
琴電・羽床(はゆか)駅からそう遠くない場所に、「日本十大仇討・研辰(とぎたつ)の討たれ遺蹟」なる石碑がある。江戸時代に、羽床辰蔵という刀研ぎ職人がいて、この人がかたきとして殺された事件です。殺された方が有名なんて、珍しいですね。石碑に「墓碑・150m南、実家100m南」とあります。

150mほどまっすぐ進むと「辰蔵ゆかりの丘」があった。実家は不明。この辰蔵さんは江戸で仕事をしていて、女房がお侍さんと不倫したので、2人とも殺害しました。殺されたお侍には弟が2人いて、「おのれ、庶民の分際で許さん!」と兄の敵を討つことに決め、故郷に帰っていた辰蔵さんを討ったという実話です。私は全く不案内ですが、脚色された歌舞伎などがとても有名だそうです。

写真左が辰蔵さんのお墓。文政10(1827)年のことでした。武士の女房が不倫したら、女房とその相手を殺すのが普通の時代でした(実際は、恥ずかしい事だし、下手すると相手を探して一生終わるので、お金で解決する示談も多かったようです)。しかし、庶民には許されていません。まして、相手は武士です。現代の感覚ではやりすぎ(ていうか、犯罪)ですが、当時としては、研辰さんは”男”だったのかも・・・。地元では愛されているようです。1827年というと、11代将軍・家斉の文化文政時代。この年、幕府天文方・高橋景保がつくった『日本図』が残っています。伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮小版で、翌年のシーボルト事件につながるものです(国立国会図書館HP・江戸時代の日蘭交流、参照)。

標高約200mの堤山(つつまやま=羽床富士)が見えます。綾川にかかるこの橋は「宮武橋」といいます。羽床駅にさらに近いここは、宮武外骨(1867~1955)の生家付近です。反骨のジャーナリスト宮武外骨について説明は不要かと思うが、投獄、発禁処分を何度もこうむった豪傑です。

羽床で見た戦時標語。

こちらは「皇紀2596年・昭和11年」とあります。1936年といえば、二・二六事件ののち、広田弘毅内閣が成立、軍部大臣現役武官制復活、大軍拡推進の決定がなされた年です。
- 2012/09/18(火) 16:33:54|
- 史跡・文化財など
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