どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

映画『ヒューゴの不思議な発明』

『ヒューゴの不思議な発明』2011年  アメリカ  マーティン・スコセッシ監督

 まず、映像や俳優が素晴らしかったし、映画を誕生させた実在の人物(メリエス)へのマニアックなこだわりをいろいろな方のHPなどで知って、認識を改めました。それに、主役の男の子なんぞは、よく見つけてきたなあと思うぐらい、いままでにない個性的ビジュアルの美男子だ。
 とはいえ、ネット上で多くの方が好意的に受け取っているこの作品に対し、もっと冒険活劇があるのかと思った、主人公がすごい発明をするのかと期待していたがガッカリした、という意味の簡単な感想が少数派ながら見られた。私としては、それも一理あると考える。ストーリーの中核を担う機械人形がそもそもメリエスの手によるものだし、終盤近くでひょいっと出てくるメリエス研究者が実質的に果たす役割が大きすぎる(史実が研究者によってメリエスが再評価され、そのおかげでメリエスは立ち直るどころか絶頂期を経験したというのだから仕方ない)。2人の大人の力が大きすぎて、ヒューゴ君は、なんだかその手のひらで踊っている感もなきにしもあらず…。孤児が成功者に養われることになる話がハッピーエンドなのか?と言われると、まあねー…。史実部分が大きすぎて、架空の部分・登場人物(ヒューゴ君)はファンタジックな色どりを与えるだけで、役割を終えると実在の人物の懐に抱かれて(養子になって)終わるのだ、と言えなくもない。もっと主役らしい大きな役割を担わせてよ、もっと大きな冒険をさせてよ、という声にも一理ある。
 ストーリー上の瑕疵もたくさんある。単にストーリー上の要請にとどまり、必然性の感じられない設定が結構ある。まず、父の手帳。メリエスにとって機械人形が何か大きな意味を持っていると予感させ、同時に、それにからんでメリエスが荒んだ感情を持っていることが暗示される。また、この手帳には家に忍び込むきっかけという役割もある。父親の手帳が少年をメリエスに導き、そこに描かれた機械人形がクライマックスでメリエスの前に登場する、脚本家の意図がアリアリとしている。しかし、手帳をめぐる両者の頑ななやりとりが、ヒューゴ君(と我々観客)にとってはメリエスと機械人形との関係がまだ隠され、また、メリエスにとっては機械人形の存在が最後まで隠されていなければならない、というストーリー上の要請にすぎなくなっている。そして、ヒューゴ君は「あるものを直すのに必要なんです」と言っていたはずなのに、手帳なしで機械人形はあっさり完成されるし、家に忍び込んで手帳が出てこなくても全く気にしないし…ヒューゴ君、何か忘れてませんかー?
 おじさん。何カ月もセーヌ川に沈んでいたって?…ヒューゴ君を含め、みんな無視かよ?って、おじさんの霊が怒ってますよ。とっくに捜査が入ってないとおかしいでしょう。
 孤児院イコール監獄みたいな描き方もいかがなものでしょうか。そんなに嫌なら、彼ほどの行動力なら、逃走できるでしょうし…。
 ストーリー上の都合あるのみという点では、研究者の、メリエスは死んだという思い込み(全く根拠が弱い)。この設定がないと、ヒューゴ君らの出る幕がなかったかも(史実がそうですから)。
 研究者が映画を見せたとき、明らかにメリエスは心を動かされました。そりゃ、人形も残っていた方が(しかも美しく修理されて)、ますます、メリエスを早く回復させるでしょう。でも、<どうしたって無くてはならない>という必然性が薄い。簡単に言うと、「このフィルムしか残っていない」と落ち込むメリエスに、「いや、もう一つ残ってますよ」ってことでしょ。しかし、実際にもっと大きなことは、メリエスの実績が再評価されること自体であって、その意味で「あなたは多くのものを残した」と世間が認めることでしょう。もっとも盛りあげるべきクライマックスに向けて、なんともスッキリしない脚本…。
 でも、私はいい作品だと考えます。ヒューゴ君が父の仕事を受け継ぐことのなかから見出した、独自の表現をする人生観・世界観がある。すべてのものには意味がある。その本来の働きを失った状態が悲しむべきことであって、それを「直してあげよう」という優しさ。機械人形も必死で直す。メリエスもその価値を発揮できるように直してあげたい。その言葉は奇妙だが、ヒューゴ君は存在するものすべてへの、行動をともなった優しさ、愛に生きている。映画への賛歌、あるいは、メリエス頌というテーマが美しい映像とともに描かれるが、そこに、架空の物語が絡まる。少年少女が老人に自信を回復させるというありふれた心温まるストーリーだが、いいではないか。見かけより地味な話だが、いいではないか。先に指摘したように、ありふれてない部分がうまく噛み合っていないが、よいではないか。リアルに考えると、ヒューゴ君が実質的に果たした役割は少ないかもしれないが、メリエスへの純粋な愛情は、彼をしてヒューゴ君の気持ちに答えたい、さらに、そんなヒューゴ君を幸せにしたいと思わせたという一点で、十分な必然性を持っている。
 贅沢を言えば、人が作ったものを大事にしよう、この世にあるものをすべて大切にしよう、自分もこの世にあるものとして、その能力を精一杯発揮しよう、できることをしたいという、ヒューゴ君の発するメッセージをもっとクッキリ描いていたらと思う。
 神様は子どもには子どもらしい存在意義を与えている。子どもは朝日を見て喜び、おいしいものを食べて満足し、某かの文化に目を輝かせ、世界に明るい笑いを響かせてくれるのが、その存在意義だ。この世に生きる喜びを溢れ出させている、神を映す鏡だ。どんなに貧しくても、辛くても、まず足を一歩進める。自分にできることをするのが喜びなのだ。しかし、このことは実は、大人が忘れているだけで、人間であることの原点だ。
 話がドンドン脱線するが、人間の原点を見つめた人がいる。『夜と霧』の作者・フランクル(1905~97年)は、ユダヤ人としてアウシュビッツ収容所に送られ、家族はみな殺されている。奴隷労働の果ての死、さらに、死体まで凌辱される(髪の毛や金歯などすべて利用される)極限状況の中、人生の意味とは何か。フランクルは一つの答えを見出す。「人生に何が期待できるか?」という問い、そこに最初から人生の意味はない。人生が私に対して「何ができるのか?」と問うているのだ。人間に、「できる」事がある限り、それが人生の意味だ。ただし、誤解してはいけない。それは、何かのために簡単に命を懸けるという話ではない。フランクルは、収容所で「強く生き抜いたのは」、そのような生き方をした人々だと述べている。人生に期待しかしない人々は、すぐ絶望して死んでいった。戦争が終わった後でさえ、絶望して自殺する者があった。フランクル自身は、生き残った自分に何ができるかを自分に問いかけた。再婚し、国の再建に尽くし、人類のために自らの体験を本に書き、精神科医として社会に貢献し続けた。

