どこいっきょん?

岡山・香川の史跡を中心に、マニアックに迫ります。

吉備真備(矢掛町・倉敷市真備町)

IMG_2270_convert_20121028212056.jpg

 和気清麻呂・史跡を先に紹介したので、同じく奈良時代の有名人・吉備真備の史跡を紹介します。館跡といわれるものが矢掛町と倉敷市真備町と2か所あります。まずは、倉敷市真備町の史跡を紹介します。
 写真は真備公「産湯の井戸」といわれるものです。

IMG_2272_convert_20121028212637.jpg

 その向かいに立つのが、真備町の吉備公館跡の碑です。

2004122009_convert_20121028210541.jpg

 吉備真備の一族・下道(しもつみち)氏の菩提寺といわれる吉備寺。

IMG_2299_convert_20121028212829.jpg

 この寺は飛鳥時代の箭田(やた)廃寺の跡に建てられたもので、境内に礎石がゴロゴロしている。また、瓦なども発掘されています。この周りは「まきび公園」として盛大に整備されています。ちょっとややこしいのですが、1986年に中国・西安に吉備真備の記念碑が作られたことを記念して作られた公園です。

IMG_2280_convert_20121028220127.jpg

 この「まきび公園」の一角に丘があり、登ると神社の裏に「吉備大臣の墓所」と称されるものがあります。

2004122001_convert_20121028210232.jpg

 矢掛町側には、これまた立派な吉備真備公園があります。こちらも吉備公館跡といわれています。吉備真備が唐から囲碁を初めて伝えたともいわれ、公園内には「囲碁発祥の地記念碑」もあります。養老律令の僧尼令(そうにりょう)第九・作音楽条に、僧尼が音楽や博打をしてはいけないが、囲碁・琴はよい、とあります。

2004122005_convert_20121028210416.jpg

 まるでランプの魔神です。

2005625024_convert_20121028211033.jpg

 矢掛町の下道(しもつみち)氏の墓域。下道は吉備氏のもとの名で、おそらく、5世紀の昔にあの造山古墳(全国第4位の大きさ)・作山古墳(同第9位)を作ったであろう一族です。

2005625020_convert_20121028210939.jpg

 石段をドンドン登ると、だだっ広い何にもない斜面があり、その奥にやはり真備の墓があります。しかし、この領域からはとんでもないものが発掘されています。

IMG_0765_convert_20121028211239.jpg

 吉備真備の祖母の骨壷です。「銅壷(銅製骨蔵器)」といいます。708(和銅元)年に、下道朝臣圀勝(くにかつ=吉備真備の父)が母を火葬して納骨したと書いてあります。写真は、「やかげ美術館」のレプリカです。

IMG_2015_convert_20121028211501.jpg

 本物はこちら、矢掛町の圀勝寺(こくしょうじ)にあります。銅壺は江戸時代(1699年)に発掘され、領主によってこの寺に納められました。

IMG_2023_convert_20121028211613.jpg

 これがそのために作った社殿です(実は、寺の名はこのときに圀勝寺に改まりました)。

IMG_2025_convert_20121028211801.jpg

 ここのお寺は樹齢300年を越える椿の巨木で有名です。4月になると見に来る人が増えます。

IMG_2027_convert_20121028211926.jpg

 けっこう吠える、ちょっと丸い犬が飼われています。

2005625025_convert_20121028211127.jpg

 晩年、吉備真備は故郷に戻りここで琴を奏でたという伝説があります。「琴弾岩」といいます。下道氏墓域の近くで、小田川を渡って南側です。中秋の名月には、ここで琴を弾く風流な行事が行われています。



オマケ 吉備真備 年表

 父は下道圀勝。「圀」は「国」の則天文字で、当時、日本に伝わったばかりの文字。都で右衛士少尉という官職の下級官人(正七位上)でした(注:五位までが貴族)。

710年 平城京遷都(元明天皇-藤原不比等政権)
717年 遣唐学生として23歳で渡唐(玄昉・阿倍仲麻呂とともに)。
     真備と阿倍仲麻呂は唐で有名になるほど優秀であった。
723年 三世一身法(元正天皇-長屋王政権)
729年 長屋王の変(聖武天皇724~749-藤原四家の進出)
735(天平7)年 帰国。聖武天皇に重用される。
737年 天然痘の流行。藤原四子が死去。
738年 橘諸兄が右大臣として政権を握り、玄昉・吉備真備を重用。
740年 太宰府で藤原広嗣が反乱。
741年 東宮学士として皇太子阿倍内親王(→孝謙天皇)の教育係になり、『漢書』や『礼記』を教授した。
743年 従四位下、東宮大夫兼皇太子学士。
746年 吉備の名を賜る。747年に右京大夫に。
749年 孝謙天皇が即位。従四位上に。
750年 このころ藤原仲麻呂が、おば光明子(聖武天皇の皇后)を後ろ盾に権力をにぎる。
     吉備真備はうとまれて、筑前の守として九州に左遷された。
    (玄昉はすでに745年、仲麻呂から筑前・観世音寺をつくるよう命じられ、翌年その地で亡くなった。)
752年 遣唐副使として入唐。
753年 帰国。帰りの船は4隻で出発し、真備は第三船に乗っていた。
     第一船には大使・藤原清川と阿倍仲麻呂が乗っていたが、難破して長安に戻った。
     2人ともついに日本に帰らなかった。
     他方、第二船には6度めの渡航を試みた鑑真が乗っていた。
756年 唐の安禄山の乱や、新羅との緊張関係に対抗して、筑前・怡土(いと)城を造る。
     真備は兵法の知識を生かして、中国式の築城を指導した。
     →759年に大宰大弐(大宰府の次官)に昇任。
758年 淳仁天皇即位。藤原仲麻呂、恵美押勝を名乗る。
761年 道鏡が孝謙上皇の病をいやして信任を得る。
762年 孝謙上皇と、恵美押勝+淳仁天皇とが対立。
764年 造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京。恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱。
     真備は従三位に昇叙され、追討軍を指揮して反乱を鎮圧。
     仲麻呂は敗死、淳仁天皇は淡路に配流。上皇が重祚して称徳天皇となる。
765年 道鏡が太政大臣禅師になる。→766年には法王という称号。
     吉備真備は正三位にのぼり、中納言→大納言→右大臣に。
     左大臣の藤原永手とともに政治を執った。
     備中国下道郡大領(郡の長官)を兼ねる。
770年 称徳天皇、死去。道鏡は下野・薬師寺に流された(772年、没)。
771年 光仁天皇に辞職を願い出る。
775年 81歳で死去。








  1. 2012/10/28(日) 21:52:18|
  2. 史跡・文化財など
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<高松市埋蔵文化財センター体験学習 | ホーム | 三木町の獅子舞(香川県)>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://jaimelamusique.blog.fc2.com/tb.php/85-80396b18
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

犬の知人

Author:犬の知人
丸亀で生まれて、いまは高松の住人。2・3歳のころ見たマリンコングや七色仮面を覚えている。高校生の頃に使ったある参考書の臭いをありありと覚えている。etc.・・・記憶が残るほうなので、郷愁を感じるものが好きである。

最新記事

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (58)
史跡・文化財など (346)
音楽 (15)
ひょっこり思ったこと (5)
歴史 (40)
自然 (119)
映画 (5)
信仰・民俗・伝統など (71)
哲学する (14)
名勝 (1)

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

FC2カウンター

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR