
『案内』の広告欄です。右上の「秋山寅吉(とらきち)商店」は実はよく知られています。現在の丸亀商工会議所HPによれば、1991年に本社を工業地帯に移し、いまも現役ばりばりのようです。

一度は閉鎖された旧本社ですが、2002年に商工会議所などが市街地活性化の一環として「道の駅・秋寅の館」として再生させました。しかし、商店街活性化は未だならずです。他にも観光資源はあるのですが、お金を出してでも有望な出店希望者を一気に集めなければムリだと思います。

大正末期の建物です。私のような古風なものが好きな人間からすれば、こうした保存活動はうれしい限りです。かつて、りっぱな丸亀駅舎が壊されたときは残念でなりませんでした。

寅吉商店の看板など。壁に吊り下げた油傘が懐かしい。小学校の貸し出し用がこんな油傘でした。

看板という手法は新しいメディアが次々と誕生する今日にあっても、古来から広告手段としての座を維持しています。象印スコップやメリー印は現役です。

防空壕です。竹を編んだものの下に、重い扉があります。

こもった微小な浮遊物や水分を吸収したコンクリート独特のにおいがします。雨の日の道の臭いを何日も缶詰したような・・・。

中です。

左の広告、「台湾バナナ」の字が難しすぎますが、それとは別に「台湾」という言葉の意味が今日とは異なることも考えさせられる事実です。「重元商店」は残念ながら店じまいしましたが、1923年につくられた建物が国の登録有形文化財です。

建物の意匠に地域色があって貴重というのがその理由です。もちろん、シャッターより上です。

左の「武田時計商舗」がいまもあり、年配の方がご近所の方とお茶を飲みながら店番をしています。昔の広告に第十二連隊御用達ってありましたけど、と尋ねてみるが、「はーそうですか。そこに十二連隊がありましたからなー」というお返事で、何か特別なこともなかったようです。

店は明らかにつくり直されています。偶然、昨日めざまし時計が机から落下して大きく破損したばかりだったので、約2000円の電波時計を買いました。展示品のみでした。

歩兵第十二連隊の写真です。背景は丸亀城です。

広告欄ではないのですが、本文で紹介されたお店に「寶月堂」(ビルとその両側)があります。昭和初期の建物を市が文化財として認定しています。

「六万石」はもちろん、四つ目結の家紋からして京極家にちなんだお菓子です。

こちらは、絵が古風だったので購入。やはり、京極家がらみです。万象園は貞享5(1688)年に二代目・京極高豊が中津につくった別荘ですが、樹齢600年の「大傘松」が有名なのです。

以下、今回のテーマから外れます。「秋寅の館」でお茶を飲んでいると、先にお茶しておられたご婦人方のお一人から、寿覚院の観音像を見たかと尋ねられました。事情があって2、3回移転を繰り返し、ここに落ち着いた仏像で、たいそうご利益があるというので、「以前に仏像のあった高松近辺の人がわざわざお参りに来ていた」といいます。この方が「今から帰るとこなんやけど、途中にあるけん」と、案内してくださることになりました。写真は、途中にあった金毘羅灯籠と道標。かつて、丸亀街道沿いのそれらを調べたことがあったのですが、こんなところに立派なものがあるのを知りませんでした。

寿覚院は寛永18(1641)年、生駒氏のあと丸亀藩主となった山崎家治が菩提寺として建てました。

法然上人像と本堂です。

観音堂は創建当時のもので、桃山時代の様式を残すといわれています。仏像は、小さな穴から覗くだけですが、けっこう立派なものではないかと思いました。帰りに門の立て札をよく読んだら、「金毘羅の観音堂に古くからあった十一面観音菩薩」とある。立て札は昭和48年のもので、「以前」、遠くからの参拝者があったというのは、そんな「以前」だったのだろうか・・・。

ご住職はここに住んでおらず、通いだそうです。写真を撮って帰りたかったので、丁重にお礼を言ってお別れしたのですが、そのとき「裏のお庭もいいですよ」と場所を教えていただいた。行ってみると、確かに小さいながら立派なお庭がありましたが、草に覆われていました・・・。写真は途中に咲いていたセンニチコウ。
- 2012/10/03(水) 08:57:09|
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