どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

デリダ氏の不毛な議論

『デリダ なぜ「脱-構築」は正義なのか』(斎藤慶典著・NHK出版・2006)

 デリダ氏とその支持者たちによる、ペダンティックで思わせぶりな、それでいて、演繹的論理を例示的に拡大するだけの“えせ哲学”に辟易する者としては、このNHK出版の小冊子は、ただそうした敷衍を避けるという意味でのみ大いに有難い。それが、この冊子をとり上げた理由である。しかも、ここでその1,2ページに触れるだけで、「デリダ氏」を語るという、限られた短文にすぎないことを断わっておく。しかし、読み進めるごとに帰納的に意味が再編成されるのではなく、演繹的に論理展開をする氏の理論であってみれば、土台を崩すことに十分な意味があるだろう。ここに書かれていない点を持ち出して、この点はどうか、あの点に触れてない、などという批判ではなく、願わくは、ここに書かれたことに対する、内的批判を試みていただきたい。
 デリダ氏はフッサール現象学の研究から出発したそうだが、現象学には、次の一面があるように思うのは、私だけだろうか。つまり、我々は現象学のうちに、これまで自らが獲得した地点に対し、あえて不利な経験を選んでこれに語らせることで、帰納によって新たな地平を創出するという、これまでの哲学にはない新鮮さを感じたのではなかったのか。文字の世界を渉猟するデリダ氏とその支持者たちによって書かれたものは、哲学というものになんとなく知的で高貴なステイタスを求めるディマンドには合致するが、哲学的精神としては現象学よりも後退したのではないか。ましてや、現象学にも残る認識論的枠組みを批判できるだけの能力を欠いているように見える。
 現象学運動が活況を呈していたころ、豊富な科学的所見を駆使したメルロ=ポンティが経験に依拠する現象学を象徴し、その中心人物の一人として見られる傾向があったのは偶然ではない。また、ハイデッガーの存在論という方向性にも、経験に語らせることで哲学的枠組みを絶えず組み替える手法が見られる。『存在と時間』は、「現存在」という、コギトにまつわる先入見を排除した言葉から始まり、これを諸経験によって徐々に肉付けしていく。しかも、単線的な展開ではなく、そのつど新たなテーマに沿った経験的事実を通して、幾度となく全面的な意味の組み換えを読者に要求する手法で。しかし、両者ともに、フッサール以来という意味で、「現象学の」と言ってよい限界をもつ。知性(言語)のプラグマティックな本性への徹底した批判を欠き、ということは、経験の持続としての本質を逸しがちであり、経験を現象野として静的に描く傾向があり、自らを「見る」者と位置付ける、背後にある認識論的枠組みに気づいていない。とはいえ、ハイデッガーの「本来性」や「実存」、「死」は、「見る者」を定義する「一般性」を、「ひと」として相対化する力をもち、被投的投企という実践的意味を意味の根源とし、これとは逆に、「ひと」を現象の「根源」に据えてしまうメルロ=ポンティとは好対照をなす。したがって、ハイデッガーの位置づけには慎重にならざるを得ない。ただ、もし、晩年のハイデッガーが言語に特別な鍵を渡したとすれば、それは大きな誤りだと言わざるを得ない。ベルクソンが『思考と動くもの』の「序論」の最後で述べる立場こそ、現象学者以上に現象学的であるが、そのベルクソンは、言語の本質をプラグマティックなものと喝破した。
 デリダ氏は、斎藤氏のことばを借りるなら、「何かが何かとして現象すること」(p.15)だけを、現象するもののすべてであるという前提に立っている。これはしかし、ベルクソンが実在そのものとして、最も明白な経験的事実として描きだしたことの一切(持続)を全く無視するものであるが、それはしかし、無視というより無知であり、ベルクソンが暴きだした知性のプラグマティックな働き、その「自然さ」にすっかり騙され、逆に、これを自らの理論の基礎に据えるという、ベルクソンが生きていたら目を丸くするような、究極の過ちに陥っている。カントは知性の詭計に全く気づかなかった。現象学者は、知性の実践的働きを十二分に明白にしなかったために、認識論的枠組みに囚われ、持続の本質を逸した。しかし、デリダ氏は、知性の働きにすぎないものを意図的に経験の条件に祭り上げた。しかし、それは経験的事実ではなく、知性の詭計にすぎないのだから、あるのは無内容で演繹的な主張だけであり、あとは氏の理論に諸経験を当てはめることをその「証明」だと勘違いして、ペダンティックな饒舌さに終始するだけである。


