違和感です。科学は科学で発展してきたわけであり、その越境、精神分野への干渉が問題なのであって、それは、すでに形而上学の問題、科学者の中にもいる形而上学者の問題なのです。ベルクソンは、知性を冷静に分析し、位置づけ、直観の方法論的拡大を目指し、形而上学の革新を成し遂げたのです。総じて、ベルクソンの活動領野はあくまでも形而上学であって、それは何もベルクソンを小さくすることではなく、彼は真に形而上学の独自性を確立し、精神について真に語ることを可能にしたのです。行動としての知性のために何かしてやることは、哲学の仕事ではないし、実在との関係において正しく知性を位置付けてやることは、やはり、形而上学にとっての問題なのです。ぶっちゃけた言い方をするなら、ベルクソンが知性に「好意的でない」とも言えないし、「知性のためを思ってない」とも言えないけど、そういう話じゃないでしょってことです。ベルクソンのやりたいことは、形而上学が、知性が知性に適した領野で得た概念を、物質にのみ適合する知性の思考方法で、無反省に精神の分野に持ち込むことを禁じること。そして、精神の分野(持続)の直観を言葉に定着するという、逆説的で厳しい道を歩むこと。こうして、真の形而上学を確立して、誤った形而上学を退けることです。知性の否定や、科学者への攻撃とは「関係ない」に尽きます。それ以上でもそれ以下でもありません。排除されるべきは、誤った形而上学を唱える、エセ哲学者、エセ科学者だけです。そして、それだけです。知性に「好意的」かどうか、「知性のため」かどうか、どうでもいいことですし、いろいろな意味で一概には言えないことであり、そうだとも、そうでないとも言えます。読んでいて、「突然、何を言い出すの?」というのが正直な思いでした。科学や数学などの分野で、その業績が高く評価される場合は、哲学が心配するまでもなく、その分野で検証に耐える場合に限られます。知性が知性独自の方向で発展することに、哲学の出る幕はありません。その意味で、余計な発言は誤解のもとを提供するだけです。また、既成の哲学が、知性を正しく位置づけることができずに、勝手な論理で精神を神のような地位に祭り上げ、その内部で科学に勝手な地位を授けるのと比べれば、ベルクソンほど科学の地位を高く見た哲学者はいないと言えますが、しかし、それこそ形而上学のなかの話であり、誤った形而上学が問題になっているのです。知性に好意的であるとか、ないとかいう問題ではありません。さらに、En réalité以下の脈絡も大事です。
 En réalité(「実際には」)以下についても同様のことが言えます。もし、前半の記述が、ベルクソンが知性に好意的であるだの、よかれと思って何かしているというのなら、En réalité以下は、その逆で、on(エセ哲学者たち)は知性に害をなしている、と言わなければなりません。しかし、あくまでも合理主義者が勝手に精神の分野に無批判に(無自覚に、不注意に、その位置づけもなく)知性を持ち込んだだけです。知性の発展に害をなしているというより、精神の問題、形而上学に害をなしているというのが実態です。実際、科学はそんなことを知ったことではない。哲学が勝手に無用の長物となっていっただけです。言語偏重主義にしても、確かにそれは知性の発展一般に害をなしているが、やはり、科学は科学の分野で独自にこれを乗り越えてきたわけだし、その他いかなる分野についてもそういえます。知性が知性に適した分野で発展することについて、哲学が好意的に思ったり、ましてや、よかれと思って何かしていると言われても、大きなお世話であり、知ったことではない。言語偏重主義を全く乗り越えられなかったのはひとり哲学(の分野)だったのですから。
(注1)否定によってつくられた空疎な合理主義:例えば、(単に空間的イメージの)永遠の否定と言っただけで、実在する時間を捉えたと考えたり、「可能性」を単にまだ実現されていないことと見なしたりして、創造的な実在を捉え損ねる。また、「秩序」を前提に据えた上で、秩序を構成する能力を持ち出す。etc.
(注2)言語偏重主義:経験に沿って言葉の意味を豊かにするのではなく、既成の言葉の操作に終始する。経験を既成概念に組み込むことで安心する。

★vouloir du bien à qnをどう訳すか。
 実は、フランス語会話の先生(フランス人)に尋ねました。まず、成句のニュアンスですが、「相手の将来の発展を願う」ということのようです。しかも、ne …queは「だけ」と訳す必要はなく、単なる強調だと教えていただきました。つまり、「知性は、私が知性の発展を本当に願っていることを理解していたはず」という訳が可能なのです。一見、そんなに変わらないように見えますが、「発展を願う」であれば、向こうは向こうの努力でやっていることを、こちらも好ましく思うという、ニュートラルな意味になります。この点が重要です。つまり、これによって、ベルクソンの理論を、知性に「好意的」、あるいは、その「ためになることをしている」と評してもよいのだろうかという、論点を逸脱した、しかも、あまり生産的とも思えない議論を回避できます。そして実は、この場合、論点を逸脱しないだけではなく、知性と直観との対等で正常な関係、以下に述べる意味での脈絡に沿うことになります。
 ベルクソンは、物質との接触面、「表層」で直観による理論の検証に科学を使ったし、物理学の近年の傾向も彼の理論を傍証するように見えるわけだから、「本当に知性の発展を願った」のです。これに対し、ベルクソンが知性を否定したと騒いだエセ哲学者たちは、「実際には」、精神の分野に無批判に知性を持ち込んだために、自らを空疎にし、科学などが自らの分野で何とか切り抜けている言語偏重主義を、ひとり形而上学だけが克服できないでいたにすぎないのです。

