どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

ウィキペディアの信頼性について

 きっかけは、テレビで繰り返されているノーベル賞の話題でした。私がいま関心を持っているベルクソンもノーベル賞受賞者なので、授賞理由はどう表現されているのだろうと思ったのです。それで、手っ取り早くウィキペディアで「ベルクソン」を調べたところ、なんか変なことを書いていたのでした。<  >内がウィキペディアからの引用。

<ベルクソンは自身の著作において言葉をとても大切にしながら書いていて、その文章は明快かつ美しい文章で書かれ散文としても素晴らしいものとなっており、1927年にはノーベル文学賞を受賞した。>

 まるで小説家のような言われ方だったので、ノーベル賞のHPに当たってみたところ、簡単なものではあるが授賞理由が書かれていました。

★ノーベル賞HPでは、下記の通り。
The Nobel Prize in Literature 1927 was awarded to Henri Bergson "in recognition of his rich and vitalizing ideas and the brillant skill with which they have been presented".
 1927年のノーベル文学賞はアンリ・ベルクソンに授与された。評価されたのは、彼の豊かで生気に満ちた思想と、それを表現する優れた技術である。

 ウィキペディアの筆者がベルクソンを読んだとは全く信じられない。「散文として素晴らしいものとなっており、……文学賞を受賞」とは、あまりにひどい。むしろ、文学者としてノーベル賞を授与された方々に対して失礼です。いくらベルクソンの表現力が優れているといっても、哲学的思索を表現する技術が卓越しているという意味以外ではない。ベルクソンの公にしたもので、哲学以外の著書はない。生粋の哲学者です。文学賞を受賞したというのは、「思想」という分野が6部門のうちでは文学賞に該当し、物理学や医学生理学、経済学等ではないというだけのことです。授賞理由はノーベル賞HPにある通り。


★ それで、「本文」の方も気になりました。結論から言うと、やはり、それなり?かなあと思いました。もっとも、書いている人が専門家ではない可能性がかなりあります。金や業績に繋がらない余計なことだし、不注意で間違ったことを書くリスクもあるし。いま私に自信があるのは『時間と自由』(本当の題は『意識に直接与えられたものについての試論』で、以下私は『試論』とする)と『物質と記憶』だけなので、それについて簡単に問題点を指摘したいと思います。


1.『時間と自由』(<  >内はウィキペディア)
<「持続」は、時間/意識の考え方として人称的なものであり、哲学における「時間」の問題に一石を投じたものといえる。>

 「人称的」と言い切る不用意さ。『試論』のベルクソンが関心を寄せるのは心理学の分野であるが、そこでは「深さ」(人称的なもの)と「表層」(非人称的次元)という言葉の使い分けが大変重要なものとなっている。後者が数学的空間と相性がよく、利益をもたらすところから、誤った哲学が発生するという、両者のダイナミックスが『試論』のテーマとさえいえる。ベルクソンのすごいところは、『物質と記憶』以下の著書で明らかにされるテーマに関わる現象に出会ったとき、それまでに得た見解で早急に割り切ろうとせず、新たに解明すべき問題を予感させる仕方で事実をあるがままに記述していることだ。『試論』の「持続」に関する記述は物質の問題に開かれており、『試論』の心理学的<テーマ>には明確に答えつつも、持続という実在そのものには、そこに尽くされない事実があることにはっきりと目を向けている。その切り口はまさに天才的だ。ベルクソンはいきなり言葉の中に実在を取り込んだりしない。逆に、知性が実在における何らかの現象にすぎないことをわきまえているからだ。


2.『物質と記憶』(<  >内はウィキペディア)
<ベルクソンは、実在を持続の流動とする立場から、心(記憶)と身体(物質)を持続の緊張と弛緩の両極に位置するものとして捉えた。そして、その双方が持続の律動を通じて相互にかかわりあうことを立証した。>

 ベルクソンを実際に読んだものの発言とは到底思えない。この筆者が言うように、ベルクソンは『物質と記憶』を「イマージュ」の概念から始める。しかし、これとほぼ並行して、「身体」をイマージュ(物質)の中でも「特異な地位」を示すものとし、これの解明から説き起こしている(つまり、ウィキペディアの筆者は最初の数ページすら読んでいないと思われる)。「心(記憶)と身体(物質)」というデカルト的表現もいただけないし、その両者が持続の緊張と弛緩の両極に位置するなど、一体どういう解釈なのか意味が分からない。ベルクソンにおいては、弛緩した持続(記憶)たる物質に緊張をもたらすのが、正常な身体機能に支えられた健全な精神だとさえ言える。つまり、ウィキペディアの筆者の文中の(  )内だけを取り出せば間違いではないが(『物質と記憶』というタイトルから、解説書の類を読めば、大雑把になら文意から外れずに語れるだろう)、「身体」の位置づけが全く分かっていない。ベルクソンを読むとき大事なのは、言葉の上で区切りをつけて、右か左かと位置付けることではない。ニュアンスの中に様々な次元を区別することだ。簡潔に言えば、過去の蓄積の上に立って物質的現在の中から未来を創造する精神の現れとしての身体ということになろう。そこに、一つの(一つという区切りを持ちこむ)特異なイマージュとして物質的法則の中に非決定性を持ちこむ(周囲の物質への働きかけを可能にする)知覚的身体(質とは何かと言う重要な議論があるが割愛)、物質的反復を得意とする生命の習慣的身体という次元、つまり、現在という次元を理論上区別することができるだろう。中枢という身体の発展・複雑化は、より広範な過去から必要な事例を綜合して、より遠い未来を見通すことを可能にしている(つまり、現在に閉じこもる物質的身体が精神を説明するのではなく、時間的広がりを持つ精神活動こそが身体の意味を理解させる)。同時に、それだけの時間を要する行動の空間的広がりを可能にしている。過去を収縮させる身体機能の高度化が、創造的自由の大きさに比例する。持続は純粋記憶という無意識の広大な次元をその背後にもっていて、現在としての身体をはみ出しており、その意味で、記憶が精神の実在を証明する。ベルクソン的時間はしばしば過去の膨張として描かれ、また、精神を記憶として定義することがピックアップされる。しかし、これを視覚的にイメージするのは間違っている。知覚も記憶も行動の観点からのみ理解される。生命(身体)は、持続の創造的未来に向けて突進していく姿として描かれ、物質はその弛緩した流れとして描かれる。時間を語る際、あまり未来を強調しないのは、未来は描くものではなく、主体的に切り開くものだからだ。ベルクソンが語るのは哲学的問題であって、彼は社会的・具体的問題を教唆する怪しげな、いわゆる思想家ではない。
 ベルクソン哲学からは、そこに含まれるテーマ群から、身体、自由、死など、様々な問題を中心テーマとして展開していく可能性が開かれている。しかし、メルロ=ポンティやサルトルなどは、ベルクソンの描くニュアンス豊かな実在を特定の次元へと還元していく傾向があるように思える。
 話を戻すが、ベルクソンは最初から行動の観点から、精神と物質をつなぐものとして身体を問題にしており、ウィキペディアには、実際に『物質と記憶』を読んだ者ならありえない勘違いが見られる。




  1. 2012/10/26(金) 23:32:59|
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Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

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