★p.24-25「遅れて」やってくるもの(『デリダ なぜ「脱-構築」は正義なのか』)
   注:この本は、著者がデリダ氏(「あなた」)に話しかけるという体裁をとっている。
【引用①】それだけではない。私たちが世界への差異の到来を捉えようとしても、「何」かとして世界が現象するのは当の「何」かが差異によって他の「何」かから分け隔てられることをもってはじめてなのだから、世界への差異の到来それ自体は何らの事態ですらありえない。事態もまた、それが「何」かとして現象してはじめて、一個の事態たりうるからだ。つまり思考は、私たちのあらゆる経験は、それらが「何」かについての思考や経験であるかぎりで、それらをそのようなものとして成り立たせている差異の到来それ自体にはいつも遅れているのである。差異が到来してしまった後で、すなわちその完了をもってはじめて、思考も経験も起動する。そうだとすれば現象するものとしてのこの世界は(世界はそのようなもの以外ではありえなかった)、世界がそのようなものとして成り立つその始源にいつもつねに遅れていることになる。

【①の批判】さしあたってたいていの場合、「思考」が動的なものとしての(ベルクソンにおける意味での)差異そのものを捉え損なうという意味でなら、同意する。しかし、「経験」と「世界」とが、できあがった静的な差異の体系に尽きるというのは暴論である。「状態」としての差異体系、つまり、空間的、概念的、抽象的、一般的なものは、本能から、キネステーゼ、言語、あるいは、社会的な諸コードにいたるまで、生命や社会生活を維持するプラグマティックな構成物である。しかし、我々はその根底に絶えず流れつつある生成としての時間を明らかに直観しており、前者をもってこの宇宙や自らを「説明」しようとすることは有用ではあるが、「説明」と実在とを取り違えてはならない。いうまでもなく、我々は一般化しえない自己の存在としての自由と、止めることのできない時の流れとを実感している。

【引用②】この「遅れ」こそ世界がいつもつねにその内で現象することになる「時間」の母胎なのだが、それは時間の内部での遅れと違って、いかなる時間的な「幅」ももたない「瞬間」という在り方をしている。というのも、それは世界が「何」かとして現象したそのときにはもはやそこになく、しかもそうした世界の現象に先だって何かがあるわけではないからである。すでに「ない」という仕方でのみ「ある」もの、時間の中のどこにも現前していないにもかかわらずそこからのみ時間か始まるところ、それが「瞬間」なのだ。瞬間は自己自身に遅れている、と言ってもよい。つまり瞬間の内にこそ、世界を現象へともたらす差異のあの分割線が走っているのである。

【②の批判】幅のない瞬間tこそ、実用的意味形成の究極形としての人間的知性の産物に他ならない。その本質は、空間的点である。点も線も、知的空間の構成要件であり、自然を征服する実践的道具である。プラグマティックな記号を用いてしか時間を語れないデリダ氏は、ベルクソンの洗礼を免れた希少な哲学者、哲学史を知らぬ素人学者である。
 さらに、差異が「到来する」という自らの表現から、「遅れ」を引き出す循環論法はひどい。そもそも、私には「差異が到来する」という表現が一体何を意味するものかが分からない。もし、ベルクソンのように、知性による記号を経験そのものではない実践的構築物と見なし、実在を記号の根底に直接とらえるのでなければ、差異(記号)がそこから「到来」する「思考と経験(現象)以前」は論理的要請(空想)でしかない(「差異」という術語の意味がベルクソンとは全く異なるので要注意)。意味のわからぬカルト的文言を「瞬間」という言葉の中に閉じ込めても、ナンセンスであることに変わりはない。神が瞬間ごとに宇宙を創造しているという、ほとんど意味不明のカルト的発想があるが、そのようなイメージで語っているのだろうか。論理的な先・後(仮に、それを認めるとして)を、時間的前後へと何の説明もなく、転換させている。いずれにせよ、勝手に前提した起源を、あとで打ち消すという独り言から、理論の全体を演繹するという、全く意味不明の粗雑な「理論」(戯言)である。

