どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

読書メモ 『フロイトとベルクソン』(渡辺哲夫著、岩波書店)

 まず、ベルクソンによる知性の位置づけを振り返っておきたい。知性のスタンスは同一律、空間的配置(分割)であり、こうした知性がそのスタンスそのままに形而上学の領域にズカズカと侵入するとどうなるか。AでもなければBでもない、もしくは、AでもありBでもあるといった解答に必ず至りつく。これがヘーゲルの弁証法であり、カントのals obである。一見、ベルクソンは曖昧な発言に終始しているように見られがちだが、それはベルクソンの認識論(知性の厳格な位置づけ)を軽視もしくは、そもそも読み飛ばしているからに他ならない。ベルクソンの正しい読み方を心得さえすれば、それが如何に曖昧さを排除する論理であるかが分かる。例えば、物質と精神とは厳しく峻別されるが、それはもちろん、デカルト的、幾何学的分割ではない。経験から読みとられるその意味方向、傾向性が厳しく交差するのだ。方向は完全に異なる。AでもBでもない、などという曖昧さは許されない。しかし、方向性の違いであるがゆえに、y=1/xのグラフのようにy軸方向を「逆に」たどればx軸方向へと行きつける(図形は方向性を語るための隠喩にすぎないが、ベルクソンの説明を無視して悪意をもって見れば、A・Bを図形そのものの自己同一性のなかに曖昧に解消する見解ととられかねない)。形而上学的方向性を探求する途上で、際限なく立ちはだかるのが、我々のうちなる知性の物質的論理学に基づく、あれやこれやの見解、教条である。ベルクソンはそのたびに経験と科学的成果とを対話させ、事実に語らせることで、知性の予断を打破していく。形而上学的な傾向としての意味はこういうやり方で経験のただなかに浮き上る。
 渡辺氏はベルクソン理解において最もやってはいけないことをしている。『物質と記憶』の有名な円錐体を文脈から切り離して取り出し、まさしく、AでもありBでもあるという解釈を施すのだ(ここで、氏のいうAもBもベルクソンの主張とは無関係)。そして、この著書は始めから終わりまで金太郎飴のようにこの自己流解釈を手を変え品を変えて示すだけなのだ。氏は、まるで新発見でもしたかのように、生命の流動を示すはずのこの図形が物質性へと至りつくことが避けられないかのようだ、という趣旨のことを語る。しかし、ベルクソン自身が自らの認識論的立場から、自身が言葉を語らざるを得ないこと、言語は自ずと運動を不動性に置き換える知性の道具であること、そのことをくどいほど述べ、注意を促している。いわんや図形をやである。ベルクソンの言葉や図形は(彼の認識論によって厳密に定義づけられる特別な意味での、つまり、量的・固定的・同質的ではない質的・流動的・相互浸透的なある事実を指し示す)「隠喩」として見なければならない。そして、この図形の隠喩的意味合いは、ベルクソンが注意深く語る限定的な意味(方向)でのみ有効だ。勝手な解釈が可能だから許されるというものではない。脈絡を離れては意味を失う。また、一般に、ベルクソンを読むときに注意しなければならないのは、言葉の罠に陥らぬように細心の注意を払うことだ。ベルクソン自身、不可避的に「言葉の綾」を語らねばならない以上、よくよく本質的なことと「言葉の綾」とを区別しなければならない。例えば、収縮と弛緩である。本質的には、収縮は生命と意識の方向を意味し、弛緩は物質的方向(極限は瞬間にまで近づく)である。人間が眠りの際や、死に瀕するとき、記憶を制御する現在の関心が失われ、記憶の自動的亢進が生じる。しかし、生命の中でも高度な進化を遂げた人間の脳に関わる反応である。いくら、注意の弛緩といっても、そもそも物質的(逆)方向ではない。生命というだけで、すでに収縮の方向なのだ。(強力な収縮を可能にする)高度な脳をもつ人間の存在を前提にした話であり、そこで起こる特別な状態を事例に、ベルクソンは純粋記憶の存在を(身体化された習慣的記憶と対比して)示したいのだ。夢や記憶の亢進が物質性を意味するなどありえない。動物が人間のような夢を見るとは考えにくい。覚醒時にすら表象的なものをほぼ欠くと思われるのだから、おそらく、蘇る様々な感覚に襲われることに近いだろう。植物は……。夢や記憶の亢進は高度に精神的な生命にしか起こらない。そして当然、人が覚醒時に出会う物質的方向性とは問題が異なる。そもそも、円錐体の議論は、身体を介して物質と関わる次元から、記憶(精神)の次元へと話が移行している。人間から単細胞生物にまで当てはまる、物質や死について話をしているのではない。目がさめている人が、動物のように何も考えずに生きていたり、過去を夢想ばかりするという思考実験で、記憶が収縮したり(se resserre)、膨張したり(se dilate)するというのは、「精神的な身構え」(『物質と記憶』第3章)としてである。何より重要なことは、人間が現在(生活の関心)から身を引いて(純粋記憶を自由に)夢想できる能力を備えていることであり、この能力が一般観念の形成とその創造的更新や自由そのものを可能にしているということである生命は発達した中枢を形成することでこの能力を得た。渡辺氏は、良識の人とは、夢想とは反対に、円錐体の先端に向かって収縮・緊張する(あるいは、それによって夢想とバランスをとる)人と捉えているが、そうではない。良識人とは、両極を自由に行き来して創造的に人生を切り開く人であり、この能力こそが両極の行動をも可能にしているのだ(両極は抽象であって、実際にはどちらかに重心を移すにすぎない)。これが、物質と関わりその「弛緩」した(カッコつきの)瞬間を「濃縮」するということ。引き絞られた弓(過去)が遠い未来を射程に入れ、物質的瞬間を創造性のなかに溶融する。物質との対比なしには濃縮も弛緩もない(感覚がすでに濃縮であるし、事物の具体的運動ですら一種の意識である)。「精神が、記憶力、すなわち、未来のための、過去と現在の総合だということ、精神は……行動によって自己を現す」(『物質と記憶』第4章)。
