
「平賀源内先生旧邸」との看板が出ています。私たちの世代では、NHKの『天下御免』でおなじみです。ものすごい視聴率で、学校でも大変話題になりました。残念ながら、ほとんどすべて記録されておらず、幻の作品となっています。

建物の横には源内の像が立っています。少し離れたところには、平賀家が代々その管理を努めていた高松藩米蔵の石燈籠が残っています。家の前にはホルトノキが植えられています。江戸時代にオリーブ油のことを「ホルト油」と言っており、形も似ていることから源内が間違えて藩の薬草園(栗林公園内)に植えたといわれる。おっちょこちょいで、超器用貧乏の源内さんらしい逸話です。

説明にありますように、この家は1979年に修復されています。源内さんは1728~80年を生きた人なので、没後200年にあわせての修復だったのでしょう。

内部です。ちょっと散らかってますが、汚くしているのではなく、文化的行事を頻繁に行っている関係です。

有名なエレキテルがいくつか作られています。説明書もなくこれを復元したところが、器用なところです。しかし、原理を探求する気が全くなくもないのですが、多くのことに手を出しすぎて、これもまた中途半端になったようです。

裏庭は薬草園になっています。子どものころから儒学などのほかに本草学を学んでいました。

瓦がちょっと今風過ぎてリアルさを欠いてます。源内さんは1752年に先生の久保桑閑(1710~82、藩医)に連れられて長崎に遊学し、そこで見た外国の文化に何かがはじけ飛びました。その後、すぐ隠居して藩を飛び出してしまうのです。先生もビックリですね。もっとも、桑閑は柴野栗山なんかも庇護していましたので、源内くん、君は君流にがんばれって感じだったかも。

怪しい物体は、復元?された源内焼の窯です。

坂出・鎌田共済会博物館の源内焼です(源内生家近くの平賀源内記念館にも貴重なものがたくさんありますが、撮影禁止です)。なんでも鑑定団で源内焼に300万円の値がついていたので、源内先生はそう何もかも半端だったわけではないようです。そういえば、源内さんによる日本初の油絵『西洋婦人図』(神戸市立博物館)は学校の資料集などにも載っています。

こんなものまで作ったんですね。お菓子の「とらや」さんのHPには、讃岐が特に有名な和三盆糖に源内さんが貢献していたことが書かれています。砂糖国産化は重要なことだったにもかかわらず、製法を書いた本が普及していなかったらしい。そこで、源内さんが平易に製法を説いた本を大量印刷したそうです。

志度寺の源内さんの墓。源内さんが残念な亡くなり方をし、杉田玄白が嘆いたことはよく知られています。NHKの『天下御免』の最終回は、別なものになっていました。田沼意次が工藤平助の意見で、最上徳内を蝦夷地に派遣しますが、このとき源内さんもいっしょに気球で飛んでいくというラスト・シーンでした。
余談ですが、ずいぶん前から、田沼意次は経済活性化に努めたことで評価されています。問屋制家内工業が発展しつつあるころです。また、南鐐二朱銀をつくり、関西で重さで流通した銀貨を徐々に計数貨幣に置き換えていきました。つまり、16朱(4分)で金貨(小判)1両としました。その後、1分銀貨もつくられ、どんどん質を落とし、幕末では金銀の交換比率が1:5になっていました。元禄のころの荻原重秀のように、金貨の質を落とすと貨幣価値が下がりインフレになります。しかし、金貨はそのままに、これとの交換を保証すれば、銀貨の質を落としても問題は起きません。こうして、幕府ももうかり(出目)、商業の発達にみあった貨幣の供給もできるという妙案でした。幕末の、金銀比価問題(海外での金銀交換比率が1:15だった)では、日本国内の銀貨が通常の3倍の価値で流通していたので、本来、外国奉行・水野忠徳の主張通り、外国仕様の銀貨(いままでの3倍の重さの1分銀貨)をつくり、これを1ドル銀貨と交換させ、開港場だけで使用させるのが正解でした(せめて、小判持ち出し禁止令などの措置ができればよかった?)が、理解されることなく、小判の方を3分の1にし、案の定インフレになってしまい、討幕運動に拍車をかけることになりました(『大君の通貨』佐藤雅美、参照)。
- 2012/09/26(水) 10:19:48|
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