四国村紹介の最終回です。やはり、解説は現地の説明板を基にしています。
こちらの民家は徳島県の「木地屋」地区にありました。そこは、盆や椀などをつくった木地師の住んだ村でした。安永10(1781)年の棟札が出てきました。
仏壇の前の床が開くようになっていて、湯灌の水をそこから床下に流して、魂が家の中にとどまることを願ったんだそうです。不思議な習俗ですね。
関係ない話ですが、私の祖父が亡くなったとき不思議なことがありました。通夜の夜、高校生だった私が疲れて眠っていると、棺の方から大きなクモがまっすぐ私の顔に向かってきて、ぴょこっとのっかったそうです。周りの大人が追い払おうとしても、私の顔の上をグルグル回ってなかなかのかなかったそうです。もちろん、数秒のことでしょうが、そのあとどこかへ去ったそうです。翌日、みんなが「あれはおじいさんじゃ、お前に会いに来たんじゃ」と言うのでした。
私が小さいころ、カマドはまだ使われていました。といっても、すぐに電気炊飯器の時代になり、しばらくはカマドの上が物置になっていました。たぶん、井戸にふたがされ、その上に洗濯機がのっかったのもそのころ…。
縁側はいいですねー。昭和30年代はどこの家にも縁側があったように思います。縁側で「あー、お茶がうまい」と年寄りのまねをして、イヌやネコと日向ぼっこしたり、涼んだりしたものです。ホタルや月見も縁側が定番でした。
添水唐臼(そうずからうす)。小型の水車小屋です。こちらは昭和30(1955)年ごろまで徳島県一宇村(いっちゅうそん)に残っていたものだそうです。精白に時間がかかるものの、水量が少なくてもよかったのでどこでも重宝がられたようです。
今回、いたく感動したのがこちら。
尊敬する
久米通賢大先生の生家です。いつの間にか、以前より奇麗になっているではありませんか。
中はお店になっています。先の写真の解説・青字「久米通賢」をぜひ押して、先生の偉業を知ってお出かけください。中でくつろげるなんて感激ものですよ。
移築の際、測量器具や大砲の木型など貴重なものが出てきたそうです。大砲の木型には装飾や付属品も描かれていたそうです。
自宅は実験工房でもあったそうです。
名残惜しい。
丸亀市通町にあった、丸亀藩御用蔵。内部には「玉」の字の落書きが残っているそうです。米俵を数えるときに書いたようです。江戸時代は「正」の字ではなく、「玉」を書いていました。
この洋館は、明治38(1905)年にワサ・ダウンさん(ウィキペディアに載っています)の住宅として神戸に建てられ、昭和19(1944)年から日本郵船の船員寮として使われたそうです。
ここも内部がお店になっていて、四国村の出口が洋館の裏にあり、お店の入口の前を通るようになっています。
イスと羊飼い像は19世紀後半のもの。ポストなどはロンドン南部のチェルシーにあったそうです。チェルシーには、夏目漱石さんが留学中に住んでいたそうで、ひょっとしたらこのポストを使ったかも…?
- 2015/08/10(月) 18:10:03|
- 史跡・文化財など
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