<補足>
 私の考えでは、この映画の大きな欠点は2つ(特に2つめ)あります。

1.ヒューゴ君がメリエスのおもちゃ屋さんに雇ってもらえてからの、登場人物どうしの心の交流を細やかに描くべきだった。児童文学の古典的名作なら、最も力を入れるところ。そこが、すぱっと飛んでいるので、残念ながら、映画草創期(メリエス)の史実を背景とした「ヒューゴ君の」物語にはなっていない。仮にこれが「ヒューゴ君の」物語だというなら、失敗作としか言いようがない。先に、ネット上の批判的コメントに一理あると言ったのも、その意味からだ。あくまでも、ヒューゴ君の目を通した映画草創期というテーマと、ヒューゴ君という子どもの輝きを描くというテーマとが、対等に絡み合っている。そこには、児童文学に必須の、子どもの心の「成長」や、登場人物たちの葛藤からそれぞれが成長していく過程が、ほとんど描かれていない(もちろん、冒険譚などもその例外ではない)。総合的に良作と見る方が、そこにある長所に光を当てることができると思う。あまり文学的に持ち上げ過ぎると墓穴を掘ることになりそうだ。

2.私がもっとも違和感を感じたのが、クライマックスでヒューゴ君が時計の針にぶら下がるシーンだ。シリアスなシーンであり、アクションものではないこの映画にふさわしくないと感じた。メリエスに機械人形を見せるためにあんな危険を冒したとするなら、子どもの命と引き換えにする価値はないと言わざるを得ない。そのために、ヒューゴ君に命を懸けさせるなんて、痛々しすぎる。ありえない。喩えが極端だが、ヒューゴ君を監獄(もし孤児院がそうなら)に入れないために、必要なら、メリエスが時計の針にぶらさがるというシーンなら、ありだと思う。
 なぜ、娯楽映画の、しかも、ワン・シーンに向きになるのかというと、ヒューゴ君に「人にはそれぞれ役割が与えられている」と言わせているからで、先ほど私はそれを好意的に解釈したが、気をつけないと命を粗末にする誤った思想を肯定する解釈もあり得るからだ。すべてのものに存在意義があるとすれば、それはその能力を発揮するためにであり、神でもない我々がそれが「最終的に何であるか」を軽々に決めつけることはできない。最終的な答えがないというより、むしろ、絶えず何かができることにこそ存在意義がある。したがって、自らの存在そのものを懸けるのは、神によって与えられた存在意義を放棄するという自己矛盾であって、結果としてそうなる行為が自分の願いを実現する唯一で避けられないギリギリの選択になる場合だけありえる。そうでなければ、愚かな行為、無謀な行為、あるいは、自暴自棄だ。ヒューゴ君のあの行為は、どう考えても思慮のない無謀な行ないだ。すべての存在の取り返しのつかない(とは言っていないが、落ちたらもう「直せ」ない…)価値をシリアスに語る主人公には、特にふさわしくない。




  1. 2012/10/19(金) 21:20:39|
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丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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