 渡辺氏がベルクソンをまともに理解しているとは思えない。基本的用語の意味すら理解していないことが見てとれる。例えば、円錐体の底辺を(小林秀雄を引用して)「夢」と同一視する。しかし、純粋記憶がそのまま夢なのではない。また、円錐体の先端、つまり、知覚活動や行動そのものを純粋知覚と呼ぶなど、無茶苦茶な読み方をしている。円錐体の先端には全過去の体重がかかっている。他方、純粋知覚については(「イマージュを分離すること」の項で)「持続の厚みを帯びている知覚ではなく、純粋知覚、実際にあるというよりも、理論上存在する知覚」とし、「イマージュは、知覚されなくても存在しうる」とされるとき、純粋知覚は「客観的実在」、物質の一部である。メルロ=ポンティがこうした知覚概念を受け継いでいることは間違いない(彼独自の脚色はともかくとして)。概して、渡辺氏には形而上学的視野(ベルクソン哲学)が欠落しているし、ベルクソンでは(それぞれが、それなしには得られない意味をもつ)多様な諸経験に寄り添いながら、それぞれのベクトルが大きな流れを描き出すが、渡辺氏の場合、金太郎飴式の新理論?を一方的に語るばかりである。その新理論たるや、円錐体をまさしく空間的に空疎化し、先端=緊張=覚醒=生、底辺=弛緩=無意識=死という等式をつくり、さらに、無意識、弛緩という言葉を単純に(曲芸?)物質のそれに結びつけるというもの。ベルクソンの思考の流れのすべてがバラバラに解体され、原型をとどめていないものを勝手にベルクソン哲学と呼び、ほとんど詩か何かの暗号のようなものを書き連ねている。私にはそう見える。その独自の論理の組み立て方を理解できる方がいるのが不思議でならない。いや、渡辺氏は先端・底辺を「方向性」として読んでいると反論するかもしれない。しかし、事物の持続から自由までを包括的に理解する形而上学的視野つまりは持続(具体的進行)を根底において、人間精神の一体的活動(生活への関心と過去に探りを入れることの、どちらかが薄れても一体的な活動、および、その可能性のもとで生じる夢や記憶の亢進といった現象)として見るのでなければ、言われる「方向性」はほとんど空間的図式のあれやこれを指さすにすぎない。ベルクソンの魂の不死に関する発言も、円錐体の底辺が冥界につながるというようなオカルト的教説にもっていかれてしまう。ちなみに、ベルクソンの不死に関する発言とは、生命現象が物質をはみ出し、そもそも物質が存在からの抽象にすぎない以上、死の解釈も物質的次元に解消されないというもっともな主張にとどまるもの(彼はオカルト的な意見をもつ人々に一定の理解を示すが、彼の主張内容そのものが経験をはみ出すことはない)。また、本能の中には他の生物を内的に知っていることが前提されており、巨大な生命の流れを考えるとき、個体の死はまた別の意味をもつだろう。

補足:ベルクソンの経験に寄り添う姿勢は、彼の敬愛するファーブルの姿勢と共通している。ベルクソンは1910年のファーブルの功績をたたえる動きに参加(「ファーブル昆虫記」奥本大三郎、NHK出版、100分de名著)したが、それ以前の第3の主著『創造的進化』でファーブルの行った昆虫の本能に関する研究(『昆虫記』)を引用している。ファーブルもまた実証的観点から、(進化論の先覚者に失礼だが)あえてダーウィン流のと言わせていただくが、理論ばかりが先行するその進化論に異を唱えていた。

P.S.邦訳『創造的進化』の昆虫の和名は、奥本大三郎氏の新訳『昆虫記』を参考に、訂正されるべきではないでしょうか。


  1. 2014/08/25(月) 07:55:13|
  2. 哲学する
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<丸亀うちわ | ホーム | 多度津町の港>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://jaimelamusique.blog.fc2.com/tb.php/440-6ebc2a18
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

最新記事

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (58)
史跡・文化財など (346)
音楽 (15)
ひょっこり思ったこと (5)
歴史 (40)
自然 (123)
映画 (5)
信仰・民俗・伝統など (71)
哲学する (14)
名勝 (1)

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

FC2カウンター

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR