
本島(ほんじま)の南側です。東に瀬戸大橋が見えます。人口約800人の美しい島です。

近くに見えるのが牛島です。今では人口十数名ですが、江戸時代には丸尾五左衛門が内海の海上王といわれ、大名貸しまでやっていました。塩飽全体が江戸時代には廻船業で大繁栄していたようです。

本島の笠島(かさじま)地区は、国の重要伝統的建造物群保存地区です。江戸時代のものから、明治・大正・昭和初期まで、建築物マニア大興奮間違いなしの数を誇っています。

なまこ壁の土蔵もあります。

内部を見学できる家もありますが、写真が多くなりすぎるので割愛(すいません)。岡山・香川にお立ち寄りの際は、ぜひ、計画に入れて尋ねてください。

生活感のあるところも風情があります。

宮本家の供養墓。「年寄りの墓」といわれるものが島にいくつかあり、その一つ。

江戸幕府から御用船方とされた人々を人名(にんみょう)といい、その代表4人を年寄りといいます。塩飽勤番所で自治的に政務を行い、絶大な力を持っていました。

こちらは吉田家。
塩飽の島々は戦国時代から信長・秀吉に水軍として仕えてきました。

「塩飽勤番所」です。信長、秀吉、家康からの朱印状や、大岡忠相らが署名した漁場の裁許書など貴重なものが保管されています。

咸臨丸の水夫が持ち帰ったものです。

1860(安政7・万延元)年の日米修好通商条約批准のため、ポーハタン号に乗った正使・新見正興らとは別に、これまで洋式艦船の訓練を行ってきた幕府が威信をかけて派遣したのが「咸臨丸」でした。塩飽の人々はこれまでに長崎海軍伝習所などに1000人近くが呼び出されていましたが、咸臨丸の水夫50人中、塩飽から35人(本島12名など)が選ばれました。

いろんなものを持ち帰っています。

幕府はその後も1862(文久2)年に榎本武揚・西周など15名のオランダ留学生を派遣していますが、この中に塩飽出身の古川庄八と山下岩吉がいます。古川はオランダ語習得も早く、1857年に江戸に幕府・軍艦操練所がつくられたとき教授に任命されていた。オランダから帰国後は、榎本とともに開陽丸に乗り函館戦争に敗れたが、明治政府にも海軍技師として出仕しました。

港の手前に、木烏(こがらす)神社があります。

制札場や、全国で最重要な舞台30件に含まれる千歳座と呼ばれる芝居小屋があります。

実はここを訪れたのは2、3年前のちょうど今頃で、お祭りの最中でした。

本島の海水浴場は、私たちが小学生のころ丸亀からたくさんの人が訪れていました。一度、父に連れられて寺で一泊しました。頼んで泊らせてもらったようなことを言ってました。今では、寺側がそういうことを営んでいる場合でなければ、「ちょっとお寺で一泊」なんて考えられません・・・。

貸し自転車で島を回っていると、ポツンとこれだけ建っている「夫婦倉」です。嘉永5(1852)年に建てられた廻船業「新屋」の土蔵です。
ところで、自転車で島を回ろうというのは甘い考えでした。思っていたより広いし、坂道がきついです。高くてもフェリーで車を渡さなければ、見たいところを回りきれません。

『機関車先生』のロケ地です。

実は、本物の小学校跡です。

井戸とポンプが郷愁を誘います。本島小学校の分校(分教場)だった所です。

黒板の字は、坂口憲二演じる機関車先生が書いたものです。残念なことに、最近落書きがあったそうです。島の人がボランティアで清掃等しているのに、何を考えているんでしょうか。もちろん、器物破損罪に当たります。

木造校舎で学んだことがある人は懐かしい気分に浸れます。

昔はこういうオルガンがありました。

普通の教室とは少し形態が違います。

誰もが、この角度で写真を撮るはずです。

帰りの時刻を調節して、船から夕陽を見ました。
- 2012/10/09(火) 11:34:46|
- 史跡・文化財など
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