【引用③】瞬間がすでにして分割であるという矛盾にも見えるこの事態にはあらためて立ち戻ることになるが(ここでの分割がそもそも何と何との分割なのかに立ち戻って考え直さなければならない)、あなたはこうした事情をもあのdifféranceという意味不明の名によって示唆したのだった。というのもフランス語の「異なる」という動詞には、日本語や英語と違って「遅らせる、延期する」というもう一つの意味があるからだ。世界への差異の到来が「瞬間」的なものだとすれば、すなわち〈世界はおのれの起源につねに「遅れる」という仕方で世界である、すなわち現象する〉のだとすれば、世界が世界であることの根本には何かこの「遅らせる」はたらきのようなものが潜んでいることになる。もちろん、繰り返せば、この「遅らせる」はたらきをそのものとして指し示すことはできないのだった。あらゆる指し示し、すなわち名付けは、このはたらきに「遅れて」やってくるからだ。

【③の批判】「名付け」られたものが現象(意味)の一切という仮説に、さらに、そうした差異体系(できあがった状態)としての世界(現象)が「思考と経験」(現象)以前から「到来」するという仮説を加え、だから、この「到来」(つまり、「遅れ」)はそれとして現象しない(意味を欠く)のだという。ここにカントの亡霊を見ない者があろうか。カントの物自体と現象界という枠組みがそっくり維持され、しかも、両者の形而上学的で理論的な関係を、時間的前後関係に見たてるという、全く理解できない言葉遊びをやってのける。当人にしか意味のない仮説の中を回るだけの、ほとんど病的な独り言であり、デリダ氏とその支持者(哲学オタク)たちは、この単純極まりない発想を隠すために、言葉の上での演繹作業を滔々と繰り広げたり、経験をその枠に当てはめるだけのペダンティックな敷衍を延々と続けたりすることになる。

 総じてデリダ氏は、プラグマティズムやベルクソンが言語に与えた実用的地位に気づかず、カントと同様の構成力を与えた上で、脱構築という倫理的方位を付け加えたにすぎない。そこには、始めから哲学独自の領域はなく、歴史学や、政治経済学などの人間科学の体系(言語による文化世界)に出入りして、ただ、脱構築を行うだけである。彼は、「声の形而上学」として、いわゆる哲学的領域を認めないが、それは言語による構成(状態)以上に遡れないという、彼の「発想」(勝手な前提)から来るにすぎない。こうして、哲学の領域を「起源」と呼んで、その不在を「宣言する」。これほどまでに、プラグマティズムとベルクソン哲学という大きな潮流を一顧だにしない「哲学」がまかり通る、それが、残念ながら、哲学の受容(需要)のされ方である。未だに、言語に形而上学的地位を与える古典的哲学に、新たなページを加える者が哲学者と呼ばれる、それが「知識階級」の実情だ。デリダ氏は、形而上学は言語(エクリチュール)の軛を脱し(外部に捨て)、真理と内的に合一できると思い込んでいるという(デリダ氏は、形而上学者のこうした特別な言葉をパロールと呼ぶ)。しかし、パロールだろうが、エクリチュールだろうが、言語である以上はプラグマティックな道具であり、一般性を帯びているのは始めから明らかだ。むしろ、この世界を最初から知的(言語的)なものと見なすという、古典哲学的偏見に囚われているのは彼の方である。外部/内部という2項対立、現象/本体などといった道具立てを、彼の奇妙な論理的構築物のために必要としているのは、デリダ氏の方である。経験そのものが、厳密にはそもそも知性の求める2項対立や同一律などの空間的図式を拒絶しており、ただ、事象によってこれとの親和性に程度の差があるにすぎないことを、経験的に立証したベルクソン哲学を全く無視している。