★改めて訳
 科学と、私が科学と戦っているという非難とに関しては以上の通りである。知性に関する私の見解については、そのことでそんなに動揺する必要はなかったのだ。ひとはなぜ最初に知性に尋ねなかったconsulter(意訳)のか。知性たるもの、何もかもちゃんと分かっており、私が知性の発展を本当に願っていることを承知していて、(尋ねたなら)そう答えていたはずだelle eût compris et dit(意訳、条件法過去第2形)。
★En réalité以下…くだけた訳を提示
 ところが実際には、人々(「ベルクソンは知性を否定した」と非難するエセ哲学者)が我々(ベルクソン)に抗して擁護したのは(知性を不用意に精神の問題に持ち込んだせいだが)、先ず、無味乾燥な合理主義だった。合理主義はとりわけ否定から作られているが、我々はいくつかの解答を示しただけで、合理主義の(ほとんどを占める)否定的な部分を退けた(つまり、合理主義はほとんど空っぽだ)。次に、おそらくこちらが主たるものだが、言語偏重主義だった。これは今でも認識のかなりの部分をそこなっており、私はこれを決定的に取り除こうとした。
*「否定」「言語偏重主義」は、上記の説明を参照のこと。


<余談>日本語感覚について
 訳語について「違和感」と言う言葉を使いましたが、本当にそのとおりで、決して後からムリヤリに難癖をつけているわけではありません。哲学に限らず、書くことに関心のある方は分かると思うのですが、自分で何か書いているとき、「いや、これ違うなー」と理屈じゃなく、まず、何とも言えない居心地悪さを感じます。適切な言葉を探して、すぐ見つかるといいのですが、微妙な場合には、いつも使っている言葉でも、改めて辞書の意味や用例を調べて、いろいろと比較検討してみたりするものです。「よかれと思う」という言葉にも、同様の収まりの悪さを感じたわけです。普通、「よかれと思って(願って)……する」という脈絡でしか使いません。第三者的に「よい結果を願っています」というふうには使いません。例えば、入院した友人を見舞った帰り際に、「あなたに良かれと願っています」とは言いません。病院側の処方・助言などを嫌がる患者に、医師が「あなたに良かれと思ってしている(勧めている)のですよ」という場合に使います。
 
PS  ごく簡単に論点整理しました→「続きを読む」


<追記>
論点整理:本論の「成句vouloir du bien à qnによる解釈に伴う問題点」
 整理しないで、考えの赴くまま書いてしまったので、わかりにくくなりました。論点を整理しておきます。

 vouloir du bien à qnを仏和辞書のまま「…に好意的」「…によかれと思う、…のためを思う」と訳すと、なぜ、都合が悪いのか。以下、(  )内は例であり、イコールを意味しません。

【ベルクソンの知性に対する主張】
①知性(科学)の方法(抽象と固定、空間的処理)や、それに適した分野(物質)から得た諸概念を、精神の分野にそのまま無反省に持ち込んではならない。〔精神の本質は、空間化できない持続にあるが、ここでは説明を省略。〕
②知性(科学)がそれに適した分野で活動することについては、何も言うことはない。

【vouloir du bien à qnの3つの解釈】
A)どなたも「知性に好意的」を採らなかったのは、①の点で抵抗があるからでしょう。
B)「知性によかれと思う、知性のためを思う」は、①の点が②を保障するという考えに基づく。つまり、知性が誤った方向に進まないようにすることは、すなわち、知性「のためを思って」、知性「によかれと思って」いることに他ならないというわけだ。
 しかし、知性を誤った方向に導くのは、エセ形而上学であって、知性(科学)の問題ではない。科学上の膨大な諸成果は科学的方法論によってのみ導かれたものであり、他方、知性の誤った使用によるエセ論理が、こうした成果に入ることは決してない。手の込んだエセ論理である「哲学」は内輪受けする以外に、これまで不名誉な地位に甘んじてきた。総じて、ベルクソンは知性(科学)を否定するものではないのは当然であるが、さらに、知性(科学)を導こうとするものでもない。あくまでも、形而上学を正しく導くために、形而上学的問題として知性(科学)を正しく位置づけるのみである。
C)「知性の発展を願う」は、②の延長であり、知性(科学)がそれに適した分野で活動することは、どうぞ好きにやってください、第三者として「発展を願います」という立場だ。さらに、直観の方法に基づく研究である哲学にとっても、正確で豊富な事実に基づくためには、知性(科学、特に生物学)がその方面で独自に行う研究に負うところが大きい。つまり、Bの「知性のためを思う」という上から目線とは反対に、その発展を「有難く思う」くらいであり、その意味で哲学研究のためにも「知性の発展を願う」のだ。


  1. 2013/11/30(土) 16:18:30|
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丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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