どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

映画『ヒューゴの不思議な発明』…本音

 私は人からよく、「言葉が足りない」と言われる。しかし、自分では足りないぐらいでよいと思っている。職人気質だった亡き父への負い目かもしれない。「男はしゃべるな」が口癖だった。しかし、ブログを書いておいて、今更だなーと考え直し、もう少し本音を書くことにした(10.19のブログの件)。

 実際のところ、この映画はクライマックスで鉄道公安官に捕まったヒューゴ君にもう一度、「人にはその役割がある」という趣旨の事を言わせている。線路に落ちた機械人形を拾おうとして死にかけて、公安官から「何を考えてるんだ!?」と叱られたことへの返事だ。しかも、公安官の戦争で亡くした足を見て、「あなたには分かるでしょう?」とまで言っている。そこへ、メリエスが現れて「分かるとも!」と言う。メリエスの言う意味は、おそらく、自分も役割を果たす義務があるという意味で、ここにヒューゴ君から教えられ、メリエスがやっと気づくという、いわゆる成長譚としてのドラマもちゃんと成り立っている。私がこれに触れなかったのは、わざとである。作者の意図ははっきりしている。私が先に、ぼかして表現した「誤った解釈もありえる」といったそれだ。実は、「ありえる」のではなく、それこそ作者の言いたかったことで、私の本音はこの映画の真っ向からの否定だ。ケンカ腰が嫌いで、前回は、あえて肯定できる部分をむりやり取り出したのだが、真意が伝わらないと考え直した。
 メリエスの「分かるとも!」には、ただ、人はその役割を務めねばならないという一般論しかないが、この映画ではそこに潜んでいる危険な意味、問題点が主人公の行動によって丸々肯定されていることは明らかだ。鉄道公安官には「分かるはず」というのは、戦争に参加した彼には分かるはずということであり、彼は足を失うだけで済んだが場合によっては命も捧げねばならないが、それがその人の役目であれば仕方ない、というより、一歩進んで立派な行為であると言いたいのだ(もちろん、フランスのナチスへの抵抗運動など戦いが避けられない場合もあったが、この映画は戦争の内容に全く触れるものではなく、国家の戦争への忠誠を人たるものの役割とする道徳観になりかねない。ドンドン話が脱線するが、それでは有名なアイヒマンの発言を肯定することになるし、他方、どんな明確な防衛戦争であっても、まず、本来なされるべきは、そこに至らぬための政治的努力だったことを忘れてはならない―話を戻そう)。要するに、ヒューゴ君をして、そのために死んでも本望だと言わせているのだ。まるで神のように個人の存在意義を具体的に決められると思い込んでいる誤った思想だ。ヒューゴ君は、機械人形を修理してメリエスに届けることを、そのために死んでもよい自分の存在理由だとまで思いつめている。ここに、この映画の存立そのものに関わるとんでもない違和感をもつのは、間違いだろうか。つまり、この映画は主人公の行為を、「いま」彼に「できる」こと、彼が「やりたい」こと、私が「愛」と呼んだもの、であるにとどまらず、彼が生まれてきた理由(生涯を規定する「存在理由」)にまで祭り上げる。実際、先の場面でほぼそういう趣旨の事をヒューゴ君自身に語らせている。私の主張はすでに明確にしたが、大人は往々にして、自分勝手な存在理由、偶像、「神」を作り上げ、自らの命を生贄にする(犠牲という言葉は本来の意味のために取っておきたい)。しかし、そもそも、子どもにはそのような要求すらない。神は子どものうちにそのような<誤り>が入り込む余地を残していない。命が溢れているのが子どもだ。人はそこに神を映す鏡を見て、子どもを神々しく感じる(最近のニュースに見る異常者でもない限り)。この映画の作者には、人間観・世界観の大きな過ちだけでなく、そういう事実誤認を指摘したい。そもそももっともらしい偶像に命を懸けることをさも美しいことのように大仰に語る道徳教師という一般論に加え、さらに、私の「違和感」を大きくしているのは、この映画の場合、ヒューゴ君に命まで懸けさせることが余りにそれにふさわしくなく、必然性のあるなしどころではないという点である。「アクションものでもない」と言ったのは、例えば、愛する者の命が危うくなる場面で、無我夢中で飛び出していくといった逼迫した状況の不在のことだ。それどころか、いまは不遇にあるといっても、人もうらやむような意義ある半生を過ごした者の立ち直りのために、なぜ、子どもが命まで懸ける必要があるのか。その再評価にしても、本来「研究者の使命」であり、しかも、命を懸ける性質のものではない(大真面目に言うのもバカげている)。ここには、一孤児の人生なら、それに釣り合うという差別観しか見えない。この映画では、ヒューゴ君自身がそれを受け入れていて、実に痛々しい(本来、子どもの発想ではない)。この痛々しさについて、私は訴えたくなったのだ。そして、私なりにこうあって欲しかったというストーリーを、ヒューゴ君の(悲壮なではなく)積極的な愛と、それによって目覚める老人、そして、登場人物を巻き込んだハッピー・エンドという流れを(無理を承知で)取り出したのだ。メリエス再評価と映画への賛美というもう一つのテーマがあれば、それで十分だろう。少なくとも、誤ったテーマを展開するよりはましだ。孤児として人生を終えることは無意味で、「大きな意味に関わる」ことで初めて存在理由を得るという発想は、そのまま、大部分の観客に返ってくると知るべきだ。20世紀を前にニーチェが殺した神とはそのような偶像だったが、理性が猛威をふるった20世紀を知った後でも、血に飢えた神を崇拝する者は後を絶たない。悲壮な裏返しの人生観を壊し、神に感謝してただただ子どものように、与えられた力を発揮する喜びのうちに生きたいものだ。また、それを応援する社会であって欲しいものだ。





  1. 2012/10/24(水) 00:08:28|
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Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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