 ハイデッガーは、一般性をプラグマティックに操るだけの「ひと」を、死によって覚醒させる。死を如何に思考しようと、それはすべて「ひとの死」であることが明白になる。実存としての死が突きつける(浮き上らせる)のは、一般性(「ひと」)に回収されない実存だ。国家が戦争遂行のために人の死を意義づけるのは、実存を根こそぎにして一般性(他の誰でもよい)の中に回収する作業である。死を他ならぬ自分の死として引き受けざるを得ない実存は、その存在自体において、一般的な「ひと」ではありえない、自由の主体、己れの行動が世界の在り様を創造することの自覚(責任)を有する存在だ。単に「何か」で有ったことは一度もなく、常に、何かをしようとしている。それは、言いかえれば、(ハイデッガーの影響を受けたフランクルが『夜と霧』の中で述べるように)何をなすべきかといつも問いかけられていることである。しかし、この問いは、死だけではなく、様々な苦悩をもたらす。「ひと」は死も、苦悩も回避し、自由を、本来の実存を、逃れようとする。こうして、世間話・好奇心・曖昧さを生きる。しかし、こうした空気がまん延する社会は危険である。かけがえのない命を「ひと」の死として回収する社会になっていくだろう。
 デリダ氏は、ハイデッガー哲学の主張を理解できないだろう(デリダ氏が、ハイデッガーのナチス入党問題をもって単純にハイデッガー思想を排除する動きに反対し、彼自身がナチスに加担する者として批判された…云々の表面的なもの知り知識に基づく批判は無用に願いたい)。デリダ氏によれば、意味や現象は「何か」であり、つまり、人間は「ひと」でしかない。ハイデッガーは、人間はいかなる意味でも「ひと」一般ではないと言っているのではない。「ひと」が実存の本来性を損ねかねない、実存の一側面だと言っているのだ。自由という形而上学的軸をはっきりと打ちたてたのだ。それに比べ、デリダ氏はなんと世間的、世俗的な視点しか持ち合わせないことか。それは、哲学でも何でもない。全く、哲学的次元を欠落させている。プラグマティックな、世俗的な「何か」しか見ないでおいて、ただ、これを脱構築し続けるのだという。確かに、ハイデッガーはナチスに入党した。大切なことは実存論(哲学的一般論)よりも、実存することだという観点からするなら、生身のハイデッガー本人はファシズムという名の「世間」に「頽落」したのだ。少なくとも、科学者になるには科学的素養が必要なように、正しい社会認識には、社会経済体制の歴史や思想を、事実や証言(とりわけ弱者の)に基づいてよくよく吟味することが不可欠だ。ハイデッガーは一知識人・一社会人としては、特にその地位に見合った罪に問われるべきだ。その意味で、彼は人生で失敗を犯した。しかし、そもそも哲学は、あれやこれやの具体的状況に応じた行動を導くための理論ではない。そのようなものなら、他に学ぶべきことがたくさんあろう。哲学は何の役にも立たない。むしろ、ある国家が、国民に過大な負担を強いるとき、通常の政治・社会上の理由づけを逸脱している場合にこそ、(カッコつきの)「思想(哲学)」が持ち出されるのだ。これに対し、本物の哲学は、社会体制や具体的行動を根拠づけるものではないと、思い定めるべきである。哲学は哲学でしかできない側面からのみ、人間や社会を見つめ直す力をもつ。喩えて言えば、物理学が物理学でしかできない領域をもつがゆえに力を発揮できるのと同様である。ひるがえって、デリダ氏の主張を見れば、脱構築などという、哲学でも、社会科学でも、ジャーナリズムでもない、知識人の言葉遊びが、何の意味を有しているのであろうか。

★ついでに、もう少し、本文に沿って批判してみました。

p.30~「反復」:「何ものか」=「最初のもの」は、最初からあったものの反復として現れるが、現れの以前はすでに失われている。現象は、「差延」の働きがもたらした「効果」、「痕跡」だという。反復を創造性のうちに回収するスピノザ、ニーチェ、ベルクソン、ドゥルーズらは、生き生きとした、すぐそこにある経験的事実に気づかせてくれる。これに対して、デリダ氏は真理についての古典的で認識論的な枠内に留まっており、単に、お決まりの「現象界」を、すでに失われた根拠を探すあてどなき旅という物語で解釈したにすぎない。プラトンの洞窟の比喩レベルのお話し、そのヴァリエーションである。
p.34 上記の自説を、「真理」の「既在性」と「想起説」というかたちで説明し、プラトニズムを肯定…。
p.35 ここでは信じがたい哲学素人ぶりが発揮されている。まず、数学の理念や物理法則の普遍性と、過去の事実(歴史的事象)の確定性とを、全く同じものだと定義するという粗雑極まりない理論(実用的真理と形而上学的真理との混同)。次に、「<最初のものがすでにそれの「反復」である>」(<>は著者)ことの意味を、歴史上の事実は、そのようなものとして予知できていたものとしてのみ生起する、と説明する。ベルクソンが『試論』で自由を論じる際、回顧的錯覚として批判した考え方を、歴史上の哲学者たちなら様々な理屈をつけてごまかそうとしたであろう、その誤った考え方を丸裸で堂々と差し出す勇気は、とても正気とは思われない。
p.36 このような構造を「エクリチュール」と呼ぶ。それは、世界が「何か」として読み解かれる「痕跡」で満ちている、という意味だという。ベルクソンなら、生命は生きるために、有用で頑丈なものを芯として、世界を「何か」として切り分けるというだろう。
p.36~「声」という現象について
 「誰か」という本体と「声」という現象との関係を、こともなげに、「言わんとするところのもの」と「声」との関係に言い換えているが、こんなところにも著者(もしくはデリダ氏)の粗雑さ(少なくとも、読者を無視した主観的思い入れの強さ)がうかがえる。「聞きとられうるものは声以外にはない」とは、言葉によって表現されることの中にのみ思考はあるという意味なら、そのとおりだろう。しかし、哲学初心者向けのこの本で、物質的音としての声が表現からの抽象にすぎないことを、読者が理解していることを前提とした書き方は如何なものだろう。それにしても、話者の存在がさしあたっての関心(会話)に尽きるわけでもないのに、「声」に対して「本体」がないというのも乱暴だろう。著者の思考回路はほとんど、何を言っているのか理解不可能なレベルに達している。
p.38 いまのことと関連して、「当人が居合わせること」は、声や「ジェスチャー」という「痕跡」なしには現象しないという。ものも言いようである。それなら、そもそも身体という(あえて彼らの表現を用いるが)「痕跡」やら、ありとあらゆる当人の存在を前提した社会的、物質的諸関係が「痕跡」としてある。全く、常識的な当たり前の話。短いおしゃべりを採り上げて、痕跡以外に本体はない、などと大仰な言い方をするが、会話の相手は、時空的広がりをもつ人格的全存在として現象しており、常識的にはそれをもって、短いおしゃべりの本体と捉えているわけである。氏の論法で言えば、それらを「痕跡」と呼ぶことに何の支障もない。つまり、ここでは、常識的なこと以外に何も語られてはいない。
p.38~39 「書かれたもの」は「書き手がそのつど不在になるという仕方でのみ」、「何か」が読みとられうるものとして現象する。「書き手は書くそのたびごとに、その瞬間瞬間において」、「死ぬ」のだ…。正直、この著者(デリダさん)は大丈夫?なのかと思う。先に、「語られたこと」と「声」との関係で述べたのと同じカラクリが使われている。「言わんとすること」と「書かれたもの」との関係を、「書き手」と「書かれたもの」との関係へと意図的に置き換えている。実際、私は寡聞にして、書く瞬間ごとに死ぬ人を見たことがない。社会生活を前提にして生まれた言語は、同一種の本能的行動にも似た、一般性をもつ。あらゆる表現は、主体のうちなる一般性によって可能であり、表現は主体性のうちなる敵によってのみ表現される。表現は一般性を介することなく、他者によって追体験される可能性をもたない。ただ、それだけのことだ。主体が死ぬことで痕跡になる、などといった大仰なもの言いは、よく言って文学的表現にすぎない。ここまで見て来ても、いまだに「痕跡」という言葉を用いる必然性が全く理解できない。
 著者はアリストテレスの『動物誌』の言葉、「生命の最も原初的な形態は、同じものの反復である」を新たに読み直したことになる…という。会話も、著作も、生命も、同じ言葉で語るという、単純極まりないデリダ氏の演繹的手法をよく物語っている。テーマに即して、新たな科学的研究成果を学び直し、経験的事実に語らせ、自らの理論を新たな次元から組み直す作業を行ったベルクソンの手法とは正反対の姿勢が見られる。
p.39~ 「痕跡は、世界が現象するための必要条件でしかない」。ここで、著者は世界が「何か」の体系でしかないという持論、プラトン主義的、古典哲学的立場をいさぎよく認める。その上で、「何」ものかが現象するとは、それが「何」ものかに対して現象することだとして、さらに「読むこと」を世界の現象の必要条件とする。こうして、認識主体という古典的哲学における登場人物が出そろったわけだ。私にはこれまでのところ、著者(デリダ氏)の言うこと(それを主張とか、ましてや、理論などと言う気にもなれない)に、カントの亡霊しか見えない。
 著者は「読むこと」自体が、新たに「痕跡」の追加となるという。そして、言わなくてもよいことまで述べる。自然の風景を見る際の、視覚中枢の神経興奮パターンも、「見てとられたこと…現象したことの痕跡」だという。しかし、それらが実際には身体行動の下書きだということはベルクソンが精密に立証したとおりである。それにしても、痕跡が見る者にも痕跡を残し、多重化していくこと…という薄っぺらな抽象が、一体、哲学なのか。そもそも、我々は認識論的な「見る者」ではなく、行動する者であり、ゆえに新たな何かを付け加えるのであり、また、そもそも行動が物質的一般性をうちに含んでいるがゆえに、あらゆる次元で新鮮味のないものでもありうるし、真に創造的な行動であっても、反復可能性を含んでいるのではないか。

……………

★読むたびごとに馬鹿げた議論で、徹底して批判したい気持ちと、時間がもったいないという気持ちとの均衡が、ここらで釣り合ったようです。もう、いい…(もちろん、ばかばかしいが、最後まで読みました)。もう2点だけ、述べておきます。

*「誤読の可能性」という奇をてらった言い換えは、知的であることを気取りたがる人種には受け入れられよう。しかし、都合のいい事例だけを採り上げるのでは、床屋談義と変わらない。カントやフッサールなど、まじめな哲学者を悩ませた自然科学の問題はどうなるのか。誤読と真の創造性とを区別することこそ重要なのではないか。両者をひっくるめて「誤読」と名付けるだけでは無意味である。すでに芸術分野や科学の諸分野で現に行われていることを、後付けで「誤読」として勝手な「説明」を加える(「凝視」すれば、「よりふさわしい」何かが「到来する」…!)だけなら、「哲学」など用がない。古典哲学を知り、正しくもそうした哲学の無内容さを実感した人々からすれば、デリダ氏はいっそう「哲学」の無内容さをアピールするのみだろう。

*デリダ氏は、古典哲学の枠組みに依拠している。そのうえで、現象界をどう位置付けるかという、古典哲学的ヴァリエーションにすぎない。不可知論の焼き直し。失われた原型が、「何か」(世界、経験と思考の場)として「現れ」る。前者は「何か」ではないし(「不在のもの」)、「何か」の出現も「何か」ではない(「差延」の働き)。いわば、原型や起源は現れることなく、「何か」(無秩序ではなく)が現れる保証として担保されている。というのも、「何か」の脱構築(再構築)を通して、たえず「不在のもの」への「暴力」(「何か」という枠)を緩めて「より正当」な「別の仕方で」の「何か」を目指すこと、方向としての「正義」が可能だと言いきっているからである(「不可能なものとしてのみ可能」などという、哲学オタクをくすぐる言葉づかいには苛立たされる)。脱構築の倫理が唐突な主張でないとすれば、「不在のもの」が実践的根拠として前提されているからに他ならず、他方、「何か」の「解釈」によりよい方向があるという前提とともに、まさに、カントの実践理性、判断力の焼き直しに過ぎない。さらに言えば、法にただ従うだけという極論に、主体的判断の重要性を説く自らの主張を対峙させて、さも、新しいことを説いているかのように見せるための、哲学オタクな奇妙な言葉で飾り立てられた文章をみていると、空しくなってくる。そのようなことはデリダ氏に言われなくとも、通常の事態にすぎない。裁判所では日々、法を個別事案に即して解釈するための、熱い火花が散らされている。そして、平重盛の「忠ならんと欲すれば…」ではないが、誰もが様々な倫理観の間で苦悩して答えを出している。さらには、アイヒマン(ファシズムのもとでの自由の放棄)の突き付けた問題など、デリダ氏(「あなた」)に言われるまでもなく、既成品としての正義を疑い、主体的に正義を再構築していくことのあり方は、もうすでに、より具体的かつ実証的に、多くの心ある人々によって模索されている。デリダ氏、あなたは不要だ。
 これに対し、生命のプラグマティックな範疇である一般性(類似性)と、例えば運動といった様々な経験そのもののうちに明らかな、持続という経験的実体とを対比させるベルクソンは、実証的研究を通して、見失われがちな主体、生命の価値、あるがままの経験の神秘性を取り返してくれる。ここでは哲学が、哲学独自の輝きを放っている。


  1. 2014/02/20(木) 12:42:44|
  2. 哲学する
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Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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